鮎川 盛長 と は 次 の うち どの 大名 の 家臣 か。 市河文書をどう読むか 山本勘助の実在を示した唯一の資料とされるが 私は大きな疑問をもっている。 市川藤若関係の文書と時代背景を探る 市河文書をどう読むか 山本勘助の実在を示した唯一の資料とされるが 私は大きな疑問をもっている。 市川藤若関係の文書と時代背景を探る 天文二十四年 弘治元年(10月23日改元) 1555 ☆印――武田信玄(甲陽軍艦)★印――謙信(甲陽軍艦) ●一月三十日、筑摩郡洗場三村某、武田の将馬場信房を深志城に攻め、村井・出川に放火する。この日二木重隆、信房救援に駆けつける。ついで三村ら、敗れる。 (長野県史) ●二月十四日、武田晴信、諏訪郡八剣社に同郡上原の地を寄進し、武運長久を祈らせる。 (長野県史) ●二月十五日、晴信は景虎の機先を制して川中島へ兵を送り、善光寺の南の葛山城を攻落させた。 (甲府市史) ☆三月七日、信玄公は甲府を出発。 (甲陽軍艦) ●三月十四日、葛山城を攻落した後、武田軍は川中島一帯の長尾方の一掃を続行していた。景虎は雪の為に出陣することができず、晴信も三月十四日には、まだ甲府いた。そこへ川中島より注進状が届き、越国衆が出陣するとの報に接し、自らも出馬すると伝えている。 (甲府市史) ☆三月十八日、信玄公は木曾の屋子原(薮原)に出馬、四月三日まで逗流され、薮原に一つの砦を造り、木曽殿居城を攻撃しようとした。 (甲陽軍艦) ●三月廿一日、武田晴信、大日方主税助の安曇郡千見城攻略を賞する。 (長野県史) ●三月、武田晴信、木曾制圧に着手、千村俊政の守贄川砦を落とす。鳥居峠に出陣した木曾義康、武田軍に挟撃されて敗走し、武田軍は藪原を占拠する。 (長野県史) ☆四月五日、越後の謙信が川中島へ出てきたとの報が入る。 (甲陽軍艦) ☆四月六日、薮原を出て川中島にて対陣を整える。謙信は引き上げる。 (甲陽軍艦) ★謙信、関東に出て北条氏康と対陣、連日連夜の戦闘を続ける。 (甲陽軍艦) ●四月十八日、景虎が川中島に出陣し、晴信は決戦を避けて安曇郡小谷城を攻 め、八月に入ってやっと両軍が川中島で対戦した。これを第三回川中島の戦 いという。 (甲府市史) ●四月廿五日、武田晴信、内田監物に、更級郡佐野山在城につき知行所諏訪郡北大塩二三人の押立公事を免じる。 (長野県史) ●五月廿八日、信州知久殿與四郎殿州船津にて生害被成候。宮下勘六方打被申候。(信州下伊那の知久氏が鵜の島に幽閉される。翌年鵜の島から船津に連れていかれた上で切腹する) (妙法寺記) ●六月二十日、武田家朱印状写 別而被致奉公候間、庄内主計分三拾余貫文所出置候、弥忠信可為肝要候、恐々謹言 天文廿四年六月廿日 晴信御居判 大日方主税助殿 (『山梨県史』資料編5 中世ニ 県外文書 長野県の部) ● 弘治二年六月二十八日、長尾弾正少弼(しょうひつ)入道宗心、 長慶寺衣鉢(いぶ)侍者禅師(天室光行)宛文書 (前文略) 信州は隣国であることは勿論ですが、村上方をはじめとして井上・須田・ 嶋津・栗田その他の人々が私を頼ってきました。ことに高梨家とはとりわけ親しくしている仲ですから、そのまま見捨てておくわけにもいかず、すでに信州が過半晴信のの手に入り、もうじき信州全部が晴信にとられそうなようすもあったので、両度出陣し、去年(弘治元年)は、旭山城に向かって附城を造り、旭山城をとりこにした上、晴信と興亡をかけた大決戦をしようとしたところ、負けそうになった武田方は和睦を申し出、駿河の今川義元に頼んで誓詞や講和条件などを示してきたので、いろいろ差し障りがあったが、それを承知し、旭山城を壊し、兵を引きました。そこで信州の味方は今も無事に暮らしています。 (弘治二年)六月二十八日 長尾弾正少弼入道宗心 長慶寺衣鉢(いぶ)侍者禅師 (「川中島の戦」小林計一郎氏著) ●七月十九日、武田晴信感状写 今十九於信州更科郡川中嶋逐一戦之時、頸壱討捕之条、神妙之至感入候、 弥可抽忠信者也、仍如件 天文二十四年七月十九日 晴信 朱印 勝野新右衛門殿 (『山梨県史』資料編5 中世ニ 県外文書) ●七月廿三日、武田晴信公信州へ御馬を被出候而、村上殿・高梨殿、越後守護長尾景虎を奉頼同景虎も廿三日に御馬被出候而、善光寺に御陣を張被食候。 (妙法寺記) ●武田殿は三十丁此方成り、大塚に御陣を被成候。 (妙法寺記) ●善光寺の堂主栗田殿は旭の城に御座候。 (妙法寺記) ●旭の要害へも、武田晴信公人数三千人さけはりをいる程の弓を八百張、鉄砲三百挺入被食候。 (妙法寺記) ●去程に長尾景虎再々責候へ共不叶後には駿河今川義元御扱にて和談被成候。(妙法寺記) ●八月十二日、武田晴信、竜淵斎に小山田信有を信濃国佐久郡へ派遣することを伝える。 ●八月、武田軍、木曾を再攻、上之段城と福島城の子木曾義昌を攻める。義康和議を申し入れ、娘を人質に甲府へ送り、義昌に晴信の娘を迎える。 (長野県史) ☆八月二十一日、信玄公は鳥井峠を超えるために薮原を発つ。 福島筋へは栗原左兵衛・飯富三郎兵衛・長坂長閑・市川宮内ノ助の五軍で攻 める。木曾降参。 (甲陽軍艦) ●十月五日、武田晴信、内応した高井郡小島修理亮に、高梨領内の河南の地を宛行う。 (長野県史) ●閏十月二日、晴信、大日方山城守、春日駿河守に俵物の分国中諸関通行を許す。 (長野県史) ●十月五日、 今度之忠信無比類候、因茲高梨之内河南千五百貫渡候、恐々謹言 天文廿四年 十月五日 晴信 小嶋修理亮殿 (『山梨県史』「歴代古案」所収文書 武田晴信判物写し) ◎閏十月九日、此年駿河義元の御内を異見申候者説最と申御出家、閏十月九日御死去被成候。駿河力落不及言説。 (妙法寺記) ●閏十月十五日、晴信・景虎、駿河の今川義元の仲裁により、誓紙・条目を交わして和議を結び、互いに兵を引く。 (長野県史) ●閏十月の甲越和睦は、その後の信濃侵略によって、有名無実となり、翌二年八月には春野望が景虎の家臣の大熊朝秀を内応させたことから、再び両者の関係は悪化した。 (長野県史) ●十一月八日、此年、相州新九郎殿霜月八日曹司様(北条氏直)を設け玉ふ。甲州晴信公御満足大慶此事候。 (妙法寺記) ●十一月六日、武田勝頼の母諏訪氏、死去する。 (長野県史) 解説(「甲府市史」)資料編第2巻 天文廿二年(1553)四月晴信は念願の村上義清の葛尾城を攻め落とし、信濃の大半を手中にした。村上氏は越後に逃れ、長尾景虎を頼りその援助により再度、小県郡に復帰した。天文二十四年(弘治元年)七月には、晴信・景虎とも川中島に出陣、晴信は大塚へ、景虎は善光寺に布陣、七月19日には川中島で対戦した。 その後、善光寺の同主であった栗田氏は旭城に籠もって景虎を牽制した。晴信は旭城に兵三千人と弓八百張、鉄砲三百挺を送り込む。対陣のまま閏十月に及んだ。晴信は今川義元に斡旋を依頼して景虎と和睦し、両者川中島より退陣した。これを第二回川中島の戦いという 弘治 二年 1556】 ☆六月中旬、信玄公、伊那へ出馬。七月・八月・九月と合わせて四ヶ月間で伊那を平定する。成敗した武将は、溝口殿・松島殿・黒河内殿・波部殿・小田切殿・伊那部殿・殿島殿・宮田殿。 (甲陽軍艦) ●三月十一日、武田晴信、水内郡静松寺住持に葛山衆の盟主落合一族を切り崩し、武田方へつかせた功を賞する。 (長野県史) ● 五月十二日、香坂筑前守宛書状 八郎丸之郷百貫之内、定所務六十五貫四百文之分出置候、相残所者、速 可奉納者也。仍如件。 弘治二年五月十二日 香坂筑前守殿 (「山梨県史」資料編中世ニ 県外文書 長野県の部 上水内郡牟礼村 高野家文書) ● 六月二日、武田晴信判物写。 綿内領之内、隠居免三百五拾貫文之所進置候、恐々謹言 弘治弐年六月二日 晴信(花押影) 井上左衛門尉殿 (「山梨県史」資料編中世ニ 県外文書 長野県の部) 市河文書 年不詳 武田家感状写 (北佐久郡浅科村、市川育英氏所蔵) ●六月廿七日、 小幡尾州へ津金修理亮を遣はし候、そこ許に於いて諸事馳走肝要に候なり。謹言 六月廿七日 晴信(花押) 市川右馬助殿 同 右近助殿 読み下し (信濃史料叢書) ●六月廿八日、武田晴信、大須賀久兵衛尉に、欠落(かけおち)した被官人を還住させる。 (長野県史) ● 六月二十八日、長尾弾正少弼(しょうひつ)入道宗心、 長慶寺衣鉢(いぶ)侍者禅師(天室光行)宛文書 ―――景虎出奔――― (前文略) 信州は隣国であることは勿論ですが、村上方をはじめとして井上・須田・ 嶋津・栗田その他の人々が私を頼ってきました。ことに高梨家とはとりわけ親しくしている仲ですから、そのまま見捨てておくわけにもいかず、すでに信州が過半晴信のの手に入り、もうじき信州全部が晴信にとられそうなようすもあったので、両度出陣し、去年(弘治元年)は、旭山城に向かって附城を造り、旭山城をとりこにした上、晴信と興亡をかけた大決戦をしようとしたところ、負けそうになった武田方は和睦を申し出、駿河の今川義元に頼んで誓詞や講和条件などを示してきたので、いろいろ差し障りがあったが、それを承知し、旭山城を壊し、兵を引きました。そこで信州の味方は今も無事に暮らしています。 (弘治二年)六月二十八日 長尾弾正少弼入道宗心 長慶寺衣鉢(いぶ)侍者禅師 (「川中島の戦」小林計一郎氏著) ● 八月十七日、謙信、政景あて文書 私が隠居を決意したのは決して偽りではないが、あなたをはじめ国中の人々が自分を止めてくれる心を振り捨てるわけにもいかず、また私が戦争を怖がって隠居するのだといわれるのも心外だから、あなたの意見にまかせて隠居を思い止ります。 (「川中島の戦」小林計一郎氏著) 市河文書 ●七月十九日 ○別而可抽忠信之由、承候間、安田遺跡出置者也、恐々謹言 弘治二年七月十九日 晴信(花押) 市川孫三郎殿 ●八月二日、武田晴信、水科修理亮に、善光寺と甲府の行き来につき、一カ月馬二疋ずつの諸役を命じる。 (長野県史) ●八月八日、武田晴信、真田幸隆に東条氏の埴科郡雨飾城の攻略を促す。ついで幸隆、同城を落とす。 (長野県史) ● 東条普請の儀、頼み入り候旨一輪を染め候ところに、すなはちその意に応ぜられ、自身着城あり、辛労の至、ことさら去年以来還附未だ安居あるべからず候ところに、かくの如きの儀、誠に以って謝するところを知らず候。いよいよ相?がるるに就いては、快悦たるべく候、恐々謹言 八月廿五日 晴信(花押) 西条殿 (長野史料叢書 山形県西条信武氏所蔵) ●九月吉日、武田晴信願文(「山梨県史」中世資料県外文書 山形県の部) ☆市河文書 年不詳 武田家感状写 (北佐久郡浅科村、市川育英氏所蔵) ●十月廿七日、 (武田晴信)朱印 其方俵物借用之人、無相違可弁済候、有難渋之族者、可有注進候也。仍 如件。 十月廿七日 ☆ 十月下旬、秋山伯キ守の相備え、坂西(ばんざい)・市野瀬・知久・春近衆合わせて二百騎が秋山の与力。秋山の城は高遠城に置く。 ☆ 飯富三郎兵衛の相備え伊那衆、松尾百騎、下条百五十騎・松岡五十騎と武功に優れたもの五十騎を加え、三郎兵衛の二百騎と合わせて五百騎。 ☆ 小山田備中は尼飾城(長野市松代町 越後に逃げた東条氏の居城) ☆ 春日弾正は海津城。和田・余里・布下・楽岩寺から武功の優れた三百騎、当初からの百五十騎を合わせて四百五十騎。 信州の香坂の苗字を受けて春日から高坂弾正となる。 川中島衆の西条・清野・芋川などが高坂の相備えとなる。 ☆ 二の郭は足軽大将、小幡山城の子息又兵衛 ●十二月二十三日、武田晴信、岩波八郎右衛門尉に諏訪郡金子・栗林の地を充 行する。 (信濃資料叢書 岩波文書) ● 十二月二十四日、是より先、武田晴信西条知部少輔をして、水内郡小田切方川北の本領を安堵せしむ、是日、晴信更に更級郡、原・今里の地を充行ふ。 (信濃資料叢書 西条文書) 原・今里の儀について、香坂入道より様々承る旨之条、当分相違覚悟の 外に候、何時に候とも、小田切方川北の本領一両箇所安堵に至っては、 先判の旨に任せ、原・今里相渡すべく候。この趣先書に染むといえ雖も、 若し疑心あるべきの由、校量せしめ候間、重ねて書き出すところなり、 仍って件の如し。 弘治二年十二月二十四日 (朱印) 西条治部少輔殿 ☆市河文書(市川育英氏所蔵) ●十二月二十六日、武田晴信、市河右馬助に、兵糧米の保管を保証する。 其方所持之粮、預置信州佐久郡之処、悪党巳下威敗之砌紛失之候間、於自今以後不可有相違候条、可被存心易者也。仍如件 弘治二年十二月廿六日 晴信(花押) 市河右馬助殿 同右近助殿 その方所持の粮米、信州佐久郡に預け置くのところ悪党巳下成敗の由に 候の間、今より以後に於いて相違べからず候条、心易く存ぜられるべき ものなり。仍って件の如し。 筆註 同様の文書が「山梨県史」資料編5 中世ニ 県外文書 長野県の部に「武田家朱印状」p717に掲載されている。(龍朱印)で晴信花押は見えない。 弘治 三年 1557 《信虎―64歳・信玄―37歳・勝頼―12歳》 ●一月廿日、長尾景虎、更級郡八幡宮に、武田晴信の討滅を祈願する。願文に晴信の信濃制服の暴虐を記す。 (長野県史) (前文略) ここに武田晴信と号する侫臣ありて、かの信州に乱入し、住国の諸氏悉 く滅亡を遂げ、神社仏塔を破壊し、国の悲嘆累年に及ぶ。何ぞ晴信に対 し、景虎闘諍を決すべき遺恨なからん。よって隣州の国主として、或い は恨を後代鬼人に誓い、或いは眼前に棄てがたき好あり、故に近年助成 に及ぶ。国の安全のため軍功を励むところ他事なし。神は非礼を受けず。 縦へ晴信渇仰の志ありと雖も、既に国務を奪はんがため、ゆえなく諸家 をして罪なく脳乱せしむ。万民争(いかで)かその感応に預からん。 云々 ●一月廿一日、武田晴信、伊那郡諸郷に夫役を課す。 (信濃史料叢書) ●二月十二日、 山田領之貴賎、就致降参者、身命不可有相違者也。仍如件。 弘治三年二月十二日 原左京亮殿 ●二月十五日、武田の将馬場信房、長尾方落合氏らの本拠水内郡葛山城を攻略する。葛山衆の多くは武田方の属し存続する。 (長野県史) ○二月十五日、武田晴信の兵、長尾景虎の属城信州水内郡葛山城を攻めて、之を陥る。尋いで、景虎、色部勝長等の参陣を求めて、晴信の軍に備ふ。 (信濃史料叢書) ○ 於于去二月十五日、信州水内郡葛山地、頸壱被討補條戦功無比類候、 弥忠信可為神妙者也。謹言 弘治三年三月十日 晴信(朱印) 内田監物殿 (「信濃史料叢書 内田文書 山形県吉川吉蔵氏所蔵」) ○ 於于去二月十五日、信州水内郡葛山地、頸壱被討補條戦功無比類候、 弥忠信可為神妙者也。恐々謹言 弘治三年三月十日 晴信(朱印) 諏訪清三殿 (「信濃史料叢書」 三澤文書 諏訪市本町 三澤清美氏旧蔵) ● 二月十五日、武田晴信、信州葛山城合戦に於ける窪川宮内丞の戦功を賞する。 去る二十五日、信州水内郡葛山の地に於いて、頸壱つ討ち捕る条、戦功の至り感じ入り候。いよいよ忠信を抽んずべきものなり。仍って件のごとし。 弘治三年三月十日 晴信(龍朱印) 窪川宮内丞殿 同様の文書の宛先 小井弖藤四郎殿。千野靭負殿。溝口殿。篠原藤十郎。土橋対馬殿。内田善三殿。程原左衛門尉五郎。岩下藤三郎殿。三井助七郎殿。小林新兵衛殿。志村禅左衛門殿。室賀兵部大輔殿。春日甚之丞。諏訪清三殿。 溝口宛。 ●二月十六日 信州鉾楯の儀、去々年駿府のご意見を以って、無事に属し候き。然れど もその後の例式晴信の刷曲なき儀どもに候と雖も、神慮といひ、駿州御 刷といひ、この方より手出し致すべきに非ず候條、堪忍に及び置き候。 今度晴信出張し、落合方家中引き破り候故、葛山の地落居、これにより 島津方も大蔵の地へ先ず以って相移られ候。この上のことは是非に及ば ず候間、爰元の人数悉くかの口へ合せしめ、景虎も中途に至り出陣候。 雪中御大儀たるべく候と雖も、夜を以って日に継ぎ、御着陣待ち入り候。 信州味方中滅亡の上は、当国の備安からず候。今般に至っては、一廉の 人数以下相嗜まれ、御稼この時候。恐々謹言 二月六日 長尾弾正少弼 景虎 色部弥三郎殿 御宿所 (「信濃史料」色部家文書) 筆註 鉾楯= むじゅん 刷曲=かいつくろい ●二月十七日、武田晴信、内応した高井郡山田左京亮に、本領同郡山田を安堵し、大熊郷を宛行う。 (長野県史) 今度最前に降参、祝着に候、仍本領五百貫之地、不可有相違、又為新恩 大熊郷七百貫文之所出置候、弥忠節肝要二候者也。仍如件。 丁巳三年二月十七日 晴信 山田左京亮殿 (「山梨県史」中世ニ 県外文書 東京都の部) ●二月廿一日、後奈良天皇伊那郡文永寺再興を山城醍醐寺理性院に令する。ついで文永寺厳詢、信濃に下り、武田晴信に文永寺再興を訴える。(長野県史) ●二月廿五日、武田晴信、越後軍の高井郡中野への移動を報じた原左京亮・木島出雲守に答え、城を固めさせる。ついで原・木島、越後軍の出陣を晴信に報じる。 (長野県史) ●三月九日、晴信、神長(守矢頼眞)宛文書 急度一筆を染め候意趣は、当社御頭役近年怠慢のみに候か。然らば一国 平均の上、百年已前の如く、祭礼勤めさすべきの由存じ候のところに、 十五箇年已来兵戈止むを得ざるにより、土民百姓困窮す。殊には嶋津・ 高梨等今に令に応ぜず候間、諸事思慮の旨あって、これを黙止し畢せぬ。 必ず嶋津・高梨当手に属せば、某素願の如くその役を勤むべきの趣催促 に及び、難渋の族に至っては、先忠を論ぜず、成敗を加ふべく候。云々 三月九日 晴信 神長殿 ●三月十四日、是より先、木島出雲守等、長尾景虎の兵の信濃に入るを、武田晴信に報ず、是日晴信、信濃に出陣せんとし、その旨を出雲守に報ず。 宛 木島出雲守・原左京亮殿 (長野市長門町 県立長野図書館所蔵 信濃史料叢書 丸山史料) ●三月十八日、 信州口の儀に就いて、態御切紙祝着千萬に候。再三啓し候如く、今度の 儀は、是非行に及ぶべき覚悟に候間、今般の儀候間、如何とも早速の御 働待ち入り存じ候。景虎ことも漸く出陣せしめ候。ご用意本望たるべき 間、それ以来かの口の儀、相替りたる子細これなく候。御心安かるべく、 万々面上を以って申し承はるべく候。恐々謹言 二月十八日 長尾弾正少弼 景虎 色部弥三郎殿 御返報 (「信濃史料叢書」色部家文書) ●三月廿三日、武田軍、高梨政頼を飯山城に攻める。政頼、落城の危機を訴え、長尾景虎政景に救援を請う。この日景虎、越後長尾政景に出兵の決意を告げ出陣を促す。 (長野県史) 信州の儀に就いて、度々啓せしむる如く、この度に至っても更によんど ころなき子細候間、見検致すべきにあらず候。さりながら、出陣の日限 等のこと、かたがた申し談じ進むべく候ところ、景虎出馬遅々に候へば、 高刑飯山の地を打ち明くべきの由、頻りと申し越され候。左様にこれあ らば、いよいよ節義を失い候条、明日(二十四日)籠もり立ち候。毎度 申し宣ぶる如く、いよいよ御大儀たるべく候。早速の御着陣簡要に候。 恐々謹言 三月二十三日 弾正少弼 景虎 越前守殿(長尾政景) (「信濃史料叢書」 県立長野県図書館所蔵文書) ●葛山城を攻落した後、武田軍は川中島一帯の長尾方の一掃を続行していた。景虎は雪の為に出陣することができず、晴信も三月十四日には、まだ甲府いた。そこへ川中島より注進状が届き、越国衆が出陣するのとの報に接し、自らも出馬すると伝えている。 (甲府市史) ●三月廿五日、甘利信州立。 (王代記 山梨県大井大俣神社旧蔵及) ●三月二十五日、甘利(昌忠)、信州へ立、十月十六日馬入、窪川孫次郎討死。 廿三日、是より先、武田晴信の軍高梨政頼を水内郡飯山城に攻むるにより、政頼、長尾景虎に救援を請い、この日、景虎出兵せんとし、同政景の出陣を促す。 ●三月二十五日、是より先、長尾景虎、善光寺に兵を進め、高井郡やまだ要害・福島等を鎮定す。是日、景虎、水内郡旭山要害を再興し、晴信の軍に備ふ。 色部弥三郎殿 長尾景虎(花押) (「信濃資料」色部家文書) ●三月二十六日、信玄、伊藤右京亮宛書状。 高梨間山之郷之内三百貫文之所、被出置候、弥可抽戦巧者也。執達仍 如件。 丁巳 三月二十六日 信玄 判 伊藤右京亮殿 (「山梨県史」中世ニ 県外文書 東京都の部) ●三月廿八日、武田晴信、水内郡飯縄権現の仁科千日に、同社支配を安堵し、武運長久を祈念させる。 ☆ 四月九日、上野三ヶ尻(群馬県碓氷郡松井田町と富岡町の中間)北武蔵・西上野の武将十名以下二万人が長野信濃守を大将にして信玄公にたてつく。飯富三郎兵衛殿・馬場民部助・内藤修理・原隼人・諸角豊後守・小宮山丹後守・飯富兵部少輔と信玄子息太郎義信公を大将に追い崩し、勝鬨(かちどき)を挙げる。続いて長野信濃守の居城を攻める準備をする。 (甲陽軍艦) ☆ 四月十二日、越後の謙信が川中島を窺うという報に、上野攻めを止め、川中島へ出馬、五月末日まで対陣し帰陣する。 (甲陽軍艦) ● 四月十三日、武田晴信、島津月下斎が水内郡鳥屋城から鬼無里を突くとの報の実否を長坂虎房らに調べさせる。 ● 四月十三日、武田晴信、上杉謙信出陣の報を得て、日向大和守等に命じて、鬼無里方面での動静を探らせる。 読み下し(「須玉町誌」) 幸便を以って自筆を染め候意趣は、大日向の所従(よ)り木島を以って 申し越さるる如くんば、鳥屋より嶋津従り番勢を加え、剰え鬼無里に向 け夜搖の由に候。実否懇切に聞き届けられ、帰参の上、言上致さるべく 候。惣じて別して帰国の次、鬼無里筋の路次等見届けらるること尤もに 候。毎事疎略無く見聞有りて、披露待ち入り候。恐々謹言 追って小川・柏鉢従り鬼無里・鳥屋筋々に向かい、絵図いたされ候て、持 参有るべく候。(下略) (「須玉町誌」資料編第一巻) 第三回川中島合戦 ●四月十八日、景虎が川中島に出陣し、晴信は決戦を避けて安曇郡小谷城を攻め、八月に入ってやっと両軍が川中島で対戦した。これを第三回川中島の戦いという。 ●この年の四月には晴信は川中島に出陣し、八月には長尾景虎と三回目の対戦をしている。小山田氏も晴信に従って川中島に出陣しており、小林方はその信濃陣中まで訴えに赴いている。 (妙法寺記) ●四月廿一日、長尾景虎、善光寺に着陣、武田方の高井郡山田城・福島城などを奪う。ついで旭山城を再興する。 当地善光寺に至って着陣せしめ候、敵方より相拘り候地利、山田の要害 並びに福島の地打ち明け候。除(のけ)衆悉く還住候。先づ以って御心 安かるべく候。方々より申し来る子細も御座候条、早速御着陣待ち入る 計りに候。如何とも御動(はたらき)祝着たるべく候。恐々謹言 長尾弾正少弼 景虎(花押) 四月廿一日 色部彌三郎殿 御宿所 (『信濃史料』色部文書) ●五月十日、長尾景虎、高井郡小菅山元隆寺に願文を奉納、武田晴信を信濃に 引き出し決戦することを祈る。 信州に至っての出陣に就いて、去る頃野島平次右衛門瀬波郡下向の刻、 一筆啓せしむるのところ、御懇の報候。本領祝着に候。去る月十八山を 越え、同二十五、敵陣数箇所、根小屋以下悉く放火し、同日旭要害を再 興し陣を居え候。如何とも武略を廻らし、晴信を引き出し、一戦を遂ぐ べき覚悟に候。その上敵地より、種々申し刷(つくろ)旨候。御心安か るべく候。恐々謹言 長尾弾正少弼 景虎(花押) (弘治三年)五月十日 土佐林能登入道殿 (『信濃史料』芳賀文書) ●五月十日、長尾景虎、武田晴信と信濃に決戦せんとし、高井郡元隆寺に戦勝を祈る。 (前文略) 伏して惟(おもん)みるに、武田晴信世甲・信に拠り望を競ひ威を振ひ、 干戈息むなし、越後国平氏の小子長尾景虎、去る夏以来高梨らのため、 しばしば諸葛の陣を設くと雖も、晴信終に兵を出さず。故に鉾戦い受く る能はず。これにより景虎暫く馬を飯山の地に立て、積年の憤と散ぜん と欲す。云々 弘治三年五月十日 平景虎敬白 (「信濃史料」小菅神社文書) ●五月十三日、長尾景虎、香坂城を焼き、この日小県郡境の坂木岩鼻を破る。ついで晴信が出陣しないため飯山城に兵を返し、高井郡野沢の湯に市河藤若を攻める。 ●五月十五日、 当口動(はたらき)の儀について、急度御飛脚満足致し候。去る十二日 に香坂へ行(てだて)の儀に及び、近辺悉く放火、翌日坂木岩鼻まで、 打散じ候、凶徒一二千程取り出候へども、懸り動(はたら)き候へば、 五里三里先より敗北候間、打ち捕へざること無念このことに候。重ねて 天気次第相動き、珍しき儀候へば、申し入るべく候。恐々謹言 先刻申し入れ候儀、御用候間、草出羽同心、御大儀たるべく候へども、 御加勢の儀この時に候間、申すことに候。 (弘治三年)五月十日 平三景虎 高梨殿御報 (「信濃史料」) 六月十六日 晴信、市川籐若宛書状(「信濃史料叢書」 謙信公御代御書集』) 急いで客僧をもってお伝えします。そもそも長尾景虎が六月十一日に飯山に陣を移した様子で、風聞では高梨政頼がそちらへの融和工作をしているようですが、いうまでもなく、誓約の旨のとおりこちらの心底は残らず申し届けてあるとおりです。幸いに当方の陣は警固であり、さらに来る十八日には、上州勢がことごとく加勢にこちらのほうへ出張し、上田方面には北条綱成が着陣する予定です。越後勢は日を追って滅ぶでしょう。それが晴信の本意であることを知ってください。早々に軍備の調えを切に頼むこと、相変わらずの忠節を望むところです。なお、追って使者を送り一部始終を申し上げます。恐々謹言 六月十六日 晴信(花押) 市川籐若殿 (山日新聞による) ☆六月廿三日 晴信、市川籐若宛書状 ●六月廿三日、深志城の武田晴信、使番山本菅(勘)助を市河藤若に遣し、救援出陣を手配したと告げる。 ★山本勘助★信州塩田に布陣の晴信が、水内郡市河に在城の市河藤若にあて、塩田城主飯富虎昌が川中島に進出する計画のあることを、山本菅(勘)助を使番として報じる。 (北海道、市河良一家文書) 注進状披見。仍つて景虎、野沢の湯に至り陣を進め、其の地 へ取り懸かるべき模様、又武略に入り候と雖も、同意無く、 剰え備堅固故、長尾功無くして飯山へ引退き候由誠に心地よく候。何れも今度、其の方の擬たものしき迄に候。なかんずく野沢在陣のみぎり、中野筋後詰の義、飛脚に預り候き。すなわち倉賀野へ越し上原与三左衛門尉、又当年の事も塩田在城の足軽を始めとして、原与三左衛門尉五百余人、真田へ指し遣はし候処、既に退散の上是非に及ばず候。全く無首尾有るべからず候。向後は兼て其の旨を存じ、塩田の在城衆へ申し付け候間、湯本より注進次第に当地へ申し届けるに及ばず出陣すべきの趣、今日飯富兵部少輔の所へ下地を成し候の条、御心易く有るべく候。猶山本管助口上有るべく候。 恐々謹言。 六月廿三日 晴信(花押) 市河藤若殿 ●七月三日、是より先水内郡飯山城将高梨政頼、越後春日山城将直江實綱を音文する。 (高梨文書) ●七月五日、武田軍、長尾方安曇郡小谷(おたり)城を攻め落とす。 ●七月五日、武田晴信感状。 於于去五日信州安曇郡小谷之城、最善攻登、頸壱討捕、剰被疵二ヶ所候 条、戦功感入候、弥可抽忠信者也。仍如件。 七月十一日 晴信(龍朱印) 溝口 (信濃史料) ●七月五日、武田晴信の軍、安曇郡小谷に長尾景虎の軍と戦う。尋いで、晴信、諸士の功を賞する。 於于去五日信州安曇郡小谷之城、最善攻登、頸壱討捕之條、忠節感入候、 弥可抽戦巧者者也。仍如件。 弘治三年七月十一日 晴信(朱印) 小平木工丞殿 筆註 ☆ 同様の文書が多数ある。(「信濃史料」『諸州古文書』) 岩波六郎左衛門殿・篠原藤十郎殿・三井助七郎殿・小井弖藤四郎殿 岩波藤五郎殿・大村与右衛門殿 ● 「千野文書」諏訪市本町 千野俊次氏所蔵 抜粋 小谷城御本意の時分、構際に於いて弓を涯分仕り候。板垣具に言上故、高 白斎を以って深志の御対面所へ召し出し、此の類なく相?ぐの由、御褒美 候事。 ● 七月廿三日、武田晴信、大須賀久兵衛に、埴科郡坂木南条の地を宛行い、検使を派遣して所領を渡すと告げる。 ☆ 八月、信玄公は途中であった上野の信濃守の居城箕輪城を攻めた。十月中旬に信玄公は帰る。 (甲陽軍艦) ●八月六日、武田晴信、安曇郡山田左近をして、本領を安堵せしむ。(山田文書) ●八月廿九日、長尾景虎、政景の軍、武田軍を水内郡上野原に破り、この日戦功を賞する。(第三回川中島合戦) 今度於信州上野原(水内郡)一戦、働無比類次第ニ候、向後弥?之事肝 心に儀。謹言。 (弘治三年)八月廿九日 景虎 南雲治良了右衛門とのへ (同様の文書の宛先 大橋弥次郎殿) ● 九月二十日、越後方の大将、長尾政景の感状 信州上野原に於いて、晴信に対して、合戦を遂げ、勝利を得候砌、神妙 の働き比類なく候。向後いよいよ稼がるべきこと専要(大切)に候。 謹言。 九月廿日 政景 下平弥七郎殿 ● (「川中島の戦い」小林計一郎氏) ●十月九日、武田晴信、安曇郡千国谷に高札を掲げ、谷中の乱妨狼籍を禁止する。 ●十月十六日、馬入。窪川孫二郎討死。【王代】 ● 11月六日、武田家奉行衆、小尾藤七良に対し、京進面付として五百六十文の納入を命ずる。(正親町天皇即位に伴う経費の捻出か) 就京進面付之事(略) 弘治三年十一月六日 長坂筑後虎房 (花押) 三枝右衛門尉 (花押) 室住豊後守虎光(花押) 小尾藤七良代 (「須玉町誌」史料編第一巻) ●此年、将軍足利義輝、長尾景虎上洛のため景虎、武田晴信の和睦をはかり、聖護院道澄を派遣する。 ●弘治元年(1555)閏十月の甲越和睦は、その後の信濃侵略によって、有名無実となり、翌二年八月には春野望が景虎の家臣の大熊朝秀を内応させたことから、再び両者の関係は悪化した。この年の二月十五日、晴信は景虎の機先を制して川中島へ兵を送り、善光寺の南の葛山城を攻落させた。 (甲府市史) ●此年、武田晴信、善光寺の仏像・仏具を小県郡彌津に移す。信濃善光寺とその門前町が寂れる。 ●弘治年間、武田晴信、伊那郡に小野川・波合関所を設ける。この頃、清内路・帯川・心川関所も置く。 《参考》川中島の戦い。『川中島五箇度合戦記』 第一回 天文廿二年八月(1553) 第二回 天文廿四年四月(1555) 百五十日間 第三回 弘治 三年 (1557) 第四回 永禄 四年九月(1561) 第五回 永禄 七年八月(1564) 永禄 元年 1558【甲府】《信虎-65歳・信玄-38歳・勝頼-13歳》 ●正月十六日、今井昌良、将軍家側近大館晴光に、晴信の信濃守護職、義信の准三管領任官の礼をする。 ●二月廿日、晴信、将軍家の御内書の応じて景虎と和睦する。 《解説『甲府市史』》 将軍足利義輝は長尾景虎を上洛させるために晴信と和睦させる工作をしていた。既に弘治三年八月には将軍家の使者が甲斐へ遣はされ、晴信も信濃守護職に任命されることを条件に、承認の意向を示していた、この年二月には景虎もこれに応じ、一応両者の和議が成立した。 永禄 元年 1558【長野】 ●二月廿日、足利義輝、甲越和睦への長尾景虎の同意を嘉(よみ)する。この 頃晴信、信濃守に補任される。 (長野県史) ●三月六日、武田晴信、陸奥会津高橋郷の大島次郎右衛門に、甲信両国で一カ月荷物五駄の諸役を免除する。 (長野県史) ●四月、武田晴信、水内郡柏鉢・埴科郡東条・更級郡大岡各城在番衆の当番を定め、真田幸隆・小山田昌行を埴科郡尼飾城を在番させる。 (長野県史) ●この年、武田晴信、川中島地方をほぼ平定する。 (長野県史) 永禄 元年 1558【評判】 ● 永禄元年二月、長尾謙信與武田信玄、和睦あて、信州筑摩川にて會盟せらる べしと聞ける時、信玄過言を以て和談を破られ、重ねて対陣に及び玉ふこと 本書の如し。 ●五月、武田信繁、家訓九十九カ条を定め、嫡子長老に遣わす。(別記) ●六月、小田原城主北条氏康、甲州の出家に過所を与える。 (甲府市史) ●閏六月、晴信、醍醐理性院に信濃文永寺ほかの再興を報ずる。 (甲府市史) ●九月二十五日、武田晴信、善光寺の阿弥陀如来像・源頼朝像などを甲府へ移す。栗田氏・大本願上人らも甲府へ移る。次いで甲斐板垣に善光寺如来堂を造立する。(長野県史) ●九月、晴信、信濃善光寺の本尊を甲斐に移し、新寺の建立を始める。 (甲府市史) 《解説》新寺は翌二年二月に完成し、二月二十六日に本尊が入仏されている。 ●善光寺如来、九月二十五日、甲府付玉フ。板垣十三日地引始。【王代】 ●十一月廿八日、晴信、将軍足利義輝に信濃出兵の弁明状を送る。(甲府市史) 《解説『甲府市史』》 武田晴信が将軍足利義輝の側近である大館晴光に宛てた書状。 一、去夏(弘治三年)に私(晴信)が越後に向けて出兵したのが将軍家を軽んじたものと書いてあり、大変驚きました。すでに先般瑞林寺が使者として下向した折、信濃守護職補任の御内書を頂戴しておりますので、他に手出しするつもりはなかったのですが、その後長尾景虎が両度にわたって信濃国内で放火したからです。これこそ上意に背くものでしょう。 二、去年甲越和睦をまとめるために聖護院門主の使者として森坊が御内書をもって甲府へ来ました。これによって私は合戦をやめ、信府中にある城普請を申しつけていた際、景虎も御内書を頂戴し、いまだ和睦も成立しない前に、信濃の海津の地に放火しました。これは皆がよく存じていることです。 三、その報復のために私は越後に向けて出兵したのであり、決して上意をないがしろにしたのではありません。 四、今回重ねて出兵したのは、以下の理由によるものです。去夏に出兵した折に越後の府中を破却しようと思ったのですが、将軍家よりの使僧が甲府に下向したとの知らせを留守のものが伝えてきたので、上意を重んじて帰陣し、使者の西堂に対しての私の考えを述べ、前述のように信濃守護補任の御内書を持参していたので、和睦を成立させるため、その使者に越後へ赴くよう勧め、使者が承知して越後に到着したところ、越後では無理に押し返してしまいました。これは上意にが逆心するものであり、無分別というべきです。 五、私は信濃守護職補任の御案内に従い、信越国境を境界とすると承知しております。 なお詳しくは富森左京亮が口上で申し述べます。追って上使の瑞林寺・佐々伊豆寺は越後へ向かいました。津田掃部助は、談合のために一両日前に甲府に着いております。 永禄 元年 1558【妙法】 ●此年、八月五日大風吹申候。乍去秋世中粟半、耕作同芋半世中 殊に大麦小麦半世中稲・大豆・小豆は廿分に出来候而、売買何も安し。 永禄 二年 1559【甲府】《信虎-66歳・信玄-39歳・勝頼-14歳》 ●武田家一門、高野山引導院(持明院)の黄金を寄進する。 一、黄金五両 晴信 花押 一、黄金壹両 信繁 花押 一、同 信廉 花押 一、同 信是 花押 右一国一家勧進状、仍如件 引導院 永禄 二年 1559【王代】 ○ 二月十六日、新善光寺板垣立。入仏二月十六日。(王代) 永禄 元年 1558【甲府】《信虎-65歳・信玄-38歳・勝頼-13歳》 ●正月十六日、今井昌良、将軍家側近大館晴光に、晴信の信濃守護職、義信の准三管領任官の礼をする。 ●二月廿日、晴信、将軍家の御内書の応じて景虎と和睦する。 《解説『甲府市史』》 将軍足利義輝は長尾景虎を上洛させるために晴信と和睦させる工作をしていた。既に弘治三年八月には将軍家の使者が甲斐へ遣はされ、晴信も信濃守護職に任命されることを条件に、承認の意向を示していた、この年二月には景虎もこれに応じ、一応両者の和議が成立した。 永禄 元年 1558【長野】 ●二月廿日、足利義輝、甲越和睦への長尾景虎の同意を嘉(よみ)する。この頃晴信、信濃守に補任される。 ●三月六日、武田晴信、陸奥会津高橋郷の大島次郎右衛門に、甲信両国で一カ月荷物五駄の諸役を免除する。 ●四月、武田晴信、水内郡柏鉢・埴科郡東条・更級郡大岡各城在番衆の当番を定め、真田幸隆・小山田昌行を埴科郡尼飾城を在番させる。 ●九月二十五日、武田晴信、善光寺の阿弥陀如来像・源頼朝像などを甲府へ移す。栗田氏・大本願上人らも甲府へ移る。ついで甲斐板垣に善光寺如来堂を造立する。 ●この年、武田晴信、川中島地方をほぼ平定する。 永禄 元年 1558【評判】 ●永禄元年二月、長尾謙信與武田信玄、和睦あて、信州筑摩川にて會盟せらるべしと聞ける時、信玄過言を以て和談を破られ、重ねて対陣に及玉ふこと本書の如し。 永禄 元年 1558【甲府】 ●五月、武田信繁、家訓九十九カ条を定め、嫡子長老に遣わす。(別記) ●六月、小田原城主北条氏康、甲州の出家に過所を与える。 ●閏六月、晴信、醍醐理性院に信濃文永寺ほかの再興を報ずる。 ●九月、晴信、信濃善光寺の本尊を甲斐に移し、新寺の建立を始める。 《解説》新寺は翌二年二月に完成し、二月二十六日に本尊が入仏されている。 ●善光寺如来、九月二十五日、甲府付玉フ。板垣十三日地引始。【王代】 ●十一月廿八日、晴信、将軍足利義輝に信濃出兵の弁明状を送る。 《解説『甲府市史』》 武田晴信が将軍足利義輝の側近である大館晴光に宛てた書状。 一、去夏(弘治三年)に私(晴信)が越後に向けて出兵したのを将軍家を軽んじたものと書いてあり、大変驚きました。すでに先般瑞林寺が使者として下向した折、信濃守護職補任の御内書を頂戴しておりますので、他に手出しするつもりはなかったのですが、その後長尾景虎が両度にわたって信濃国内で放火したからです。これこそ上意に背くものでしょう。 二、去年甲越和睦をまとめるために聖護院門主の使者として森坊が御内書をもって甲府へ来ました。これによって私は合戦をやめ、信府中にある城普請を申しつけていた際、景虎も御内書を頂戴し、いまだ和睦も成立しない前に、信濃の海津の地に放火しました。これは皆がよく存じていることです。 三、その報復のために私は越後に向けて出兵したのであり、決して上意をないがしろにしたのではありません。 四、今回重ねて出兵したのは、以下の理由によるものです。去夏に出兵した折に越後の府中を破却しようと思ったのですが、将軍家よりの使僧が甲府に下向したとの知らせを留守のものが伝えてきたので、上意を重んじて帰陣し、使者の西堂に対しての私の考えを述べ、前述のように信濃守護補任の御内書を持参していたので、和睦を成立させるため、その使者に越後へ赴くよう勧め、使者が承知して越後に到着したところ、越後では無理に押し返してしまいました。これは上意にが逆心するものであり、無分別というべきです。 五、私は信濃守護職補任の御案内に従い、信越国境を境界とすると承知しております。 なお詳しくは富森左京亮が口上で申し述べます。追って上使の瑞林寺・佐々伊豆寺は越後へ向かいました。津田掃部助は、談合のために一両日前に甲府に着いております。 永禄 元年 1558【妙法】 ●此年、八月五日大風吹申候。乍去秋世中粟半、耕作同芋半世中 殊に大麦小麦半世中 稲・大豆・小豆は廿分に出来候而、売買何も安し。 永禄 二年 1559【甲府】《信虎-66歳・信玄-39歳・勝頼-14歳》 ●武田家一門、高野山引導院(持明院)の黄金を寄進する。 一、黄金五両 晴信 花押 一、黄金壹両 信繁 花押 一、同 信廉 花押 一、同 信是 花押 右一国一家勧進状、仍如件 引導院 永禄 二年 1559【王代】 ○新善光寺板垣立。入仏二月十六日。 永禄 二年 1559【妙法】 ○正月小二月大。 ○正月日、雪水出候而、悉く田地上家村を流し候。就中此年二月信州への番手をゆるし候而、又谷村御屋敷不審同つほの木又さいかち公事なとを、祝師衆計不致ゆる候而、宮の川よけを被成其上彌三郎殿御意を以て宮林の木を祝師衆まゝに被成小林尾張殿奉行にて宮林をきりわたを立被納候然者小林和泉殿宮林を為伐間敷由二三度押被申候へ共祝師衆皆々不用して彌三郎殿下知にて用の程伐候而宮の致川よけ候。 ○同其年の春は売買何も安し。 ○同年四月十五日大氷降。夕顔、茄子麻痺苗殊鶯菜悉打折何も無し。大麦は半分こほし候。 ○就中、庚戌年(天文十九年/1550)小林宮内少輔殿河よけ不審に新井左近地付の林を伐候而、堰候候へは其過怠として下吉田百余人の所より質者を一兵衛殿取被申候を皆々道理を申分候間、松山より悉く質物共を反し被申候へ共左近同殿法林坊質物計不被返候間打置申候処に己未年(永禄二年)四月慥に小山田御意にて手取二つ新鍬一勺拾年と申反し被申候之間目出度請取申候。 ○永禄二年十二月七日に大雨降怱に雪しろ水出て法ケ堂皆悉流れ申候。又在家の事は中村まるく流し候事無限。 《筆註》今川義元関係(『富士吉田市史』) 弘治 三年(1557) ※今川義元、慶覚坊に東専坊の遺跡譲渡を認める。 ※今川義元、中河の浅間神領屋敷相論につき裁許する。 ※今川義元、宝幢院に富士大宮別当職と別当領分を安堵する。 ※今川義元、富士登二郎に河東十分一を免許する。 《筆註》今川氏真関係(『富士吉田市史』) 永禄 元年(1558) ※今川氏真、大鏡坊頼慶に富士山宮大夫跡職を安堵する。 ※今川氏真、大鏡坊頼慶に慶覚坊跡職を安堵する。 ※今川氏真、浅間神社の神領等を安堵する。 ※今川氏真、静岡浅間神社流鏑馬千歳方郷役を改めて命ずる。 ※今川氏真、東泉院に下方五社領内の金剛寺と玉蔵院を付属する。 永禄 二年 1559【長野】 ●三月廿日、武田晴信、東北信・伊那の諸将士・商人らに、分国内往還の諸役を重ねて免除する。 永禄 二年 1559【諸州古文書】「甲州二ノ上」 ●武田晴信、分国中の商売の諸役を免許した者の名前をまとめる。 分国商売之諸役免許之分 従天文十八年 1549 一、五月九日、分国諸開諸役一月ニ三疋口令免許者也。 奏者 秋山善右衛門 左進士新兵衛尉 一、敵之時宜節々聞届就注進、一月ニ馬一疋口諸役令免許者也。 奏者 穴山殿 拾月二日 柳澤 一、一月荷物三疋口、往還不可有諸役者也。 奏者 向山又七郎 拾月廿日 対馬守 一、於京都絹布已下之用所一人ニ申付候間、弥以堅奉公可申事専一候、因茲分 国之諸役 一月ニ馬三疋口、無相違可勘過者也、 拾月吉日 小薗八郎左衛門尉 天文十九年 1550 一、卯月三日、濃州之商人佐藤五郎左衛門尉過書之事、右分国 諸役所一月馬三疋口無相違可通者也。 奏者 向山又七郎 小山田申請 一、別而抽忠信之由申候間、一月ニ馬三疋口諸役令免許者也、 奏者 今井越前守 拾一月十三日 松嶋今井越前守 一、甲信之内、一月馬五疋口諸役令免許者也、 奏者 跡部九郎右衛門尉 六月十六日 末木土佐守 一、裏之台所へ之塩、一月ニ二駄諸役令免許者也。 七月十日 一、馬三疋口一月ニ三度宛、諸役令免許者也、 奏者 跡部伊賀守 甲寅卯月八日 大日方山城守 一、一月ニ一往馬三疋宛無相違可勘過者也。仍如件。 奏者 跡部伊賀守 卯月十二日 麻績新左衛門尉 一、就別而致奉公、一月ニ馬二疋口諸役令免許者也。仍如件。 奏者 跡部伊賀守 卯月四日 窪村豊後守 一、鵝目七百貫文預候利銭之事、可為四文字、以其故商諸役一月ニ馬六疋口、 又門屋四間令免許者也。 奏者 跡部九郎右衛門尉 卯月十二日 林土佐守 一、分国之内一月ニ馬十疋宛諸役令免許候、恐々謹言。 奏者 高白斎(栗原左兵衛) 卯月晦日 岡部豊後入道 一、分国之内一月馬三疋口出置者也。 天文二十四年 一、就小田原南殿奉公、一月ニ馬三疋分、諸役令免許者也。仍如件。 奏者 跡部次郎衛門尉 天文廿四年三月二日 向山源五左衛門尉 弘治元年 一、拾二月十九日 平原甚五左衛門尉 一、就山内在城諸役所并諸関令免許者也。 奏者 跡部伊賀守 原弥七郎 六月吉日 九一色衆 一、就越国筋往還、自由者一月ニ馬五疋分国之内、諸役令免許者也。 奏者 今井越前守 六月廿五日 仁科民部入道殿 一、善光寺還往之間、一月ニ馬壱疋口諸役令免許者也。 奏者 飯田源四郎 弘治二年八月二日 水科修理亮 一、一月馬五疋之分、商之諸役令免許者也。仍如件。 奏者 跡部伊賀守 十二月六日 五味八郎左衛門尉 一、就塩硝鉛下、分国之内一月馬三疋宛諸役令免許者也。仍如件。 奏者 秋山市右衛門尉 弘治三年正月廿八日 彦十郎 一、信国之内甘馬一月ニ七疋無相違可勘過者也。 奏者 原弥(七郎) 八月三日 依田新左衛門尉 一、越中へ使者ヲ越候、案内者可馳走之旨申候間、一月ニ馬壱疋之分商売之諸役令免許者也。 奏者 高白斎 一、甲信両国中、毎月馬二疋之分、商之諸役令免許者也。 奏者 高白斎 弘治三年十月三日 油科佐渡守 一、甲信両国中、毎月馬二疋宛、商之諸役令免許者也。 奏者 高白斎 弘治三年 十月三日 窪田外記 弘治四年 永禄元年 一、参月六日 御印判三疋一ツ二疋一ツ二枚ニ出候。 一、従当年六月至于来十二月一日ニ馬五疋分諸役令免許者也。 奏者 原弥 永禄元年六月朔日 屋代殿 一、小笠原信貴息就在府毎月粮米回状分、青柳より府中迄諸役令免許者也。 奏者 高白斎 永禄元年六月十一日 一、甲信両国中、毎月馬三疋之分、商之諸役令免許者也。 奏者 高白斎 十月三日 窪田伊賀守 一、一月三度宛、彼者往還之荷物、壱駄分諸役令免許者也。 奏者 金丸平三郎 松尾被官 助右衛門 永禄元年拾月廿六日 一、信州之内一月ニ馬二疋分商之諸役令免許者也。仍如件。 奏者 小山田備中守 永禄元年十一月三日 上原之保坂中務丞 一、於甲信両国彼荷物、一月ニ拾駄分、諸役所渡已下無相違可勘過、富士参詣之時節モ可為同前者也。遂而善三郎事者、令在国者善明已後モ可為同意(前) 奏者 宗春 拾月十日 松木善明 同善三郎 一、馬三疋口一ケ月一住つゝ諸役令免許者也。 奏者 野村兵部助 己未二月三日 葉山左京進 一、其方父子参府之砌、一月之内荷物三駄之分諸役令免許者也。 奏者 跡部伊賀守 二月八日 大日方入道殿 已上 永禄二年 右書立之外之族、縦雖持印判不可叙用者也、仍如件。 永禄二年 三月廿日 (『甲州古文書』) 永禄 二年 1559 ※永禄二年四月、謙信は京都に上り、参内、公方義輝公に拝謁した。輝虎の名をいただき、網代の塗輿、御紋をゆるされ、文の裏書きまでゆりされて帰国した。管領職は辞退し、朱塗りの柄の傘、屋形の号もゆるされ、三管領に準ずるうようになった。(河中島五箇度合戦記) 永禄 二年 1559 4月 ●四月、武田信玄、川内領の関所に禁制を掲げる。(【甲府/甲州古文書】) ●武田信玄、甲斐国内に寺社の禁制を掲げる。 《解説『甲府市史』》 (略)晴信から信玄と改名した直後の竜朱印状と思われる。 ○十一月九日、武田信玄、身延山久遠寺に末寺支配を安堵する。 ●五月、武田信玄、長尾景虎上洛に乗じ奥郡・越後境出陣を計り、佐久郡松原諏訪社に戦勝を祈る。 (長野県史) ●『松原神社文書』武田晴信、信玄を名のる。 敬白 願書の意趣は、 今度ト問最吉に任せ、甲兵を信州奥郡並びに越州の境に引卒す。信玄多 年如在の礼賽あり、造次にもここに於いてし顛沛にもここに於いてす。 希はくは天鑑に随ひ、敵城悉く自落退散し、しかのみならず長尾景虎吾 軍に向はば、すなはち越兵追北消亡せんことを、併せて松原三社の保祐 を仰ぐものなり。神明私なし。凱歌を奏して家安泰に帰するの日に至ら ば、具足一両糸毛・神馬一疋、宝前に献じ奉るべきの条、件の如し。 永禄二年己未年 五月吉日 釈信玄 花押 ●六月二十六日、足利義輝、武田晴信の出兵なじり、信濃の諸将士に長尾景虎に従い戦闘を停止するように令する。 ●八月三日、屋代政国、諏訪上社への寄進地年貢を桑原市中升(ます)で十八俵と定め これを同社人に伝える。 ●九月一日、武田信玄、小県郡下之郷社(生島足島神社)に願文を納め、長尾景虎との決戦の勝利を祈る。 敬ひ申す願書【生島足島神社文書】 帰命頂礼、下郷諏訪法性大明神に言ひて曰はく、徳栄軒信玄越軍出張を 相待ち、防戦せしむべきか否やの吉凶、預め四聖人にト問す。その辞に 曰はく、九二の孚喜あるなり。 〔薦約を経て神の享くるところとなる。これを斯喜となすと云々〕 希はくは天艦に随ひ越軍と戦ひ、すなはち信玄存分の如く勝利を得、し かのみならず長尾景虎忽ち追北消亡せんことを。併せて下郷両社の保祐 を仰ぐものなり。神明私なし。 凱歌を奏し、家安泰に帰するの日に到って、己未の歳よりこれを始め、 十箇年の間、毎歳青銭十緡修補のため社納し奉るべきものなり。仍って 願状件の如し。 維時永禄二年秋九月 武田徳栄軒信玄 花押 ●九月、武田晴信の軍、上野安中・松井田を侵す。(【長野】) ※十月二十六日、長尾景虎、越後に帰る。(【長野】) ●十一月十三日、長尾景虎の関東管領補任を祝し、村上義清・高梨政頼を筆頭に、須田・真田氏ら信濃の諸将多数、太刀などを贈る。(【長野】) ●十一月廿日、武田信玄、屋代政国に、隠居の際に埴科郡福井などの地を宛行ことを約し、分量に従って軍役を勧めるよう記す。(【長野】) (信玄宛行状の軍役規定の初見) ●十二月十三日、秋山善右衛門、伊那郡赤須昌為に、草刈場に入れる区域と馬数の規定を渡す。(【長野】) 永禄 三年 1560【甲陽】《信虎-67歳・信玄-40歳・勝頼-15歳》 ●二月朔日に、北条氏康公より御使いが甲府に達する。その理由は、謙信が去年十月より上野の飛来へ進出して来ていて、関八州の侍大将勢を大田三楽(資正)が策略を用いて悉く謙信旗本に勢力下にひきつけている。また都から近衛殿を通じて公方と名付け、氏康を倒すべき名目を得たそうで、このままではと考え、信玄公の加勢をお頼み申す由の便である。云々 永禄 三年 1560 ●二月二日、武田信玄、諏訪上社造営(御柱立)にあたり、信濃一国に諸役を課する。(【長野】) ※三月卅日、能登、神保良春ら、武田信玄に応じ、長尾景虎の信濃出陣の背後を突く。景虎、これを越中富山城に破る。(【長野】) ●三月十一日、信玄、郷中での重科人の密告を命ずる。【甲府】 ●四月廿八日、長尾景虎、信玄が越中に外交の手を伸ばしことを常陸の佐竹氏に報ず る。(年代は推定)【甲府/福王寺文書】 ※五月十九日、織田信長、今川義元を桶狭間で破る。 ○五月十九日、駿河之義元尾張成実ニテウチ死。(【王代】) ●六月六日、信玄、御室浅間神社に分国諸関所通行手形を与える。【甲府/浅間文書】 ●六月十五日、武田信玄、香坂筑前守に更級郡横田のうち屋代氏らは海津城を築かせ、 城代春日虎綱を置く。【長野】 ●七月十三日、信玄、高野山成慶院を宿坊と定める。【甲府/高野山成慶院文書】 ●八月二日、信玄、龍王川除場の移住人を募る。【甲府/保坂家文書】 ●八月廿五日、信玄、府中八幡社の国中社人の勤番制を敷く。【甲府/八幡社文書】 ●八月廿五日、信玄、国中修験僧の条目を定める。【甲府/武田文書】 ※八月二十五日、長尾景虎、関東出陣中の留守諸将の掟を定め、信濃鎮定は高梨政頼に 輪番合力するように命じる。【長野】 ※九月廿八日、北条氏康、武州河越に出陣。ついで長尾景虎、上野厩橋城に拠る。 ●十月十七日、信玄、北条援助のため、加賀・越中一向宗徒の越後侵攻を本願寺顕如に 求める。【長野】 ●十月十八日、信玄、北高全祝を岩村田竜雲寺に入れ、曹洞門派に条目を定める。 【甲府/永昌院文書(山梨県山梨市) ●十月廿二日、武田信玄、大井左馬允に、小諸城の定普請小諸出陣のさいの兵糧輸送を命じる。【長野】 永禄四年 1561【長野】《信虎-68歳・信玄-41歳・勝頼-16歳》 ●二月十四日、武田信玄、諏訪上社の宝鈴を鳴らす銭額を上五貫文・中三貫文・下一貫二百文と定める。 ※三月、長尾景虎、信濃・越後と関東将士を率い、北条氏康を相模小田原城に囲む。 ※三月、長尾景虎、鎌倉鶴ヶ丘八幡宮の神前で関東管領就任を報告、上杉政虎と改名、この日足利義氏擁立を約する。 ●4月十一日、武田軍、北条氏康支援のため碓氷峠を越え上野松井田に進む。ついで借宿近辺に放火する。 ●四月十七日、武田信玄、市川右馬助ら一族に、上野南牧の戦功により蔵入地佐久郡瀬 戸などを宛行う。 ●八月二十四日、信玄、上杉政虎が越後・信濃勢を率い善光寺に出陣する報により、信 濃など分国諸将を率い川中島に着陣する。 ☆第四回川中島合戦☆ ●九月十日、上杉政虎・武田信玄軍、川中島で激戦し、死傷者多数を出す。政虎自ら太刀打ちし、信玄の弟信繁(典厩)ら討ち死にする。【長野】 ●今度於信州川中嶋、輝虎及一戦之刻、小宮山新五左衛門尉被囲大勢之処、其方助合若 党数輩被疵、剰彼敵三人討捕之、無比類働尤神妙也、弥可致忠戦之状如件。 永禄四年九月十日 晴信判 河野但馬守との【甲府/御庫本古文書纂】《信憑性?》 ●今十日巳刻、与越後輝虎於川中嶋合戦之砌、頸七討捕之、其方以走廻被遂御本意候、 弥可忠信者者也、仍如件。 永禄四年九月十日 信玄(花押影) 松本兵部殿【甲府/益子家文書】《信憑性》 ※上杉政虎が小田原へ出征していた際、信玄は佐久軍へ出陣して、政虎の後方退路をおびやかした。越後へ帰着した政虎は八月十四日、川中島に向かって出陣した。九月十日早朝、両軍は川中島の八幡原で対戦した。これを第四回の川中島合戦といい、最大の激戦であった。前半は上杉方、後半は武田方が有利な展開をした。 ※【甲府/『大田家文書』】 今度信州表に於いて、晴信に対し一戦を遂げ、大利を得られ、八千余討ち捕られ候こと、珍重の大慶に候。期せざる儀に候と雖も、自身太刀討に及ばるる段、比類なき次第、天下の名誉に候。よって太刀一腰・馬一疋(黒毛)差し越し候。はたまた当表のこと、氏康松山口に致って今に張陣せしめ候、それに就いて雑節ども候。万一出馬遅延に於いては、大切たるべきことども候間、油断なく急度今般越山あるべく候。手前可火急に申し廻り候条、かくの如くに候。早々待ち入り候。なほ西洞院左兵衛督申すべく候条詳らかにする能はず候。恐々謹言。 十月五日 前久(花押) 上杉殿 永禄四年 1561【長野】 ●十月卅日、信玄、山城清水寺成就院に伊那郡面木郷を寄進し、高井郡市川城・水内郡野尻城攻略のうえさらに寄進を約する。このころ飯山・野尻両城付近を除き、武田軍がほぼ信濃を制圧する。 ●十一月二日、信玄、北条氏康赴援に出兵するにあたり、佐久郡松原神社に戦勝を祈る。ついで出陣する。 ●十一月十三日、武田信玄、上野甘楽郡に入り、つきで国峰城を攻略する。 ●十一月廿日、信玄、四郎勝頼の元服式の祝儀を諸方へ送る。 【甲府/栃木県採集古文書】 ●十一月廿五日、信玄、上野国一宮に高札を与える。【甲府/大坪家文書】 ●十一月廿七日、上杉政虎、古河城近衛前久(さきひさ)救援に関東出陣、この日武田信玄と呼応する北条氏康と武蔵生山(なまのやま)で戦う。 ●十一月廿八日、信玄、小畑氏に松山城攻めの感状を与える。【甲府.諸家家蔵文書】 永禄四年 1561【長野】 ●十二月廿三日、武田信玄、小県郡長窪・大門両宿に、信玄竜朱印状によらず伝馬を出すことを禁じる。 ☆第四回川中島合戦☆(吉田豊氏訳・『甲陽軍艦』) 【訳】永禄四年辛西八月十六日、信州川中島から甲府に伝令が来て申しあげるには、上 杉輝虎が出動して、海津の向かい、西条山に陣をとり、ぜひとも海津城を攻め落とそう としている。その兵力は一万三千ほどとのことであった。 そこで信玄公は、同月十八日、甲府を出発されて、同月二十四日に川中島へお着きに なった。そして、謙信の陣営である西条山のこちら側、雨の宮の渡しを占拠し、そこに 陣をはられた。このため謙信の側では、越後への退路を断たれ、あたかも袋にとじこめ られたようになったと心配したが、謙信は少しも心配する様子はなかった。 こうして信玄公は、五日間、その場所に陣をはられ、六日目の二十九日に、広瀬の渡 しを越して海津の城におはいりになった。しかし謙信は、家老の意見も聞かず、それま でとおり西条山におられる。 ここで、信玄公に対し飯富兵部が、ここぞという決戦をなさいますようにと、おすす め申しあげた。また信玄公は馬場民部助を召されてご相談になったところ、馬場も決戦 をなさるようにと申しあげる。 信玄公は「当家の武勇すぐれた侍大将たちのうち、小幡山城はこの六月に病死、原美 濃もこの夏、信州わりか嶽城攻めにおいて、十三カ所の負傷で、まだその傷が治らぬた め、今何は召し連れなかった」と仰せられて、山本勘助を召され、馬場民部助と相談の 上、明日の合戦の配備を定めよと仰せつけられた。 山本勘助はそこで、 「二万の兵力のうち、一万二千を謙信が陣をかまえる西条山に向けて、明日の卯の刻 (午前五時ごろ)から合戦を始めれば、越後勢はやがて、勝っても、負けても、川を越 えて引揚げるでありましょうから、そこを御旗本組、第二陣の部隊によって前後からは さみ討ちにして、討ちとめなさるように」と申しあげた。それによって、高坂弾正、飯 富兵部少輔、馬場民部、小山田備中、甘利左衛門尉、真田一徳斎、相木、芹山下野、郡 内の小山田弥三郎、小幡尾張守、この十隊は西条山に向かって卯の刻から合戦を始め る。一方、御旗本組としては、中央に飯富三郎兵衛、左に典厩信繁殿、穴山信吉殿、右 は内藤修理、諸角豊後の各隊。 御旗本組脇備として、左に原隼人、逍遥軒信廉殿、右に太郎義信殿二十四歳、望月の 各隊。御旗本組後備として跡部大炊助、今福善九郎、浅利式部丞の各隊、以上十二隊、 御旗本とともに八千の兵力が、今夜の七つ寅の刻(午前三時ごろ)に出発して広瀬の渡 しを越して陣を布き、敵が川を越えて退くときに戦闘を始めると定められた。 ところが謙信公は、武田勢の先鋒と旗本の部隊との炊事の煙が立つ様子を、西条山り 上からご覧になり、上杉方の侍大将全員を集めて、 「十五年前、未の年の秋に、信玄二十七歳、謙信十八歳のとき、争いを始めて以来、た びたびの含戦をしてきたが、信玄の布陣にはつねに手落ちがなく、結局のところ戦場の 主導権を信玄に握られて、謙信はつねに敗れたかのような有様であった。明日は合戦と 思われるが、信玄の作戦としては、兵力を二手に分け、半分をこの陣に向けて合戦を始 め、謙信の旗本が川を越して退こうとするところを、あと半分の兵力によって討ちとろ うとの計略を立てていることが、鏡にうつるかのように察しられる。ここはひとつ、謙 信もその裏をかいて、ただちに川を越えてそこで夜を明かし、日が出たならば攻めかけ て合戦を始め、信玄の先鋒が駆けつけぬうちに、武田勢を切り崩し、信玄の旗本と、わ が旗本とで一戦をとげ、信玄と自分とが取り組み合い、組みふせて、刺し違えるなり、 またはそのときの様子で和睦するなりとしよう。いずれにせよ、明日は二つに一つの合 戦ぞ」といわれた。 輝虎は甲骨に身を同め、九月九日の亥の刻(午後九時ごろ)に西条山を出発して雨の 宮の渡しを越え、対岸に移られたが、一万三千もの兵力でありながら、音も間こえなか った。これは、越後勢が、戦のときは一人に三人分ずつ、朝食を用意させておく軍律と なっているため、夜になって人馬の食物をつくることがなく、火を焼く色が見えなかっ たためである。以上。 こうして九月十日のあけばの、信玄公は広瀬の渡しを越し、八千余の兵力で陣を布 き、先鋒からの報告をお待ちになっていたが、日が昇り、霧がすっかり晴れわたると、 輝虎勢が一万三千の部隊で、まことに近々と陣をしいているではないか。 謙信は強敵、対等の兵力であってさえ危い合戦だというのに、信玄公は八千、謙信 は、一万三千である。たとえ勝利できたとしても、味方には多くの討死が出るであろう と、武田方の人びとが考えたのも当然であった。 信玄公に、信州侍の浦野という武勇すぐれた武士を召されて、斥候に出された。 浦野は見て戻り、御前にかしこまって「輝虎は退きました」と申しあげる。信玄公は 判断力にすぐれた大将であるだけに、「謙信ほどの者が、宵から川を越し、そこで夜を 明かしていながら 空Lく引き取ることがあろうか。では、退き方はどのようであった か」とおききになった。 浦野は、「謙信は、味方の陣を辻回しては前にふさがり、幾度もそのようにしなが ら、犀川のほうへと向かってまいりました」と申しあげる。 信玄公はこれを聞かれて、「なんと、浦野らしくもないことを申すではないか。それ は車がかりといって、いくまわり目かに、わが旗本と敵の旗本とを打ち合わせ、合戦を するための戦術である。謙信はきょうを限りと覚悟の見えた」と仰せられて、陣を立て 直された。 謙信は、甘糟近江守という剛勇の侍大将の雑兵とも千人の部隊をはるか後方に置き、 二千の兵を持つ直江という侍大将に小荷駄奉行を申しつけ、白らは一万の軍勢を指揮し て、柿埼という侍大将を先鋒に、第二陣に輝虎が立ち、旗を傾けて無二無三に攻めかか り、一気に合戦を始めた。 その問に、謙信の旗本の一隊は、信玄公の備の右側にまわり、義信公の旗本五十騎、 雑兵四百あまりの部隊を追い立てて、信玄公の旗本めがけて斬りかかる。 敵味方合わせて三千六、七百の軍兵が入り乱れ、突きつ突かれつ、斬りつ斬られつ、 互いに鎧の肩をつかみ合って、組み合って転ぶもの、頸を取って立ちあがるもの、その 頸はわが主人のものと名乗って槍で突きふせるもの、それを見ては、またそれを斬りふ せるものという有様、甲州勢も目の前の戦いにまぎれて、信玄公がどこにおられるかも わからず、また越後勢もそのとおりであった。 このとき、萌黄色の胴肩衣を着た武者が白手拭で頭を包み、月毛の馬に乗って、三尺 ほどの刀を抜身に持ち、信玄公が牀机の上におられるところへ、真一文字に乗りよせ て、三太刀切りかかったが、その切っ先ははずれ、仁文公は軍配団扇でこれを受け止め られた。あとで見たところ、団扇に八カ所の刀傷があった。 さて、ご中間頭、二十人衆頭など二十騎は、いずれも剛勇の武者たちだったので、奮 戦しながら信玄公を敵味方からわからぬように取りかこみ、近寄ろうとする者を斬り払 う。そのとき、ご中間頭の原大隅が、青貝の柄のお槍をとって、月毛の鱒に乗った萌黄 緞子の胴肩衣を着た武者を突いたが、突き損したため、鎧の肩をめがけて打ったとこ ろ、鎧の背をたたいたため、馬は竿立ちになって走り去っていった。 あとで聞けば、この武者こそ輝虎であったという。 信玄公卿旗本組のうち、飯富三郎兵衛の部隊は、越後方先鋒第一陣の柿崎隊を追い崩 し、三町ほども迫撃する。穴山殿の部隊も、謙信勢の,柴田隊を四町ほと迫撃する。 信玄公はお中間頭二十人のほかは、土屋平八、直田喜兵衛ら、十七、八のお小姓たちだ けを従えられて、本営の御牀机のところから少しもお立退きにならなかった。 だが、甲州勢のそのほかの九部隊は、太郎義信公の隊をはじめすべて敗れ、千曲川の 広瀬の渡しに向けて追撃されつゝ退いていった。なかでも、典厩信繁殿討死、諾角豊後 守討死、旗本足軽大将の中では山本勘助入道道鬼、初鹿源五郎の両人が討死、信玄公も お腕に二カ所の軽傷を負われ、太郎義信公も二カ所の負傷をされた。 かくしての合戦は、ほとんど信玄公のお負けかと見えたところへ、西条山に向かって いた先鋒の十隊が謙信に出しぬかれ、鉄砲の音、ときの声を聞いて、われがちに千曲川 を越して、越後勢の後方から攻めかかり、追撃戦を開始した。 さすがの謙信も、和田喜兵衛という侍ただ一人をつれ、名高い放生月毛の馬をも放し て、家老の乗りかえ馬に乗り、主従わずか二騎、高梨山をめざして退かれた。 典厩殿のお頸は、ご家来の山寺という武士が敵方から奪い返し、しかもその相手を討 ちとめて、典厭殿のお頸にそえて持ち帰った。諸角豊後の頸は、諸角輩下の石黒五郎兵 衛と三河牢人の成瀬という武士の両人で取り返し、越後方の頸を取って戻ってきた。 この合戦は、卯の刻に始まった前半は、ほぼ越後輝虎方の勝利、巳の刻に始まった後 半は信玄公のご勝利であった。越後勢を討ち取った数は雑兵ともに三千百十七、その頸 帳をしたためて、同日申の刻(午後三時ごろ)にかちどきをちげられた。お太刀持ちは 馬場民部助、弓矢取りは信州侍の諸賀であった。 永禄四年辛西九日十日、信州川中島合戦とはこのことである。 この合戦以後、輝虎は信州に侵攻しなくなった。すでに諏訪頼重、伊奈の人びと、木 曽義康は降参、深志の小笠原長時と葛尾の村上義清に輝虎が加わって年々の戦いがあっ たのだが、合わせて二十四年にして、ようやく信州は平定された。 信玄公の合戦ぶりは、信州の諸勢との戦いによって巧妙,になられたのである。以上。 (後略)(品第三十二) 市河氏について 江戸時代の地図から、越後と信濃の道を探る。 江戸時代の絵図から信濃国と越後国を結ぶ道4方向、 野尻湖の東岸と西岸を抜ける道が二本。 千曲川の東に十日町(新潟県)へ抜ける道。 飯山から千曲川の西に十日町へ抜ける道。 と、 飯山から富倉峠や関田峠をはじめとした鍋倉山周辺を越える間道が5本 小谷から糸魚川に抜ける道が二本。 越後へ抜ける道でもっとも主要なのは、飯山を経由して鍋倉山付近を越えていく道筋と、野尻湖の道筋であったことになり、飯山と野尻湖という地が交通上、越後国防上必要不可欠な道であった。 武田晴信 天文二十二年(1553)、村上領を制圧して善光寺平へ進出した。 村上義清 越後国へ逃れて長尾景虎へ救援を求めました。 信濃豪族 残された北方を領する信濃の豪族達武田に就くか、隣国の長尾景虎に就くかを迫られました。 長尾景虎 北信濃の豪族達に救援を請われた長尾景虎は、天文二十二年から弘治三年までの五年間に三度信濃へ出陣し、延べ一年間近くも滞陣しました。 武田晴信 武田晴信に飯山と野尻湖を占領されると、幾つものルートで越後へ入られ、景虎の居城である春日山城やその城下町へは約三十五キロメートルの距離なので、武田軍は何もなければ一日もかからず到達できる。 長尾景虎 救援を請う豪族を保護することにする。様々な状況から該当地域武将たちは結局次のような選択をしました。 武将の選択 武田軍 高井郡の市河氏、木島氏(木島平村)、井上氏(須坂市)等、 長尾軍 岩井氏(中野市)、安田氏、東条氏、井上氏、須田氏、嶋津氏、高梨氏等 武田晴信 武田 飯富兵部少輔虎昌 塩田城(上田市) 武田晴信は北信濃への取り掛かりとして、飯富兵部少輔虎昌を佐久、上田、深志、諏訪の四方を結ぶ重要な拠点である塩田城(上田市)におきました。飯富虎昌は長男の武田義信の守り役も務める信玄にとって信頼を寄せる重臣で、塩田において北信濃の調略や作戦の指揮、善光寺平への兵站線の指揮をしました。 長尾 高梨政頼 ☆高梨政頼 弘治三年(1557)、中野(中野市)を中心に一帯を支配していた高梨政頼は、飯富の調略などによる相次ぐ裏切りと、攻撃に耐えきれず、中野を放棄して水内郡の飯山へ退却しました。 政頼など北信濃の豪族達は飯山を死守、長尾景虎へ救援を依頼するが、景虎は出陣しませんでした ☆高梨政頼 高梨政頼は「持ち堪えられず、飯山を放棄するしかない」と書状に書いて景虎を脅しました。 ☆長尾景虎 和議により定めた境界を侵して葛山城を落とした武田晴信を許すことができず、翌年の弘治四年(1558)=永禄元年春、長尾景虎は越後をようやく出陣し、 山田城(高山村)、福島城(須坂市)を落とし、武田軍と睨み合いながら善光寺平を臨む旭山城(長野市)を再築しました。 この時、高梨政頼は裏切った野沢(野沢温泉村)の市河氏を説得しましたが、うまくいきませんでした。 武田と上杉が戦っている最中、京都の将軍家は各地の武将に上洛するように要請しました。 長尾景虎はこれに応じることにし、 将軍足利義輝は武田晴信に上杉を攻めないように要請し、 晴信もそれに応じる返答書を出しました。これによって永禄2年(1559)長尾景虎は5千の軍を率いて上洛をし、関東管領に任命されました。しかし、上洛中にも武田晴信は、自分が前年に信濃守に任命されたので北信濃を領する権利があるとして侵入しました。下のような古文書が残っています。 この古文書は、征夷大将軍足利義輝が大館上総介晴光を使者として長尾景虎に与えたものになります。内容は、武田と上杉の和議の事について、武田晴信に度々伝えているが命令を聞かない。さらに上杉の国境を侵して乱入していると聞いた。しからば信濃国の諸侍の事は戦闘の途中なので、その始末を長尾景虎のやりたいように任せると書いてあります。 そして上杉政虎(永禄3年改名)が小田原の北条を攻めている最中の永禄4年(1561武田軍は黒姫山と飯縄山の間に道を切り開いて割ケ嶽城を攻撃し、初めて野尻湖まで侵入しました。これによって上杉政虎は、遂に許し難しと決着を付ける覚悟を固めました。有名な第4次川中島の開戦です。『上杉年譜』によると、上杉軍の先鋒には村上、高梨、島津、井上、須田と北信濃の豪族達が書かれています。彼等のこの戦にかける意気込みは相当のものだったでしょう。上杉軍は武田のキツツキ戦法を逆手にとって、妻女山を暗いうちに下り、川向こうで待つ武田信玄の本陣へ向かいました。その時この信濃先鋒衆は、妻女山から信玄を救おうと追ってくる別働隊を迎え撃つために、山裾に陣を張ったと云われています(高速道路の松代SA付近)。 甲越一和の事、晴信に対し度々下知を加ふると雖も同心なし、結句分国境目に至って乱入の由、是非なく候、然らば信濃国諸侍の事、弓矢なかばの由に候間、始末景虎意見を加ふべきの段肝要に候、なほ晴光申すべく候なり。 六月廿六日 長尾弾正少弼とのへ (足利義輝花押) 山本管助の名が記載されている先の古文書は、ちょうどこの頃のものになります。文には野沢を守る市河藤若を長尾軍が攻撃したが守りが固く飯山へ引き上げていったとあります。そして、これ以後は武田晴信へいちいち救援依頼するのではなく、塩田の飯富に出陣するように言ってあるので、そちらに依頼するようにと述べています。野沢には野沢城がありましたが、それは今の温泉街のある所で、館のようなものでした。とても堅固で落とせなかったものとは思えないような城です。周辺にはその他、西浦城、平林城が千曲川沿にありました。この頃の武田晴信から市河氏への古文書に、新しい城にて立て籠もるようにとの命令が残っているので、どちらかの武田が築城した城に籠城したのかもしれません。倉賀野(群馬県高崎市)の文字が出てきますが、永禄2年(1559)秋、武田信玄(永禄2年改名)は上野国へ出陣しているので、年代としてはこの年ではないかと推測されます(文には「景虎」が攻めたとありますが、本人ではないと考えています)。この時に野沢まで出向いて市河藤若の戦功をねぎらった使者が山本管助であったというわけです。翌々年の9月10日第4次川中島の戦いで山本管助は討死しました。 武田晴信は、長尾景虎との対決と飯山を攻略するのに塩田から善光寺平までは距離があるので、真田幸隆が落とした雨飾城(尼厳とも、長野市)を廃して麓に拠点を築くことにしました。永禄3年にほぼ完成させた海津城(かいづじょう)です。さらに前線への拠点として永禄11年長沼城(長野市)も完成させました。これら前線の城には伊那の箕輪衆、坂西氏、佐久の北方衆などの信濃の降伏した者達にあたらせました。 一方、長尾景虎も数年にわたる武田晴信との戦闘において、飯山の守備を信濃の豪族にあたらせました。現存している史料から守備していたのは上倉下総守、奈良沢民部少輔、上堺彦六、泉弥七郎、尾崎三郎左衛門、中曾根筑前守、今清水源花丸、岩井備中守らでした。どのような防御網を敷いていたのか不明ですが、飯山に侵入するには対岸から千曲川を渡ってくるか、替佐方面(中野市)しかないので、この方面の防備を固めていたものと思われます。また、野尻湖へ向かう道は、大倉城や矢筒城などによって野尻湖南の防御網を島津氏が守っていました。彼等には信濃国に殆ど領地が無いので、高梨をはじめ越後国に知行所を与えられて忠義に励んでいました。そして当時の飯山は、江戸時代のような城下町が整備されていたわけではなく、千曲川河畔に泉弥七郎の館があるだけの小村落にすぎませんでした。景虎はこれを補強して永禄7年(6年ともある)飯山城を完成させ、家臣の桃井義孝と加地春綱を援軍(飯山城代)として2之郭に配備しました。 これら戦国時代の城は信濃に無数ありました。城跡の発掘調査などをすると決まって出土するものがあります。石臼、硯、砥石、鉄釘、銅銭、かわらけ、内耳鍋、中国産の青磁・白磁・青花、常滑焼の甕、瀬戸焼の天目茶碗、黄瀬戸の器になります。特に多いのが「かわらけ」で、酒などを飲む時の杯に使用されました。主に手で練ったいわゆる土器で、直径10cm前後で、高さ2cmぐらいのものになります。その数は多い城で数千点にのぼります 市河氏の出自に関しては、米沢上杉藩士の記録である『米府鹿子』に見える市川氏は「滋野氏・本領信濃」と記されている。一方で、平安時代に越後に勢力を持っていた桓武平氏城氏の流れともいい、戦国時代の信房は藤原姓を称している。いずれにしろ、市河氏の出自は不明としかいいようがない。 鎌倉中期の文永九年(1272)、市河重房は中野忠能の一人娘を後妻とし子の無かった忠能に先妻の子盛房を養子として入れた。その後、重房は盛房と共謀して、忠能のもうひとりの養子である中野仲能、広田為泰らと激しい相続争いを繰り返した。そして順次志久見郷を蚕食してついにはその全域を掌握した市河氏は中野氏を被官化し、名実ともに志久見郷の地頭職として志久見郷の実権を掌握した。 かくして、志久見郷を本拠とした市河氏は南北朝・室町時代には各地に転戦し、それらの戦功により勢力を拡大していったのである。 ●南北朝の争乱 鎌倉末期から南北朝の当主は盛房の子助房で、元弘三年(1333)新田義貞が東上野笠懸野で挙兵したとき越後の新田一族は義貞に呼応して義貞の陣に急行したが、市河助房は情勢を傍観、一ヶ月後に至ってやっと陣代として弟経房らを参陣させている。そして、建武の新政が成立すると足利尊氏のもとへ参陣した。 建武の新政がなったとはいえ、信濃は北条氏が長く守護をつとめていた関係から北条氏の勢力が強く、不穏な気配が濃厚であった。建武二年(1335)諏訪氏に匿われていた北条高時の遺児時行が挙兵し、鎌倉に攻め上った。「中先代の乱」であり、この乱にくみした水内郡常岩御牧北条の弥六宗家らを討伐するため、善光寺・府中の浅間宿を転戦し、それが機縁となって信濃守護の小笠原氏に属するようになった。 その後、北条方、南朝方として守護小笠原氏に対抗する諏訪・滋野氏一族らに対し守護方として船山郷青沼・八幡原・篠井四宮河原などで戦っている。この間、惣領助房を助けて一族の倫房・経助・助保らが守護方として活躍、倫房・助保父子は建武二年望月城を攻略し、東筑摩郡・諏訪方面各所を転戦した。堀川中納言光継を信濃国司として迎えたとき、横河城で戦功をたて軍忠状をえている。このように南北朝の内乱において市河一族は、惣領助房とともに守護小笠原氏貞宗に属し武家方として活躍した。 助房は実子が生まれなかったため、一族の経高を養子としたが、のちに頼房が生まれたため、所領のうち志久見郷の惣領職、備前国の私領を頼房に譲り、志久見郷内の平林村を経高に譲る旨の譲状を作成している。また、このころの市河氏は国中平(くむちぬけ)神社のある場所に居館を構え、西浦城を詰めの城としていたようだ、そして、一族を志久見郷内に配して南方方面からの敵に備えている。 やがて、足利尊氏と弟直義の不和から観応の擾乱が起ると、市河氏は越後守護上杉氏に属し直義方として行動した。擾乱のなか政局は複雑に推移し市河氏ははからずも南朝方に属するということもあり、尊氏方の守護小笠原氏とも対立した。直義が尊氏に敗れて急死したことで乱は終熄したが、越後の上杉氏らは南朝方に通じて尊氏方に抵抗を続け、市河氏も上杉氏と行動をともにした。そのころ、下高井郡の高梨氏が中野氏を駆逐して北方に進出、正平十一年(1356)、市河氏は上杉氏の支援を得て高梨氏の軍をうちやぶっている。その後、上杉氏が尊氏方に帰順したことで、市河氏も守護小笠原長基に降伏し武家方に転じた。 ●大塔合戦 応安元年(貞治七年=1368)二月、関東において河越氏を中心とする平一揆が起った。頼房は信濃守護職上杉朝房に属して出陣、武蔵河越、下野横田・贄木、さらに宇都宮まで転戦し、宇都宮城攻めにおいて左肩・右肘を射られ負傷したという。 その後、応安三年(1370)には常岩御牧南条の五ヶ村を兵糧料所として預かり、永和元年(1375)、上杉朝房から本領を安堵された。その後、信濃守護職に任ぜられた斯波義種から所領を安堵され、守護代の二宮氏泰、守護斯波義将からも安堵・下知・預領・感状を受けている。 至徳四年(1387)、村上氏を盟主とする反守護の国人らが守護所に攻め寄せたとき、頼房は守護代二宮是随に属して村上方と戦った。そして、応永六年(1399)に至って斯波氏に替わって、小笠原長秀が信濃守護職に補任された。翌年、京都から信濃に入部した長秀は、善光寺に守護所を定めると信濃一国の成敗に着手した。しかし、長秀の施策は国人の反発をかい、ついに国人は村上満信・大文字一揆を中心とした北信の国人衆が武力蜂起を起こした。 世に「大塔合戦」といわれる戦いで、市河刑部大輔入道興仙(頼房)は甥の市河六郎頼重らとともに守護方に属して出陣した。両勢力は川中島で激突し、戦いは守護方の散々な敗北に終わり、京都に逃げ帰った小笠原長秀は守護職を解任されてしまった。この合戦に守護方として戦い敗れた市河氏は、戦後、国人衆らに領地を押領されるなどの乱暴を受けている。 高梨氏らと同様に北信の国人領主である市河氏が守護方に付いたのは、高梨氏と対立していたことが背景にあり、両者の対立は戦国時代まで続いている。また、北信の山岳武士である市河氏は、権力を尊ぶ気持ちも強かったようだ。以後、市河氏は一貫して守護方として行動し、管領細川氏から感状を受ける等幕府からもなみなみならぬ信頼を受けていたことが知られている。 ところで、南北朝時代のはじめより関東には鎌倉府がおかれ、幕府から関東八州の統治を任せられていた。その主は鎌倉公方と呼ばれ、代々足利尊氏の三男基氏の子孫が世襲したが、代を重ねるごとに幕府との対立姿勢が目立つようになってきた。 ●関東の戦乱 室町時代になると、関東では上杉禅秀の乱、佐竹氏の乱、小栗の乱と戦乱が続いた。その背景には、鎌倉公方持氏の恣意的な行動と鎌倉府と幕府との対立があった。禅秀の乱後、持氏は禅秀党の討伐に東奔西走したが、その結果、公方の専制体制が強化されることになった。それに危惧を抱いた幕府は佐竹山入・宇都宮・真壁・小栗の諸氏を「幕府扶持衆」とし、禅秀の遺児らを任用して持氏を監視させた。これに反発した持氏は、小栗氏ら幕府扶持衆の諸氏の討伐を始めたのである。 幕府はこのような持氏の行動を怒り鎌倉を征しようとしたが、持氏が陳謝したことで合戦は避けられた。その結果、幕府は山入祐義を常陸の半国守護に、甲斐の守護には持氏の推す逸見氏を斥けて武田信重を任じるなどして持氏の行動に掣肘を加えた。 しかし、持氏の暴走は止まらず、結局、永享十年(1438)、管領上杉憲実との対立が引き金となって幕府と武力衝突するに至った。いわゆる永享の乱であり、敗れた持氏は自害、鎌倉府は滅亡した。 この一連の関東争乱のなかで、応永二十九年(1422)の「小栗の乱」に際して、市河新次郎が幕府の命を受けた小笠原氏とともに関東に出征したことが「市河文書」から知られる。そして、この常陸出陣を最後に市河氏の動向は戦国時代に至るまでようとして不明となるのである。永享の乱後の結城合戦において、信濃武士が小笠原政康に率いられて出陣したが、そのときの記録である「結城陣番帳」にも市河氏の名は見えない。 とはいえ、その間も市河氏が北信の領主として一定の勢力を維持していたことは、諏訪神社上社の重要祭事の御符入の礼銭、頭役銭を注記した記録『諏訪御符礼之古書(すわみふれいのこしょ)』からうかがえる。 諏訪神社は信濃の一宮として信濃全国に奉仕氏人をもち、この氏人のいる村々は諏訪祭礼の世話役を順番につとめることになっていて、その世話役を頭役といった。しかし、世話役をつとめることは容易なことではなく、費用も莫大な額に上った。そして、この頭役を宝徳四年(1452)から長享二年(1488)までの三十七年間のうち、市河氏が七度にわたってつとめたことが御符礼之古書に記録されている。 一方、このころ市河氏は東大滝に分家を出したといわれ、その家は大滝土佐守を称し戦国時代に至っている。また「栄村史」では、御符礼古書の時代における市河氏の領地は高梨氏などから侵略を受け、志久見郷に押し込められていたのではないかと推察している。 ●越後の争乱と市河氏 市河氏の動向が知られるようになるのは、越後の内乱である「永正の乱」においてである。市河氏の領地は越後との国境に近いことから、越後に争乱が起きるとその影響を受けざるを得なかった。そういう意味では、越後上杉氏の活動に従うことも多かったと思われ、関東の戦乱に越後守護上杉氏が出陣したとき市河氏も出陣したかと思われるが、先述のように記録が残されていないので確かなことは分からない。 越後守護上杉氏は関東公方と管領上杉氏の対立から起った享徳の乱において、関東管領職を継いだ次男顕定を援けて大活躍した房定の時代が全盛期であった。その子房能も凡庸ではなかったが、尊大で気位が高く関東の戦乱に出陣して窮乏のなかにある国人たちの苦労を省みることもなかった。その房能を補佐していたのが守護代長尾能景であったが、永正三年(1506)房能の命で越中に出陣した能景は戦死し、そのあとを為景が継いだ。為景は剛勇不遜な人物で、やがて守護房能と対立するようになり、翌永正四年、房能の養子定実を擁してクーデタを起した。敗れた房能は兄が管領をつとめる関東に逃れようとしたが、為景勢に追撃され松山郷天水峠で自害した。 弟の死を知った関東管領顕定は弟の仇を討つとともに越後の領地を確保するため、永正六年、養子憲房を越後妻有庄にに先発させた。対する為景=定実方は、長尾景長・中条藤資・斎藤・毛利・宇佐美らを出撃させた。これに信濃衆の高梨摂津守・市河甲斐守らが加わって、市河氏の領地である志久見郷から妻有に攻め込み、憲房方の本庄・色部・八条・桃井らと戦ってこれを撃ち破った。その敗報に接した顕定は大軍を率いて上州から越後に攻め込み、為景=定実軍を破り越後を制圧した。為景らは越中に逃亡し、信濃衆の高梨・市河氏らはそれぞれの山城に立て籠る事態となった。 越後を制圧した顕定は為景=定実に与した国人たちに大弾圧を加え、容赦なく討ち滅ぼしたため越後国内には顕定を怨嗟する声が広がっていった。一方、越中に逃れていた為景らは佐渡に渡り態勢を整えなおすと越後に上陸、椎屋の戦いに勝利すると顕定の拠る府内に攻め寄せた。顕定はこれを迎え撃とうとしたが、これまでの圧政から越後国人で味方に参じる者は少なく、ついに兵をまとめて関東へ兵を返した。為景勢はこれを急追し、長森原において顕定勢をとらえ、合戦のすえに高梨政盛が顕定を討ち取った。この合戦には市河氏も参加したと思われるが、それに関する史料がないので詳細は不明である。 こうして、市河氏の領する志久見郷と国境を接する越後の争乱は為景=定実方の勝利に終わった。しかし、その内実は定実を擁した為景の下剋上であり、ほどなく為景と定実との対立が生じると越後は内乱状態となった。 ●武田氏の信濃侵攻 ところで、戦国乱世にあって市河氏は知られる限り侵略的な戦争はしていなかったようだが、松之山四ケ郷を侵略していたことが、天文九年(1540)長尾景重が板屋藤九郎に与えた感状から知られる。すなわち、板屋藤九郎が市河氏に奪われていた松之山四ケ郷を奪い返したことに長尾景重が感状を与えたものである。おそらく市河氏は、先の越後の永正の乱の混乱に乗じて松之山四ケ郷を奪い取ったが、のちに奪い返されたものであろう。ほとんど侵略戦争をしなかったとはいえ、市河氏も戦国時代を生きる国人領主であったことを示している。 天文十年、甲斐の戦国大名武田信虎が嫡男の晴信によって駿河に逐われ、晴信が武田家の当主となった。以後、信濃は武田晴信(のち出家して信玄)の侵略にさらされることになる。天文十一年、晴信は大軍を率いて諏訪に侵攻し諏訪頼重を捕らえて甲府に送ると自害させ、諏訪氏は滅亡した。ついで、天文十六年には佐久を平定し、翌年には小県郡に進出した。そして、北信の強豪村上義清と上田原で激突したが、義清の奮戦で武田方は板垣信形・初鹿野伝左衛門らを討たれる敗北を喫した。 武田氏の敗北に乗じた小笠原長時は、ただちに諏訪に攻め込んだが、晴信の出陣を聞いて塩尻に退いて武田軍を迎え撃った。ところが、小笠原勢から武田勢に寝返る者が出たため長時方は敗れ、武田軍は敗走する小笠原氏を追撃して筑摩郡を制圧した。翌年には長時をその本城から追い払い、諏訪・佐久・筑摩・安曇郡を掌中に収めたのである。 天文十九年夏、晴信は改めて小県に軍を進め村上義清方の砥石城を攻撃せんとした。これに対する村上方は、山田・吾妻・矢沢らが城を守り、義清は精兵六千を率いて後詰めに出陣し、武田・村上の両軍は激戦となった。戦いは七日にわたって続いたといわれ、結果は横田備中・小沢式部らを討たれた武田軍の敗戦となった。村上義清は強勢の武田軍を相手によく戦ったといえよう。 ところが、翌年五月、突然、砥石城が落城した。これは、武田方の真田幸隆の謀略によるもので、村上勢を追い払った幸隆が砥石城代となった。そして、翌年七月、武田軍は村上義清の立て籠る塩田城に攻め寄せ、ついに義清は越後の長尾景虎を恃んで信濃から落ちていった。かくして、武田晴信は信濃をほぼ制圧下においたのであった。 ●武田氏に属す このころ、市河氏はどうしていたのだろう。 市河氏は越後の争乱に際して長尾方として行動していたが、長尾氏との関係を背景とした高梨氏の勢力拡大によって近隣の諸領主は滅ぼされ、あるいは降服し、高梨氏の勢力は市河氏領にも及んできた。ついには。小菅神社領を緩衝地帯として高梨氏との争いを続けていたようだが、状況は市河氏に不利であった。 武田氏が北信濃に勢力を及ぼしてくると、市河氏が武田氏に款を通じたのもこのような背景があったからである。また、晴信は長尾氏家中に調略の手を伸ばし、大熊朝秀がそれに応じて景虎に反抗した。このとき市川孫三郎信処も晴信に応じたようで、晴信の兵は村上方の葛山城を落し、高梨氏の本城である中野城にまで迫ろうとした。そのおゆな弘治二年(1556)、武田晴信は市川孫三郎に対して高梨領安田遺跡を与える事を約束している。 一方、領地を武田氏に逐われた村上・高梨氏らは、越後の長尾景虎の援助をえて失地回復を図ろうとした。景虎も北信濃が武田氏に侵略されることは、直接国境を接することになり、捨ててはおけない一大事であった。こうして、景虎は北信の諸将を援けて武田晴信と信濃川中島において対決することになったのである。 景虎が川中島に初めて馬を進めたのは、天文二十二年(1551)といわれている。以後、川中島の合戦は五度に渡って戦われた。そのなかでも最も激戦となったのが、永禄四年(1561)九月の戦いであった。永禄四年の戦いは、謙信と信玄とが一騎打を行ったといわれ、戦国合戦史に残る有名な戦いだが勝敗は五分と五分であったようだ。その後も、信玄は信濃侵略の手をゆるめず、永禄六年には上倉城を攻略、翌年には野尻城を攻め落とした。このため、謙信は川中島に進出して信玄と対陣したが、決戦いはいたらなかった。 その後、川中島地方は信玄にほとんど攻略されたが、武田氏に属する市川氏は上杉方に攻撃されて志久見郷から逃れるということもあったようだ。しかし、小笠原・村上・高梨氏ら信濃諸将の旧領復帰はならず、信濃は信玄が治めるところとなった。その結果、武田氏に通じていた市川氏らは旧領に帰ることができた。信玄が市川新六郎に宛てた文書によれば、市川新六郎は前の通り知行を安堵されるとともに、妻有のうちに旧領の外三郷を与えられたことが知られる。また、市川氏の領地が上杉領と接していることから、城内は昼夜用心せよ、普請も油断なくせよ、濫に土地の人を城内に入れるなとか、さまざまな注意を書き連ねた制札を与えられている。 ●時代の転換 元亀三年(1572)、信玄はかねてよりの念願である上洛の兵を発した。そして、三河国三方ケ原で徳川・織田連合軍を一蹴し、天正元年(1573)には野田城を攻め落した。ところが、このころ病となり静養につとめたが、ついに軍を甲斐に帰すことに決し、その途中の信州駒場において死去した。武田氏の家督は勝頼が継いだが、天正三年、織田・徳川連合軍と長篠で戦い壊滅的な敗戦を被り、馬場・原・山県ら信玄以来の宿将・老臣を失った。以後、武田氏は衰退の一途をたどり、ついに天正十年、織田軍の甲斐侵攻によって滅亡した。 一方、上杉謙信は信玄の死後は信濃に侵攻することもなく、関東・越中方面の攻略に忙しかった。そして、天正六年三月、関東への陣触れをした直後に急病となり、帰らぬ人となった。謙信には実子が無かったため、二人の養子景勝と景虎が謙信後の家督をめぐって内乱となった。この内乱に際して、一方の景勝は景虎方に味方する武田勝頼と和議を結び、翌七年、景虎を御館に破って上杉氏の家督を継いだ。このときの和議によって、飯山地方は武田領となり、以前から武田氏に属していた市川氏や分家の大滝土佐守らは勝頼から所領安堵を受けている。 さて天正十年に武田氏を滅ぼした信長は旧武田領を配下の部将に分け与え、川中島四郡は森長可が与えられ長可は海津城に入った。この事態の変化に際し、市川氏は森氏に従って飯山城を守った。川中島四郡の領主となった森氏は越後の上杉景勝を攻撃するために出陣し、春日山城に迫る勢いであった。ところが、六月、織田信長が明智光秀の謀叛によって本能寺で死去したため、またもや時代は大きく転回することになる。 本能寺の変によって、森長可は上方へ去っていった。市川氏はただちに飯山城を開城して上杉景勝に降り、川中島四郡の諸将士も上杉方に転じ、村上・井上・高梨・須田・島津氏らが旧領に復帰してきた。その後、飯山城には岩井備中守が城代として入った。 ●戦国時代の終焉 織田信長が死去したのちの信濃は上杉・徳川・後北条氏の草刈り場となった。家康は真田昌幸をして海津城の屋代越中守を上杉方から離反させて北信に進出しようとし、みずからは甲府に出張した。これを聞いた景勝は岩井備中守に出陣する旨を連絡し、市川信房にも知らせた。これに対して信房は家康はまだ甲府におり、あわてることはないでしょうと返事をしている。そして、屋代のように家康に通じる者も出たが、川中島四郡は上杉方によって守られた。 本能寺の変後の中央政界では、羽柴秀吉が大きく台頭した。秀吉は本能寺の変を聞くとただちに中国から兵を返し、明智光秀を山崎の合戦に滅ぼし、ついで柴田勝家を賎ヶ岳に破ると北ノ庄に滅ぼした。ついで、大坂城を築いてそこを居城とした秀吉は、十二年には家康と長久手で戦い、翌年には四国を平定、ついで家康と和睦し、太政大臣に任じられて豊臣の姓を賜った。まさに目まぐるしい勢いで天下統一を押し進めていった。そして、天正十五年五月、島津氏を降して九州を平定、十八年七月には小田原北条氏を滅ぼし、奥州仕置によって奥州も平定して、ついに天下統一を実現したのである。ここにおいて、「応仁の乱」以来一世紀にわたって打ち続いた戦国時代は終わりを告げた。 徳川家康は後北条氏のあとを受けて関東の大大名となり、市川氏の属した上杉景勝も慶長三年(1598)、越後から会津百二十万石への転封を受けた。このとき、上杉氏の家臣団も景勝に従って会津に移ったが、市川氏もまた住み慣れた信濃の地から遠く会津の地へと移っていった。いまも、市川氏が支配した地域は市河谷と称されているが、その地を治めた市川氏は会津に去り、さらに関ヶ原合戦後に米沢に減封された景勝に従って米沢へと移っていった。 明治維新後の廃藩置県により禄を失った市川氏は、鎌倉以来の『市河文書』を携さえて北海道へ屯田兵として入植。そして、この市河文書のなかに、武田信玄の軍師といわれる山本勘助の記述があり、勘助が実在した人物であったことが知られたのは有名な話である。・2006年02月27日 【参考資料:栄村史/野沢温泉村史/中野市史/下高井郡史 ほか】 ■参考略系図 ・室町時代の歴代は、「諏訪御符礼古書」に記された市河氏の記述などをもとに復元、それぞれの続柄などは不明。 ところで、鎌倉期における市河氏の人物として、『東鑑』治承四年(1180)八月には市河別当行房が鎌倉方として見え、建仁二年(1202)~建暦二年(1212)条には市河別当五郎行重、承久元年(1219)条には市河左衛門尉祐光が見える。さらに、『東鑑』寛元二年(1244)八月条には市河掃部允高光法師(法名見西)見えることから、「行房―行光(またの名が定光。その弟行重)―祐光―高光」と続く系図が推定される。甲斐の市河高光が信濃国船山郷に領地をもっていたことから、信濃の市河一族も甲斐の同族と考えられるが、その関係を明らかにすることはできない。 長沼城は室町時代に島津氏がこの付近に移り住み、領主として館が築かれたものと思われる。 武田信玄が北信濃に侵攻してきて、対上杉との戦線が、 飯山城、野尻城へと北上すると、越後国境攻防用基地として再建工事が行われた。この再建は永禄11年(1568)馬場信房によるものとされ、城代として海津城から市川梅隠、原与左衛門が入ったという。 武田氏滅亡後も森長可、上杉景勝と入り、川中島四郡の支配に海津城と共に重要視された城である。 江戸時代になると長沼藩一万八千石として佐久間氏が入ったが、元禄元年(1688)に移封され、幕府の直轄領となり廃城になった。 【上】長沼城の碑 現在遺構は無いに等しい。千曲川を東側の要害とし、西側は現在の県道368号が旧堀跡の外周をコの字型に迂回しているという。碑は貞心寺の北東約80mの堤防沿いにあり、碑の背後の土盛りが本丸土塁の跡といわれる。平城であるが武家屋敷も総構えの中に取り込んでいた、海津城よりも古い形態を残した近世城郭への移行期の縄張りだったという。 「市河文書」は中世を通じて奥信濃(長野県下高井郡北部)に在地領主制をしいた豪族市河氏に伝えられた中野・市河両氏の古文書の総称である。「嘉応2年(1170)2月7日、平家某下文」を巻頭に、「永禄12年(1569)10月12日、武田信玄軍役徴発定書」までの、平安時代末から戦国時代末に及ぶ146通(16巻)は、信濃の根本資料であり鎌倉幕府下文・官宣旨・国宣・雑訴決断所牒・安堵状ほか、各種文書が含まれる。 2006年08月08日 市河文書 木島平村高石にある泉龍寺出入口付近のようす。この寺(曹洞宗)は市河信房によって創建(1582年5貫文寄進)されたもの。寺には市河信房の墓と言われる古い宝篋印塔があります。ちなみに私の父の菩提寺。参道は杉並木、高い石垣に囲まれていることもあり、この写真の付近から本堂を直接見ることはできません。これは城郭・城下町(長野市長沼等)などによく見られる見通しをはばむ防御の備えとなっているからです。 市河氏は南北朝時代新田義貞軍に加わって鎌倉を攻撃したほか足利尊氏軍にも参加。戦国時代は武田方に属し、信玄死後上杉景勝に従い、景勝会津移封により転出。この時の6700石は山浦(村上)氏の6500石よりも多く、信濃武士としては5番目(注)。重臣として上杉家にはなくてはならない存在だったようです。市河家の菩提寺は常慶院、長野県栄村と米沢市にあるのは移封するとき寺も一緒に移ったため。 また、大阪冬の陣鴫野表の戦いで市河房綱、大俣吉元等上杉軍が多数戦死。当時上杉家の重臣であった房綱の戦死は上杉景勝によって大きなショックだったことでしょう。上杉軍は大きな犠牲を払った功績もあって家名を存続できたのかもしれません。 市河氏を有名にしたのは国の重要文化財(戦前は国宝)に指定されている「市河文書」の存在。この文書(山形県酒田市の本間美術館保管)は1170年から1569年までの詳細な歴史資料が記述されています。 昭和44年、従来の市河文書(国重要文化財)のほかに北海道にも市河文書(欠落部分、釧路市指定有形文化財)の残されていることがニュースに。文献(中世信濃武士意外伝)によればNHK大河ドラマ「天と地と」放映時に市河氏末裔の方が公表。これにより初めて山本勘助?(山本管助)が実在したことを示す文書も含まれていたとのこと。それまで山本勘助は全くの架空の人物とされていたようですからわからないものです。ちなみに勘助の墓は長野市松代町柴の河川敷に存在(豊川市、富士市、韮崎市にも)、考えてみれば架空人物の墓まで造らないでしょうか。 猿飛佐助や霧隠才蔵にしても存在を示す新たな文書が発見されれば脚光をあびるかもしれません。 市河家に関する詳細(須田家等も)は下記サイトで紹介されています。 (注)木島平村誌によると1000石以上の知行諸士(同心分除く)は以下のとおり。 須田大炊介長義20,000石、清野助次郎長範11000石、栗田刑部小輔国時8500石、島津月下斎忠直7000石、市川左衛門尉房綱6700石、山浦村上源吾景国6500石、芋川越前親正6000石、岩井備中守信能6000石、春日右衛門元忠5000石、須田式部3270石、平林蔵人佑正垣3000石、香坂与三郎昌能2100石、井上隼人2100石、大岩新左衛門2000石、須田大学2000石、栗田主膳2000石、芋川縫殿親元2000石、保科善内1500石、夜交左近1500石、大室兵部1500石 なお、山梨県に市川氏があるため市河氏として表示しました。 「市河文書」は中世を通じて奥信濃(長野県下高井郡北部)に在地領主制をしいた豪族市河氏に伝えられた中野・市河両氏の古文書の総称である。「嘉応2年(1170)2月7日、平家某下文」を巻頭に、「永禄12年(1569)10月12日、武田信玄軍役徴発定書」までの、平安時代末から戦国時代末に及ぶ146通(16巻)は、信濃の根本資料であり鎌倉幕府下文・官宣旨・国宣・雑訴決断所牒・安堵状ほか、各種文書が含まれる貴重な武家文書である。戦前は国宝、戦後は重要文化財として指定された。 河中島五箇度合戦記より (作者不明) 第一回合戦 1、上杉謙信を頼った信州の武将 村上左衛門尉義清 信州五郡の領主村上左衛門尉義清は、清和源氏伊予守頼義の弟で、陸奥守頼清の子、白河院蔵人顕清が初めて信州に住むようになり、四代目の孫に当たる為国、その子基国の後胤。 高梨摂津守政頼 高梨摂津守政頼も、伊予守頼義の弟井上掃部(かもん)頭頼季三代の孫に当たる高梨七郎盛光の子孫。 井上河内守清政 高梨の一族。須田相模守親政も一家。 島津左京進親久 頼朝の子島津忠久の子孫。 上記の武将のほか多数の信州武将が、甲州武田信玄に敗れて、越後に落ちのび、長尾景虎(謙信)を頼って来た。中でも村上義清は、多年にわたり武田と戦っていたが、とうとう負けて、天文22年(1553)6月に越後に落ちのび、謙信の力を頼って、自分の領地坂本の城に復帰すると事が念願であった。 上杉謙信(長尾景虎) 謙信はこの年間2月初めて京都に上った。24歳の時である。これは、前の年の天文21年5月に将軍の使があって、謙信は弾正少弼従五位下(だんじようひようひつじゆごいのげ)に任ぜられた。このお礼に京都に上ったのである。謙信は京都御所に参り昇殿をゆるされ、後奈良天皇に拝謁し、天盃をいただいた心また将軍義輝公にお目見えして、種々親しいお言葉を賜り、五月に帰国したところに六月村上義清が武田晴信に追われ、謙信を頼りにした。その上高梨政頼、井上清政、須田親政、島津親久、栗田、清野などがそろって越後を頼り、助けを求めてきた。 天文21年10月12日、田浜で勢ぞろいをして信州に向かって出発した。 途中、武田側の武将の領地は焼き払い、自分の館の中に居て、刃向かいしない者の領地は処分せず、、11月1日に川中島に陣を取った。 武田晴信(信玄) 晴信も二万の兵をひきいて甲府を出陣した。同19日から両軍の間は四キロ足らずで毎日小競り合いを繰り返した。 上杉軍 27日に謙信から平賀宗助を使者にして、明日決戦をすることを申し送り、その備えを定め、夜のうちに人数を出した。 先手は長尾平八郎、安田掃部、長尾包四郎、元井日向守清光、同修理進弘景、青河十郎を左右備えた。 左の横槍は諏訪部次郎右衛門行朝、水間掃部頭利宣とし、奇兵は、長尾七郎景宗、臼杵包兵衛、田原左衛門尉盛頼。 二番手は小田切治部少輔勝貞、荒川伊豆守義遠、山本寺宮千代丸(後の庄蔵行長)、吉江松之助定俊、直江新五郎実綱と定めた。 後陣は長尾兵衛尉景盛、北条丹後守長国、斎藤八郎利朝、柿崎和泉守景家、宇佐美駿河守走行、大国修理亮などの面々を七手に分け、四十九備えとしてそれを一手のように組んで円陣を作り、28日の夜明を目処に一戦を始めた。 武田軍敗北 武田方も十四段構えに備え防戦し、敵味方ともに多くの負傷者、戦死者を出した。下米宮橋を中心として、追いつめ、押し返して、昼近くまで合戦の勝負はつかなかった。しかし、越後方は千曲川の橋から上流を乗り越え、武田勢の後方にまわったので、武田方は敗れ、横田源介、武田大坊、板垣三郎など戦死、また駿河から応援に来た朝比奈左京進、武田飛騨守、穴山相模守、半菅善四郎、栗田讃岐、染田三郎左衛門、帯兼刑部少輔など名のある人々を含んで甲州方の戦死者は五千余りにのぼった。上杉謙信は12月3日、京都公方に大館伊予守が戦の経過を注進する。これが謙信と信玄との戦いの始めである。 この頃、謙信は長尾弾正少弼と号していた。関東管領の上杉憲政は北条氏康に圧迫され、越後に内通し、管領職と上杉の姓、憲政の一字を下されたが、管領職は辞退し、謙信は景虎を改め政虎と名乗るようになった。これは天文23年(1554)春のことであった。 第二回合戦 天文23年8月初め、謙信は越後を発ち川中島に着き、丹波島に陣取った。越後留守居として、謙信の姉婿上条の城主の上条入道、山浦主水入道、山本寺伊予守、大国主水入道、黒金上野介、色部修理、片貝式部の七人にその勢力八千を残した。 上杉謙信 謙信は川中島に陣を張り、 先手は村上義清、二番手は川田対馬守、石川備後守房明、本庄弥次郎繁長、高梨源五郎頼治の四人。 後詰(ごづめ/応援)は柿崎和泉守景家、北条安芸守長朝、毛利上総介広俊、大関阿波守規益の四人である。 遊軍は、本庄美作守慶秀、斎藤下野守朝信、松川大隅守元長、中条越前守藤資、黒川備前為盛、新発田長敦、杉原壱岐守憲家、上条薩摩守、加地但馬守、鬼小島弥太郎、鬼山吉孫次郎、黒金治部、直江入道、山岸宮内、柏崎日向守、大崎筑前守高清、桃井讃岐守直近、唐崎左馬介、甘糟近江守、神藤出羽介、親光安田伯音守、長井丹後守尚光、烏山因幡守信貞、平賀志摩守頼経、飯盛摂津守、竹股筑後守春満など二十八備え、侍大将が二行に陣を張り、旗を進めた。宇佐美駿河守定行二千余、松本大学、松本内匠介千余は旗本脇備えである。 総軍の弓矢奉行をつとめるのは、謙信の姉婿に当たる上田政貴で、飯野景久、古志景信、刈和実景の4人は、みな長尾という同名で謙信の一門である。これで越後勢は合わせて八千である。犀川を越え、網島丹波島原の町に鶴翼の陣を取った。 武田軍 武田晴信も同15日に川中島を通って、海津城に入り、16日に人数を繰り出して、東向きに雁行に陣取った。先手は高坂弾正、布施大和守、落合伊勢守、小田切刑部、日向大蔵、室賀出羽介、馬場民部の七組で、七百の勢が先手に旗を立てて進んだ。 二番手には真田弾正忠幸隆、保科弾正、市川和泉守、清野常陸介の四人が二千の兵を率いて陣取る。 後詰は海野常陸介、望月石見守、栗田淡路守、矢代安芸守の四人で二千七百。遊軍は仁科上野介、須田相模守、根津山城守、井上伯音守の五人、四千の軍勢である。 これを二行立てに陣を張り、総弓矢奉行は武田左馬介信繁、小笠原若狭守長詮、板垣駿河守信澄の三人の備えとなった。 旗本の先頭は、飯富(おぶ)二郎兵衛昌景、阿止部(跡部)大炊介信春、七宮将監、大久保内膳、下島内匠、小山田主計、山本勘介、駒沢主祝の八人で、信玄の本陣の左右には、名家の侍の一条信濃守義宗と逸見山城守秀親(信玄の姉婿)が万事を取り仕切る。 その他、下山河内守、南部入道喜雲、飯尾入道浄賀、和賀尾入道、土屋伊勢、浜川入道の六人が二千の兵と陣を敷いた。 ところが日夜お互いに足軽を出して小競り合いをしたが、合戦にはならなかった。 上杉軍 天文23年8月18日の朝はやく、越後方から草刈りの者二、三十人出し、まだうす明かりの中から駆けまわる。それを見ていた甲州の先手の高坂(弾正)陣の足軽が百人ばかり出て、謙信方の草刈りを追いまわした。これは計略であったので、越後方から村上義清と高梨政頼の足軽大将である小室平九郎、安藤八郎兵衛ら二、三百人の者が夜のうちから道に潜んでいて、高坂の足軽を全部を討ち取った。これを見て、高坂弾正、落合伊勢守、布施山城守、室賀出羽介の陣から百騎あまりの者が大声を上げて上杉勢の足軽勢を追いたて、上杉方の先手の陣のそばまで押し寄せて来た。それを見計らって、義清、政頬の両方の軍兵一挙に出て、追い討ちをかけ、武田勢百騎を総て討ち取ってしまった。そのため、高坂、落合、小田切、布施、室賀などの守りが破れ、武田晴信の本陣まで退いていった。 武田軍 武田方は先手が負け、さらに追いたてられるのを見て、真田幸隆、保科弾正、清野常陸、市川和泉などが第二陣から出て、勢いで追いたてて一旦、上杉勢を追い返して、陣所の木戸口まで迫り、義清、政頼も危機を迎えた。 上杉軍 この時、二番手から越後方の川田対馬守、石川備後守、高梨源五郎の三隊、そのほか遊軍の中から、新発田尾張守その子因幡守、杉原壱岐守の五隊が二千ばかりの兵と、ときの声をあげて駆け出て、武田勢を追い散らして戦った。 そのうち、真田幸隆が傷を受けて退くところを、「上杉方の高梨頼治」と名乗って、真田にむんずと組んで押しふせ、鎧の脇のすきまを二太刀刺した。保科弾正はそれを見て、「真田を討たすな、者どもかかれ」と戦った。真田の家人細谷彦助が、高梨源五郎の草ずりの下をひざの上から打ち落した。つまり主人の仇を取った。これから保科を槍弾正と言うようになったという。保科もその時、越後方の大勢に取りこめられて、危なく見えたが、後詰の海野、望月、矢代、須田、井上、根津、河田、仁科の九人がこれを見て、保科を討たすな、と一度にときの声をあげて、追い散らした。 越後の本陣に近いところまで切りかかってきたところ、越後の後詰斎藤下野守朝信、柿崎和泉守景家、北条安芸守、毛利上総介、大関阿波守など三千あまりが切って出て追い返し、押しもどして戦った。この戦いで、敵も味方も、負傷者、戦死者を多く出し、その数は数えきれぬほどであった。 謙信は紺地に日の丸、白地に「毘」の字を書いた旗を二本立て、原の町に備えをととのえ、その合戦が続いた。そのうちに信玄は下して、犀川に太い綱を幾本も張り渡して、武田の旗本大勢がその綱にすがって向こう岸に上り、芦や雑草の茂った中の細道から、旗差物を伏せしのばせて出て、謙信の旗本にときの声を上げて、にわかに切り込んで来た。 そのため、謙信の旗本はいっぺんに敗れ、武田方は勝に乗じて追い討ちをかけて来た。 信玄は勇んで旗を進めたところに、大塚村に備えを立てていた越後方の宇佐美駿河守定行のひきいる二千ばかりの軍が、横槍に突きかかり、信玄を御幣川に追い入れた。そこに越後方の渡辺越中守が五百余騎で駆けつけ、信玄の旗本に切ってかかり、宇佐美の軍とはさみうちに討ち取った。武田勢は人も馬も川の水に流されたり、また討ち取られた者も数知れなかった。 そのうちに謙信の旗本も戻り、越後方上条弥五郎義清、長尾七郎、元井日向守、沼野掃部、小田切治部、北条丹後守などが信玄の旗本を討ち取った。その他、青川十郎、安田掃部などは御幣川に乗り込み、槍を合わせ太刀で戦い名を上げた。手柄の士も多かった。しかし討ち死にした者も数多かった。 信玄も三十ばかりの人数で川を渡って引き1げるところを、謙信は川の中に乗り込んで二太刀切りつけた。信玄も太刀を抜いて戦う時、武田の近習の侍が謙信を取り囲んだが、それを切り払った。しかし、なかなか近づけず、信玄も謙信も間が遠くへだてられた。その時、謙信に向かった武田の近習の士を十九人切った謙信の業は、とても人間の振る舞いとは思われず、ただ鬼神のようであったといわれる。謙信とはわからず、甲州方では越後の士荒川伊豆守であろうと噂されていた。後でそれが謙信とわかって、あの時討ち取るベきであったのに残念なことをした、とみなが言ったという。 信玄は御幣川を渡って、生萱山土口の方に向かい、先陣、後陣が一つになって負け戦であった。甲州勢は塩崎の方に逃れる者もあり、海津城に逃げ入った者もあった。 中条越前が兵糧などを警護していたところ、塩崎の百姓数千がそれを盗みに来たため、中条がこれを切り払った。このためまた、武田、上杉の両軍が入り乱れてさんざんに戦った。両軍に負傷者、死者が多く出た。信玄は戦に敗れて、戸口という山に退いた。上杉勢がこれを追いつめ、そこで甲州方数百を討ち取った。 信玄の弟、左馬介信繁が七十騎ばかりで、後詰の陣から来て、信玄が負傷したことを聞き、その仇を取ると言って戻って来た。その時、謙信は川の向こうにいた。左馬介は大声で、「そこに引き取り申されたのは、大将謙信と見える。自分は武田左馬介である。兄の仇ゆえ、引き返して勝負されたい」と呼びかけた。謙信は乗り戻って、「自分は謙信の家来の 甘糟近江守という者である。貴殿の敵には不足である」と言って、川岸に馬を寄せていた。 待っていた左馬介主従十一人が左右を見ると敵はただ一騎である。信繁も、「一騎で勝負をする、みな後に下っているよう」と真っ先に川に入るところを、謙信は川に馬を乗り入れ、左馬介と切り結んだ。左馬介は運が尽きて打ち落され、川に逆さまに落ち込んだ。謙信は向こうの岸に乗り上げ、宇佐美駿河守が七百余で備えている陣の中に駆け入った。