建礼門院 徳子。 京都大原 寂光院 (寂光院の歴史)

【夫婦の日本史(44)】高倉天皇と建礼門院徳子(1/2ページ)

徳子 建礼門院 徳子 建礼門院

それからも、建礼門院は平家一門と安徳天皇の冥福を祈り続け、再び、歴史の表舞台に登場することなく、1213(健保1)年にその波乱の生涯を閉じました。 (「平家物語」巻五『都帰』) そして、間もなく、徳子にとってこの上もなく悲しい出来事が起こるのである。 夕陽が傾き寂光院の鐘が鳴ると、後白河は名残惜しく思いながら涙を抑えて還御した。

寂光院は平家の悲哀を伝える古刹。建礼門院の生涯に涙する

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清盛にしてみれば、待ちに待った孫である。 私の隣りの席には二人ずれの60代前後と思われる女性。 ところが、皮肉なことに、これと前後して、 打倒平家の動きが徐々に盛んになっていく。

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瀕死の夫を尻目に、夫の父親と結婚させられそうに……挙句、わが子を殺された――『平家物語』建礼門院徳子の凄まじい毒親育ち(デイリー新潮)

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この頃、清盛と妻である時子の間に生まれた娘が「 徳子」だった。

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しば漬けに秘められた哀しい物語。京都三大漬物の歴史を紐解く

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ようやく安元2年(1176年)になって、高倉天皇の最初の子が誕生する。 第3部 平家物語 祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰のことわりをあらわす 驕れる人も久しからず ただ春の夜の夢の如し 源氏軍と戦う平清盛一門の興隆と滅亡の歴史を、編年体で描いた軍記物語として名高い。 それにしてもこの徳子、周知の通り悲劇のヒロインとして人気がある。

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【幸か不幸か…】生き残った平清盛の娘・建礼門院徳子の波乱万丈な生涯

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高倉院が1月14日に崩御し、1月20日に御子姫君が後白河に入内、実際に御所に入ったのは25日とはいえ、高倉院の死からまだ2週間も経っていませんでした。 」 (2月21日に、高倉天皇が特に御病気などというわけではないのに、皇位から下し申し上げて、東宮へ位を譲りなさった。 元年()、高倉天皇が元服すると徳子入内の話が持ち上がる。

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平徳子は、何故、建礼門院と呼ばれたのでしょうか?

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滋子は後白河法皇に愛され、平氏一門との間を結ぶ紐帯(ちゅうたい)であった。 徳子は現在、各地の 水天宮の祭神の一柱として、安徳天皇と時子とともに祀られています。

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寂光院 ~悲劇のヒロイン、建礼門院徳子 隠棲の尼寺

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ここまでくるとメチャクチャで、100パー作り話に違いありませんが、こんなマヌケな、そして宗盛にとっては残酷な告白をし得るキャラクターとして、二位の尼がとらえられていたことが興味深いのです。 (1150 - 1158)• 徳子は代わりの准母として、妹での正室であるを推した(『山槐記』12月24日条)。

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歴史くらぶ

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(1018 - 1036)• その秋に大原寂光院に移り,一門の菩提を祈る。 『山槐記』治承2年6月28日条に、「御年廿四」とある。

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