これに対して、俳句の場合はもっぱら 「中七の切れ」とか「上五の切れ」などと説明するようです。
評価ポイントは「笑み」。 すぐにパッと思いつく人は素晴らしいですが、私はあ~でもない、こ~でもないと、いろいろ考えなければ出てきません。
10裏を返せば、内容をしらべが活かしているか。
これは先ほどの正岡子規の俳句と同じようなトリックですが、聞いた印象としては、 「(岩にしみ入る蝉の声さえ静かに思われるほどのこの場所の)閑(しずか)さや」 「(たとえとしての)岩にしみ入(いる)蝉の声」 という 「岩にしみ入(いる)蝉の声の閑(しずか)さ」 以上のものを表現しているような感覚を、聞き手に与えてしまうのです。 あるある2つを掛け合わした。 どちらかというと、近所に住むちょっと癖のある性格の年老いた女性が、冬晴れの日に縁側でミカンを食べまくっている。
16どこに行ったんだ、背中は?? 第2位: 二階堂高嗣(ジャニーズ キスマイ) 評価: 60点 凡人(過去16回出演し、分布は凡人8回、才能ナシ6回、才能アリ2回) 【本人作】: 手酌酒 祖父の背中や 年歩む(発音は手酌酒=てじゃくざけ、年歩む=としあゆむ) 【添削後】: 手酌せる 祖父の背中や 年歩む 作者の意図:• つまりここで述べたかったことは、句切れというものは、文脈の変化や、フォーカスの移しから、まず有用性を説くべきであって、無意味に「や」「かな」で切るなんて教えると、百害あって一利なしになってしまうということです。
意味の余白。
などと説明して、彼の話に入っても面白いのですが、ここでは関係のないことですから話を切り上げましょう。
それでこそ始めて、「柿を食う」という視点が、法隆寺になる鐘の音へと自然に移り変わるのです。
いわゆる「三段切れ」と呼ばれるもので、熟練者でなければ失敗しやすいので禁じ手と言われている。
「切れ」の2つの効果 俳句の「切れ」は、歌の中の 「息つぎ」のようなものです。 ミカンには爺さんよりも婆さんの方がイメージがピッタリくるんだよなぁ(笑)。
16この季語を入れて詠んだ「俳諧の連歌の発句」こそが、現代の俳句のルーツです。
法隆寺 でしょうか。 ただその「句切れ」のパーセンテージが低いために、「切れが悪い」ということになるのですが、それは純粋に「切れた感じに乏しい」ということをしか意味しません。 これについては、もっと有名な例を上げることが出来ると思います。
13では、失礼。
名称は知っていた方がよいですが、句切れはある表現を志した結果としておこるものであって、ただ句切れのためだけに句切れを目ざしても、なんの意味もないのです。 なぜなら、実際のこの文章のもとの意味は、 「法隆寺に、柿を食ったなら鐘が鳴ったなあ」 ではないからです。
日本の伝統的なものを買ったら、友達に見せてあげたらどうですか。