一説に は武田左馬介信繁を討ち取った者は村上義清であるともいう。上杉家では、左馬介を討ち取ったのは、謙信自身であったと言い伝えている。甲州では信玄は二か所も深手を負い、信繁は討ち死にしたのである。板垣駿河守、小笠原若狭守も二か所、三か所の負傷で敗軍であった。 越後勢も旗本を切り崩されて敗軍したが、宇佐美駿河守、渡辺越中守が横槍に入り、信玄の旗本を崩したのに力を得て、甲州勢を追い返して、もとの陣に旗を立て、鶴翼の陣を張ることができた。 この時の戦は天文二十三年甲寅八月十八日。夜明けから一日中十七度の合戦があった。武田方二万六千のうち、負傷者千八百五十九人。戦死者三千二百十六人。越後方は負傷者千九百七十九人、戦死者三千百十七人であった。十七度の合戦のうち、十一度は謙信の勝、六度は信玄の勝であった。謙信は旗本を破られたが追い返して、もとの場所に陣を張ることができた。武田方は信玄が深手を負い、弟の左馬介戦死、板垣、小笠原なども負傷したため、陣を保てず、夜になって陣を解いて引き上げた。謙信も翌日陣を解き、十九日には善光寺に逗留して、負傷者を先に帰し、手柄を立て名を上げた軍兵に感状証文を出して、 二十日に善光寺を引き払い、越後に帰陣した。これが天文二十三年八月十八日の川中島合戦の次第である。 第三回合戦 弘治二年丙辰(一五五六) 三月、謙信、川中島に出陣、信玄も大軍で出向し陣を張った。日々物見の者を追いたて、草刈りを追い散らし、足軽の小競り合いがあった。 信玄のはかりごとでは、戸神山の中に信濃勢を忍び込ませて謙信の陣所の後にまわり、夜駆けにしてときの声を上げて、どっと切りかかれば、謙信は勝ち負けはともかくとして千曲川を越えて引き取るであろう。そこを川中島で待ち受けて討ち取ろうとして、保科弾正、市川和泉守、栗田淡路守、清野常陸介、海野常陸介、小田切刑部、布施大和守、川田伊賀守の十一人の、総勢六千余を戸神山の谷の際に押しまわし、信玄は二万八千の備えを立てて、先手合戦の始まるのを待った。先手十一隊は戸神山の谷際の道を通って、上杉陣の後にまわろうと急いだが、三月の二十五日の夜のことである。道は険しく、春霞は深く、 目の前もわからぬ程の闇夜で、山中に道に迷い、あちこちとさまよううちに、夜も明け方になってきた。 謙信は二十五日の夜に入って、信玄の陣中で兵糧を作る煙やかがり火が多く見られ、人馬の音の騒がしいのを知り、明朝合戦のことを察し、その夜の十時ごろに謙信はすっかり武装をととのえて八千あまりの軍兵で、千曲川を越えた。先陣は宇佐見駿河守定行、村上義清、高梨摂津守政頼、長尾越前守政景、甘糟備後守清長、金津新兵衛、色部修理、斎藤 下野守朝信、長尾遠江守藤景九組の四千五百。二番手に謙信の旗本が続いて、二十五日夜のうちに、信玄の本陣に一直線に切り込み、合戦を始めた。 信玄は思いもよらぬ油断をしていた時で、先手がどうしたかと首尾を待っていたところに越後の兵が切りかかった。 武田方の飯富兵部、内藤修理、武田刑部信賢、小笠原若狭守、一条六郎など防戦につとめた。しかし、越後方の斎藤、宇佐美、柿崎、山本寺、甘敷、色部などが一度にどっと突きかかったので、信玄の本陣は破れ、敗軍となった。その時板垣駿河守、飯富、一条など強者ぞろいが百騎ばかり引き返して、高梨政頼、長尾遠江守、直江大和守などの陣を追い 散らし、逃げるを追って進んで来るところを、村上義清、色部、柿崎などが、横から突きかかって板垣、一条などを追い討ちにした。小笠原若狭守、武田左衛門、穴山伊豆守など三百騎が、「味方を討たすな、者どもかかれ」 と大声で駆け入って来た。 越後方でも杉原壱岐守、片貝式部、中条越前、宇佐美、斎藤などが左右からこの武田勢を包囲して、大声で叫んで切りたてた。この乱戦で信玄方の大将分、板垣駿河守、小笠原若狭、一条など戦死、足軽大将の山本勘介、初鹿野源五郎、諸角豊後守も討ち死にした。 二十五日の夜四時ごろから翌二十六日の明け方まで、押し返し、押し戻し、三度の合戦で信玄は負けて敗軍となり、十二の備えも追いたてられ討たれた者は数知れなかった。 謙信が勝利を得られたところに、戸神山よりまわった武田の先手十一組、六千余が、川中島の鉄砲の音を聞き、謙信に出し抜かれたかと我先に千曲川を越え、ひとかたまりになって押し寄せた。信玄はこれに力を得て引き返し、越後勢をはさみうちに前後から攻め込んだ。前後に敵を受けた越後勢は、総敗軍と見えたが、新発田尾張守、本庄弥次郎が三百 余で、高坂弾正の守る本陣めがけて一直線に討ちかかり、四方に追い散らし、切り崩した。 上杉勢は一手になって犀川をめざして退いた。 武田勢は、これを見て、「越後の総軍が、この川を渡るところを逃さず討ち取れ」と命じ、われもわれもと甲州勢は追いかけて来た。上杉勢は、退くふりをして、車返しという法で、先手から、くるりと引きめぐらし、一度に引き返し、甲州勢の保科、川田、布施、小田切の軍を中に取りこめて、一人残らず討ち取ろうと攻めたてた。 信玄方の大将、河田伊賀、布施大和守を討ち取り、残りも大体討ち尽くすころ、後詰の栗田淡路、清野常陸介、根津山城守などが横から突いて出て、保科、小田切の軍を助けだした。越後の諸軍は先手を先頭にして隊をととのえて、静かに引きまとめ犀川を渡ろうとした。そこへ、信玄の先手、飯富三郎兵衛、内藤修理、七宮将監、跡部大炊、下島内匠、小山田主計などが追って来た。本庄美作、柿崎和泉、唐崎孫之丞、柏崎弥七郎などが、引き返して戦っているところに、新発田尾張守、斎藤下野守、本庄弥次郎、黒川備前守、中条越前守、竹股筑後守、その子右衛門など八百あまりが柳原の木陰からまわって来て、それぞれに名乗り、何某ここにあり、そこをひくなと大声で叫び、一文字に突いてかかった。 そのため甲州勢はもとの陣をさして退いた。越後勢は勝って、その足で川を越え、向こうの岸に上がった。甲州勢はなおも追いかけようとひしめいたが、越後方の宇佐美駿河守が千あまりで市川の渡り口に旗を立て、一戦を待つ様子に恐れ、その上、甲州方は夜前から難所を歩きまわり、疲れているのに休む間もなく四度も合戦になったため、力も精も尽き 果てて、重ねて戦うだけの気力をなくした。 甲州本陣にいた軍兵が代わりに追討軍を組もうとしたのを信玄は厳しく止めたので、一人も追っ手は来なかった。越後勢はゆっくり川を越して、はじめの陣所に引き上げた。 この日の合戦は夜明けの前に三度、夜が明けてから四度、合わせて七度の戦いで、越後方戦死三百六十五人、負傷者千二十四人。甲州方の戦死者は四百九十一人、負傷者千二百七十一人と記した。中でも、大将分小笠原若狭守、板垣駿河守、一条六郎、諸角豊後、初鹿野源五郎、山本勘介をはじめ、信玄の士の有名な人びとが討ち死にしたので翌二十七日に信玄は引き上げた。謙信も手負いの者、死人など片づけ、軍をまとめて引き上げた。弘治二年三月二十五日の夜から、二十六日まで、川中島の第三度の合戦であった。 第四回合戦 弘治二年八月二十三日、謙信は川中島に出て、先年の陣所より進んで川を越えて、鶴翼に陣を張った。両度の陣と同じ陣形である。村上義清、高梨政頼を中心として、丸い月の形に十二行の陣立てである。信玄は二万五千の兵で出陣した。 今度の越後の陣取りは、長期戦とみえて、薪を山のように積んでおいたと、甲州の見張りの者が報告するのを、聞いて信玄は、「一日二日の間に、越後の陣に夜中に火事があるだろう。その時、一人でも進んで出て行く者があったら、その子孫までも罰するだろう」 と下知した。 すると、二十三日の晩方、越後の陣所より荷物を積んだ馬や、荷を持った人夫が出て、諸軍旗を立てて陣を解き、引き上げるようにみえた。甲州方の軍兵が、謙信が引き上げるのを逃さず追い討ちにしようとした。信玄は一の木戸の高みに上ってその様子をながめて、「謙信ほどの大将が、日暮れになって陣を払って退くようなことがあるはずがない。これを追ってゆけば必ず失敗である。一人も出てはならぬ」 と止められた。思ったとおり、その夜二時ごろ、越後の陣から火事があり、たいへんな騒ぎとなった。だが、信玄が厳しく命令して一人も出なかった。間もなく夜が明けて、越後の陣地を見渡すと、通り道をあけて、きちんと武装した武士が、槍、長刀を持って、六千ばかりが二行に進んで、敵が近寄るのを待ち受けていた。朝霧が晴れるにしたがって見わたすと、二行になった備えの左側の先手は長尾政貴、右側は宇佐美駿河守走行、松本大学、中条越前を頭として十備え、杉原壱岐守、山本寺伊予守、鬼小島弥太郎、安田伯者守などを頭として十二備えが続いている。 中筋は、紺地に日の丸の大旗、「毘」の字を書いた旗の下に、謙信が床凡に腰をかけて、一万あまりの軍勢がそれを取り囲み、敵を待ち受けていた。甲州勢はこれを見て、ここに攻め込めば一人として生きては帰れまい。この備えのあることを見破った信玄の智は計り知れない、ただ名将というだけでなく、鬼神の生まれ代わりともいうべきものだと、みな感じ入ったという。 その翌日、信玄は戦いの手立てを考えて言った。「夜中に甲州方一万の人数を山の木の陰にひそかに隠し、馬をつないである綱を切り越後の陣に放してやる、そして馬を追って人を出す。敵陣から足軽がこの放した馬に目をつけて必ず出て来るだろう。その時、足軽を討ち取るように見せかけて、侍百騎を出して越後の足軽を追いたてれば、謙信は、気性の強い武士であるから、百騎の勢を全滅しようと出て来るだろう。その時、足並みを乱して敗軍のようにして谷に引き入れ、後陣を突ききり、高いところから、矢先をそろえ、鉄砲を並べて、「目の下の敵を撃て」 と命じた。 そこで、馬二、三頭の綱を切って越後の陣に追い放し、足軽五、六十人が出て、あちこちと馬を追い、かけ声をかけたが、越後の陣では、これを笑って取り合わず、一人も出なかった。 信玄はこれを見て、「謙信は名将である。このはかりごとに乗らない武士である」と言い「しかし、大河を越えて陣を張るのは不思議である。信州の中に謙信に内通している者がいるようだ。大事にならぬうちに引き上げることにしよう」 と内談して、信玄は夜中に陣を引き払い、上田が原まで引き上げた。謙信は総軍で信玄と一戦、朝六時ごろから、午後二時すぎまでに五度の合戦があり、初めは武田が負け退いたが、新手が駆けつけて激しく戦い、越後勢は押したてられた。長尾越前守政景、斎藤下野守朝信などが盛り返し、下平弥七郎、大橋弥次郎、宮島三河守などが槍を振るって、武田勢を突き崩した。また、上杉方の雨雲治部左衛門が横合いに突きかかり、道筋を突き崩した。宇佐美駿河守走行は手勢で、山の方から信玄の陣に切ってかかったため、甲州方はついに敗北した。翌日信玄は引き上げ、謙信も戻った。この戦いで、甲州方千十三人の死者、越後方八百九十七人の戦死者であった。 第五回合戦 永禄二年 (一五五九) 四月、謙信は京都に上り、参内、公方義輝公に拝謁した。輝虎の名をいただき、網代の塗輿、御紋をゆるされ、文の裏書きまでゆるされて帰国された。管領職は辞退し、朱塗りの柄の傘、屋形の号もゆるされ、三管領に準ずるようになった。その後永禄五年には管領職についた。 永禄三年九月から、謙信は関東に出陣、上州(群馬県)平井、厩橋(前橋)、名和、沼田などの諸城を攻め落し、その年は前橋で越年した。 永禄四年春、謙信は小田原に向かう途中、正月、古河の城に足利義氏を攻めた。三月に小田原に向かう。この時初めて上杉氏を名乗ることになった。 同八月、謙信は川中島へ向かい、西条山に陣を取り、下米宮街道と海津の城の通路を断ち、西条山の後から赤坂山の下に出る水の流れをせき止め、堀のようにし、西条山を攻めた。 八月二十六日、信玄は川中島に着き、下米宮に陣を取り、西条山の下まで陣を取ったため、越後方は前後に敵を受けた。謙信は夜戦のつもりでいろいろ手段を尽くされた。二十九日、信玄は下米宮から海津城に入った。九月九日の夜、武田総軍をまとめて、ひそかに海津城を出て、千曲川を越えて、川中島に陣を備えた。越後方の夜の見張りの者がこれを見つけて告げてきたため、謙信は、直江大和守実綱、宇佐美駿河守定行、斎藤下野守朝信と相談して、その夜の十二時、謙信も人数をつれて、そっと川中島に出た。西条山の下には村上義清、高梨摂津守、そのほか、井上兵庫介清政、島津左京入道月下斎の五隊を残しておき、川中島には、本庄越前守繁長、新発田尾張守長敦、色部修理亮長実、鮎川摂津守、下条薩摩守、大川駿河守のひきいる五千余を、千曲川の端に備えを立て、海津の城から新手の武田勢が横槍を入れるのを防ぐためである。謙信の備えは、左の先手は柿崎和泉守、右の先手は斎藤下野守朝長と長尾政景があたり、二の手は北条丹後守長国、右の備えは本庄越前守慶秀、左の脇備えは長尾遠江守藤景、右の脇備えは山吉孫次郎親章を配置した。中心は謙信の旗本、後備えは中条梅披斎であった。遊軍には、宇佐美駿河守走行、唐崎孫次郎吉俊、鉄孫太郎安清、大貫五郎兵衛時泰、柏崎弥七郎時貴の五組で、宇佐美の指揮の下に属した。直江大和守実綱が川を下ってひかえ、武田方から出た物見の者十七人を待ち 受けて一人残らずみな討ち取った。越後勢が川を渡って、川中島に出たのを武田方は知らず、そのあと出た物見も、越後勢が意外な場所に陣を備えたので見つけなかった。そして、信玄方はただ西条山の方ばかりに目をつけていたため、千曲川のそばに、本庄、新発田、色部などの二千がひかえているのを、夜中のことで人数を確かめることもできず、多勢と 見て、これが謙信の先手と思ったという。それも明け方になって見つけたので、初めのうちは越後勢が川を越えたのに気づかなかった。 翌十日朝、まだ夜が明けぬうちに、謙信方から貝を吹き、太鼓を打って、武田の陣に攻めかけた。武田勢は思いがけない方向から攻められ驚いたようだった。謙信の旗本が紺地に日の丸、それに 「毘」 の字を書いた大旗二本を立て、ちかぢかに押しかけたのを見て、備えを立て直す間もなく戦いかねるようだったが、武道第一の武田侍であるから、弓を射、 鉄砲を撃ちかけ、越後の先手柿崎和泉守の軍は、信玄の先手の飯富三郎兵衛に突きたてられ、千曲川の方に下ったのを見て、色部修理長実は、かねて待ち受けていたところなので、旗から槍を入れ、飯富の備えを突き返した。斎藤下野守朝信は、武田方の内藤修理、今福浄閑の軍を追いたてて進んだ。長尾政景、本庄美濃守慶秀、長尾遠江守藤景、山吉孫次郎、北条丹後守の五軍が先を争って、大声を上げて信玄方を切り散らした。謙信は八年前に信玄と太刀打ちをして討ちもらしたのが、口惜しく、この度は信玄をぜひ討ちたいと心がけ、旗本の人数で、信玄の旗本にかかり追い崩した。武田の十二段の備えがみな敗北し、千曲川の広瀬のあたりまで、追い討ちをかけ、戦死者、負傷者は数えきれない。信玄は犀川の方に退くのを、越後勢が追いかけた。その時、後から武田太郎義信が二千ばかりで謙信のあとを追ってきた。それで越後方の後備えの中条梅披斎の軍が引き返して、義信方に防戦した。しかし旗色が悪く見えたところに、遊軍の宇佐美駿河守が助けに来て、中条と一手になって、武田義信軍を追い返し、勝利を得て、数十人を討ち取った。あとで戦が始まったのを謙信が聞いて、不安に思って引き返して義信を防ごうとしたが、義信は宇佐美を斬り尽くして退いたのを、直江大和守、甘糟近江守、安田治部丞の三軍が義信の軍を倉晶まで追い討ちにした。謙信の総軍は、前後の敵を切り崩して、川中島の原の町に休み、腰の兵糧などを取ろうと油断した時、どこに隠れていたのか、義信が八百ばかりの兵と旗差物 して、越後軍に急に攻め込み、謙信の日の丸の旗印のところに目がけて攻めかかって来た。越後方は今朝早くからの合戦に疲れ、ことに油断していたところで、少し先手で防いだが、備えもうまくゆかず、多くは馬に乗り遅れ、敗軍となった。越後勢の戦死多数で、志田源四郎義時もここで戦死した。謙信は家の重宝である五挺槍というものの中から、第三番目の鍔槍という槍で、自身で手を下して戦った。後には波平行安の長刀でさんざん戦ったところに、海津口を守っていた六軍のうちの本庄越前守、大川駿河守が駆けつけ、義信を追い返した。この時、繁長自身は太刀打ち、大川駿河は戦死した。長尾遠江守藤景と宇佐美駿河守は応援に入り、義信を突き崩した。これで戦はひとまずおさまった。 謙信は犀川を後ろにその夜は陣を取ったが、山吉孫次郎は、「今夜海津の城の敵が気がかりである。犀川を渡り、軍を取りまとめられては」と諌めたが、謙信は従わなかった。十一日の朝、謙信は下米宮の渡し口に備えを立て、直江大和守実綱、甘糟近江守景持、宇佐美駿河守走行、堀尾隼人などと、西条山の陣小屋を焼き払った。そのあと、謙信は善光寺 に三日滞在して、長沼まで入り、ここに二、三日逗留して越後に帰陣した。 はじめ、謙信が出張して、西条山に陣を取り、八月二十六日、信玄が下米宮の渡しに着いた。九月十日の川中島の大合戦のあるまでに、小競り合いは八度あったが、少しのことであるから書きつけなかった。 先年から五度の合戦。天文二十二年十一月から永禄七年まで十二年で、毎年謙信は川中島に出て信玄と対陣したため、稲刈りなどの季節に、三百、五百と出会い、討ったり討たれたりのことは数十度になった。けれども信玄は謙信の勇才をはばかり、謙信は信玄の智謀を恐れて、互いに思慮をめぐらし、はかりごとを工夫し、いろいろと手段を尽くしたが、いずれも負けず劣らずの名将であったために、決着はつかなかった。 永禄七年七月に、信濃口の押さえとなる野尻城にいた宇佐美駿河守走行が自害し、長尾政景も死去したので、信濃境を取り締まるため、謙信自身で出かけ、川中島に至った。信玄も出馬して十日ばかり対陣したが、いつもの例で、日々小競り合いばかりで勝負はない。 武田家の一門家老が信玄に意見を言った。「川中島上郡下郡の四郡を争って、十二年の間毎年合戦がやむことなく、両虎の勢いで勝負がつかず、士卒の疲れは言葉では言い尽くせぬくらいです。海津城についている領分はこちらに、川中島の四郡は越後にやられてはどうでしょう。駿河表、関東方面、美濃口などに出られ手広くなられたのですから、川中島の四郡にかかわって、剛強な謙信と取り合いをしていてむなしく年月を送られるのはいかがなものか」 と諌めた。 八月十五日の朝、信玄が言うには、互いの運だめLとして、安馬彦六を選び、組討ちをさせ、その勝負を見て川中島をどちらかの土地にしようと、彦六を使いとして謙信に申し入れがあった。彦六は上杉の陣の一の木戸口に行き、謙信方からは直江山城が出向いた。彦六は馬から降りて、「信玄が申されるには、天文二十三年から十二年の間、夜昼戦っても 勝負がつかぬ。明日は互いに勇士を出し組討ちをし、その勝利次第で川中島を治め、このあと謙信も信玄も弓矢を取ることをやめたい。それで安馬彦六が明日の組討ちの役を申しつけられ、これまで参った。器量人を出され、明日組討ちをいたすようにと信玄の言葉である」 と申し入れた。 直江山城守の取り次ぎで謙信は返事をされて、「信玄の仰せはもっともである。こちらからも人を出し、明日十二時に組討ちをいたす」 とのことである。 永禄七年八月十六日、正午、信玄方から彦六ただ一騎、鎧をさわやかにつけて白月毛の馬に乗って、謙信の陣に向かった。越後方の陣からは小男の鎧武者が一騎、小さな馬に乗っていた。九月十日の川中島の大合戦のあるまでに、小競り合いは八度あったが、少しのことであるから書きつけなかった。 先年から五度の合戦。天文二十二年十一月から永禄七年まで十二年で、毎年謙信は川中島に出て信玄と対陣したため、稲刈りなどの季節に、三百、五百と出会い、討ったり討たれたりのことは数十度になった。けれども信玄は謙信の勇才をはばかり、謙信は信玄の智謀を恐れて、互いに思慮をめぐらし、はかりごとを工夫し、いろいろと手段を尽くしたが、 いずれも負けず劣らずの名将であったために、決着はつかなかった。 永禄七年七月に、信濃口の押さえとなる野尻城にいた宇佐美駿河守定行が自害し、長尾政景も死去したので、信濃境を取り締まるため、謙信自身で出かけ、川中島に至った。信玄も出馬して十日ばかり対陣したが、いつもの例で、日々小競り合いばかりで勝負はない。 武田家の一門家老が信玄に意見を言った。「川中島上郡下郡の四郡を争って、十二年の間毎年合戦がやむことなく、両虎の勢いで勝負がつかず、士卒の疲れは言葉では言い尽くせぬくらいです。海津城についている領分はこちらに、川中島の四郡は越後にやられてはどうでしょう。駿河表、関東方面、美濃口などに出られ手広くなられたのですから、川中島の四郡にかかわって、剛強な謙信と取り合いをしていてむなしく年月を送られるのはいかがなものか」 と諌めた。 八月十五日の朝、信玄が言うには、互いの運だめLとして、安馬彦六を選び、組討ちをさせ、その勝負を見て川中島をどちらかの土地にしようと、彦六を使いとして謙信に申し入れがあった。彦六は上杉の陣の一の木戸口に行き、謙信方からは直江山城が出向いた。彦六は馬から降りて、「信玄が申されるには、天文二十三年から十二年の間、夜昼戦っても 勝負がつかぬ。明日は互いに勇士を出し組討ちをし、その勝利次第で川中島を治め、このあと謙信も信玄も弓矢を取ることをやめたい。それで安馬彦六が明日の組討ちの役を申しつけられ、これまで参った。器量人を出され、明日組討ちをいたすようにと信玄の言葉である」 と申し入れた。 直江山城守の取り次ぎで謙信は返事をされて、「信玄の仰せはもっともである。こちらからも人を出し、明日十二時に組討ちをいたす」 とのことである。 永禄七年八月十六日、正午、信玄方から彦六ただ一騎、鎧をさわやかにつけて白月毛の馬に乗って、謙信の陣に向かった。越後方の陣からは小男の鎧武者が一騎、小さな馬に乗って出向き、馬上で大声で、「ここに出た者は、謙信の家老斎藤下野守朝信の家来で長谷川与五左衛門基連と申す者、小兵ながら彦六と晴れの組討ちをご覧に入れる。いずれが勝つとも、加勢、助太刀は、永く弓矢の恥である」と言い、彦六と馬を乗りちがえ、むずと組み、両馬の間に落ち重なり、彦六が上になり長谷川を組み敷いた。甲州方が声を上げて喜ぶ時、組みほぐれて、長谷川は安馬を組みふせ上になり、彦六の首を取って立ち上がり高く差し上げて、「これをご覧下され。長谷川与五左衛門組討ちの勝利はこのとおり」と叫ん だ。越後方は思わず長谷川うまくやったと一同感じどよめいた。甲州方は無念に思って、木戸を開けて千騎ばかりが討って出ようとしたのを、信玄は、「鬼神のような彦六が、あの小男にたやすく組み取られたことは味方の不運である。かねて組討ちの勝利次第と約束した上は、川中島は越後に渡すことにする。約束を破ることは侍として永く不名誉なことである。四郡は謙信のものと今日から定めよう」と言って翌日引き上げられた。これから四郡は越後の領となった。長谷川の手柄の印である。そして村上義清、高梨政頬は、川中島に戻り、その志を遂げた。これから、武田と上杉の争いはなくなった。 このことは、信玄の家来、須崎五平治、堀内権之進が書きとめておいた。この両人は、あとで浪人して越後に来て、上杉家に仕えている。それでよく調べて書いたものである。 この一冊は須崎、堀内の書いておいたものと、信玄の子孫にあたる武田主馬信虎の家伝の書と、村上義清の子源五郎国清の書いたものを参考にして、よく調べて書き記したものである。 慶長十年三月十三日 上杉内 清野 助次郎 井上 隼人正 『河中島五箇度合戦記』 右の一冊は当家の者が書き残したものである。この度のおたずねについて、それを写して差し上げる。 寛文九年五月七日 うたのかみ 右の書は、先年弘文院春斎に仰せつけられ、日本通鑑に選ばれた。酒井雅楽頭忠清に上杉家から差し上げられた一冊である。 市河文書目録 「信濃史料所載 市河文書」 市河文書目録 引用「信濃」 「信濃史料」 年 月 日 1 平家某下文 嘉応 2 1170 2 7 2 木曾義仲安堵下文 治承 4 1180 12 3 阿野全成安堵下文 寿永 2 1183 12 7 4 阿野全成安堵下文 寿永 3 1184 3 6 5 ? 北條義時袖判藤原兼佐奉書 (承久) 3 1221 6 6 6 鎌倉幕府下文 建久 3 1192 12 10 7 北條時政安堵下文 建仁 3 1203 9 4 8 北條時政安堵下文 建仁 3 1203 9 23 9 北條時政下知状 建仁 4 1204 2 21 10 北條時政下知状 元久 1 1204 3 19 11 姓名不詳書状 12 北條泰時下知状 貞応 3 1224 11 11 13 北條泰時書状 元仁 1 1224 11 13 14 北條重時書状 (元仁) 2 1225 9 9 15 北條重時副下文 嘉禄 1 1225 9 9 16 北條重時下知状 嘉禄 1 1225 9 16 17 北條重時下知状 寛喜 1 1229 12 13 18 左衛門少尉兼政請文 年不詳 19 沙禰妙蓮譲状 建長 1 1249 12 15 20 鎌倉碁府下文 建長 4 1252 12 26 21 鎌倉幕府下文 建長 4 1252 12 28 22 鎌倉幕府下文 建長 6 1254 12 12 23 鎌倉幕府下知状 文永 2 1265 閏4 18 24 藤原仲能訴状 不詳 25 鎌倉幕府下文 文永 2 1265 5 25 26 尼寂阿譲状 文永 9 1272 8 18 27 鎌倉幕府下文 文永 11 1274 2 20 28 鎌倉幕府執権奉書 文永 11 1274 6 15 29 鎌倉幕府下知欺 弘安 1 1278 9 7 30 鎌倉幕府下知状 正応 3 1290 11 17 31 中野仲能訴状 不詳 32 鎌倉幕府下知状 正安 2 1300 3 3 33 鎌倉幕府下知厭 正安 2 1300 11 8 34 鎌倉幕府下知欺 正安 4 1302 12 1 35 信濃国応宜 延慶 2 1309 4 36 初任正検田在家目録注進 延慶 2 1309 卯 37 市河盛房置文 元享 1 1321 10 24 38 市河盛房譲状 元享 1 1321 10 24 39 市河盛房譲状 元享 1 1321 10 24 40 信濃国雑掌則能申状 元享 4 1324 9 41 駿河守某奉書 嘉暦 2 1327 10 8 42 尼せんこう譲状 嘉暦 4 1329 6 23 43 中野家平着到状 元弘 3 1233 5 8 44 中野家平著到状 元弘 3 1233 5 14 45 市河経助着到状 元弘 3 1233 6 7 46 市河助房代着到状 元弘 3 1233 6 7 47 市河助房兄弟代着到状 元弘 3 1233 6 29 48 左弁官下文 元弘 3 1233 7 25 49 国宣 元弘 3 1233 8 3 50 市河助房申状 元弘 3 1233 10 51 国宣 元弘 3 1233 11 5 52 鎌倉幕府下知状 正慶 1 1332 12 23 53 鎌倉幕府下知状 正慶 1 1332 12 27 54 雑訴決断所牒 建武 1 1334 6 16 55 市河助房等代着到状 建武 1 1334 6 25 56 市河助虜等着到状 建武 1 1334 8 57 平長胤奉書 建武 2 1335 2 5 58 市河助房等着到状 建武 2 1335 3 59 市河助鼻等着到状 建武 2 1335 3 60 市河助房等着到状 建武 2 1335 5 16 61 市河助房兄弟代著到状 建武 2 1335 5 16 62 市河助房等着到状 建武 2 1335 6 63 市河助房等着到欺 建武 2 1335 7 64 市河親宗軍忠状 建武 2 1335 8 65 雑訴決断所牒 建武 2 1335 8 14 66 市河経助軍忠状 建武 2 1335 9 22 67 市河倫房父子軍忠状 建武 2 1335 10 68 市河近宗着到状 建武 2 1335 11 28 69 市河助房代軍忠状 建武 3 1336 1 17 70 市河経助軍忠状 建武 3 1336 1 17 71 市河経助等軍忠状 建武 3 1336 1 18 72 市河経助代著到状 建武 3 1336 2 21 73 市河経助軍忠状 建武 3 1336 2 23 74 市河経助軍忠状 建武 3 1336 2 23 75 市河経助軍忠状 建武 3 1336 2 23 76 市河経助軍忠状 建武 3 1336 6 29 77 市河経助等軍忠状 建武 3 1336 6 29 78 市河経助軍忠状 建武 3 1336 11 79 市河親宗軍忠状 建武 3 1336 11 3 80 市河親宗軍忠状 建武 3 1336 11 81 市河親宗軍忠状 建武 3 1336 11 82 市河親宗軍忠状 建武 3 1336 11 83 足利直義感状 建武 3 1336 12 29 84 市河経助着到状 建武 3 1336 12 85 市河親宗着到状 建武 3 1336 12 86 市河経助軍忠状 建武 4 1337 3 87 市河経助軍忠状 建武 4 1337 3 88 市河親宗軍忠状 建武 4 1337 3 89 市河親宗軍忠状 建武 4 1337 3 90 市河助房代軍忠状 建武 4 1337 3 91 市河助房代軍忠状 建武 4 1337 3 92 市河助房代軍忠状 建武 4 1337 4 93 中野定信代軍忠状 建武 4 1337 9 94 市河倫房軍忠状 暦応 3 1341 8 95 市河倫房軍忠状 歴応 4 1342 3 21 96 昌源譲状 康永 2 1343 3 22 97 昌源譲状 康永 2 1343 5 26 98 市河倫房軍忠状 康永 2 1343 12 99 尾張左衛門佐奉書 貞和 3 1347 4 21 100 市河経助軍忠状 観応 2 1351 3 101 市河松王丸代軍忠状 観応 2 1351 3 102 右馬頭某奉書 観応 2 1351 6 2 103 市河経高軍忠状 正平 11 1356 10 104 市河脛高軍忠状 正平 11 1356 12 105 兵庫助兵粮料所預ケ状 延文 5 1360 6 27 106 関東管領感状 応安 1 1368 閏6 23 107 市河頼房等代軍忠状 応安 1 1368 9 108 細川某兵粮料所預ヶ状 応安 3 1370 4 3 109 初任正検田在家目録注進 応安 6 1373 6 110 上杉朝房安堵状 永和 1 1375 10 16 111 上杉朝房安堵状 永和 1 1375 10 26 112 斯波義種安堵状 市河甲斐守殿 至徳 2 1386 2 12 113 斯波義種下知状 市河庶子一族中 至徳 2 1386 7 18 114 二宮氏康奉書状 市河殿 至徳 3 1387 7 1 115 斯波義種書状 至徳 4 1388 8 12 116 斯波義将奉書 至徳 4 1388 6 9 117 二宮種氏所領預ケ状 至徳 4 1388 6 12 118 斯波義種感状 至徳 4 1388 6 25 119 市河甲斐守頼房軍忠状 至徳 4 1388 9 120 ● 斯波義将感状 流失した市河文書 一かわかいのかみとのへ 二宮氏康書状 至徳 至徳 4 3 13871388 9 7 15 5 121 二宮式部丞料所預ケ状 嘉慶 2 1388 12 17 122 二宮式部丞料所預ケ状 嘉慶 2 1389 8 19 123 宮方某所領契約状 <元中14年無 9年迄> 元中 応永 14 2 1395 124 二宮是随奉書 応永 4 1397 7 2 125 中野頗東軍忠状 応永 6 1399 12 27 126 市河興仙軍息状 応永 7 1400 4 1 127 小笠原長秀所領宛行状 応永 7 1400 5 27 128 小笠頼長秀安堵状 応永 7 1400 6 2 129 小笠原長秀下知胱 応永 7 1400 6 3 130 小笠原長秀下知状 応永 7 1400 6 3 131 小笠原古米入道渡状 応永 7 1400 6 3 132 小笠原古米入道打渡状 応永 7 1400 6 3 133 赤澤対馬守打渡状 応永 7 1400 6 14 134 将軍義満感状 応永 7 1400 10 5 135 小笠原長秀安堵状 応永 7 1400 10 29 136 市河興仙軍忠状 応永 7 1400 11 15 137 小笠原長秀感状 不詳 11 3 138 斯波義将安堵状 応永 8 1401 6 25 139 斯波義将下知状 応永 8 1401 6 25 140 畠山道端奉書 応永 9 1402 9 15 141 細川慈忠安堵状 応永 9 1402 9 17 142 伊勢道券打渡状 応永 9 1402 9 18 143 将軍義満安堵状 応永 10 1403 7 2 144 細川慈忠安堵状 応永 11 1403 11 20 145 市河性幸代軍忠状 応永 11 1403 11 146 眞晃契約状 応永 14 1407 6 23 147 細川道観感状 応永 22 1415 7 19 148 畠山道端奉普 応永 30 1423 7 10 149 細川慈忠書状 応永 7 26 150 武田家朱印 永禄 12 1569 10 12 ● 沙弥 市河新次郎殿 応永 信濃 30 1423 7 10 ● 斯波義種書状 市河甲斐守殿 至徳 信濃 3 1386 8 12 市河文書別編 武田信玄書状 市川孫三郎殿 (弘治) 2 1556 7 19 武田信玄書状 市川籐若殿 (弘治) 3 1557 6 16 武田信玄書状 市河籐若殿 (弘治) 3 1557 6 23 武田信玄朱印状 市川新六郎殿(信房) 永禄 10 1567 6 16 武田信玄朱印状 市川新六郎殿(信房) 永禄 11 1568 11 17 武田信玄朱印状 市川新六郎殿(信房) 永禄 12 1569 10 12 武田信玄朱印状 市河新六郎殿(信房) 天正 7 1579 2 25 武田信玄朱印状 市川治部少輔殿(信房) 天正 9 1581 1 9 武田信玄朱印状 市川新六郎殿(信房) 天正 10 1582 3 7 <現在編集中> <引用資料 信濃 信濃史料 山梨県史> ()内は文書では編者の推定 ()同様 武田信玄朱印状 市川治部少輔殿(信房) 天正 10 1582 4 14 武田信玄朱印状 市川治部少輔殿(信房) 天正 10 1582 6 20 市川治部少輔(信房か)書状 直江山城守殿 天正 11 1583 4 14 直江山城守 市河長寿丸殿 不詳 市川文書の仝撮影 カビネ版で二百数十枚 「信濃」第十一号 出羽の大富豪本間家所蔵 酔古生著 出羽酒田の富豪である本間家に市川史書の所威されて居る事を発見されてから殆んど満二ヶ年になる。丁度その当時は、同家の代換りの時で、新戸主の公正氏は、学生々活から一躍大世帯の主人になった事とで、自分の家ながら、一向に様子が判らず、その上彼家の内規として、主人以外には絶対に出入を禁じられて居る土蔵が、二棟存在し、文書類其他の重宝ものなどは、概ね其中にあり、そこへ新主人公の不案内と来て居たから始末が悪い。鈴木知事から依頼状まで出して貰い、寓眞乾板も三十ダースも持参に及んだのだけれど、其俵退却の余儀なきに至った次第であった。 昨年も亦、米澤へ出張の帰る道すがら立寄った。その時も亦未発見とあって、すごすご退却。更にニケ年間に手紙で問合せした事は何十回。或は故伊佐早先生の令嗣、信氏を煩はした事もあった。返答は当主公正氏からも数回、分家の本間氏からも、該家細管の圃書館長白崎光弥氏からも、その時々に来て居るので、何れも少し待ってくれとの事だから、怒るにも怒れない。 本年になっても亦数回の伺いを立てたのであったが、最終の八月初めの手紙の返事が、月の十三日に到着した。それが、思はずも吉報であったのである。 山形県史料の殆んど最終の探訪ともいうべき出張に兼ねて、本間家にはまだ外にも伊佐早史料がある等だから、それの探訪をも兼ねて、米澤から酒田へと同来したのは、九月十一日。早速、あこがれの市河文書といふものを正確を見せてもらうことになった。省みれば、其一部分を米澤の伊佐早先生の机下で拝ませてもらった時から、二十年後を過ぎて居る。あるは、あるは、藍色の紙の琴訂をした巻ものが、三十巻もあるのである。 文書の教が百四十七通、下高井郡中野小峯校で印刷したパンフレット式市河文書は、信濃史料叢書かたとったものであるが、あれよりは三通少ないのである。維新後、市河家の保存された時は、もつと沢山あつたに相違ない事は、伊佐早先生の常に語られたところであり、且また應永三十年前が、首四十六通であって、此間百四十年を飛んで永禄十二年のものが一通、寄生虫のようについて居るも不審、実は戦国期のものはまだ出ない史料も、四五点散在して居り、文章だけ判って居る史料も少なくない。平安朝からのものを保存した程の家柄だもの、戦国期のものが存在せぬ筈はない。此鮎か考へても、應永末年から永聴十二年迄の百四十余年間のものは、少なくとも二十通や三十通は存在したるべく.現に越後高田の謙信文庫には、應永より前の至徳三年の市河文連が一通現存するのである。かような語だから、現在此文書から紛失して居る部分は、恐らく、一半以上であろうと思う事を禁じ得ぬ。詳細は、該写真に附録として貼附する証明書に書くつもり、そして、公開する積りであるから、その時を期して貰う事とし、云はば、現存の市河文書といふものは、應永以前のものであるといふ事が、最も特色の一つであるというべきであろう。 一口に應永といっても、五百三十年の昔である。その前の文書が、百四余通もあり、殊に鎌倉前のものもあり、義仲もあり、頼朝の弟阿野全成のものもあり、北條氏などは、時政以後、殆んど歴代の花押を有して居訳であるから、諸家文書中でも珍とするのは当然である。殊にその諸家中でも、市河家といふものは、大名でなくて、徹頭徹尾、信濃国境の小名であったといふことが、珍中の珍といふ澤にもなる。 何となれば、その結果としての文書も亦、徹頭徹尾、郷土的であるからである。そして、その上に、中央舞台の上に役立って居る事の如何に多きかは、苛も大日本史料を見た者の百も承知の事であろう。 又前記三通の不足については、中野学校印刷の市河文書その前に本間家へ送って置いたから、私より十日程前に偶然該文書を一見した帝大の伊木寿一氏(史料編纂官〕一行も、中野校本杖として研究した際に発見し、帝大と本間家との貸借時代の返却洩れではないかとの疑問も.発生し、其疑問を留保されてあったが、併し、私の所有する故伊佐早先生の古文書目録は、直ちにこれを他の中に発見したのである。 即ち、其三通は、 一、應永七年十月五日 足利義満の感状 二、同年四月二十九日 小笠原長秀安堵状 三、(應永中)七月二十六日 細川慈忠書状 であって、前二文書は、大塔合戦に市河氏が小笠原氏の部下として血戦した時の関係書類であるのであるが、勿論此三文書も市河文書中にあったに相違ないけれど、維新後逸散の後、拾はれた時に、別々であった為に、伊先生の分類中に於いても、微古墨宝といふ乾坤二冊ある中の乾の方に牧蒐されて居たのであって、それだから、今現在の市河文書中には、補遺されて居なかったのである。といふ様な事は、調べてから判った事であるが、とに角、此文書を見た時には、何となく感慨無量なるものがあった。八百年来把握されて居た此文書が、市河家から押流された維新の怒涛の如何に大きかったかといふような事、これらを三円の月給の時、一文書十銭位に蒐集された伊佐早先生の篤学、ては、我等の郷土に、今から三軍一手年前までは、小氏人と市川文書の会撮影.銅棒室からして、鏡をつけられた練に国境を守り、巣鷹を守って、四五百年間連綿とした市河氏の事ども、それらが、此三十巻の藍色の巻物と同時に頭に走馬燈のように描き出された影画であった。 披見につれて、更に更に驚いた事は、どの文書も、どの文書も、とても汚れて居ないといふ一事である。殊に鎌倉時代のものは、日本の他の残存文書と共に、重に訴訟の文書であるが、其書体などは、どれを見ても、一つ一つ、骨習字の手本となるような楷行の問の名筆である事、共文書の文章が、判決文としても、詳細を極めて居る事などである。以て、鎌倉時代の民がのびやかで、穏健で。 民衆的であった事まで連想を禁じ得ない程だ。 その他にしても、何としても、一家で、各時代を串通しにして居る話だから、各時代の文書相の一通りを僻へて居る点は、古文書学の上からしても一つの規範的のものと云い得よう。 下文、副下文、下知状、奉書、書状、譲文、訴訟、置文、注進、応宣、申状、所牌、着到状、軍忠状、感状、預ケ状.安堵状、契約状、宛行状、行渡状、定書、などの種類を、如宝に見るように感得出来る点に於いて尊い。光丘文庫の二階を臨時写場暗室等に借用して、約六日間で、此文書の穐影を終了した。文書の裏に影書きの花押もあれば、文書もある。これらは、主として鎌倉時代のものであって、文書上の特色でもある。凡て是等迄も写了したのである。 その外にも、本間家及び酒田の古文書殆んど仝部を歴訪したが、信濃関係のものが、三十お近く存在したからこれらも概ねレンズに入れた訳である。 終りに写真技術者の事についても、一言し置かればならない事がある。県内の史料撮影には、長野市荒木の篠原文雄氏が犠牲的に徒事して居ると同様に、山形県の資料撮影影には、米澤市の神保一臣氏が、四五年来を通じて、単に撮影ばかりでなく、史料蒐集の手助としても、殆んど、献身的に努力してくれられた一事は、是非此際報告し置きたい処である。今度の市河文書の撮影に関しても、同様であった事は云う迄もない。 此雑誌の出る頃は、多分写真が配布される時であろうと思うが、この催しを最初から替助された更級、上下水内、上下高井郡の教育部含、及び加盟助達につとめられた諸法人に対しても、謹しんで、謝意を表して置く。 山梨県私立文学館 サブやんの気まぐれ調査研究 新!サブやんの気まぐれ調査研究 国会と国家議員に必要な林業実情 森林知識検定委員会 ”ヒノキオ君” サブやんのきまぐれ調査研究 新!サブやんの気まぐれ調査研究

市河文書をどう読むか 山本勘助の実在を示した唯一の資料とされるが 私は大きな疑問をもっている。 市川藤若関係の文書と時代背景を探る 市河文書をどう読むか 山本勘助の実在を示した唯一の資料とされるが 私は大きな疑問をもっている。 市川藤若関係の文書と時代背景を探る 天文二十四年 弘治元年(10月23日改元) 1555 ☆印――武田信玄(甲陽軍艦)★印――謙信(甲陽軍艦) ●一月三十日、筑摩郡洗場三村某、武田の将馬場信房を深志城に攻め、村井・出川に放火する。この日二木重隆、信房救援に駆けつける。ついで三村ら、敗れる。 (長野県史) ●二月十四日、武田晴信、諏訪郡八剣社に同郡上原の地を寄進し、武運長久を祈らせる。 (長野県史) ●二月十五日、晴信は景虎の機先を制して川中島へ兵を送り、善光寺の南の葛山城を攻落させた。 (甲府市史) ☆三月七日、信玄公は甲府を出発。 (甲陽軍艦) ●三月十四日、葛山城を攻落した後、武田軍は川中島一帯の長尾方の一掃を続行していた。景虎は雪の為に出陣することができず、晴信も三月十四日には、まだ甲府いた。そこへ川中島より注進状が届き、越国衆が出陣するとの報に接し、自らも出馬すると伝えている。 (甲府市史) ☆三月十八日、信玄公は木曾の屋子原(薮原)に出馬、四月三日まで逗流され、薮原に一つの砦を造り、木曽殿居城を攻撃しようとした。 (甲陽軍艦) ●三月廿一日、武田晴信、大日方主税助の安曇郡千見城攻略を賞する。 (長野県史) ●三月、武田晴信、木曾制圧に着手、千村俊政の守贄川砦を落とす。鳥居峠に出陣した木曾義康、武田軍に挟撃されて敗走し、武田軍は藪原を占拠する。 (長野県史) ☆四月五日、越後の謙信が川中島へ出てきたとの報が入る。 (甲陽軍艦) ☆四月六日、薮原を出て川中島にて対陣を整える。謙信は引き上げる。 (甲陽軍艦) ★謙信、関東に出て北条氏康と対陣、連日連夜の戦闘を続ける。 (甲陽軍艦) ●四月十八日、景虎が川中島に出陣し、晴信は決戦を避けて安曇郡小谷城を攻 め、八月に入ってやっと両軍が川中島で対戦した。これを第三回川中島の戦 いという。 (甲府市史) ●四月廿五日、武田晴信、内田監物に、更級郡佐野山在城につき知行所諏訪郡北大塩二三人の押立公事を免じる。 (長野県史) ●五月廿八日、信州知久殿與四郎殿州船津にて生害被成候。宮下勘六方打被申候。(信州下伊那の知久氏が鵜の島に幽閉される。翌年鵜の島から船津に連れていかれた上で切腹する) (妙法寺記) ●六月二十日、武田家朱印状写 別而被致奉公候間、庄内主計分三拾余貫文所出置候、弥忠信可為肝要候、恐々謹言 天文廿四年六月廿日 晴信御居判 大日方主税助殿 (『山梨県史』資料編5 中世ニ 県外文書 長野県の部) ● 弘治二年六月二十八日、長尾弾正少弼(しょうひつ)入道宗心、 長慶寺衣鉢(いぶ)侍者禅師(天室光行)宛文書 (前文略) 信州は隣国であることは勿論ですが、村上方をはじめとして井上・須田・ 嶋津・栗田その他の人々が私を頼ってきました。ことに高梨家とはとりわけ親しくしている仲ですから、そのまま見捨てておくわけにもいかず、すでに信州が過半晴信のの手に入り、もうじき信州全部が晴信にとられそうなようすもあったので、両度出陣し、去年(弘治元年)は、旭山城に向かって附城を造り、旭山城をとりこにした上、晴信と興亡をかけた大決戦をしようとしたところ、負けそうになった武田方は和睦を申し出、駿河の今川義元に頼んで誓詞や講和条件などを示してきたので、いろいろ差し障りがあったが、それを承知し、旭山城を壊し、兵を引きました。そこで信州の味方は今も無事に暮らしています。 (弘治二年)六月二十八日 長尾弾正少弼入道宗心 長慶寺衣鉢(いぶ)侍者禅師 (「川中島の戦」小林計一郎氏著) ●七月十九日、武田晴信感状写 今十九於信州更科郡川中嶋逐一戦之時、頸壱討捕之条、神妙之至感入候、 弥可抽忠信者也、仍如件 天文二十四年七月十九日 晴信 朱印 勝野新右衛門殿 (『山梨県史』資料編5 中世ニ 県外文書) ●七月廿三日、武田晴信公信州へ御馬を被出候而、村上殿・高梨殿、越後守護長尾景虎を奉頼同景虎も廿三日に御馬被出候而、善光寺に御陣を張被食候。 (妙法寺記) ●武田殿は三十丁此方成り、大塚に御陣を被成候。 (妙法寺記) ●善光寺の堂主栗田殿は旭の城に御座候。 (妙法寺記) ●旭の要害へも、武田晴信公人数三千人さけはりをいる程の弓を八百張、鉄砲三百挺入被食候。 (妙法寺記) ●去程に長尾景虎再々責候へ共不叶後には駿河今川義元御扱にて和談被成候。(妙法寺記) ●八月十二日、武田晴信、竜淵斎に小山田信有を信濃国佐久郡へ派遣することを伝える。 ●八月、武田軍、木曾を再攻、上之段城と福島城の子木曾義昌を攻める。義康和議を申し入れ、娘を人質に甲府へ送り、義昌に晴信の娘を迎える。 (長野県史) ☆八月二十一日、信玄公は鳥井峠を超えるために薮原を発つ。 福島筋へは栗原左兵衛・飯富三郎兵衛・長坂長閑・市川宮内ノ助の五軍で攻 める。木曾降参。 (甲陽軍艦) ●十月五日、武田晴信、内応した高井郡小島修理亮に、高梨領内の河南の地を宛行う。 (長野県史) ●閏十月二日、晴信、大日方山城守、春日駿河守に俵物の分国中諸関通行を許す。 (長野県史) ●十月五日、 今度之忠信無比類候、因茲高梨之内河南千五百貫渡候、恐々謹言 天文廿四年 十月五日 晴信 小嶋修理亮殿 (『山梨県史』「歴代古案」所収文書 武田晴信判物写し) ◎閏十月九日、此年駿河義元の御内を異見申候者説最と申御出家、閏十月九日御死去被成候。駿河力落不及言説。 (妙法寺記) ●閏十月十五日、晴信・景虎、駿河の今川義元の仲裁により、誓紙・条目を交わして和議を結び、互いに兵を引く。 (長野県史) ●閏十月の甲越和睦は、その後の信濃侵略によって、有名無実となり、翌二年八月には春野望が景虎の家臣の大熊朝秀を内応させたことから、再び両者の関係は悪化した。 (長野県史) ●十一月八日、此年、相州新九郎殿霜月八日曹司様(北条氏直)を設け玉ふ。甲州晴信公御満足大慶此事候。 (妙法寺記) ●十一月六日、武田勝頼の母諏訪氏、死去する。 (長野県史) 解説(「甲府市史」)資料編第2巻 天文廿二年(1553)四月晴信は念願の村上義清の葛尾城を攻め落とし、信濃の大半を手中にした。村上氏は越後に逃れ、長尾景虎を頼りその援助により再度、小県郡に復帰した。天文二十四年(弘治元年)七月には、晴信・景虎とも川中島に出陣、晴信は大塚へ、景虎は善光寺に布陣、七月19日には川中島で対戦した。 その後、善光寺の同主であった栗田氏は旭城に籠もって景虎を牽制した。晴信は旭城に兵三千人と弓八百張、鉄砲三百挺を送り込む。対陣のまま閏十月に及んだ。晴信は今川義元に斡旋を依頼して景虎と和睦し、両者川中島より退陣した。これを第二回川中島の戦いという 弘治 二年 1556】 ☆六月中旬、信玄公、伊那へ出馬。七月・八月・九月と合わせて四ヶ月間で伊那を平定する。成敗した武将は、溝口殿・松島殿・黒河内殿・波部殿・小田切殿・伊那部殿・殿島殿・宮田殿。 (甲陽軍艦) ●三月十一日、武田晴信、水内郡静松寺住持に葛山衆の盟主落合一族を切り崩し、武田方へつかせた功を賞する。 (長野県史) ● 五月十二日、香坂筑前守宛書状 八郎丸之郷百貫之内、定所務六十五貫四百文之分出置候、相残所者、速 可奉納者也。仍如件。 弘治二年五月十二日 香坂筑前守殿 (「山梨県史」資料編中世ニ 県外文書 長野県の部 上水内郡牟礼村 高野家文書) ● 六月二日、武田晴信判物写。 綿内領之内、隠居免三百五拾貫文之所進置候、恐々謹言 弘治弐年六月二日 晴信(花押影) 井上左衛門尉殿 (「山梨県史」資料編中世ニ 県外文書 長野県の部) 市河文書 年不詳 武田家感状写 (北佐久郡浅科村、市川育英氏所蔵) ●六月廿七日、 小幡尾州へ津金修理亮を遣はし候、そこ許に於いて諸事馳走肝要に候なり。謹言 六月廿七日 晴信(花押) 市川右馬助殿 同 右近助殿 読み下し (信濃史料叢書) ●六月廿八日、武田晴信、大須賀久兵衛尉に、欠落(かけおち)した被官人を還住させる。 (長野県史) ● 六月二十八日、長尾弾正少弼(しょうひつ)入道宗心、 長慶寺衣鉢(いぶ)侍者禅師(天室光行)宛文書 ―――景虎出奔――― (前文略) 信州は隣国であることは勿論ですが、村上方をはじめとして井上・須田・ 嶋津・栗田その他の人々が私を頼ってきました。ことに高梨家とはとりわけ親しくしている仲ですから、そのまま見捨てておくわけにもいかず、すでに信州が過半晴信のの手に入り、もうじき信州全部が晴信にとられそうなようすもあったので、両度出陣し、去年(弘治元年)は、旭山城に向かって附城を造り、旭山城をとりこにした上、晴信と興亡をかけた大決戦をしようとしたところ、負けそうになった武田方は和睦を申し出、駿河の今川義元に頼んで誓詞や講和条件などを示してきたので、いろいろ差し障りがあったが、それを承知し、旭山城を壊し、兵を引きました。そこで信州の味方は今も無事に暮らしています。 (弘治二年)六月二十八日 長尾弾正少弼入道宗心 長慶寺衣鉢(いぶ)侍者禅師 (「川中島の戦」小林計一郎氏著) ● 八月十七日、謙信、政景あて文書 私が隠居を決意したのは決して偽りではないが、あなたをはじめ国中の人々が自分を止めてくれる心を振り捨てるわけにもいかず、また私が戦争を怖がって隠居するのだといわれるのも心外だから、あなたの意見にまかせて隠居を思い止ります。 (「川中島の戦」小林計一郎氏著) 市河文書 ●七月十九日 ○別而可抽忠信之由、承候間、安田遺跡出置者也、恐々謹言 弘治二年七月十九日 晴信(花押) 市川孫三郎殿 ●八月二日、武田晴信、水科修理亮に、善光寺と甲府の行き来につき、一カ月馬二疋ずつの諸役を命じる。 (長野県史) ●八月八日、武田晴信、真田幸隆に東条氏の埴科郡雨飾城の攻略を促す。ついで幸隆、同城を落とす。 (長野県史) ● 東条普請の儀、頼み入り候旨一輪を染め候ところに、すなはちその意に応ぜられ、自身着城あり、辛労の至、ことさら去年以来還附未だ安居あるべからず候ところに、かくの如きの儀、誠に以って謝するところを知らず候。いよいよ相?がるるに就いては、快悦たるべく候、恐々謹言 八月廿五日 晴信(花押) 西条殿 (長野史料叢書 山形県西条信武氏所蔵) ●九月吉日、武田晴信願文(「山梨県史」中世資料県外文書 山形県の部) ☆市河文書 年不詳 武田家感状写 (北佐久郡浅科村、市川育英氏所蔵) ●十月廿七日、 (武田晴信)朱印 其方俵物借用之人、無相違可弁済候、有難渋之族者、可有注進候也。仍 如件。 十月廿七日 ☆ 十月下旬、秋山伯キ守の相備え、坂西(ばんざい)・市野瀬・知久・春近衆合わせて二百騎が秋山の与力。秋山の城は高遠城に置く。 ☆ 飯富三郎兵衛の相備え伊那衆、松尾百騎、下条百五十騎・松岡五十騎と武功に優れたもの五十騎を加え、三郎兵衛の二百騎と合わせて五百騎。 ☆ 小山田備中は尼飾城(長野市松代町 越後に逃げた東条氏の居城) ☆ 春日弾正は海津城。和田・余里・布下・楽岩寺から武功の優れた三百騎、当初からの百五十騎を合わせて四百五十騎。 信州の香坂の苗字を受けて春日から高坂弾正となる。 川中島衆の西条・清野・芋川などが高坂の相備えとなる。 ☆ 二の郭は足軽大将、小幡山城の子息又兵衛 ●十二月二十三日、武田晴信、岩波八郎右衛門尉に諏訪郡金子・栗林の地を充 行する。 (信濃資料叢書 岩波文書) ● 十二月二十四日、是より先、武田晴信西条知部少輔をして、水内郡小田切方川北の本領を安堵せしむ、是日、晴信更に更級郡、原・今里の地を充行ふ。 (信濃資料叢書 西条文書) 原・今里の儀について、香坂入道より様々承る旨之条、当分相違覚悟の 外に候、何時に候とも、小田切方川北の本領一両箇所安堵に至っては、 先判の旨に任せ、原・今里相渡すべく候。この趣先書に染むといえ雖も、 若し疑心あるべきの由、校量せしめ候間、重ねて書き出すところなり、 仍って件の如し。 弘治二年十二月二十四日 (朱印) 西条治部少輔殿 ☆市河文書(市川育英氏所蔵) ●十二月二十六日、武田晴信、市河右馬助に、兵糧米の保管を保証する。 其方所持之粮、預置信州佐久郡之処、悪党巳下威敗之砌紛失之候間、於自今以後不可有相違候条、可被存心易者也。仍如件 弘治二年十二月廿六日 晴信(花押) 市河右馬助殿 同右近助殿 その方所持の粮米、信州佐久郡に預け置くのところ悪党巳下成敗の由に 候の間、今より以後に於いて相違べからず候条、心易く存ぜられるべき ものなり。仍って件の如し。 筆註 同様の文書が「山梨県史」資料編5 中世ニ 県外文書 長野県の部に「武田家朱印状」p717に掲載されている。(龍朱印)で晴信花押は見えない。 弘治 三年 1557 《信虎―64歳・信玄―37歳・勝頼―12歳》 ●一月廿日、長尾景虎、更級郡八幡宮に、武田晴信の討滅を祈願する。願文に晴信の信濃制服の暴虐を記す。 (長野県史) (前文略) ここに武田晴信と号する侫臣ありて、かの信州に乱入し、住国の諸氏悉 く滅亡を遂げ、神社仏塔を破壊し、国の悲嘆累年に及ぶ。何ぞ晴信に対 し、景虎闘諍を決すべき遺恨なからん。よって隣州の国主として、或い は恨を後代鬼人に誓い、或いは眼前に棄てがたき好あり、故に近年助成 に及ぶ。国の安全のため軍功を励むところ他事なし。神は非礼を受けず。 縦へ晴信渇仰の志ありと雖も、既に国務を奪はんがため、ゆえなく諸家 をして罪なく脳乱せしむ。万民争(いかで)かその感応に預からん。 云々 ●一月廿一日、武田晴信、伊那郡諸郷に夫役を課す。 (信濃史料叢書) ●二月十二日、 山田領之貴賎、就致降参者、身命不可有相違者也。仍如件。 弘治三年二月十二日 原左京亮殿 ●二月十五日、武田の将馬場信房、長尾方落合氏らの本拠水内郡葛山城を攻略する。葛山衆の多くは武田方の属し存続する。 (長野県史) ○二月十五日、武田晴信の兵、長尾景虎の属城信州水内郡葛山城を攻めて、之を陥る。尋いで、景虎、色部勝長等の参陣を求めて、晴信の軍に備ふ。 (信濃史料叢書) ○ 於于去二月十五日、信州水内郡葛山地、頸壱被討補條戦功無比類候、 弥忠信可為神妙者也。謹言 弘治三年三月十日 晴信(朱印) 内田監物殿 (「信濃史料叢書 内田文書 山形県吉川吉蔵氏所蔵」) ○ 於于去二月十五日、信州水内郡葛山地、頸壱被討補條戦功無比類候、 弥忠信可為神妙者也。恐々謹言 弘治三年三月十日 晴信(朱印) 諏訪清三殿 (「信濃史料叢書」 三澤文書 諏訪市本町 三澤清美氏旧蔵) ● 二月十五日、武田晴信、信州葛山城合戦に於ける窪川宮内丞の戦功を賞する。 去る二十五日、信州水内郡葛山の地に於いて、頸壱つ討ち捕る条、戦功の至り感じ入り候。いよいよ忠信を抽んずべきものなり。仍って件のごとし。 弘治三年三月十日 晴信(龍朱印) 窪川宮内丞殿 同様の文書の宛先 小井弖藤四郎殿。千野靭負殿。溝口殿。篠原藤十郎。土橋対馬殿。内田善三殿。程原左衛門尉五郎。岩下藤三郎殿。三井助七郎殿。小林新兵衛殿。志村禅左衛門殿。室賀兵部大輔殿。春日甚之丞。諏訪清三殿。 溝口宛。 ●二月十六日 信州鉾楯の儀、去々年駿府のご意見を以って、無事に属し候き。然れど もその後の例式晴信の刷曲なき儀どもに候と雖も、神慮といひ、駿州御 刷といひ、この方より手出し致すべきに非ず候條、堪忍に及び置き候。 今度晴信出張し、落合方家中引き破り候故、葛山の地落居、これにより 島津方も大蔵の地へ先ず以って相移られ候。この上のことは是非に及ば ず候間、爰元の人数悉くかの口へ合せしめ、景虎も中途に至り出陣候。 雪中御大儀たるべく候と雖も、夜を以って日に継ぎ、御着陣待ち入り候。 信州味方中滅亡の上は、当国の備安からず候。今般に至っては、一廉の 人数以下相嗜まれ、御稼この時候。恐々謹言 二月六日 長尾弾正少弼 景虎 色部弥三郎殿 御宿所 (「信濃史料」色部家文書) 筆註 鉾楯= むじゅん 刷曲=かいつくろい ●二月十七日、武田晴信、内応した高井郡山田左京亮に、本領同郡山田を安堵し、大熊郷を宛行う。 (長野県史) 今度最前に降参、祝着に候、仍本領五百貫之地、不可有相違、又為新恩 大熊郷七百貫文之所出置候、弥忠節肝要二候者也。仍如件。 丁巳三年二月十七日 晴信 山田左京亮殿 (「山梨県史」中世ニ 県外文書 東京都の部) ●二月廿一日、後奈良天皇伊那郡文永寺再興を山城醍醐寺理性院に令する。ついで文永寺厳詢、信濃に下り、武田晴信に文永寺再興を訴える。(長野県史) ●二月廿五日、武田晴信、越後軍の高井郡中野への移動を報じた原左京亮・木島出雲守に答え、城を固めさせる。ついで原・木島、越後軍の出陣を晴信に報じる。 (長野県史) ●三月九日、晴信、神長(守矢頼眞)宛文書 急度一筆を染め候意趣は、当社御頭役近年怠慢のみに候か。然らば一国 平均の上、百年已前の如く、祭礼勤めさすべきの由存じ候のところに、 十五箇年已来兵戈止むを得ざるにより、土民百姓困窮す。殊には嶋津・ 高梨等今に令に応ぜず候間、諸事思慮の旨あって、これを黙止し畢せぬ。 必ず嶋津・高梨当手に属せば、某素願の如くその役を勤むべきの趣催促 に及び、難渋の族に至っては、先忠を論ぜず、成敗を加ふべく候。云々 三月九日 晴信 神長殿 ●三月十四日、是より先、木島出雲守等、長尾景虎の兵の信濃に入るを、武田晴信に報ず、是日晴信、信濃に出陣せんとし、その旨を出雲守に報ず。 宛 木島出雲守・原左京亮殿 (長野市長門町 県立長野図書館所蔵 信濃史料叢書 丸山史料) ●三月十八日、 信州口の儀に就いて、態御切紙祝着千萬に候。再三啓し候如く、今度の 儀は、是非行に及ぶべき覚悟に候間、今般の儀候間、如何とも早速の御 働待ち入り存じ候。景虎ことも漸く出陣せしめ候。ご用意本望たるべき 間、それ以来かの口の儀、相替りたる子細これなく候。御心安かるべく、 万々面上を以って申し承はるべく候。恐々謹言 二月十八日 長尾弾正少弼 景虎 色部弥三郎殿 御返報 (「信濃史料叢書」色部家文書) ●三月廿三日、武田軍、高梨政頼を飯山城に攻める。政頼、落城の危機を訴え、長尾景虎政景に救援を請う。この日景虎、越後長尾政景に出兵の決意を告げ出陣を促す。 (長野県史) 信州の儀に就いて、度々啓せしむる如く、この度に至っても更によんど ころなき子細候間、見検致すべきにあらず候。さりながら、出陣の日限 等のこと、かたがた申し談じ進むべく候ところ、景虎出馬遅々に候へば、 高刑飯山の地を打ち明くべきの由、頻りと申し越され候。左様にこれあ らば、いよいよ節義を失い候条、明日(二十四日)籠もり立ち候。毎度 申し宣ぶる如く、いよいよ御大儀たるべく候。早速の御着陣簡要に候。 恐々謹言 三月二十三日 弾正少弼 景虎 越前守殿(長尾政景) (「信濃史料叢書」 県立長野県図書館所蔵文書) ●葛山城を攻落した後、武田軍は川中島一帯の長尾方の一掃を続行していた。景虎は雪の為に出陣することができず、晴信も三月十四日には、まだ甲府いた。そこへ川中島より注進状が届き、越国衆が出陣するのとの報に接し、自らも出馬すると伝えている。 (甲府市史) ●三月廿五日、甘利信州立。 (王代記 山梨県大井大俣神社旧蔵及) ●三月二十五日、甘利(昌忠)、信州へ立、十月十六日馬入、窪川孫次郎討死。 廿三日、是より先、武田晴信の軍高梨政頼を水内郡飯山城に攻むるにより、政頼、長尾景虎に救援を請い、この日、景虎出兵せんとし、同政景の出陣を促す。 ●三月二十五日、是より先、長尾景虎、善光寺に兵を進め、高井郡やまだ要害・福島等を鎮定す。是日、景虎、水内郡旭山要害を再興し、晴信の軍に備ふ。 色部弥三郎殿 長尾景虎(花押) (「信濃資料」色部家文書) ●三月二十六日、信玄、伊藤右京亮宛書状。 高梨間山之郷之内三百貫文之所、被出置候、弥可抽戦巧者也。執達仍 如件。 丁巳 三月二十六日 信玄 判 伊藤右京亮殿 (「山梨県史」中世ニ 県外文書 東京都の部) ●三月廿八日、武田晴信、水内郡飯縄権現の仁科千日に、同社支配を安堵し、武運長久を祈念させる。 ☆ 四月九日、上野三ヶ尻(群馬県碓氷郡松井田町と富岡町の中間)北武蔵・西上野の武将十名以下二万人が長野信濃守を大将にして信玄公にたてつく。飯富三郎兵衛殿・馬場民部助・内藤修理・原隼人・諸角豊後守・小宮山丹後守・飯富兵部少輔と信玄子息太郎義信公を大将に追い崩し、勝鬨(かちどき)を挙げる。続いて長野信濃守の居城を攻める準備をする。 (甲陽軍艦) ☆ 四月十二日、越後の謙信が川中島を窺うという報に、上野攻めを止め、川中島へ出馬、五月末日まで対陣し帰陣する。 (甲陽軍艦) ● 四月十三日、武田晴信、島津月下斎が水内郡鳥屋城から鬼無里を突くとの報の実否を長坂虎房らに調べさせる。 ● 四月十三日、武田晴信、上杉謙信出陣の報を得て、日向大和守等に命じて、鬼無里方面での動静を探らせる。 読み下し(「須玉町誌」) 幸便を以って自筆を染め候意趣は、大日向の所従(よ)り木島を以って 申し越さるる如くんば、鳥屋より嶋津従り番勢を加え、剰え鬼無里に向 け夜搖の由に候。実否懇切に聞き届けられ、帰参の上、言上致さるべく 候。惣じて別して帰国の次、鬼無里筋の路次等見届けらるること尤もに 候。毎事疎略無く見聞有りて、披露待ち入り候。恐々謹言 追って小川・柏鉢従り鬼無里・鳥屋筋々に向かい、絵図いたされ候て、持 参有るべく候。(下略) (「須玉町誌」資料編第一巻) 第三回川中島合戦 ●四月十八日、景虎が川中島に出陣し、晴信は決戦を避けて安曇郡小谷城を攻め、八月に入ってやっと両軍が川中島で対戦した。これを第三回川中島の戦いという。 ●この年の四月には晴信は川中島に出陣し、八月には長尾景虎と三回目の対戦をしている。小山田氏も晴信に従って川中島に出陣しており、小林方はその信濃陣中まで訴えに赴いている。 (妙法寺記) ●四月廿一日、長尾景虎、善光寺に着陣、武田方の高井郡山田城・福島城などを奪う。ついで旭山城を再興する。 当地善光寺に至って着陣せしめ候、敵方より相拘り候地利、山田の要害 並びに福島の地打ち明け候。除(のけ)衆悉く還住候。先づ以って御心 安かるべく候。方々より申し来る子細も御座候条、早速御着陣待ち入る 計りに候。如何とも御動(はたらき)祝着たるべく候。恐々謹言 長尾弾正少弼 景虎(花押) 四月廿一日 色部彌三郎殿 御宿所 (『信濃史料』色部文書) ●五月十日、長尾景虎、高井郡小菅山元隆寺に願文を奉納、武田晴信を信濃に 引き出し決戦することを祈る。 信州に至っての出陣に就いて、去る頃野島平次右衛門瀬波郡下向の刻、 一筆啓せしむるのところ、御懇の報候。本領祝着に候。去る月十八山を 越え、同二十五、敵陣数箇所、根小屋以下悉く放火し、同日旭要害を再 興し陣を居え候。如何とも武略を廻らし、晴信を引き出し、一戦を遂ぐ べき覚悟に候。その上敵地より、種々申し刷(つくろ)旨候。御心安か るべく候。恐々謹言 長尾弾正少弼 景虎(花押) (弘治三年)五月十日 土佐林能登入道殿 (『信濃史料』芳賀文書) ●五月十日、長尾景虎、武田晴信と信濃に決戦せんとし、高井郡元隆寺に戦勝を祈る。 (前文略) 伏して惟(おもん)みるに、武田晴信世甲・信に拠り望を競ひ威を振ひ、 干戈息むなし、越後国平氏の小子長尾景虎、去る夏以来高梨らのため、 しばしば諸葛の陣を設くと雖も、晴信終に兵を出さず。故に鉾戦い受く る能はず。これにより景虎暫く馬を飯山の地に立て、積年の憤と散ぜん と欲す。云々 弘治三年五月十日 平景虎敬白 (「信濃史料」小菅神社文書) ●五月十三日、長尾景虎、香坂城を焼き、この日小県郡境の坂木岩鼻を破る。ついで晴信が出陣しないため飯山城に兵を返し、高井郡野沢の湯に市河藤若を攻める。 ●五月十五日、 当口動(はたらき)の儀について、急度御飛脚満足致し候。去る十二日 に香坂へ行(てだて)の儀に及び、近辺悉く放火、翌日坂木岩鼻まで、 打散じ候、凶徒一二千程取り出候へども、懸り動(はたら)き候へば、 五里三里先より敗北候間、打ち捕へざること無念このことに候。重ねて 天気次第相動き、珍しき儀候へば、申し入るべく候。恐々謹言 先刻申し入れ候儀、御用候間、草出羽同心、御大儀たるべく候へども、 御加勢の儀この時に候間、申すことに候。 (弘治三年)五月十日 平三景虎 高梨殿御報 (「信濃史料」) 六月十六日 晴信、市川籐若宛書状(「信濃史料叢書」 謙信公御代御書集』) 急いで客僧をもってお伝えします。そもそも長尾景虎が六月十一日に飯山に陣を移した様子で、風聞では高梨政頼がそちらへの融和工作をしているようですが、いうまでもなく、誓約の旨のとおりこちらの心底は残らず申し届けてあるとおりです。幸いに当方の陣は警固であり、さらに来る十八日には、上州勢がことごとく加勢にこちらのほうへ出張し、上田方面には北条綱成が着陣する予定です。越後勢は日を追って滅ぶでしょう。それが晴信の本意であることを知ってください。早々に軍備の調えを切に頼むこと、相変わらずの忠節を望むところです。なお、追って使者を送り一部始終を申し上げます。恐々謹言 六月十六日 晴信(花押) 市川籐若殿 (山日新聞による) ☆六月廿三日 晴信、市川籐若宛書状 ●六月廿三日、深志城の武田晴信、使番山本菅(勘)助を市河藤若に遣し、救援出陣を手配したと告げる。 ★山本勘助★信州塩田に布陣の晴信が、水内郡市河に在城の市河藤若にあて、塩田城主飯富虎昌が川中島に進出する計画のあることを、山本菅(勘)助を使番として報じる。 (北海道、市河良一家文書) 注進状披見。仍つて景虎、野沢の湯に至り陣を進め、其の地 へ取り懸かるべき模様、又武略に入り候と雖も、同意無く、 剰え備堅固故、長尾功無くして飯山へ引退き候由誠に心地よく候。何れも今度、其の方の擬たものしき迄に候。なかんずく野沢在陣のみぎり、中野筋後詰の義、飛脚に預り候き。すなわち倉賀野へ越し上原与三左衛門尉、又当年の事も塩田在城の足軽を始めとして、原与三左衛門尉五百余人、真田へ指し遣はし候処、既に退散の上是非に及ばず候。全く無首尾有るべからず候。向後は兼て其の旨を存じ、塩田の在城衆へ申し付け候間、湯本より注進次第に当地へ申し届けるに及ばず出陣すべきの趣、今日飯富兵部少輔の所へ下地を成し候の条、御心易く有るべく候。猶山本管助口上有るべく候。 恐々謹言。 六月廿三日 晴信(花押) 市河藤若殿 ●七月三日、是より先水内郡飯山城将高梨政頼、越後春日山城将直江實綱を音文する。 (高梨文書) ●七月五日、武田軍、長尾方安曇郡小谷(おたり)城を攻め落とす。 ●七月五日、武田晴信感状。 於于去五日信州安曇郡小谷之城、最善攻登、頸壱討捕、剰被疵二ヶ所候 条、戦功感入候、弥可抽忠信者也。仍如件。 七月十一日 晴信(龍朱印) 溝口 (信濃史料) ●七月五日、武田晴信の軍、安曇郡小谷に長尾景虎の軍と戦う。尋いで、晴信、諸士の功を賞する。 於于去五日信州安曇郡小谷之城、最善攻登、頸壱討捕之條、忠節感入候、 弥可抽戦巧者者也。仍如件。 弘治三年七月十一日 晴信(朱印) 小平木工丞殿 筆註 ☆ 同様の文書が多数ある。(「信濃史料」『諸州古文書』) 岩波六郎左衛門殿・篠原藤十郎殿・三井助七郎殿・小井弖藤四郎殿 岩波藤五郎殿・大村与右衛門殿 ● 「千野文書」諏訪市本町 千野俊次氏所蔵 抜粋 小谷城御本意の時分、構際に於いて弓を涯分仕り候。板垣具に言上故、高 白斎を以って深志の御対面所へ召し出し、此の類なく相?ぐの由、御褒美 候事。 ● 七月廿三日、武田晴信、大須賀久兵衛に、埴科郡坂木南条の地を宛行い、検使を派遣して所領を渡すと告げる。 ☆ 八月、信玄公は途中であった上野の信濃守の居城箕輪城を攻めた。十月中旬に信玄公は帰る。 (甲陽軍艦) ●八月六日、武田晴信、安曇郡山田左近をして、本領を安堵せしむ。(山田文書) ●八月廿九日、長尾景虎、政景の軍、武田軍を水内郡上野原に破り、この日戦功を賞する。(第三回川中島合戦) 今度於信州上野原(水内郡)一戦、働無比類次第ニ候、向後弥?之事肝 心に儀。謹言。 (弘治三年)八月廿九日 景虎 南雲治良了右衛門とのへ (同様の文書の宛先 大橋弥次郎殿) ● 九月二十日、越後方の大将、長尾政景の感状 信州上野原に於いて、晴信に対して、合戦を遂げ、勝利を得候砌、神妙 の働き比類なく候。向後いよいよ稼がるべきこと専要(大切)に候。 謹言。 九月廿日 政景 下平弥七郎殿 ● (「川中島の戦い」小林計一郎氏) ●十月九日、武田晴信、安曇郡千国谷に高札を掲げ、谷中の乱妨狼籍を禁止する。 ●十月十六日、馬入。窪川孫二郎討死。【王代】 ● 11月六日、武田家奉行衆、小尾藤七良に対し、京進面付として五百六十文の納入を命ずる。(正親町天皇即位に伴う経費の捻出か) 就京進面付之事(略) 弘治三年十一月六日 長坂筑後虎房 (花押) 三枝右衛門尉 (花押) 室住豊後守虎光(花押) 小尾藤七良代 (「須玉町誌」史料編第一巻) ●此年、将軍足利義輝、長尾景虎上洛のため景虎、武田晴信の和睦をはかり、聖護院道澄を派遣する。 ●弘治元年(1555)閏十月の甲越和睦は、その後の信濃侵略によって、有名無実となり、翌二年八月には春野望が景虎の家臣の大熊朝秀を内応させたことから、再び両者の関係は悪化した。この年の二月十五日、晴信は景虎の機先を制して川中島へ兵を送り、善光寺の南の葛山城を攻落させた。 (甲府市史) ●此年、武田晴信、善光寺の仏像・仏具を小県郡彌津に移す。信濃善光寺とその門前町が寂れる。 ●弘治年間、武田晴信、伊那郡に小野川・波合関所を設ける。この頃、清内路・帯川・心川関所も置く。 《参考》川中島の戦い。『川中島五箇度合戦記』 第一回 天文廿二年八月(1553) 第二回 天文廿四年四月(1555) 百五十日間 第三回 弘治 三年 (1557) 第四回 永禄 四年九月(1561) 第五回 永禄 七年八月(1564) 永禄 元年 1558【甲府】《信虎-65歳・信玄-38歳・勝頼-13歳》 ●正月十六日、今井昌良、将軍家側近大館晴光に、晴信の信濃守護職、義信の准三管領任官の礼をする。 ●二月廿日、晴信、将軍家の御内書の応じて景虎と和睦する。 《解説『甲府市史』》 将軍足利義輝は長尾景虎を上洛させるために晴信と和睦させる工作をしていた。既に弘治三年八月には将軍家の使者が甲斐へ遣はされ、晴信も信濃守護職に任命されることを条件に、承認の意向を示していた、この年二月には景虎もこれに応じ、一応両者の和議が成立した。 永禄 元年 1558【長野】 ●二月廿日、足利義輝、甲越和睦への長尾景虎の同意を嘉(よみ)する。この 頃晴信、信濃守に補任される。 (長野県史) ●三月六日、武田晴信、陸奥会津高橋郷の大島次郎右衛門に、甲信両国で一カ月荷物五駄の諸役を免除する。 (長野県史) ●四月、武田晴信、水内郡柏鉢・埴科郡東条・更級郡大岡各城在番衆の当番を定め、真田幸隆・小山田昌行を埴科郡尼飾城を在番させる。 (長野県史) ●この年、武田晴信、川中島地方をほぼ平定する。 (長野県史) 永禄 元年 1558【評判】 ● 永禄元年二月、長尾謙信與武田信玄、和睦あて、信州筑摩川にて會盟せらる べしと聞ける時、信玄過言を以て和談を破られ、重ねて対陣に及び玉ふこと 本書の如し。 ●五月、武田信繁、家訓九十九カ条を定め、嫡子長老に遣わす。(別記) ●六月、小田原城主北条氏康、甲州の出家に過所を与える。 (甲府市史) ●閏六月、晴信、醍醐理性院に信濃文永寺ほかの再興を報ずる。 (甲府市史) ●九月二十五日、武田晴信、善光寺の阿弥陀如来像・源頼朝像などを甲府へ移す。栗田氏・大本願上人らも甲府へ移る。次いで甲斐板垣に善光寺如来堂を造立する。(長野県史) ●九月、晴信、信濃善光寺の本尊を甲斐に移し、新寺の建立を始める。 (甲府市史) 《解説》新寺は翌二年二月に完成し、二月二十六日に本尊が入仏されている。 ●善光寺如来、九月二十五日、甲府付玉フ。板垣十三日地引始。【王代】 ●十一月廿八日、晴信、将軍足利義輝に信濃出兵の弁明状を送る。(甲府市史) 《解説『甲府市史』》 武田晴信が将軍足利義輝の側近である大館晴光に宛てた書状。 一、去夏(弘治三年)に私(晴信)が越後に向けて出兵したのが将軍家を軽んじたものと書いてあり、大変驚きました。すでに先般瑞林寺が使者として下向した折、信濃守護職補任の御内書を頂戴しておりますので、他に手出しするつもりはなかったのですが、その後長尾景虎が両度にわたって信濃国内で放火したからです。これこそ上意に背くものでしょう。 二、去年甲越和睦をまとめるために聖護院門主の使者として森坊が御内書をもって甲府へ来ました。これによって私は合戦をやめ、信府中にある城普請を申しつけていた際、景虎も御内書を頂戴し、いまだ和睦も成立しない前に、信濃の海津の地に放火しました。これは皆がよく存じていることです。 三、その報復のために私は越後に向けて出兵したのであり、決して上意をないがしろにしたのではありません。 四、今回重ねて出兵したのは、以下の理由によるものです。去夏に出兵した折に越後の府中を破却しようと思ったのですが、将軍家よりの使僧が甲府に下向したとの知らせを留守のものが伝えてきたので、上意を重んじて帰陣し、使者の西堂に対しての私の考えを述べ、前述のように信濃守護補任の御内書を持参していたので、和睦を成立させるため、その使者に越後へ赴くよう勧め、使者が承知して越後に到着したところ、越後では無理に押し返してしまいました。これは上意にが逆心するものであり、無分別というべきです。 五、私は信濃守護職補任の御案内に従い、信越国境を境界とすると承知しております。 なお詳しくは富森左京亮が口上で申し述べます。追って上使の瑞林寺・佐々伊豆寺は越後へ向かいました。津田掃部助は、談合のために一両日前に甲府に着いております。 永禄 元年 1558【妙法】 ●此年、八月五日大風吹申候。乍去秋世中粟半、耕作同芋半世中 殊に大麦小麦半世中稲・大豆・小豆は廿分に出来候而、売買何も安し。 永禄 二年 1559【甲府】《信虎-66歳・信玄-39歳・勝頼-14歳》 ●武田家一門、高野山引導院(持明院)の黄金を寄進する。 一、黄金五両 晴信 花押 一、黄金壹両 信繁 花押 一、同 信廉 花押 一、同 信是 花押 右一国一家勧進状、仍如件 引導院 永禄 二年 1559【王代】 ○ 二月十六日、新善光寺板垣立。入仏二月十六日。(王代) 永禄 元年 1558【甲府】《信虎-65歳・信玄-38歳・勝頼-13歳》 ●正月十六日、今井昌良、将軍家側近大館晴光に、晴信の信濃守護職、義信の准三管領任官の礼をする。 ●二月廿日、晴信、将軍家の御内書の応じて景虎と和睦する。 《解説『甲府市史』》 将軍足利義輝は長尾景虎を上洛させるために晴信と和睦させる工作をしていた。既に弘治三年八月には将軍家の使者が甲斐へ遣はされ、晴信も信濃守護職に任命されることを条件に、承認の意向を示していた、この年二月には景虎もこれに応じ、一応両者の和議が成立した。 永禄 元年 1558【長野】 ●二月廿日、足利義輝、甲越和睦への長尾景虎の同意を嘉(よみ)する。この頃晴信、信濃守に補任される。 ●三月六日、武田晴信、陸奥会津高橋郷の大島次郎右衛門に、甲信両国で一カ月荷物五駄の諸役を免除する。 ●四月、武田晴信、水内郡柏鉢・埴科郡東条・更級郡大岡各城在番衆の当番を定め、真田幸隆・小山田昌行を埴科郡尼飾城を在番させる。 ●九月二十五日、武田晴信、善光寺の阿弥陀如来像・源頼朝像などを甲府へ移す。栗田氏・大本願上人らも甲府へ移る。ついで甲斐板垣に善光寺如来堂を造立する。 ●この年、武田晴信、川中島地方をほぼ平定する。 永禄 元年 1558【評判】 ●永禄元年二月、長尾謙信與武田信玄、和睦あて、信州筑摩川にて會盟せらるべしと聞ける時、信玄過言を以て和談を破られ、重ねて対陣に及玉ふこと本書の如し。 永禄 元年 1558【甲府】 ●五月、武田信繁、家訓九十九カ条を定め、嫡子長老に遣わす。(別記) ●六月、小田原城主北条氏康、甲州の出家に過所を与える。 ●閏六月、晴信、醍醐理性院に信濃文永寺ほかの再興を報ずる。 ●九月、晴信、信濃善光寺の本尊を甲斐に移し、新寺の建立を始める。 《解説》新寺は翌二年二月に完成し、二月二十六日に本尊が入仏されている。 ●善光寺如来、九月二十五日、甲府付玉フ。板垣十三日地引始。【王代】 ●十一月廿八日、晴信、将軍足利義輝に信濃出兵の弁明状を送る。 《解説『甲府市史』》 武田晴信が将軍足利義輝の側近である大館晴光に宛てた書状。 一、去夏(弘治三年)に私(晴信)が越後に向けて出兵したのを将軍家を軽んじたものと書いてあり、大変驚きました。すでに先般瑞林寺が使者として下向した折、信濃守護職補任の御内書を頂戴しておりますので、他に手出しするつもりはなかったのですが、その後長尾景虎が両度にわたって信濃国内で放火したからです。これこそ上意に背くものでしょう。 二、去年甲越和睦をまとめるために聖護院門主の使者として森坊が御内書をもって甲府へ来ました。これによって私は合戦をやめ、信府中にある城普請を申しつけていた際、景虎も御内書を頂戴し、いまだ和睦も成立しない前に、信濃の海津の地に放火しました。これは皆がよく存じていることです。 三、その報復のために私は越後に向けて出兵したのであり、決して上意をないがしろにしたのではありません。 四、今回重ねて出兵したのは、以下の理由によるものです。去夏に出兵した折に越後の府中を破却しようと思ったのですが、将軍家よりの使僧が甲府に下向したとの知らせを留守のものが伝えてきたので、上意を重んじて帰陣し、使者の西堂に対しての私の考えを述べ、前述のように信濃守護補任の御内書を持参していたので、和睦を成立させるため、その使者に越後へ赴くよう勧め、使者が承知して越後に到着したところ、越後では無理に押し返してしまいました。これは上意にが逆心するものであり、無分別というべきです。 五、私は信濃守護職補任の御案内に従い、信越国境を境界とすると承知しております。 なお詳しくは富森左京亮が口上で申し述べます。追って上使の瑞林寺・佐々伊豆寺は越後へ向かいました。津田掃部助は、談合のために一両日前に甲府に着いております。 永禄 元年 1558【妙法】 ●此年、八月五日大風吹申候。乍去秋世中粟半、耕作同芋半世中 殊に大麦小麦半世中 稲・大豆・小豆は廿分に出来候而、売買何も安し。 永禄 二年 1559【甲府】《信虎-66歳・信玄-39歳・勝頼-14歳》 ●武田家一門、高野山引導院(持明院)の黄金を寄進する。 一、黄金五両 晴信 花押 一、黄金壹両 信繁 花押 一、同 信廉 花押 一、同 信是 花押 右一国一家勧進状、仍如件 引導院 永禄 二年 1559【王代】 ○新善光寺板垣立。入仏二月十六日。 永禄 二年 1559【妙法】 ○正月小二月大。 ○正月日、雪水出候而、悉く田地上家村を流し候。就中此年二月信州への番手をゆるし候而、又谷村御屋敷不審同つほの木又さいかち公事なとを、祝師衆計不致ゆる候而、宮の川よけを被成其上彌三郎殿御意を以て宮林の木を祝師衆まゝに被成小林尾張殿奉行にて宮林をきりわたを立被納候然者小林和泉殿宮林を為伐間敷由二三度押被申候へ共祝師衆皆々不用して彌三郎殿下知にて用の程伐候而宮の致川よけ候。 ○同其年の春は売買何も安し。 ○同年四月十五日大氷降。夕顔、茄子麻痺苗殊鶯菜悉打折何も無し。大麦は半分こほし候。 ○就中、庚戌年(天文十九年/1550)小林宮内少輔殿河よけ不審に新井左近地付の林を伐候而、堰候候へは其過怠として下吉田百余人の所より質者を一兵衛殿取被申候を皆々道理を申分候間、松山より悉く質物共を反し被申候へ共左近同殿法林坊質物計不被返候間打置申候処に己未年(永禄二年)四月慥に小山田御意にて手取二つ新鍬一勺拾年と申反し被申候之間目出度請取申候。 ○永禄二年十二月七日に大雨降怱に雪しろ水出て法ケ堂皆悉流れ申候。又在家の事は中村まるく流し候事無限。 《筆註》今川義元関係(『富士吉田市史』) 弘治 三年(1557) ※今川義元、慶覚坊に東専坊の遺跡譲渡を認める。 ※今川義元、中河の浅間神領屋敷相論につき裁許する。 ※今川義元、宝幢院に富士大宮別当職と別当領分を安堵する。 ※今川義元、富士登二郎に河東十分一を免許する。 《筆註》今川氏真関係(『富士吉田市史』) 永禄 元年(1558) ※今川氏真、大鏡坊頼慶に富士山宮大夫跡職を安堵する。 ※今川氏真、大鏡坊頼慶に慶覚坊跡職を安堵する。 ※今川氏真、浅間神社の神領等を安堵する。 ※今川氏真、静岡浅間神社流鏑馬千歳方郷役を改めて命ずる。 ※今川氏真、東泉院に下方五社領内の金剛寺と玉蔵院を付属する。 永禄 二年 1559【長野】 ●三月廿日、武田晴信、東北信・伊那の諸将士・商人らに、分国内往還の諸役を重ねて免除する。 永禄 二年 1559【諸州古文書】「甲州二ノ上」 ●武田晴信、分国中の商売の諸役を免許した者の名前をまとめる。 分国商売之諸役免許之分 従天文十八年 1549 一、五月九日、分国諸開諸役一月ニ三疋口令免許者也。 奏者 秋山善右衛門 左進士新兵衛尉 一、敵之時宜節々聞届就注進、一月ニ馬一疋口諸役令免許者也。 奏者 穴山殿 拾月二日 柳澤 一、一月荷物三疋口、往還不可有諸役者也。 奏者 向山又七郎 拾月廿日 対馬守 一、於京都絹布已下之用所一人ニ申付候間、弥以堅奉公可申事専一候、因茲分 国之諸役 一月ニ馬三疋口、無相違可勘過者也、 拾月吉日 小薗八郎左衛門尉 天文十九年 1550 一、卯月三日、濃州之商人佐藤五郎左衛門尉過書之事、右分国 諸役所一月馬三疋口無相違可通者也。 奏者 向山又七郎 小山田申請 一、別而抽忠信之由申候間、一月ニ馬三疋口諸役令免許者也、 奏者 今井越前守 拾一月十三日 松嶋今井越前守 一、甲信之内、一月馬五疋口諸役令免許者也、 奏者 跡部九郎右衛門尉 六月十六日 末木土佐守 一、裏之台所へ之塩、一月ニ二駄諸役令免許者也。 七月十日 一、馬三疋口一月ニ三度宛、諸役令免許者也、 奏者 跡部伊賀守 甲寅卯月八日 大日方山城守 一、一月ニ一往馬三疋宛無相違可勘過者也。仍如件。 奏者 跡部伊賀守 卯月十二日 麻績新左衛門尉 一、就別而致奉公、一月ニ馬二疋口諸役令免許者也。仍如件。 奏者 跡部伊賀守 卯月四日 窪村豊後守 一、鵝目七百貫文預候利銭之事、可為四文字、以其故商諸役一月ニ馬六疋口、 又門屋四間令免許者也。 奏者 跡部九郎右衛門尉 卯月十二日 林土佐守 一、分国之内一月ニ馬十疋宛諸役令免許候、恐々謹言。 奏者 高白斎(栗原左兵衛) 卯月晦日 岡部豊後入道 一、分国之内一月馬三疋口出置者也。 天文二十四年 一、就小田原南殿奉公、一月ニ馬三疋分、諸役令免許者也。仍如件。 奏者 跡部次郎衛門尉 天文廿四年三月二日 向山源五左衛門尉 弘治元年 一、拾二月十九日 平原甚五左衛門尉 一、就山内在城諸役所并諸関令免許者也。 奏者 跡部伊賀守 原弥七郎 六月吉日 九一色衆 一、就越国筋往還、自由者一月ニ馬五疋分国之内、諸役令免許者也。 奏者 今井越前守 六月廿五日 仁科民部入道殿 一、善光寺還往之間、一月ニ馬壱疋口諸役令免許者也。 奏者 飯田源四郎 弘治二年八月二日 水科修理亮 一、一月馬五疋之分、商之諸役令免許者也。仍如件。 奏者 跡部伊賀守 十二月六日 五味八郎左衛門尉 一、就塩硝鉛下、分国之内一月馬三疋宛諸役令免許者也。仍如件。 奏者 秋山市右衛門尉 弘治三年正月廿八日 彦十郎 一、信国之内甘馬一月ニ七疋無相違可勘過者也。 奏者 原弥(七郎) 八月三日 依田新左衛門尉 一、越中へ使者ヲ越候、案内者可馳走之旨申候間、一月ニ馬壱疋之分商売之諸役令免許者也。 奏者 高白斎 一、甲信両国中、毎月馬二疋之分、商之諸役令免許者也。 奏者 高白斎 弘治三年十月三日 油科佐渡守 一、甲信両国中、毎月馬二疋宛、商之諸役令免許者也。 奏者 高白斎 弘治三年 十月三日 窪田外記 弘治四年 永禄元年 一、参月六日 御印判三疋一ツ二疋一ツ二枚ニ出候。 一、従当年六月至于来十二月一日ニ馬五疋分諸役令免許者也。 奏者 原弥 永禄元年六月朔日 屋代殿 一、小笠原信貴息就在府毎月粮米回状分、青柳より府中迄諸役令免許者也。 奏者 高白斎 永禄元年六月十一日 一、甲信両国中、毎月馬三疋之分、商之諸役令免許者也。 奏者 高白斎 十月三日 窪田伊賀守 一、一月三度宛、彼者往還之荷物、壱駄分諸役令免許者也。 奏者 金丸平三郎 松尾被官 助右衛門 永禄元年拾月廿六日 一、信州之内一月ニ馬二疋分商之諸役令免許者也。仍如件。 奏者 小山田備中守 永禄元年十一月三日 上原之保坂中務丞 一、於甲信両国彼荷物、一月ニ拾駄分、諸役所渡已下無相違可勘過、富士参詣之時節モ可為同前者也。遂而善三郎事者、令在国者善明已後モ可為同意(前) 奏者 宗春 拾月十日 松木善明 同善三郎 一、馬三疋口一ケ月一住つゝ諸役令免許者也。 奏者 野村兵部助 己未二月三日 葉山左京進 一、其方父子参府之砌、一月之内荷物三駄之分諸役令免許者也。 奏者 跡部伊賀守 二月八日 大日方入道殿 已上 永禄二年 右書立之外之族、縦雖持印判不可叙用者也、仍如件。 永禄二年 三月廿日 (『甲州古文書』) 永禄 二年 1559 ※永禄二年四月、謙信は京都に上り、参内、公方義輝公に拝謁した。輝虎の名をいただき、網代の塗輿、御紋をゆるされ、文の裏書きまでゆりされて帰国した。管領職は辞退し、朱塗りの柄の傘、屋形の号もゆるされ、三管領に準ずるうようになった。(河中島五箇度合戦記) 永禄 二年 1559 4月 ●四月、武田信玄、川内領の関所に禁制を掲げる。(【甲府/甲州古文書】) ●武田信玄、甲斐国内に寺社の禁制を掲げる。 《解説『甲府市史』》 (略)晴信から信玄と改名した直後の竜朱印状と思われる。 ○十一月九日、武田信玄、身延山久遠寺に末寺支配を安堵する。 ●五月、武田信玄、長尾景虎上洛に乗じ奥郡・越後境出陣を計り、佐久郡松原諏訪社に戦勝を祈る。 (長野県史) ●『松原神社文書』武田晴信、信玄を名のる。 敬白 願書の意趣は、 今度ト問最吉に任せ、甲兵を信州奥郡並びに越州の境に引卒す。信玄多 年如在の礼賽あり、造次にもここに於いてし顛沛にもここに於いてす。 希はくは天鑑に随ひ、敵城悉く自落退散し、しかのみならず長尾景虎吾 軍に向はば、すなはち越兵追北消亡せんことを、併せて松原三社の保祐 を仰ぐものなり。神明私なし。凱歌を奏して家安泰に帰するの日に至ら ば、具足一両糸毛・神馬一疋、宝前に献じ奉るべきの条、件の如し。 永禄二年己未年 五月吉日 釈信玄 花押 ●六月二十六日、足利義輝、武田晴信の出兵なじり、信濃の諸将士に長尾景虎に従い戦闘を停止するように令する。 ●八月三日、屋代政国、諏訪上社への寄進地年貢を桑原市中升(ます)で十八俵と定め これを同社人に伝える。 ●九月一日、武田信玄、小県郡下之郷社(生島足島神社)に願文を納め、長尾景虎との決戦の勝利を祈る。 敬ひ申す願書【生島足島神社文書】 帰命頂礼、下郷諏訪法性大明神に言ひて曰はく、徳栄軒信玄越軍出張を 相待ち、防戦せしむべきか否やの吉凶、預め四聖人にト問す。その辞に 曰はく、九二の孚喜あるなり。 〔薦約を経て神の享くるところとなる。これを斯喜となすと云々〕 希はくは天艦に随ひ越軍と戦ひ、すなはち信玄存分の如く勝利を得、し かのみならず長尾景虎忽ち追北消亡せんことを。併せて下郷両社の保祐 を仰ぐものなり。神明私なし。 凱歌を奏し、家安泰に帰するの日に到って、己未の歳よりこれを始め、 十箇年の間、毎歳青銭十緡修補のため社納し奉るべきものなり。仍って 願状件の如し。 維時永禄二年秋九月 武田徳栄軒信玄 花押 ●九月、武田晴信の軍、上野安中・松井田を侵す。(【長野】) ※十月二十六日、長尾景虎、越後に帰る。(【長野】) ●十一月十三日、長尾景虎の関東管領補任を祝し、村上義清・高梨政頼を筆頭に、須田・真田氏ら信濃の諸将多数、太刀などを贈る。(【長野】) ●十一月廿日、武田信玄、屋代政国に、隠居の際に埴科郡福井などの地を宛行ことを約し、分量に従って軍役を勧めるよう記す。(【長野】) (信玄宛行状の軍役規定の初見) ●十二月十三日、秋山善右衛門、伊那郡赤須昌為に、草刈場に入れる区域と馬数の規定を渡す。(【長野】) 永禄 三年 1560【甲陽】《信虎-67歳・信玄-40歳・勝頼-15歳》 ●二月朔日に、北条氏康公より御使いが甲府に達する。その理由は、謙信が去年十月より上野の飛来へ進出して来ていて、関八州の侍大将勢を大田三楽(資正)が策略を用いて悉く謙信旗本に勢力下にひきつけている。また都から近衛殿を通じて公方と名付け、氏康を倒すべき名目を得たそうで、このままではと考え、信玄公の加勢をお頼み申す由の便である。云々 永禄 三年 1560 ●二月二日、武田信玄、諏訪上社造営(御柱立)にあたり、信濃一国に諸役を課する。(【長野】) ※三月卅日、能登、神保良春ら、武田信玄に応じ、長尾景虎の信濃出陣の背後を突く。景虎、これを越中富山城に破る。(【長野】) ●三月十一日、信玄、郷中での重科人の密告を命ずる。【甲府】 ●四月廿八日、長尾景虎、信玄が越中に外交の手を伸ばしことを常陸の佐竹氏に報ず る。(年代は推定)【甲府/福王寺文書】 ※五月十九日、織田信長、今川義元を桶狭間で破る。 ○五月十九日、駿河之義元尾張成実ニテウチ死。(【王代】) ●六月六日、信玄、御室浅間神社に分国諸関所通行手形を与える。【甲府/浅間文書】 ●六月十五日、武田信玄、香坂筑前守に更級郡横田のうち屋代氏らは海津城を築かせ、 城代春日虎綱を置く。【長野】 ●七月十三日、信玄、高野山成慶院を宿坊と定める。【甲府/高野山成慶院文書】 ●八月二日、信玄、龍王川除場の移住人を募る。【甲府/保坂家文書】 ●八月廿五日、信玄、府中八幡社の国中社人の勤番制を敷く。【甲府/八幡社文書】 ●八月廿五日、信玄、国中修験僧の条目を定める。【甲府/武田文書】 ※八月二十五日、長尾景虎、関東出陣中の留守諸将の掟を定め、信濃鎮定は高梨政頼に 輪番合力するように命じる。【長野】 ※九月廿八日、北条氏康、武州河越に出陣。ついで長尾景虎、上野厩橋城に拠る。 ●十月十七日、信玄、北条援助のため、加賀・越中一向宗徒の越後侵攻を本願寺顕如に 求める。【長野】 ●十月十八日、信玄、北高全祝を岩村田竜雲寺に入れ、曹洞門派に条目を定める。 【甲府/永昌院文書(山梨県山梨市) ●十月廿二日、武田信玄、大井左馬允に、小諸城の定普請小諸出陣のさいの兵糧輸送を命じる。【長野】 永禄四年 1561【長野】《信虎-68歳・信玄-41歳・勝頼-16歳》 ●二月十四日、武田信玄、諏訪上社の宝鈴を鳴らす銭額を上五貫文・中三貫文・下一貫二百文と定める。 ※三月、長尾景虎、信濃・越後と関東将士を率い、北条氏康を相模小田原城に囲む。 ※三月、長尾景虎、鎌倉鶴ヶ丘八幡宮の神前で関東管領就任を報告、上杉政虎と改名、この日足利義氏擁立を約する。 ●4月十一日、武田軍、北条氏康支援のため碓氷峠を越え上野松井田に進む。ついで借宿近辺に放火する。 ●四月十七日、武田信玄、市川右馬助ら一族に、上野南牧の戦功により蔵入地佐久郡瀬 戸などを宛行う。 ●八月二十四日、信玄、上杉政虎が越後・信濃勢を率い善光寺に出陣する報により、信 濃など分国諸将を率い川中島に着陣する。 ☆第四回川中島合戦☆ ●九月十日、上杉政虎・武田信玄軍、川中島で激戦し、死傷者多数を出す。政虎自ら太刀打ちし、信玄の弟信繁(典厩)ら討ち死にする。【長野】 ●今度於信州川中嶋、輝虎及一戦之刻、小宮山新五左衛門尉被囲大勢之処、其方助合若 党数輩被疵、剰彼敵三人討捕之、無比類働尤神妙也、弥可致忠戦之状如件。 永禄四年九月十日 晴信判 河野但馬守との【甲府/御庫本古文書纂】《信憑性?》 ●今十日巳刻、与越後輝虎於川中嶋合戦之砌、頸七討捕之、其方以走廻被遂御本意候、 弥可忠信者者也、仍如件。 永禄四年九月十日 信玄(花押影) 松本兵部殿【甲府/益子家文書】《信憑性》 ※上杉政虎が小田原へ出征していた際、信玄は佐久軍へ出陣して、政虎の後方退路をおびやかした。越後へ帰着した政虎は八月十四日、川中島に向かって出陣した。九月十日早朝、両軍は川中島の八幡原で対戦した。これを第四回の川中島合戦といい、最大の激戦であった。前半は上杉方、後半は武田方が有利な展開をした。 ※【甲府/『大田家文書』】 今度信州表に於いて、晴信に対し一戦を遂げ、大利を得られ、八千余討ち捕られ候こと、珍重の大慶に候。期せざる儀に候と雖も、自身太刀討に及ばるる段、比類なき次第、天下の名誉に候。よって太刀一腰・馬一疋(黒毛)差し越し候。はたまた当表のこと、氏康松山口に致って今に張陣せしめ候、それに就いて雑節ども候。万一出馬遅延に於いては、大切たるべきことども候間、油断なく急度今般越山あるべく候。手前可火急に申し廻り候条、かくの如くに候。早々待ち入り候。なほ西洞院左兵衛督申すべく候条詳らかにする能はず候。恐々謹言。 十月五日 前久(花押) 上杉殿 永禄四年 1561【長野】 ●十月卅日、信玄、山城清水寺成就院に伊那郡面木郷を寄進し、高井郡市川城・水内郡野尻城攻略のうえさらに寄進を約する。このころ飯山・野尻両城付近を除き、武田軍がほぼ信濃を制圧する。 ●十一月二日、信玄、北条氏康赴援に出兵するにあたり、佐久郡松原神社に戦勝を祈る。ついで出陣する。 ●十一月十三日、武田信玄、上野甘楽郡に入り、つきで国峰城を攻略する。 ●十一月廿日、信玄、四郎勝頼の元服式の祝儀を諸方へ送る。 【甲府/栃木県採集古文書】 ●十一月廿五日、信玄、上野国一宮に高札を与える。【甲府/大坪家文書】 ●十一月廿七日、上杉政虎、古河城近衛前久(さきひさ)救援に関東出陣、この日武田信玄と呼応する北条氏康と武蔵生山(なまのやま)で戦う。 ●十一月廿八日、信玄、小畑氏に松山城攻めの感状を与える。【甲府.諸家家蔵文書】 永禄四年 1561【長野】 ●十二月廿三日、武田信玄、小県郡長窪・大門両宿に、信玄竜朱印状によらず伝馬を出すことを禁じる。 ☆第四回川中島合戦☆(吉田豊氏訳・『甲陽軍艦』) 【訳】永禄四年辛西八月十六日、信州川中島から甲府に伝令が来て申しあげるには、上 杉輝虎が出動して、海津の向かい、西条山に陣をとり、ぜひとも海津城を攻め落とそう としている。その兵力は一万三千ほどとのことであった。 そこで信玄公は、同月十八日、甲府を出発されて、同月二十四日に川中島へお着きに なった。そして、謙信の陣営である西条山のこちら側、雨の宮の渡しを占拠し、そこに 陣をはられた。このため謙信の側では、越後への退路を断たれ、あたかも袋にとじこめ られたようになったと心配したが、謙信は少しも心配する様子はなかった。 こうして信玄公は、五日間、その場所に陣をはられ、六日目の二十九日に、広瀬の渡 しを越して海津の城におはいりになった。しかし謙信は、家老の意見も聞かず、それま でとおり西条山におられる。 ここで、信玄公に対し飯富兵部が、ここぞという決戦をなさいますようにと、おすす め申しあげた。また信玄公は馬場民部助を召されてご相談になったところ、馬場も決戦 をなさるようにと申しあげる。 信玄公は「当家の武勇すぐれた侍大将たちのうち、小幡山城はこの六月に病死、原美 濃もこの夏、信州わりか嶽城攻めにおいて、十三カ所の負傷で、まだその傷が治らぬた め、今何は召し連れなかった」と仰せられて、山本勘助を召され、馬場民部助と相談の 上、明日の合戦の配備を定めよと仰せつけられた。 山本勘助はそこで、 「二万の兵力のうち、一万二千を謙信が陣をかまえる西条山に向けて、明日の卯の刻 (午前五時ごろ)から合戦を始めれば、越後勢はやがて、勝っても、負けても、川を越 えて引揚げるでありましょうから、そこを御旗本組、第二陣の部隊によって前後からは さみ討ちにして、討ちとめなさるように」と申しあげた。それによって、高坂弾正、飯 富兵部少輔、馬場民部、小山田備中、甘利左衛門尉、真田一徳斎、相木、芹山下野、郡 内の小山田弥三郎、小幡尾張守、この十隊は西条山に向かって卯の刻から合戦を始め る。一方、御旗本組としては、中央に飯富三郎兵衛、左に典厩信繁殿、穴山信吉殿、右 は内藤修理、諸角豊後の各隊。 御旗本組脇備として、左に原隼人、逍遥軒信廉殿、右に太郎義信殿二十四歳、望月の 各隊。御旗本組後備として跡部大炊助、今福善九郎、浅利式部丞の各隊、以上十二隊、 御旗本とともに八千の兵力が、今夜の七つ寅の刻(午前三時ごろ)に出発して広瀬の渡 しを越して陣を布き、敵が川を越えて退くときに戦闘を始めると定められた。 ところが謙信公は、武田勢の先鋒と旗本の部隊との炊事の煙が立つ様子を、西条山り 上からご覧になり、上杉方の侍大将全員を集めて、 「十五年前、未の年の秋に、信玄二十七歳、謙信十八歳のとき、争いを始めて以来、た びたびの含戦をしてきたが、信玄の布陣にはつねに手落ちがなく、結局のところ戦場の 主導権を信玄に握られて、謙信はつねに敗れたかのような有様であった。明日は合戦と 思われるが、信玄の作戦としては、兵力を二手に分け、半分をこの陣に向けて合戦を始 め、謙信の旗本が川を越して退こうとするところを、あと半分の兵力によって討ちとろ うとの計略を立てていることが、鏡にうつるかのように察しられる。ここはひとつ、謙 信もその裏をかいて、ただちに川を越えてそこで夜を明かし、日が出たならば攻めかけ て合戦を始め、信玄の先鋒が駆けつけぬうちに、武田勢を切り崩し、信玄の旗本と、わ が旗本とで一戦をとげ、信玄と自分とが取り組み合い、組みふせて、刺し違えるなり、 またはそのときの様子で和睦するなりとしよう。いずれにせよ、明日は二つに一つの合 戦ぞ」といわれた。 輝虎は甲骨に身を同め、九月九日の亥の刻(午後九時ごろ)に西条山を出発して雨の 宮の渡しを越え、対岸に移られたが、一万三千もの兵力でありながら、音も間こえなか った。これは、越後勢が、戦のときは一人に三人分ずつ、朝食を用意させておく軍律と なっているため、夜になって人馬の食物をつくることがなく、火を焼く色が見えなかっ たためである。以上。 こうして九月十日のあけばの、信玄公は広瀬の渡しを越し、八千余の兵力で陣を布 き、先鋒からの報告をお待ちになっていたが、日が昇り、霧がすっかり晴れわたると、 輝虎勢が一万三千の部隊で、まことに近々と陣をしいているではないか。 謙信は強敵、対等の兵力であってさえ危い合戦だというのに、信玄公は八千、謙信 は、一万三千である。たとえ勝利できたとしても、味方には多くの討死が出るであろう と、武田方の人びとが考えたのも当然であった。 信玄公に、信州侍の浦野という武勇すぐれた武士を召されて、斥候に出された。 浦野は見て戻り、御前にかしこまって「輝虎は退きました」と申しあげる。信玄公は 判断力にすぐれた大将であるだけに、「謙信ほどの者が、宵から川を越し、そこで夜を 明かしていながら 空Lく引き取ることがあろうか。では、退き方はどのようであった か」とおききになった。 浦野は、「謙信は、味方の陣を辻回しては前にふさがり、幾度もそのようにしなが ら、犀川のほうへと向かってまいりました」と申しあげる。 信玄公はこれを聞かれて、「なんと、浦野らしくもないことを申すではないか。それ は車がかりといって、いくまわり目かに、わが旗本と敵の旗本とを打ち合わせ、合戦を するための戦術である。謙信はきょうを限りと覚悟の見えた」と仰せられて、陣を立て 直された。 謙信は、甘糟近江守という剛勇の侍大将の雑兵とも千人の部隊をはるか後方に置き、 二千の兵を持つ直江という侍大将に小荷駄奉行を申しつけ、白らは一万の軍勢を指揮し て、柿埼という侍大将を先鋒に、第二陣に輝虎が立ち、旗を傾けて無二無三に攻めかか り、一気に合戦を始めた。 その問に、謙信の旗本の一隊は、信玄公の備の右側にまわり、義信公の旗本五十騎、 雑兵四百あまりの部隊を追い立てて、信玄公の旗本めがけて斬りかかる。 敵味方合わせて三千六、七百の軍兵が入り乱れ、突きつ突かれつ、斬りつ斬られつ、 互いに鎧の肩をつかみ合って、組み合って転ぶもの、頸を取って立ちあがるもの、その 頸はわが主人のものと名乗って槍で突きふせるもの、それを見ては、またそれを斬りふ せるものという有様、甲州勢も目の前の戦いにまぎれて、信玄公がどこにおられるかも わからず、また越後勢もそのとおりであった。 このとき、萌黄色の胴肩衣を着た武者が白手拭で頭を包み、月毛の馬に乗って、三尺 ほどの刀を抜身に持ち、信玄公が牀机の上におられるところへ、真一文字に乗りよせ て、三太刀切りかかったが、その切っ先ははずれ、仁文公は軍配団扇でこれを受け止め られた。あとで見たところ、団扇に八カ所の刀傷があった。 さて、ご中間頭、二十人衆頭など二十騎は、いずれも剛勇の武者たちだったので、奮 戦しながら信玄公を敵味方からわからぬように取りかこみ、近寄ろうとする者を斬り払 う。そのとき、ご中間頭の原大隅が、青貝の柄のお槍をとって、月毛の鱒に乗った萌黄 緞子の胴肩衣を着た武者を突いたが、突き損したため、鎧の肩をめがけて打ったとこ ろ、鎧の背をたたいたため、馬は竿立ちになって走り去っていった。 あとで聞けば、この武者こそ輝虎であったという。 信玄公卿旗本組のうち、飯富三郎兵衛の部隊は、越後方先鋒第一陣の柿崎隊を追い崩 し、三町ほども迫撃する。穴山殿の部隊も、謙信勢の,柴田隊を四町ほと迫撃する。 信玄公はお中間頭二十人のほかは、土屋平八、直田喜兵衛ら、十七、八のお小姓たちだ けを従えられて、本営の御牀机のところから少しもお立退きにならなかった。 だが、甲州勢のそのほかの九部隊は、太郎義信公の隊をはじめすべて敗れ、千曲川の 広瀬の渡しに向けて追撃されつゝ退いていった。なかでも、典厩信繁殿討死、諾角豊後 守討死、旗本足軽大将の中では山本勘助入道道鬼、初鹿源五郎の両人が討死、信玄公も お腕に二カ所の軽傷を負われ、太郎義信公も二カ所の負傷をされた。 かくしての合戦は、ほとんど信玄公のお負けかと見えたところへ、西条山に向かって いた先鋒の十隊が謙信に出しぬかれ、鉄砲の音、ときの声を聞いて、われがちに千曲川 を越して、越後勢の後方から攻めかかり、追撃戦を開始した。 さすがの謙信も、和田喜兵衛という侍ただ一人をつれ、名高い放生月毛の馬をも放し て、家老の乗りかえ馬に乗り、主従わずか二騎、高梨山をめざして退かれた。 典厩殿のお頸は、ご家来の山寺という武士が敵方から奪い返し、しかもその相手を討 ちとめて、典厭殿のお頸にそえて持ち帰った。諸角豊後の頸は、諸角輩下の石黒五郎兵 衛と三河牢人の成瀬という武士の両人で取り返し、越後方の頸を取って戻ってきた。 この合戦は、卯の刻に始まった前半は、ほぼ越後輝虎方の勝利、巳の刻に始まった後 半は信玄公のご勝利であった。越後勢を討ち取った数は雑兵ともに三千百十七、その頸 帳をしたためて、同日申の刻(午後三時ごろ)にかちどきをちげられた。お太刀持ちは 馬場民部助、弓矢取りは信州侍の諸賀であった。 永禄四年辛西九日十日、信州川中島合戦とはこのことである。 この合戦以後、輝虎は信州に侵攻しなくなった。すでに諏訪頼重、伊奈の人びと、木 曽義康は降参、深志の小笠原長時と葛尾の村上義清に輝虎が加わって年々の戦いがあっ たのだが、合わせて二十四年にして、ようやく信州は平定された。 信玄公の合戦ぶりは、信州の諸勢との戦いによって巧妙,になられたのである。以上。 (後略)(品第三十二) 市河氏について 江戸時代の地図から、越後と信濃の道を探る。 江戸時代の絵図から信濃国と越後国を結ぶ道4方向、 野尻湖の東岸と西岸を抜ける道が二本。 千曲川の東に十日町(新潟県)へ抜ける道。 飯山から千曲川の西に十日町へ抜ける道。 と、 飯山から富倉峠や関田峠をはじめとした鍋倉山周辺を越える間道が5本 小谷から糸魚川に抜ける道が二本。 越後へ抜ける道でもっとも主要なのは、飯山を経由して鍋倉山付近を越えていく道筋と、野尻湖の道筋であったことになり、飯山と野尻湖という地が交通上、越後国防上必要不可欠な道であった。 武田晴信 天文二十二年(1553)、村上領を制圧して善光寺平へ進出した。 村上義清 越後国へ逃れて長尾景虎へ救援を求めました。 信濃豪族 残された北方を領する信濃の豪族達武田に就くか、隣国の長尾景虎に就くかを迫られました。 長尾景虎 北信濃の豪族達に救援を請われた長尾景虎は、天文二十二年から弘治三年までの五年間に三度信濃へ出陣し、延べ一年間近くも滞陣しました。 武田晴信 武田晴信に飯山と野尻湖を占領されると、幾つものルートで越後へ入られ、景虎の居城である春日山城やその城下町へは約三十五キロメートルの距離なので、武田軍は何もなければ一日もかからず到達できる。 長尾景虎 救援を請う豪族を保護することにする。様々な状況から該当地域武将たちは結局次のような選択をしました。 武将の選択 武田軍 高井郡の市河氏、木島氏(木島平村)、井上氏(須坂市)等、 長尾軍 岩井氏(中野市)、安田氏、東条氏、井上氏、須田氏、嶋津氏、高梨氏等 武田晴信 武田 飯富兵部少輔虎昌 塩田城(上田市) 武田晴信は北信濃への取り掛かりとして、飯富兵部少輔虎昌を佐久、上田、深志、諏訪の四方を結ぶ重要な拠点である塩田城(上田市)におきました。飯富虎昌は長男の武田義信の守り役も務める信玄にとって信頼を寄せる重臣で、塩田において北信濃の調略や作戦の指揮、善光寺平への兵站線の指揮をしました。 長尾 高梨政頼 ☆高梨政頼 弘治三年(1557)、中野(中野市)を中心に一帯を支配していた高梨政頼は、飯富の調略などによる相次ぐ裏切りと、攻撃に耐えきれず、中野を放棄して水内郡の飯山へ退却しました。 政頼など北信濃の豪族達は飯山を死守、長尾景虎へ救援を依頼するが、景虎は出陣しませんでした ☆高梨政頼 高梨政頼は「持ち堪えられず、飯山を放棄するしかない」と書状に書いて景虎を脅しました。 ☆長尾景虎 和議により定めた境界を侵して葛山城を落とした武田晴信を許すことができず、翌年の弘治四年(1558)=永禄元年春、長尾景虎は越後をようやく出陣し、 山田城(高山村)、福島城(須坂市)を落とし、武田軍と睨み合いながら善光寺平を臨む旭山城(長野市)を再築しました。 この時、高梨政頼は裏切った野沢(野沢温泉村)の市河氏を説得しましたが、うまくいきませんでした。 武田と上杉が戦っている最中、京都の将軍家は各地の武将に上洛するように要請しました。 長尾景虎はこれに応じることにし、 将軍足利義輝は武田晴信に上杉を攻めないように要請し、 晴信もそれに応じる返答書を出しました。これによって永禄2年(1559)長尾景虎は5千の軍を率いて上洛をし、関東管領に任命されました。しかし、上洛中にも武田晴信は、自分が前年に信濃守に任命されたので北信濃を領する権利があるとして侵入しました。下のような古文書が残っています。 この古文書は、征夷大将軍足利義輝が大館上総介晴光を使者として長尾景虎に与えたものになります。内容は、武田と上杉の和議の事について、武田晴信に度々伝えているが命令を聞かない。さらに上杉の国境を侵して乱入していると聞いた。しからば信濃国の諸侍の事は戦闘の途中なので、その始末を長尾景虎のやりたいように任せると書いてあります。 そして上杉政虎(永禄3年改名)が小田原の北条を攻めている最中の永禄4年(1561武田軍は黒姫山と飯縄山の間に道を切り開いて割ケ嶽城を攻撃し、初めて野尻湖まで侵入しました。これによって上杉政虎は、遂に許し難しと決着を付ける覚悟を固めました。有名な第4次川中島の開戦です。『上杉年譜』によると、上杉軍の先鋒には村上、高梨、島津、井上、須田と北信濃の豪族達が書かれています。彼等のこの戦にかける意気込みは相当のものだったでしょう。上杉軍は武田のキツツキ戦法を逆手にとって、妻女山を暗いうちに下り、川向こうで待つ武田信玄の本陣へ向かいました。その時この信濃先鋒衆は、妻女山から信玄を救おうと追ってくる別働隊を迎え撃つために、山裾に陣を張ったと云われています(高速道路の松代SA付近)。 甲越一和の事、晴信に対し度々下知を加ふると雖も同心なし、結句分国境目に至って乱入の由、是非なく候、然らば信濃国諸侍の事、弓矢なかばの由に候間、始末景虎意見を加ふべきの段肝要に候、なほ晴光申すべく候なり。 六月廿六日 長尾弾正少弼とのへ (足利義輝花押) 山本管助の名が記載されている先の古文書は、ちょうどこの頃のものになります。文には野沢を守る市河藤若を長尾軍が攻撃したが守りが固く飯山へ引き上げていったとあります。そして、これ以後は武田晴信へいちいち救援依頼するのではなく、塩田の飯富に出陣するように言ってあるので、そちらに依頼するようにと述べています。野沢には野沢城がありましたが、それは今の温泉街のある所で、館のようなものでした。とても堅固で落とせなかったものとは思えないような城です。周辺にはその他、西浦城、平林城が千曲川沿にありました。この頃の武田晴信から市河氏への古文書に、新しい城にて立て籠もるようにとの命令が残っているので、どちらかの武田が築城した城に籠城したのかもしれません。倉賀野(群馬県高崎市)の文字が出てきますが、永禄2年(1559)秋、武田信玄(永禄2年改名)は上野国へ出陣しているので、年代としてはこの年ではないかと推測されます(文には「景虎」が攻めたとありますが、本人ではないと考えています)。この時に野沢まで出向いて市河藤若の戦功をねぎらった使者が山本管助であったというわけです。翌々年の9月10日第4次川中島の戦いで山本管助は討死しました。 武田晴信は、長尾景虎との対決と飯山を攻略するのに塩田から善光寺平までは距離があるので、真田幸隆が落とした雨飾城(尼厳とも、長野市)を廃して麓に拠点を築くことにしました。永禄3年にほぼ完成させた海津城(かいづじょう)です。さらに前線への拠点として永禄11年長沼城(長野市)も完成させました。これら前線の城には伊那の箕輪衆、坂西氏、佐久の北方衆などの信濃の降伏した者達にあたらせました。 一方、長尾景虎も数年にわたる武田晴信との戦闘において、飯山の守備を信濃の豪族にあたらせました。現存している史料から守備していたのは上倉下総守、奈良沢民部少輔、上堺彦六、泉弥七郎、尾崎三郎左衛門、中曾根筑前守、今清水源花丸、岩井備中守らでした。どのような防御網を敷いていたのか不明ですが、飯山に侵入するには対岸から千曲川を渡ってくるか、替佐方面(中野市)しかないので、この方面の防備を固めていたものと思われます。また、野尻湖へ向かう道は、大倉城や矢筒城などによって野尻湖南の防御網を島津氏が守っていました。彼等には信濃国に殆ど領地が無いので、高梨をはじめ越後国に知行所を与えられて忠義に励んでいました。そして当時の飯山は、江戸時代のような城下町が整備されていたわけではなく、千曲川河畔に泉弥七郎の館があるだけの小村落にすぎませんでした。景虎はこれを補強して永禄7年(6年ともある)飯山城を完成させ、家臣の桃井義孝と加地春綱を援軍(飯山城代)として2之郭に配備しました。 これら戦国時代の城は信濃に無数ありました。城跡の発掘調査などをすると決まって出土するものがあります。石臼、硯、砥石、鉄釘、銅銭、かわらけ、内耳鍋、中国産の青磁・白磁・青花、常滑焼の甕、瀬戸焼の天目茶碗、黄瀬戸の器になります。特に多いのが「かわらけ」で、酒などを飲む時の杯に使用されました。主に手で練ったいわゆる土器で、直径10cm前後で、高さ2cmぐらいのものになります。その数は多い城で数千点にのぼります 市河氏の出自に関しては、米沢上杉藩士の記録である『米府鹿子』に見える市川氏は「滋野氏・本領信濃」と記されている。一方で、平安時代に越後に勢力を持っていた桓武平氏城氏の流れともいい、戦国時代の信房は藤原姓を称している。いずれにしろ、市河氏の出自は不明としかいいようがない。 鎌倉中期の文永九年(1272)、市河重房は中野忠能の一人娘を後妻とし子の無かった忠能に先妻の子盛房を養子として入れた。その後、重房は盛房と共謀して、忠能のもうひとりの養子である中野仲能、広田為泰らと激しい相続争いを繰り返した。そして順次志久見郷を蚕食してついにはその全域を掌握した市河氏は中野氏を被官化し、名実ともに志久見郷の地頭職として志久見郷の実権を掌握した。 かくして、志久見郷を本拠とした市河氏は南北朝・室町時代には各地に転戦し、それらの戦功により勢力を拡大していったのである。 ●南北朝の争乱 鎌倉末期から南北朝の当主は盛房の子助房で、元弘三年(1333)新田義貞が東上野笠懸野で挙兵したとき越後の新田一族は義貞に呼応して義貞の陣に急行したが、市河助房は情勢を傍観、一ヶ月後に至ってやっと陣代として弟経房らを参陣させている。そして、建武の新政が成立すると足利尊氏のもとへ参陣した。 建武の新政がなったとはいえ、信濃は北条氏が長く守護をつとめていた関係から北条氏の勢力が強く、不穏な気配が濃厚であった。建武二年(1335)諏訪氏に匿われていた北条高時の遺児時行が挙兵し、鎌倉に攻め上った。「中先代の乱」であり、この乱にくみした水内郡常岩御牧北条の弥六宗家らを討伐するため、善光寺・府中の浅間宿を転戦し、それが機縁となって信濃守護の小笠原氏に属するようになった。 その後、北条方、南朝方として守護小笠原氏に対抗する諏訪・滋野氏一族らに対し守護方として船山郷青沼・八幡原・篠井四宮河原などで戦っている。この間、惣領助房を助けて一族の倫房・経助・助保らが守護方として活躍、倫房・助保父子は建武二年望月城を攻略し、東筑摩郡・諏訪方面各所を転戦した。堀川中納言光継を信濃国司として迎えたとき、横河城で戦功をたて軍忠状をえている。このように南北朝の内乱において市河一族は、惣領助房とともに守護小笠原氏貞宗に属し武家方として活躍した。 助房は実子が生まれなかったため、一族の経高を養子としたが、のちに頼房が生まれたため、所領のうち志久見郷の惣領職、備前国の私領を頼房に譲り、志久見郷内の平林村を経高に譲る旨の譲状を作成している。また、このころの市河氏は国中平(くむちぬけ)神社のある場所に居館を構え、西浦城を詰めの城としていたようだ、そして、一族を志久見郷内に配して南方方面からの敵に備えている。 やがて、足利尊氏と弟直義の不和から観応の擾乱が起ると、市河氏は越後守護上杉氏に属し直義方として行動した。擾乱のなか政局は複雑に推移し市河氏ははからずも南朝方に属するということもあり、尊氏方の守護小笠原氏とも対立した。直義が尊氏に敗れて急死したことで乱は終熄したが、越後の上杉氏らは南朝方に通じて尊氏方に抵抗を続け、市河氏も上杉氏と行動をともにした。そのころ、下高井郡の高梨氏が中野氏を駆逐して北方に進出、正平十一年(1356)、市河氏は上杉氏の支援を得て高梨氏の軍をうちやぶっている。その後、上杉氏が尊氏方に帰順したことで、市河氏も守護小笠原長基に降伏し武家方に転じた。 ●大塔合戦 応安元年(貞治七年=1368)二月、関東において河越氏を中心とする平一揆が起った。頼房は信濃守護職上杉朝房に属して出陣、武蔵河越、下野横田・贄木、さらに宇都宮まで転戦し、宇都宮城攻めにおいて左肩・右肘を射られ負傷したという。 その後、応安三年(1370)には常岩御牧南条の五ヶ村を兵糧料所として預かり、永和元年(1375)、上杉朝房から本領を安堵された。その後、信濃守護職に任ぜられた斯波義種から所領を安堵され、守護代の二宮氏泰、守護斯波義将からも安堵・下知・預領・感状を受けている。 至徳四年(1387)、村上氏を盟主とする反守護の国人らが守護所に攻め寄せたとき、頼房は守護代二宮是随に属して村上方と戦った。そして、応永六年(1399)に至って斯波氏に替わって、小笠原長秀が信濃守護職に補任された。翌年、京都から信濃に入部した長秀は、善光寺に守護所を定めると信濃一国の成敗に着手した。しかし、長秀の施策は国人の反発をかい、ついに国人は村上満信・大文字一揆を中心とした北信の国人衆が武力蜂起を起こした。 世に「大塔合戦」といわれる戦いで、市河刑部大輔入道興仙(頼房)は甥の市河六郎頼重らとともに守護方に属して出陣した。両勢力は川中島で激突し、戦いは守護方の散々な敗北に終わり、京都に逃げ帰った小笠原長秀は守護職を解任されてしまった。この合戦に守護方として戦い敗れた市河氏は、戦後、国人衆らに領地を押領されるなどの乱暴を受けている。 高梨氏らと同様に北信の国人領主である市河氏が守護方に付いたのは、高梨氏と対立していたことが背景にあり、両者の対立は戦国時代まで続いている。また、北信の山岳武士である市河氏は、権力を尊ぶ気持ちも強かったようだ。以後、市河氏は一貫して守護方として行動し、管領細川氏から感状を受ける等幕府からもなみなみならぬ信頼を受けていたことが知られている。 ところで、南北朝時代のはじめより関東には鎌倉府がおかれ、幕府から関東八州の統治を任せられていた。その主は鎌倉公方と呼ばれ、代々足利尊氏の三男基氏の子孫が世襲したが、代を重ねるごとに幕府との対立姿勢が目立つようになってきた。 ●関東の戦乱 室町時代になると、関東では上杉禅秀の乱、佐竹氏の乱、小栗の乱と戦乱が続いた。その背景には、鎌倉公方持氏の恣意的な行動と鎌倉府と幕府との対立があった。禅秀の乱後、持氏は禅秀党の討伐に東奔西走したが、その結果、公方の専制体制が強化されることになった。それに危惧を抱いた幕府は佐竹山入・宇都宮・真壁・小栗の諸氏を「幕府扶持衆」とし、禅秀の遺児らを任用して持氏を監視させた。これに反発した持氏は、小栗氏ら幕府扶持衆の諸氏の討伐を始めたのである。 幕府はこのような持氏の行動を怒り鎌倉を征しようとしたが、持氏が陳謝したことで合戦は避けられた。その結果、幕府は山入祐義を常陸の半国守護に、甲斐の守護には持氏の推す逸見氏を斥けて武田信重を任じるなどして持氏の行動に掣肘を加えた。 しかし、持氏の暴走は止まらず、結局、永享十年(1438)、管領上杉憲実との対立が引き金となって幕府と武力衝突するに至った。いわゆる永享の乱であり、敗れた持氏は自害、鎌倉府は滅亡した。 この一連の関東争乱のなかで、応永二十九年(1422)の「小栗の乱」に際して、市河新次郎が幕府の命を受けた小笠原氏とともに関東に出征したことが「市河文書」から知られる。そして、この常陸出陣を最後に市河氏の動向は戦国時代に至るまでようとして不明となるのである。永享の乱後の結城合戦において、信濃武士が小笠原政康に率いられて出陣したが、そのときの記録である「結城陣番帳」にも市河氏の名は見えない。 とはいえ、その間も市河氏が北信の領主として一定の勢力を維持していたことは、諏訪神社上社の重要祭事の御符入の礼銭、頭役銭を注記した記録『諏訪御符礼之古書(すわみふれいのこしょ)』からうかがえる。 諏訪神社は信濃の一宮として信濃全国に奉仕氏人をもち、この氏人のいる村々は諏訪祭礼の世話役を順番につとめることになっていて、その世話役を頭役といった。しかし、世話役をつとめることは容易なことではなく、費用も莫大な額に上った。そして、この頭役を宝徳四年(1452)から長享二年(1488)までの三十七年間のうち、市河氏が七度にわたってつとめたことが御符礼之古書に記録されている。 一方、このころ市河氏は東大滝に分家を出したといわれ、その家は大滝土佐守を称し戦国時代に至っている。また「栄村史」では、御符礼古書の時代における市河氏の領地は高梨氏などから侵略を受け、志久見郷に押し込められていたのではないかと推察している。 ●越後の争乱と市河氏 市河氏の動向が知られるようになるのは、越後の内乱である「永正の乱」においてである。市河氏の領地は越後との国境に近いことから、越後に争乱が起きるとその影響を受けざるを得なかった。そういう意味では、越後上杉氏の活動に従うことも多かったと思われ、関東の戦乱に越後守護上杉氏が出陣したとき市河氏も出陣したかと思われるが、先述のように記録が残されていないので確かなことは分からない。 越後守護上杉氏は関東公方と管領上杉氏の対立から起った享徳の乱において、関東管領職を継いだ次男顕定を援けて大活躍した房定の時代が全盛期であった。その子房能も凡庸ではなかったが、尊大で気位が高く関東の戦乱に出陣して窮乏のなかにある国人たちの苦労を省みることもなかった。その房能を補佐していたのが守護代長尾能景であったが、永正三年(1506)房能の命で越中に出陣した能景は戦死し、そのあとを為景が継いだ。為景は剛勇不遜な人物で、やがて守護房能と対立するようになり、翌永正四年、房能の養子定実を擁してクーデタを起した。敗れた房能は兄が管領をつとめる関東に逃れようとしたが、為景勢に追撃され松山郷天水峠で自害した。 弟の死を知った関東管領顕定は弟の仇を討つとともに越後の領地を確保するため、永正六年、養子憲房を越後妻有庄にに先発させた。対する為景=定実方は、長尾景長・中条藤資・斎藤・毛利・宇佐美らを出撃させた。これに信濃衆の高梨摂津守・市河甲斐守らが加わって、市河氏の領地である志久見郷から妻有に攻め込み、憲房方の本庄・色部・八条・桃井らと戦ってこれを撃ち破った。その敗報に接した顕定は大軍を率いて上州から越後に攻め込み、為景=定実軍を破り越後を制圧した。為景らは越中に逃亡し、信濃衆の高梨・市河氏らはそれぞれの山城に立て籠る事態となった。 越後を制圧した顕定は為景=定実に与した国人たちに大弾圧を加え、容赦なく討ち滅ぼしたため越後国内には顕定を怨嗟する声が広がっていった。一方、越中に逃れていた為景らは佐渡に渡り態勢を整えなおすと越後に上陸、椎屋の戦いに勝利すると顕定の拠る府内に攻め寄せた。顕定はこれを迎え撃とうとしたが、これまでの圧政から越後国人で味方に参じる者は少なく、ついに兵をまとめて関東へ兵を返した。為景勢はこれを急追し、長森原において顕定勢をとらえ、合戦のすえに高梨政盛が顕定を討ち取った。この合戦には市河氏も参加したと思われるが、それに関する史料がないので詳細は不明である。 こうして、市河氏の領する志久見郷と国境を接する越後の争乱は為景=定実方の勝利に終わった。しかし、その内実は定実を擁した為景の下剋上であり、ほどなく為景と定実との対立が生じると越後は内乱状態となった。 ●武田氏の信濃侵攻 ところで、戦国乱世にあって市河氏は知られる限り侵略的な戦争はしていなかったようだが、松之山四ケ郷を侵略していたことが、天文九年(1540)長尾景重が板屋藤九郎に与えた感状から知られる。すなわち、板屋藤九郎が市河氏に奪われていた松之山四ケ郷を奪い返したことに長尾景重が感状を与えたものである。おそらく市河氏は、先の越後の永正の乱の混乱に乗じて松之山四ケ郷を奪い取ったが、のちに奪い返されたものであろう。ほとんど侵略戦争をしなかったとはいえ、市河氏も戦国時代を生きる国人領主であったことを示している。 天文十年、甲斐の戦国大名武田信虎が嫡男の晴信によって駿河に逐われ、晴信が武田家の当主となった。以後、信濃は武田晴信(のち出家して信玄)の侵略にさらされることになる。天文十一年、晴信は大軍を率いて諏訪に侵攻し諏訪頼重を捕らえて甲府に送ると自害させ、諏訪氏は滅亡した。ついで、天文十六年には佐久を平定し、翌年には小県郡に進出した。そして、北信の強豪村上義清と上田原で激突したが、義清の奮戦で武田方は板垣信形・初鹿野伝左衛門らを討たれる敗北を喫した。 武田氏の敗北に乗じた小笠原長時は、ただちに諏訪に攻め込んだが、晴信の出陣を聞いて塩尻に退いて武田軍を迎え撃った。ところが、小笠原勢から武田勢に寝返る者が出たため長時方は敗れ、武田軍は敗走する小笠原氏を追撃して筑摩郡を制圧した。翌年には長時をその本城から追い払い、諏訪・佐久・筑摩・安曇郡を掌中に収めたのである。 天文十九年夏、晴信は改めて小県に軍を進め村上義清方の砥石城を攻撃せんとした。これに対する村上方は、山田・吾妻・矢沢らが城を守り、義清は精兵六千を率いて後詰めに出陣し、武田・村上の両軍は激戦となった。戦いは七日にわたって続いたといわれ、結果は横田備中・小沢式部らを討たれた武田軍の敗戦となった。村上義清は強勢の武田軍を相手によく戦ったといえよう。 ところが、翌年五月、突然、砥石城が落城した。これは、武田方の真田幸隆の謀略によるもので、村上勢を追い払った幸隆が砥石城代となった。そして、翌年七月、武田軍は村上義清の立て籠る塩田城に攻め寄せ、ついに義清は越後の長尾景虎を恃んで信濃から落ちていった。かくして、武田晴信は信濃をほぼ制圧下においたのであった。 ●武田氏に属す このころ、市河氏はどうしていたのだろう。 市河氏は越後の争乱に際して長尾方として行動していたが、長尾氏との関係を背景とした高梨氏の勢力拡大によって近隣の諸領主は滅ぼされ、あるいは降服し、高梨氏の勢力は市河氏領にも及んできた。ついには。小菅神社領を緩衝地帯として高梨氏との争いを続けていたようだが、状況は市河氏に不利であった。 武田氏が北信濃に勢力を及ぼしてくると、市河氏が武田氏に款を通じたのもこのような背景があったからである。また、晴信は長尾氏家中に調略の手を伸ばし、大熊朝秀がそれに応じて景虎に反抗した。このとき市川孫三郎信処も晴信に応じたようで、晴信の兵は村上方の葛山城を落し、高梨氏の本城である中野城にまで迫ろうとした。そのおゆな弘治二年(1556)、武田晴信は市川孫三郎に対して高梨領安田遺跡を与える事を約束している。 一方、領地を武田氏に逐われた村上・高梨氏らは、越後の長尾景虎の援助をえて失地回復を図ろうとした。景虎も北信濃が武田氏に侵略されることは、直接国境を接することになり、捨ててはおけない一大事であった。こうして、景虎は北信の諸将を援けて武田晴信と信濃川中島において対決することになったのである。 景虎が川中島に初めて馬を進めたのは、天文二十二年(1551)といわれている。以後、川中島の合戦は五度に渡って戦われた。そのなかでも最も激戦となったのが、永禄四年(1561)九月の戦いであった。永禄四年の戦いは、謙信と信玄とが一騎打を行ったといわれ、戦国合戦史に残る有名な戦いだが勝敗は五分と五分であったようだ。その後も、信玄は信濃侵略の手をゆるめず、永禄六年には上倉城を攻略、翌年には野尻城を攻め落とした。このため、謙信は川中島に進出して信玄と対陣したが、決戦いはいたらなかった。 その後、川中島地方は信玄にほとんど攻略されたが、武田氏に属する市川氏は上杉方に攻撃されて志久見郷から逃れるということもあったようだ。しかし、小笠原・村上・高梨氏ら信濃諸将の旧領復帰はならず、信濃は信玄が治めるところとなった。その結果、武田氏に通じていた市川氏らは旧領に帰ることができた。信玄が市川新六郎に宛てた文書によれば、市川新六郎は前の通り知行を安堵されるとともに、妻有のうちに旧領の外三郷を与えられたことが知られる。また、市川氏の領地が上杉領と接していることから、城内は昼夜用心せよ、普請も油断なくせよ、濫に土地の人を城内に入れるなとか、さまざまな注意を書き連ねた制札を与えられている。 ●時代の転換 元亀三年(1572)、信玄はかねてよりの念願である上洛の兵を発した。そして、三河国三方ケ原で徳川・織田連合軍を一蹴し、天正元年(1573)には野田城を攻め落した。ところが、このころ病となり静養につとめたが、ついに軍を甲斐に帰すことに決し、その途中の信州駒場において死去した。武田氏の家督は勝頼が継いだが、天正三年、織田・徳川連合軍と長篠で戦い壊滅的な敗戦を被り、馬場・原・山県ら信玄以来の宿将・老臣を失った。以後、武田氏は衰退の一途をたどり、ついに天正十年、織田軍の甲斐侵攻によって滅亡した。 一方、上杉謙信は信玄の死後は信濃に侵攻することもなく、関東・越中方面の攻略に忙しかった。そして、天正六年三月、関東への陣触れをした直後に急病となり、帰らぬ人となった。謙信には実子が無かったため、二人の養子景勝と景虎が謙信後の家督をめぐって内乱となった。この内乱に際して、一方の景勝は景虎方に味方する武田勝頼と和議を結び、翌七年、景虎を御館に破って上杉氏の家督を継いだ。このときの和議によって、飯山地方は武田領となり、以前から武田氏に属していた市川氏や分家の大滝土佐守らは勝頼から所領安堵を受けている。 さて天正十年に武田氏を滅ぼした信長は旧武田領を配下の部将に分け与え、川中島四郡は森長可が与えられ長可は海津城に入った。この事態の変化に際し、市川氏は森氏に従って飯山城を守った。川中島四郡の領主となった森氏は越後の上杉景勝を攻撃するために出陣し、春日山城に迫る勢いであった。ところが、六月、織田信長が明智光秀の謀叛によって本能寺で死去したため、またもや時代は大きく転回することになる。 本能寺の変によって、森長可は上方へ去っていった。市川氏はただちに飯山城を開城して上杉景勝に降り、川中島四郡の諸将士も上杉方に転じ、村上・井上・高梨・須田・島津氏らが旧領に復帰してきた。その後、飯山城には岩井備中守が城代として入った。 ●戦国時代の終焉 織田信長が死去したのちの信濃は上杉・徳川・後北条氏の草刈り場となった。家康は真田昌幸をして海津城の屋代越中守を上杉方から離反させて北信に進出しようとし、みずからは甲府に出張した。これを聞いた景勝は岩井備中守に出陣する旨を連絡し、市川信房にも知らせた。これに対して信房は家康はまだ甲府におり、あわてることはないでしょうと返事をしている。そして、屋代のように家康に通じる者も出たが、川中島四郡は上杉方によって守られた。 本能寺の変後の中央政界では、羽柴秀吉が大きく台頭した。秀吉は本能寺の変を聞くとただちに中国から兵を返し、明智光秀を山崎の合戦に滅ぼし、ついで柴田勝家を賎ヶ岳に破ると北ノ庄に滅ぼした。ついで、大坂城を築いてそこを居城とした秀吉は、十二年には家康と長久手で戦い、翌年には四国を平定、ついで家康と和睦し、太政大臣に任じられて豊臣の姓を賜った。まさに目まぐるしい勢いで天下統一を押し進めていった。そして、天正十五年五月、島津氏を降して九州を平定、十八年七月には小田原北条氏を滅ぼし、奥州仕置によって奥州も平定して、ついに天下統一を実現したのである。ここにおいて、「応仁の乱」以来一世紀にわたって打ち続いた戦国時代は終わりを告げた。 徳川家康は後北条氏のあとを受けて関東の大大名となり、市川氏の属した上杉景勝も慶長三年(1598)、越後から会津百二十万石への転封を受けた。このとき、上杉氏の家臣団も景勝に従って会津に移ったが、市川氏もまた住み慣れた信濃の地から遠く会津の地へと移っていった。いまも、市川氏が支配した地域は市河谷と称されているが、その地を治めた市川氏は会津に去り、さらに関ヶ原合戦後に米沢に減封された景勝に従って米沢へと移っていった。 明治維新後の廃藩置県により禄を失った市川氏は、鎌倉以来の『市河文書』を携さえて北海道へ屯田兵として入植。そして、この市河文書のなかに、武田信玄の軍師といわれる山本勘助の記述があり、勘助が実在した人物であったことが知られたのは有名な話である。・2006年02月27日 【参考資料:栄村史/野沢温泉村史/中野市史/下高井郡史 ほか】 ■参考略系図 ・室町時代の歴代は、「諏訪御符礼古書」に記された市河氏の記述などをもとに復元、それぞれの続柄などは不明。 ところで、鎌倉期における市河氏の人物として、『東鑑』治承四年(1180)八月には市河別当行房が鎌倉方として見え、建仁二年(1202)~建暦二年(1212)条には市河別当五郎行重、承久元年(1219)条には市河左衛門尉祐光が見える。さらに、『東鑑』寛元二年(1244)八月条には市河掃部允高光法師(法名見西)見えることから、「行房―行光(またの名が定光。その弟行重)―祐光―高光」と続く系図が推定される。甲斐の市河高光が信濃国船山郷に領地をもっていたことから、信濃の市河一族も甲斐の同族と考えられるが、その関係を明らかにすることはできない。 長沼城は室町時代に島津氏がこの付近に移り住み、領主として館が築かれたものと思われる。 武田信玄が北信濃に侵攻してきて、対上杉との戦線が、 飯山城、野尻城へと北上すると、越後国境攻防用基地として再建工事が行われた。この再建は永禄11年(1568)馬場信房によるものとされ、城代として海津城から市川梅隠、原与左衛門が入ったという。 武田氏滅亡後も森長可、上杉景勝と入り、川中島四郡の支配に海津城と共に重要視された城である。 江戸時代になると長沼藩一万八千石として佐久間氏が入ったが、元禄元年(1688)に移封され、幕府の直轄領となり廃城になった。 【上】長沼城の碑 現在遺構は無いに等しい。千曲川を東側の要害とし、西側は現在の県道368号が旧堀跡の外周をコの字型に迂回しているという。碑は貞心寺の北東約80mの堤防沿いにあり、碑の背後の土盛りが本丸土塁の跡といわれる。平城であるが武家屋敷も総構えの中に取り込んでいた、海津城よりも古い形態を残した近世城郭への移行期の縄張りだったという。 「市河文書」は中世を通じて奥信濃(長野県下高井郡北部)に在地領主制をしいた豪族市河氏に伝えられた中野・市河両氏の古文書の総称である。「嘉応2年(1170)2月7日、平家某下文」を巻頭に、「永禄12年(1569)10月12日、武田信玄軍役徴発定書」までの、平安時代末から戦国時代末に及ぶ146通(16巻)は、信濃の根本資料であり鎌倉幕府下文・官宣旨・国宣・雑訴決断所牒・安堵状ほか、各種文書が含まれる。 2006年08月08日 市河文書 木島平村高石にある泉龍寺出入口付近のようす。この寺(曹洞宗)は市河信房によって創建(1582年5貫文寄進)されたもの。寺には市河信房の墓と言われる古い宝篋印塔があります。ちなみに私の父の菩提寺。参道は杉並木、高い石垣に囲まれていることもあり、この写真の付近から本堂を直接見ることはできません。これは城郭・城下町(長野市長沼等)などによく見られる見通しをはばむ防御の備えとなっているからです。 市河氏は南北朝時代新田義貞軍に加わって鎌倉を攻撃したほか足利尊氏軍にも参加。戦国時代は武田方に属し、信玄死後上杉景勝に従い、景勝会津移封により転出。この時の6700石は山浦(村上)氏の6500石よりも多く、信濃武士としては5番目(注)。重臣として上杉家にはなくてはならない存在だったようです。市河家の菩提寺は常慶院、長野県栄村と米沢市にあるのは移封するとき寺も一緒に移ったため。 また、大阪冬の陣鴫野表の戦いで市河房綱、大俣吉元等上杉軍が多数戦死。当時上杉家の重臣であった房綱の戦死は上杉景勝によって大きなショックだったことでしょう。上杉軍は大きな犠牲を払った功績もあって家名を存続できたのかもしれません。 市河氏を有名にしたのは国の重要文化財(戦前は国宝)に指定されている「市河文書」の存在。この文書(山形県酒田市の本間美術館保管)は1170年から1569年までの詳細な歴史資料が記述されています。 昭和44年、従来の市河文書(国重要文化財)のほかに北海道にも市河文書(欠落部分、釧路市指定有形文化財)の残されていることがニュースに。文献(中世信濃武士意外伝)によればNHK大河ドラマ「天と地と」放映時に市河氏末裔の方が公表。これにより初めて山本勘助?(山本管助)が実在したことを示す文書も含まれていたとのこと。それまで山本勘助は全くの架空の人物とされていたようですからわからないものです。ちなみに勘助の墓は長野市松代町柴の河川敷に存在(豊川市、富士市、韮崎市にも)、考えてみれば架空人物の墓まで造らないでしょうか。 猿飛佐助や霧隠才蔵にしても存在を示す新たな文書が発見されれば脚光をあびるかもしれません。 市河家に関する詳細(須田家等も)は下記サイトで紹介されています。 (注)木島平村誌によると1000石以上の知行諸士(同心分除く)は以下のとおり。 須田大炊介長義20,000石、清野助次郎長範11000石、栗田刑部小輔国時8500石、島津月下斎忠直7000石、市川左衛門尉房綱6700石、山浦村上源吾景国6500石、芋川越前親正6000石、岩井備中守信能6000石、春日右衛門元忠5000石、須田式部3270石、平林蔵人佑正垣3000石、香坂与三郎昌能2100石、井上隼人2100石、大岩新左衛門2000石、須田大学2000石、栗田主膳2000石、芋川縫殿親元2000石、保科善内1500石、夜交左近1500石、大室兵部1500石 なお、山梨県に市川氏があるため市河氏として表示しました。 「市河文書」は中世を通じて奥信濃(長野県下高井郡北部)に在地領主制をしいた豪族市河氏に伝えられた中野・市河両氏の古文書の総称である。「嘉応2年(1170)2月7日、平家某下文」を巻頭に、「永禄12年(1569)10月12日、武田信玄軍役徴発定書」までの、平安時代末から戦国時代末に及ぶ146通(16巻)は、信濃の根本資料であり鎌倉幕府下文・官宣旨・国宣・雑訴決断所牒・安堵状ほか、各種文書が含まれる貴重な武家文書である。戦前は国宝、戦後は重要文化財として指定された。 河中島五箇度合戦記より (作者不明) 第一回合戦 1、上杉謙信を頼った信州の武将 村上左衛門尉義清 信州五郡の領主村上左衛門尉義清は、清和源氏伊予守頼義の弟で、陸奥守頼清の子、白河院蔵人顕清が初めて信州に住むようになり、四代目の孫に当たる為国、その子基国の後胤。 高梨摂津守政頼 高梨摂津守政頼も、伊予守頼義の弟井上掃部(かもん)頭頼季三代の孫に当たる高梨七郎盛光の子孫。 井上河内守清政 高梨の一族。須田相模守親政も一家。 島津左京進親久 頼朝の子島津忠久の子孫。 上記の武将のほか多数の信州武将が、甲州武田信玄に敗れて、越後に落ちのび、長尾景虎(謙信)を頼って来た。中でも村上義清は、多年にわたり武田と戦っていたが、とうとう負けて、天文22年(1553)6月に越後に落ちのび、謙信の力を頼って、自分の領地坂本の城に復帰すると事が念願であった。 上杉謙信(長尾景虎) 謙信はこの年間2月初めて京都に上った。24歳の時である。これは、前の年の天文21年5月に将軍の使があって、謙信は弾正少弼従五位下(だんじようひようひつじゆごいのげ)に任ぜられた。このお礼に京都に上ったのである。謙信は京都御所に参り昇殿をゆるされ、後奈良天皇に拝謁し、天盃をいただいた心また将軍義輝公にお目見えして、種々親しいお言葉を賜り、五月に帰国したところに六月村上義清が武田晴信に追われ、謙信を頼りにした。その上高梨政頼、井上清政、須田親政、島津親久、栗田、清野などがそろって越後を頼り、助けを求めてきた。 天文21年10月12日、田浜で勢ぞろいをして信州に向かって出発した。 途中、武田側の武将の領地は焼き払い、自分の館の中に居て、刃向かいしない者の領地は処分せず、、11月1日に川中島に陣を取った。 武田晴信(信玄) 晴信も二万の兵をひきいて甲府を出陣した。同19日から両軍の間は四キロ足らずで毎日小競り合いを繰り返した。 上杉軍 27日に謙信から平賀宗助を使者にして、明日決戦をすることを申し送り、その備えを定め、夜のうちに人数を出した。 先手は長尾平八郎、安田掃部、長尾包四郎、元井日向守清光、同修理進弘景、青河十郎を左右備えた。 左の横槍は諏訪部次郎右衛門行朝、水間掃部頭利宣とし、奇兵は、長尾七郎景宗、臼杵包兵衛、田原左衛門尉盛頼。 二番手は小田切治部少輔勝貞、荒川伊豆守義遠、山本寺宮千代丸(後の庄蔵行長)、吉江松之助定俊、直江新五郎実綱と定めた。 後陣は長尾兵衛尉景盛、北条丹後守長国、斎藤八郎利朝、柿崎和泉守景家、宇佐美駿河守走行、大国修理亮などの面々を七手に分け、四十九備えとしてそれを一手のように組んで円陣を作り、28日の夜明を目処に一戦を始めた。 武田軍敗北 武田方も十四段構えに備え防戦し、敵味方ともに多くの負傷者、戦死者を出した。下米宮橋を中心として、追いつめ、押し返して、昼近くまで合戦の勝負はつかなかった。しかし、越後方は千曲川の橋から上流を乗り越え、武田勢の後方にまわったので、武田方は敗れ、横田源介、武田大坊、板垣三郎など戦死、また駿河から応援に来た朝比奈左京進、武田飛騨守、穴山相模守、半菅善四郎、栗田讃岐、染田三郎左衛門、帯兼刑部少輔など名のある人々を含んで甲州方の戦死者は五千余りにのぼった。上杉謙信は12月3日、京都公方に大館伊予守が戦の経過を注進する。これが謙信と信玄との戦いの始めである。 この頃、謙信は長尾弾正少弼と号していた。関東管領の上杉憲政は北条氏康に圧迫され、越後に内通し、管領職と上杉の姓、憲政の一字を下されたが、管領職は辞退し、謙信は景虎を改め政虎と名乗るようになった。これは天文23年(1554)春のことであった。 第二回合戦 天文23年8月初め、謙信は越後を発ち川中島に着き、丹波島に陣取った。越後留守居として、謙信の姉婿上条の城主の上条入道、山浦主水入道、山本寺伊予守、大国主水入道、黒金上野介、色部修理、片貝式部の七人にその勢力八千を残した。 上杉謙信 謙信は川中島に陣を張り、 先手は村上義清、二番手は川田対馬守、石川備後守房明、本庄弥次郎繁長、高梨源五郎頼治の四人。 後詰(ごづめ/応援)は柿崎和泉守景家、北条安芸守長朝、毛利上総介広俊、大関阿波守規益の四人である。 遊軍は、本庄美作守慶秀、斎藤下野守朝信、松川大隅守元長、中条越前守藤資、黒川備前為盛、新発田長敦、杉原壱岐守憲家、上条薩摩守、加地但馬守、鬼小島弥太郎、鬼山吉孫次郎、黒金治部、直江入道、山岸宮内、柏崎日向守、大崎筑前守高清、桃井讃岐守直近、唐崎左馬介、甘糟近江守、神藤出羽介、親光安田伯音守、長井丹後守尚光、烏山因幡守信貞、平賀志摩守頼経、飯盛摂津守、竹股筑後守春満など二十八備え、侍大将が二行に陣を張り、旗を進めた。宇佐美駿河守定行二千余、松本大学、松本内匠介千余は旗本脇備えである。 総軍の弓矢奉行をつとめるのは、謙信の姉婿に当たる上田政貴で、飯野景久、古志景信、刈和実景の4人は、みな長尾という同名で謙信の一門である。これで越後勢は合わせて八千である。犀川を越え、網島丹波島原の町に鶴翼の陣を取った。 武田軍 武田晴信も同15日に川中島を通って、海津城に入り、16日に人数を繰り出して、東向きに雁行に陣取った。先手は高坂弾正、布施大和守、落合伊勢守、小田切刑部、日向大蔵、室賀出羽介、馬場民部の七組で、七百の勢が先手に旗を立てて進んだ。 二番手には真田弾正忠幸隆、保科弾正、市川和泉守、清野常陸介の四人が二千の兵を率いて陣取る。 後詰は海野常陸介、望月石見守、栗田淡路守、矢代安芸守の四人で二千七百。遊軍は仁科上野介、須田相模守、根津山城守、井上伯音守の五人、四千の軍勢である。 これを二行立てに陣を張り、総弓矢奉行は武田左馬介信繁、小笠原若狭守長詮、板垣駿河守信澄の三人の備えとなった。 旗本の先頭は、飯富(おぶ)二郎兵衛昌景、阿止部(跡部)大炊介信春、七宮将監、大久保内膳、下島内匠、小山田主計、山本勘介、駒沢主祝の八人で、信玄の本陣の左右には、名家の侍の一条信濃守義宗と逸見山城守秀親(信玄の姉婿)が万事を取り仕切る。 その他、下山河内守、南部入道喜雲、飯尾入道浄賀、和賀尾入道、土屋伊勢、浜川入道の六人が二千の兵と陣を敷いた。 ところが日夜お互いに足軽を出して小競り合いをしたが、合戦にはならなかった。 上杉軍 天文23年8月18日の朝はやく、越後方から草刈りの者二、三十人出し、まだうす明かりの中から駆けまわる。それを見ていた甲州の先手の高坂(弾正)陣の足軽が百人ばかり出て、謙信方の草刈りを追いまわした。これは計略であったので、越後方から村上義清と高梨政頼の足軽大将である小室平九郎、安藤八郎兵衛ら二、三百人の者が夜のうちから道に潜んでいて、高坂の足軽を全部を討ち取った。これを見て、高坂弾正、落合伊勢守、布施山城守、室賀出羽介の陣から百騎あまりの者が大声を上げて上杉勢の足軽勢を追いたて、上杉方の先手の陣のそばまで押し寄せて来た。それを見計らって、義清、政頬の両方の軍兵一挙に出て、追い討ちをかけ、武田勢百騎を総て討ち取ってしまった。そのため、高坂、落合、小田切、布施、室賀などの守りが破れ、武田晴信の本陣まで退いていった。 武田軍 武田方は先手が負け、さらに追いたてられるのを見て、真田幸隆、保科弾正、清野常陸、市川和泉などが第二陣から出て、勢いで追いたてて一旦、上杉勢を追い返して、陣所の木戸口まで迫り、義清、政頼も危機を迎えた。 上杉軍 この時、二番手から越後方の川田対馬守、石川備後守、高梨源五郎の三隊、そのほか遊軍の中から、新発田尾張守その子因幡守、杉原壱岐守の五隊が二千ばかりの兵と、ときの声をあげて駆け出て、武田勢を追い散らして戦った。 そのうち、真田幸隆が傷を受けて退くところを、「上杉方の高梨頼治」と名乗って、真田にむんずと組んで押しふせ、鎧の脇のすきまを二太刀刺した。保科弾正はそれを見て、「真田を討たすな、者どもかかれ」と戦った。真田の家人細谷彦助が、高梨源五郎の草ずりの下をひざの上から打ち落した。つまり主人の仇を取った。これから保科を槍弾正と言うようになったという。保科もその時、越後方の大勢に取りこめられて、危なく見えたが、後詰の海野、望月、矢代、須田、井上、根津、河田、仁科の九人がこれを見て、保科を討たすな、と一度にときの声をあげて、追い散らした。 越後の本陣に近いところまで切りかかってきたところ、越後の後詰斎藤下野守朝信、柿崎和泉守景家、北条安芸守、毛利上総介、大関阿波守など三千あまりが切って出て追い返し、押しもどして戦った。この戦いで、敵も味方も、負傷者、戦死者を多く出し、その数は数えきれぬほどであった。 謙信は紺地に日の丸、白地に「毘」の字を書いた旗を二本立て、原の町に備えをととのえ、その合戦が続いた。そのうちに信玄は下して、犀川に太い綱を幾本も張り渡して、武田の旗本大勢がその綱にすがって向こう岸に上り、芦や雑草の茂った中の細道から、旗差物を伏せしのばせて出て、謙信の旗本にときの声を上げて、にわかに切り込んで来た。 そのため、謙信の旗本はいっぺんに敗れ、武田方は勝に乗じて追い討ちをかけて来た。 信玄は勇んで旗を進めたところに、大塚村に備えを立てていた越後方の宇佐美駿河守定行のひきいる二千ばかりの軍が、横槍に突きかかり、信玄を御幣川に追い入れた。そこに越後方の渡辺越中守が五百余騎で駆けつけ、信玄の旗本に切ってかかり、宇佐美の軍とはさみうちに討ち取った。武田勢は人も馬も川の水に流されたり、また討ち取られた者も数知れなかった。 そのうちに謙信の旗本も戻り、越後方上条弥五郎義清、長尾七郎、元井日向守、沼野掃部、小田切治部、北条丹後守などが信玄の旗本を討ち取った。その他、青川十郎、安田掃部などは御幣川に乗り込み、槍を合わせ太刀で戦い名を上げた。手柄の士も多かった。しかし討ち死にした者も数多かった。 信玄も三十ばかりの人数で川を渡って引き1げるところを、謙信は川の中に乗り込んで二太刀切りつけた。信玄も太刀を抜いて戦う時、武田の近習の侍が謙信を取り囲んだが、それを切り払った。しかし、なかなか近づけず、信玄も謙信も間が遠くへだてられた。その時、謙信に向かった武田の近習の士を十九人切った謙信の業は、とても人間の振る舞いとは思われず、ただ鬼神のようであったといわれる。謙信とはわからず、甲州方では越後の士荒川伊豆守であろうと噂されていた。後でそれが謙信とわかって、あの時討ち取るベきであったのに残念なことをした、とみなが言ったという。 信玄は御幣川を渡って、生萱山土口の方に向かい、先陣、後陣が一つになって負け戦であった。甲州勢は塩崎の方に逃れる者もあり、海津城に逃げ入った者もあった。 中条越前が兵糧などを警護していたところ、塩崎の百姓数千がそれを盗みに来たため、中条がこれを切り払った。このためまた、武田、上杉の両軍が入り乱れてさんざんに戦った。両軍に負傷者、死者が多く出た。信玄は戦に敗れて、戸口という山に退いた。上杉勢がこれを追いつめ、そこで甲州方数百を討ち取った。 信玄の弟、左馬介信繁が七十騎ばかりで、後詰の陣から来て、信玄が負傷したことを聞き、その仇を取ると言って戻って来た。その時、謙信は川の向こうにいた。左馬介は大声で、「そこに引き取り申されたのは、大将謙信と見える。自分は武田左馬介である。兄の仇ゆえ、引き返して勝負されたい」と呼びかけた。謙信は乗り戻って、「自分は謙信の家来の 甘糟近江守という者である。貴殿の敵には不足である」と言って、川岸に馬を寄せていた。 待っていた左馬介主従十一人が左右を見ると敵はただ一騎である。信繁も、「一騎で勝負をする、みな後に下っているよう」と真っ先に川に入るところを、謙信は川に馬を乗り入れ、左馬介と切り結んだ。左馬介は運が尽きて打ち落され、川に逆さまに落ち込んだ。謙信は向こうの岸に乗り上げ、宇佐美駿河守が七百余で備えている陣の中に駆け入った。一説に は武田左馬介信繁を討ち取った者は村上義清であるともいう。上杉家では、左馬介を討ち取ったのは、謙信自身であったと言い伝えている。甲州では信玄は二か所も深手を負い、信繁は討ち死にしたのである。板垣駿河守、小笠原若狭守も二か所、三か所の負傷で敗軍であった。 越後勢も旗本を切り崩されて敗軍したが、宇佐美駿河守、渡辺越中守が横槍に入り、信玄の旗本を崩したのに力を得て、甲州勢を追い返して、もとの陣に旗を立て、鶴翼の陣を張ることができた。 この時の戦は天文二十三年甲寅八月十八日。夜明けから一日中十七度の合戦があった。武田方二万六千のうち、負傷者千八百五十九人。戦死者三千二百十六人。越後方は負傷者千九百七十九人、戦死者三千百十七人であった。十七度の合戦のうち、十一度は謙信の勝、六度は信玄の勝であった。謙信は旗本を破られたが追い返して、もとの場所に陣を張ることができた。武田方は信玄が深手を負い、弟の左馬介戦死、板垣、小笠原なども負傷したため、陣を保てず、夜になって陣を解いて引き上げた。謙信も翌日陣を解き、十九日には善光寺に逗留して、負傷者を先に帰し、手柄を立て名を上げた軍兵に感状証文を出して、 二十日に善光寺を引き払い、越後に帰陣した。これが天文二十三年八月十八日の川中島合戦の次第である。 第三回合戦 弘治二年丙辰(一五五六) 三月、謙信、川中島に出陣、信玄も大軍で出向し陣を張った。日々物見の者を追いたて、草刈りを追い散らし、足軽の小競り合いがあった。 信玄のはかりごとでは、戸神山の中に信濃勢を忍び込ませて謙信の陣所の後にまわり、夜駆けにしてときの声を上げて、どっと切りかかれば、謙信は勝ち負けはともかくとして千曲川を越えて引き取るであろう。そこを川中島で待ち受けて討ち取ろうとして、保科弾正、市川和泉守、栗田淡路守、清野常陸介、海野常陸介、小田切刑部、布施大和守、川田伊賀守の十一人の、総勢六千余を戸神山の谷の際に押しまわし、信玄は二万八千の備えを立てて、先手合戦の始まるのを待った。先手十一隊は戸神山の谷際の道を通って、上杉陣の後にまわろうと急いだが、三月の二十五日の夜のことである。道は険しく、春霞は深く、 目の前もわからぬ程の闇夜で、山中に道に迷い、あちこちとさまよううちに、夜も明け方になってきた。 謙信は二十五日の夜に入って、信玄の陣中で兵糧を作る煙やかがり火が多く見られ、人馬の音の騒がしいのを知り、明朝合戦のことを察し、その夜の十時ごろに謙信はすっかり武装をととのえて八千あまりの軍兵で、千曲川を越えた。先陣は宇佐見駿河守定行、村上義清、高梨摂津守政頼、長尾越前守政景、甘糟備後守清長、金津新兵衛、色部修理、斎藤 下野守朝信、長尾遠江守藤景九組の四千五百。二番手に謙信の旗本が続いて、二十五日夜のうちに、信玄の本陣に一直線に切り込み、合戦を始めた。 信玄は思いもよらぬ油断をしていた時で、先手がどうしたかと首尾を待っていたところに越後の兵が切りかかった。 武田方の飯富兵部、内藤修理、武田刑部信賢、小笠原若狭守、一条六郎など防戦につとめた。しかし、越後方の斎藤、宇佐美、柿崎、山本寺、甘敷、色部などが一度にどっと突きかかったので、信玄の本陣は破れ、敗軍となった。その時板垣駿河守、飯富、一条など強者ぞろいが百騎ばかり引き返して、高梨政頼、長尾遠江守、直江大和守などの陣を追い 散らし、逃げるを追って進んで来るところを、村上義清、色部、柿崎などが、横から突きかかって板垣、一条などを追い討ちにした。小笠原若狭守、武田左衛門、穴山伊豆守など三百騎が、「味方を討たすな、者どもかかれ」 と大声で駆け入って来た。 越後方でも杉原壱岐守、片貝式部、中条越前、宇佐美、斎藤などが左右からこの武田勢を包囲して、大声で叫んで切りたてた。この乱戦で信玄方の大将分、板垣駿河守、小笠原若狭、一条など戦死、足軽大将の山本勘介、初鹿野源五郎、諸角豊後守も討ち死にした。 二十五日の夜四時ごろから翌二十六日の明け方まで、押し返し、押し戻し、三度の合戦で信玄は負けて敗軍となり、十二の備えも追いたてられ討たれた者は数知れなかった。 謙信が勝利を得られたところに、戸神山よりまわった武田の先手十一組、六千余が、川中島の鉄砲の音を聞き、謙信に出し抜かれたかと我先に千曲川を越え、ひとかたまりになって押し寄せた。信玄はこれに力を得て引き返し、越後勢をはさみうちに前後から攻め込んだ。前後に敵を受けた越後勢は、総敗軍と見えたが、新発田尾張守、本庄弥次郎が三百 余で、高坂弾正の守る本陣めがけて一直線に討ちかかり、四方に追い散らし、切り崩した。 上杉勢は一手になって犀川をめざして退いた。 武田勢は、これを見て、「越後の総軍が、この川を渡るところを逃さず討ち取れ」と命じ、われもわれもと甲州勢は追いかけて来た。上杉勢は、退くふりをして、車返しという法で、先手から、くるりと引きめぐらし、一度に引き返し、甲州勢の保科、川田、布施、小田切の軍を中に取りこめて、一人残らず討ち取ろうと攻めたてた。 信玄方の大将、河田伊賀、布施大和守を討ち取り、残りも大体討ち尽くすころ、後詰の栗田淡路、清野常陸介、根津山城守などが横から突いて出て、保科、小田切の軍を助けだした。越後の諸軍は先手を先頭にして隊をととのえて、静かに引きまとめ犀川を渡ろうとした。そこへ、信玄の先手、飯富三郎兵衛、内藤修理、七宮将監、跡部大炊、下島内匠、小山田主計などが追って来た。本庄美作、柿崎和泉、唐崎孫之丞、柏崎弥七郎などが、引き返して戦っているところに、新発田尾張守、斎藤下野守、本庄弥次郎、黒川備前守、中条越前守、竹股筑後守、その子右衛門など八百あまりが柳原の木陰からまわって来て、それぞれに名乗り、何某ここにあり、そこをひくなと大声で叫び、一文字に突いてかかった。 そのため甲州勢はもとの陣をさして退いた。越後勢は勝って、その足で川を越え、向こうの岸に上がった。甲州勢はなおも追いかけようとひしめいたが、越後方の宇佐美駿河守が千あまりで市川の渡り口に旗を立て、一戦を待つ様子に恐れ、その上、甲州方は夜前から難所を歩きまわり、疲れているのに休む間もなく四度も合戦になったため、力も精も尽き 果てて、重ねて戦うだけの気力をなくした。 甲州本陣にいた軍兵が代わりに追討軍を組もうとしたのを信玄は厳しく止めたので、一人も追っ手は来なかった。越後勢はゆっくり川を越して、はじめの陣所に引き上げた。 この日の合戦は夜明けの前に三度、夜が明けてから四度、合わせて七度の戦いで、越後方戦死三百六十五人、負傷者千二十四人。甲州方の戦死者は四百九十一人、負傷者千二百七十一人と記した。中でも、大将分小笠原若狭守、板垣駿河守、一条六郎、諸角豊後、初鹿野源五郎、山本勘介をはじめ、信玄の士の有名な人びとが討ち死にしたので翌二十七日に信玄は引き上げた。謙信も手負いの者、死人など片づけ、軍をまとめて引き上げた。弘治二年三月二十五日の夜から、二十六日まで、川中島の第三度の合戦であった。 第四回合戦 弘治二年八月二十三日、謙信は川中島に出て、先年の陣所より進んで川を越えて、鶴翼に陣を張った。両度の陣と同じ陣形である。村上義清、高梨政頼を中心として、丸い月の形に十二行の陣立てである。信玄は二万五千の兵で出陣した。 今度の越後の陣取りは、長期戦とみえて、薪を山のように積んでおいたと、甲州の見張りの者が報告するのを、聞いて信玄は、「一日二日の間に、越後の陣に夜中に火事があるだろう。その時、一人でも進んで出て行く者があったら、その子孫までも罰するだろう」 と下知した。 すると、二十三日の晩方、越後の陣所より荷物を積んだ馬や、荷を持った人夫が出て、諸軍旗を立てて陣を解き、引き上げるようにみえた。甲州方の軍兵が、謙信が引き上げるのを逃さず追い討ちにしようとした。信玄は一の木戸の高みに上ってその様子をながめて、「謙信ほどの大将が、日暮れになって陣を払って退くようなことがあるはずがない。これを追ってゆけば必ず失敗である。一人も出てはならぬ」 と止められた。思ったとおり、その夜二時ごろ、越後の陣から火事があり、たいへんな騒ぎとなった。だが、信玄が厳しく命令して一人も出なかった。間もなく夜が明けて、越後の陣地を見渡すと、通り道をあけて、きちんと武装した武士が、槍、長刀を持って、六千ばかりが二行に進んで、敵が近寄るのを待ち受けていた。朝霧が晴れるにしたがって見わたすと、二行になった備えの左側の先手は長尾政貴、右側は宇佐美駿河守走行、松本大学、中条越前を頭として十備え、杉原壱岐守、山本寺伊予守、鬼小島弥太郎、安田伯者守などを頭として十二備えが続いている。 中筋は、紺地に日の丸の大旗、「毘」の字を書いた旗の下に、謙信が床凡に腰をかけて、一万あまりの軍勢がそれを取り囲み、敵を待ち受けていた。甲州勢はこれを見て、ここに攻め込めば一人として生きては帰れまい。この備えのあることを見破った信玄の智は計り知れない、ただ名将というだけでなく、鬼神の生まれ代わりともいうべきものだと、みな感じ入ったという。 その翌日、信玄は戦いの手立てを考えて言った。「夜中に甲州方一万の人数を山の木の陰にひそかに隠し、馬をつないである綱を切り越後の陣に放してやる、そして馬を追って人を出す。敵陣から足軽がこの放した馬に目をつけて必ず出て来るだろう。その時、足軽を討ち取るように見せかけて、侍百騎を出して越後の足軽を追いたてれば、謙信は、気性の強い武士であるから、百騎の勢を全滅しようと出て来るだろう。その時、足並みを乱して敗軍のようにして谷に引き入れ、後陣を突ききり、高いところから、矢先をそろえ、鉄砲を並べて、「目の下の敵を撃て」 と命じた。 そこで、馬二、三頭の綱を切って越後の陣に追い放し、足軽五、六十人が出て、あちこちと馬を追い、かけ声をかけたが、越後の陣では、これを笑って取り合わず、一人も出なかった。 信玄はこれを見て、「謙信は名将である。このはかりごとに乗らない武士である」と言い「しかし、大河を越えて陣を張るのは不思議である。信州の中に謙信に内通している者がいるようだ。大事にならぬうちに引き上げることにしよう」 と内談して、信玄は夜中に陣を引き払い、上田が原まで引き上げた。謙信は総軍で信玄と一戦、朝六時ごろから、午後二時すぎまでに五度の合戦があり、初めは武田が負け退いたが、新手が駆けつけて激しく戦い、越後勢は押したてられた。長尾越前守政景、斎藤下野守朝信などが盛り返し、下平弥七郎、大橋弥次郎、宮島三河守などが槍を振るって、武田勢を突き崩した。また、上杉方の雨雲治部左衛門が横合いに突きかかり、道筋を突き崩した。宇佐美駿河守走行は手勢で、山の方から信玄の陣に切ってかかったため、甲州方はついに敗北した。翌日信玄は引き上げ、謙信も戻った。この戦いで、甲州方千十三人の死者、越後方八百九十七人の戦死者であった。 第五回合戦 永禄二年 (一五五九) 四月、謙信は京都に上り、参内、公方義輝公に拝謁した。輝虎の名をいただき、網代の塗輿、御紋をゆるされ、文の裏書きまでゆるされて帰国された。管領職は辞退し、朱塗りの柄の傘、屋形の号もゆるされ、三管領に準ずるようになった。その後永禄五年には管領職についた。 永禄三年九月から、謙信は関東に出陣、上州(群馬県)平井、厩橋(前橋)、名和、沼田などの諸城を攻め落し、その年は前橋で越年した。 永禄四年春、謙信は小田原に向かう途中、正月、古河の城に足利義氏を攻めた。三月に小田原に向かう。この時初めて上杉氏を名乗ることになった。 同八月、謙信は川中島へ向かい、西条山に陣を取り、下米宮街道と海津の城の通路を断ち、西条山の後から赤坂山の下に出る水の流れをせき止め、堀のようにし、西条山を攻めた。 八月二十六日、信玄は川中島に着き、下米宮に陣を取り、西条山の下まで陣を取ったため、越後方は前後に敵を受けた。謙信は夜戦のつもりでいろいろ手段を尽くされた。二十九日、信玄は下米宮から海津城に入った。九月九日の夜、武田総軍をまとめて、ひそかに海津城を出て、千曲川を越えて、川中島に陣を備えた。越後方の夜の見張りの者がこれを見つけて告げてきたため、謙信は、直江大和守実綱、宇佐美駿河守定行、斎藤下野守朝信と相談して、その夜の十二時、謙信も人数をつれて、そっと川中島に出た。西条山の下には村上義清、高梨摂津守、そのほか、井上兵庫介清政、島津左京入道月下斎の五隊を残しておき、川中島には、本庄越前守繁長、新発田尾張守長敦、色部修理亮長実、鮎川摂津守、下条薩摩守、大川駿河守のひきいる五千余を、千曲川の端に備えを立て、海津の城から新手の武田勢が横槍を入れるのを防ぐためである。謙信の備えは、左の先手は柿崎和泉守、右の先手は斎藤下野守朝長と長尾政景があたり、二の手は北条丹後守長国、右の備えは本庄越前守慶秀、左の脇備えは長尾遠江守藤景、右の脇備えは山吉孫次郎親章を配置した。中心は謙信の旗本、後備えは中条梅披斎であった。遊軍には、宇佐美駿河守走行、唐崎孫次郎吉俊、鉄孫太郎安清、大貫五郎兵衛時泰、柏崎弥七郎時貴の五組で、宇佐美の指揮の下に属した。直江大和守実綱が川を下ってひかえ、武田方から出た物見の者十七人を待ち 受けて一人残らずみな討ち取った。越後勢が川を渡って、川中島に出たのを武田方は知らず、そのあと出た物見も、越後勢が意外な場所に陣を備えたので見つけなかった。そして、信玄方はただ西条山の方ばかりに目をつけていたため、千曲川のそばに、本庄、新発田、色部などの二千がひかえているのを、夜中のことで人数を確かめることもできず、多勢と 見て、これが謙信の先手と思ったという。それも明け方になって見つけたので、初めのうちは越後勢が川を越えたのに気づかなかった。 翌十日朝、まだ夜が明けぬうちに、謙信方から貝を吹き、太鼓を打って、武田の陣に攻めかけた。武田勢は思いがけない方向から攻められ驚いたようだった。謙信の旗本が紺地に日の丸、それに 「毘」 の字を書いた大旗二本を立て、ちかぢかに押しかけたのを見て、備えを立て直す間もなく戦いかねるようだったが、武道第一の武田侍であるから、弓を射、 鉄砲を撃ちかけ、越後の先手柿崎和泉守の軍は、信玄の先手の飯富三郎兵衛に突きたてられ、千曲川の方に下ったのを見て、色部修理長実は、かねて待ち受けていたところなので、旗から槍を入れ、飯富の備えを突き返した。斎藤下野守朝信は、武田方の内藤修理、今福浄閑の軍を追いたてて進んだ。長尾政景、本庄美濃守慶秀、長尾遠江守藤景、山吉孫次郎、北条丹後守の五軍が先を争って、大声を上げて信玄方を切り散らした。謙信は八年前に信玄と太刀打ちをして討ちもらしたのが、口惜しく、この度は信玄をぜひ討ちたいと心がけ、旗本の人数で、信玄の旗本にかかり追い崩した。武田の十二段の備えがみな敗北し、千曲川の広瀬のあたりまで、追い討ちをかけ、戦死者、負傷者は数えきれない。信玄は犀川の方に退くのを、越後勢が追いかけた。その時、後から武田太郎義信が二千ばかりで謙信のあとを追ってきた。それで越後方の後備えの中条梅披斎の軍が引き返して、義信方に防戦した。しかし旗色が悪く見えたところに、遊軍の宇佐美駿河守が助けに来て、中条と一手になって、武田義信軍を追い返し、勝利を得て、数十人を討ち取った。あとで戦が始まったのを謙信が聞いて、不安に思って引き返して義信を防ごうとしたが、義信は宇佐美を斬り尽くして退いたのを、直江大和守、甘糟近江守、安田治部丞の三軍が義信の軍を倉晶まで追い討ちにした。謙信の総軍は、前後の敵を切り崩して、川中島の原の町に休み、腰の兵糧などを取ろうと油断した時、どこに隠れていたのか、義信が八百ばかりの兵と旗差物 して、越後軍に急に攻め込み、謙信の日の丸の旗印のところに目がけて攻めかかって来た。越後方は今朝早くからの合戦に疲れ、ことに油断していたところで、少し先手で防いだが、備えもうまくゆかず、多くは馬に乗り遅れ、敗軍となった。越後勢の戦死多数で、志田源四郎義時もここで戦死した。謙信は家の重宝である五挺槍というものの中から、第三番目の鍔槍という槍で、自身で手を下して戦った。後には波平行安の長刀でさんざん戦ったところに、海津口を守っていた六軍のうちの本庄越前守、大川駿河守が駆けつけ、義信を追い返した。この時、繁長自身は太刀打ち、大川駿河は戦死した。長尾遠江守藤景と宇佐美駿河守は応援に入り、義信を突き崩した。これで戦はひとまずおさまった。 謙信は犀川を後ろにその夜は陣を取ったが、山吉孫次郎は、「今夜海津の城の敵が気がかりである。犀川を渡り、軍を取りまとめられては」と諌めたが、謙信は従わなかった。十一日の朝、謙信は下米宮の渡し口に備えを立て、直江大和守実綱、甘糟近江守景持、宇佐美駿河守走行、堀尾隼人などと、西条山の陣小屋を焼き払った。そのあと、謙信は善光寺 に三日滞在して、長沼まで入り、ここに二、三日逗留して越後に帰陣した。 はじめ、謙信が出張して、西条山に陣を取り、八月二十六日、信玄が下米宮の渡しに着いた。九月十日の川中島の大合戦のあるまでに、小競り合いは八度あったが、少しのことであるから書きつけなかった。 先年から五度の合戦。天文二十二年十一月から永禄七年まで十二年で、毎年謙信は川中島に出て信玄と対陣したため、稲刈りなどの季節に、三百、五百と出会い、討ったり討たれたりのことは数十度になった。けれども信玄は謙信の勇才をはばかり、謙信は信玄の智謀を恐れて、互いに思慮をめぐらし、はかりごとを工夫し、いろいろと手段を尽くしたが、いずれも負けず劣らずの名将であったために、決着はつかなかった。 永禄七年七月に、信濃口の押さえとなる野尻城にいた宇佐美駿河守走行が自害し、長尾政景も死去したので、信濃境を取り締まるため、謙信自身で出かけ、川中島に至った。信玄も出馬して十日ばかり対陣したが、いつもの例で、日々小競り合いばかりで勝負はない。 武田家の一門家老が信玄に意見を言った。「川中島上郡下郡の四郡を争って、十二年の間毎年合戦がやむことなく、両虎の勢いで勝負がつかず、士卒の疲れは言葉では言い尽くせぬくらいです。海津城についている領分はこちらに、川中島の四郡は越後にやられてはどうでしょう。駿河表、関東方面、美濃口などに出られ手広くなられたのですから、川中島の四郡にかかわって、剛強な謙信と取り合いをしていてむなしく年月を送られるのはいかがなものか」 と諌めた。 八月十五日の朝、信玄が言うには、互いの運だめLとして、安馬彦六を選び、組討ちをさせ、その勝負を見て川中島をどちらかの土地にしようと、彦六を使いとして謙信に申し入れがあった。彦六は上杉の陣の一の木戸口に行き、謙信方からは直江山城が出向いた。彦六は馬から降りて、「信玄が申されるには、天文二十三年から十二年の間、夜昼戦っても 勝負がつかぬ。明日は互いに勇士を出し組討ちをし、その勝利次第で川中島を治め、このあと謙信も信玄も弓矢を取ることをやめたい。それで安馬彦六が明日の組討ちの役を申しつけられ、これまで参った。器量人を出され、明日組討ちをいたすようにと信玄の言葉である」 と申し入れた。 直江山城守の取り次ぎで謙信は返事をされて、「信玄の仰せはもっともである。こちらからも人を出し、明日十二時に組討ちをいたす」 とのことである。 永禄七年八月十六日、正午、信玄方から彦六ただ一騎、鎧をさわやかにつけて白月毛の馬に乗って、謙信の陣に向かった。越後方の陣からは小男の鎧武者が一騎、小さな馬に乗っていた。九月十日の川中島の大合戦のあるまでに、小競り合いは八度あったが、少しのことであるから書きつけなかった。 先年から五度の合戦。天文二十二年十一月から永禄七年まで十二年で、毎年謙信は川中島に出て信玄と対陣したため、稲刈りなどの季節に、三百、五百と出会い、討ったり討たれたりのことは数十度になった。けれども信玄は謙信の勇才をはばかり、謙信は信玄の智謀を恐れて、互いに思慮をめぐらし、はかりごとを工夫し、いろいろと手段を尽くしたが、 いずれも負けず劣らずの名将であったために、決着はつかなかった。 永禄七年七月に、信濃口の押さえとなる野尻城にいた宇佐美駿河守定行が自害し、長尾政景も死去したので、信濃境を取り締まるため、謙信自身で出かけ、川中島に至った。信玄も出馬して十日ばかり対陣したが、いつもの例で、日々小競り合いばかりで勝負はない。 武田家の一門家老が信玄に意見を言った。「川中島上郡下郡の四郡を争って、十二年の間毎年合戦がやむことなく、両虎の勢いで勝負がつかず、士卒の疲れは言葉では言い尽くせぬくらいです。海津城についている領分はこちらに、川中島の四郡は越後にやられてはどうでしょう。駿河表、関東方面、美濃口などに出られ手広くなられたのですから、川中島の四郡にかかわって、剛強な謙信と取り合いをしていてむなしく年月を送られるのはいかがなものか」 と諌めた。 八月十五日の朝、信玄が言うには、互いの運だめLとして、安馬彦六を選び、組討ちをさせ、その勝負を見て川中島をどちらかの土地にしようと、彦六を使いとして謙信に申し入れがあった。彦六は上杉の陣の一の木戸口に行き、謙信方からは直江山城が出向いた。彦六は馬から降りて、「信玄が申されるには、天文二十三年から十二年の間、夜昼戦っても 勝負がつかぬ。明日は互いに勇士を出し組討ちをし、その勝利次第で川中島を治め、このあと謙信も信玄も弓矢を取ることをやめたい。それで安馬彦六が明日の組討ちの役を申しつけられ、これまで参った。器量人を出され、明日組討ちをいたすようにと信玄の言葉である」 と申し入れた。 直江山城守の取り次ぎで謙信は返事をされて、「信玄の仰せはもっともである。こちらからも人を出し、明日十二時に組討ちをいたす」 とのことである。 永禄七年八月十六日、正午、信玄方から彦六ただ一騎、鎧をさわやかにつけて白月毛の馬に乗って、謙信の陣に向かった。越後方の陣からは小男の鎧武者が一騎、小さな馬に乗って出向き、馬上で大声で、「ここに出た者は、謙信の家老斎藤下野守朝信の家来で長谷川与五左衛門基連と申す者、小兵ながら彦六と晴れの組討ちをご覧に入れる。いずれが勝つとも、加勢、助太刀は、永く弓矢の恥である」と言い、彦六と馬を乗りちがえ、むずと組み、両馬の間に落ち重なり、彦六が上になり長谷川を組み敷いた。甲州方が声を上げて喜ぶ時、組みほぐれて、長谷川は安馬を組みふせ上になり、彦六の首を取って立ち上がり高く差し上げて、「これをご覧下され。長谷川与五左衛門組討ちの勝利はこのとおり」と叫ん だ。越後方は思わず長谷川うまくやったと一同感じどよめいた。甲州方は無念に思って、木戸を開けて千騎ばかりが討って出ようとしたのを、信玄は、「鬼神のような彦六が、あの小男にたやすく組み取られたことは味方の不運である。かねて組討ちの勝利次第と約束した上は、川中島は越後に渡すことにする。約束を破ることは侍として永く不名誉なことである。四郡は謙信のものと今日から定めよう」と言って翌日引き上げられた。これから四郡は越後の領となった。長谷川の手柄の印である。そして村上義清、高梨政頬は、川中島に戻り、その志を遂げた。これから、武田と上杉の争いはなくなった。 このことは、信玄の家来、須崎五平治、堀内権之進が書きとめておいた。この両人は、あとで浪人して越後に来て、上杉家に仕えている。それでよく調べて書いたものである。 この一冊は須崎、堀内の書いておいたものと、信玄の子孫にあたる武田主馬信虎の家伝の書と、村上義清の子源五郎国清の書いたものを参考にして、よく調べて書き記したものである。 慶長十年三月十三日 上杉内 清野 助次郎 井上 隼人正 『河中島五箇度合戦記』 右の一冊は当家の者が書き残したものである。この度のおたずねについて、それを写して差し上げる。 寛文九年五月七日 うたのかみ 右の書は、先年弘文院春斎に仰せつけられ、日本通鑑に選ばれた。酒井雅楽頭忠清に上杉家から差し上げられた一冊である。 市河文書目録 「信濃史料所載 市河文書」 市河文書目録 引用「信濃」 「信濃史料」 年 月 日 1 平家某下文 嘉応 2 1170 2 7 2 木曾義仲安堵下文 治承 4 1180 12 3 阿野全成安堵下文 寿永 2 1183 12 7 4 阿野全成安堵下文 寿永 3 1184 3 6 5 ? 北條義時袖判藤原兼佐奉書 (承久) 3 1221 6 6 6 鎌倉幕府下文 建久 3 1192 12 10 7 北條時政安堵下文 建仁 3 1203 9 4 8 北條時政安堵下文 建仁 3 1203 9 23 9 北條時政下知状 建仁 4 1204 2 21 10 北條時政下知状 元久 1 1204 3 19 11 姓名不詳書状 12 北條泰時下知状 貞応 3 1224 11 11 13 北條泰時書状 元仁 1 1224 11 13 14 北條重時書状 (元仁) 2 1225 9 9 15 北條重時副下文 嘉禄 1 1225 9 9 16 北條重時下知状 嘉禄 1 1225 9 16 17 北條重時下知状 寛喜 1 1229 12 13 18 左衛門少尉兼政請文 年不詳 19 沙禰妙蓮譲状 建長 1 1249 12 15 20 鎌倉碁府下文 建長 4 1252 12 26 21 鎌倉幕府下文 建長 4 1252 12 28 22 鎌倉幕府下文 建長 6 1254 12 12 23 鎌倉幕府下知状 文永 2 1265 閏4 18 24 藤原仲能訴状 不詳 25 鎌倉幕府下文 文永 2 1265 5 25 26 尼寂阿譲状 文永 9 1272 8 18 27 鎌倉幕府下文 文永 11 1274 2 20 28 鎌倉幕府執権奉書 文永 11 1274 6 15 29 鎌倉幕府下知欺 弘安 1 1278 9 7 30 鎌倉幕府下知状 正応 3 1290 11 17 31 中野仲能訴状 不詳 32 鎌倉幕府下知状 正安 2 1300 3 3 33 鎌倉幕府下知厭 正安 2 1300 11 8 34 鎌倉幕府下知欺 正安 4 1302 12 1 35 信濃国応宜 延慶 2 1309 4 36 初任正検田在家目録注進 延慶 2 1309 卯 37 市河盛房置文 元享 1 1321 10 24 38 市河盛房譲状 元享 1 1321 10 24 39 市河盛房譲状 元享 1 1321 10 24 40 信濃国雑掌則能申状 元享 4 1324 9 41 駿河守某奉書 嘉暦 2 1327 10 8 42 尼せんこう譲状 嘉暦 4 1329 6 23 43 中野家平着到状 元弘 3 1233 5 8 44 中野家平著到状 元弘 3 1233 5 14 45 市河経助着到状 元弘 3 1233 6 7 46 市河助房代着到状 元弘 3 1233 6 7 47 市河助房兄弟代着到状 元弘 3 1233 6 29 48 左弁官下文 元弘 3 1233 7 25 49 国宣 元弘 3 1233 8 3 50 市河助房申状 元弘 3 1233 10 51 国宣 元弘 3 1233 11 5 52 鎌倉幕府下知状 正慶 1 1332 12 23 53 鎌倉幕府下知状 正慶 1 1332 12 27 54 雑訴決断所牒 建武 1 1334 6 16 55 市河助房等代着到状 建武 1 1334 6 25 56 市河助虜等着到状 建武 1 1334 8 57 平長胤奉書 建武 2 1335 2 5 58 市河助房等着到状 建武 2 1335 3 59 市河助鼻等着到状 建武 2 1335 3 60 市河助房等着到状 建武 2 1335 5 16 61 市河助房兄弟代著到状 建武 2 1335 5 16 62 市河助房等着到状 建武 2 1335 6 63 市河助房等着到欺 建武 2 1335 7 64 市河親宗軍忠状 建武 2 1335 8 65 雑訴決断所牒 建武 2 1335 8 14 66 市河経助軍忠状 建武 2 1335 9 22 67 市河倫房父子軍忠状 建武 2 1335 10 68 市河近宗着到状 建武 2 1335 11 28 69 市河助房代軍忠状 建武 3 1336 1 17 70 市河経助軍忠状 建武 3 1336 1 17 71 市河経助等軍忠状 建武 3 1336 1 18 72 市河経助代著到状 建武 3 1336 2 21 73 市河経助軍忠状 建武 3 1336 2 23 74 市河経助軍忠状 建武 3 1336 2 23 75 市河経助軍忠状 建武 3 1336 2 23 76 市河経助軍忠状 建武 3 1336 6 29 77 市河経助等軍忠状 建武 3 1336 6 29 78 市河経助軍忠状 建武 3 1336 11 79 市河親宗軍忠状 建武 3 1336 11 3 80 市河親宗軍忠状 建武 3 1336 11 81 市河親宗軍忠状 建武 3 1336 11 82 市河親宗軍忠状 建武 3 1336 11 83 足利直義感状 建武 3 1336 12 29 84 市河経助着到状 建武 3 1336 12 85 市河親宗着到状 建武 3 1336 12 86 市河経助軍忠状 建武 4 1337 3 87 市河経助軍忠状 建武 4 1337 3 88 市河親宗軍忠状 建武 4 1337 3 89 市河親宗軍忠状 建武 4 1337 3 90 市河助房代軍忠状 建武 4 1337 3 91 市河助房代軍忠状 建武 4 1337 3 92 市河助房代軍忠状 建武 4 1337 4 93 中野定信代軍忠状 建武 4 1337 9 94 市河倫房軍忠状 暦応 3 1341 8 95 市河倫房軍忠状 歴応 4 1342 3 21 96 昌源譲状 康永 2 1343 3 22 97 昌源譲状 康永 2 1343 5 26 98 市河倫房軍忠状 康永 2 1343 12 99 尾張左衛門佐奉書 貞和 3 1347 4 21 100 市河経助軍忠状 観応 2 1351 3 101 市河松王丸代軍忠状 観応 2 1351 3 102 右馬頭某奉書 観応 2 1351 6 2 103 市河経高軍忠状 正平 11 1356 10 104 市河脛高軍忠状 正平 11 1356 12 105 兵庫助兵粮料所預ケ状 延文 5 1360 6 27 106 関東管領感状 応安 1 1368 閏6 23 107 市河頼房等代軍忠状 応安 1 1368 9 108 細川某兵粮料所預ヶ状 応安 3 1370 4 3 109 初任正検田在家目録注進 応安 6 1373 6 110 上杉朝房安堵状 永和 1 1375 10 16 111 上杉朝房安堵状 永和 1 1375 10 26 112 斯波義種安堵状 市河甲斐守殿 至徳 2 1386 2 12 113 斯波義種下知状 市河庶子一族中 至徳 2 1386 7 18 114 二宮氏康奉書状 市河殿 至徳 3 1387 7 1 115 斯波義種書状 至徳 4 1388 8 12 116 斯波義将奉書 至徳 4 1388 6 9 117 二宮種氏所領預ケ状 至徳 4 1388 6 12 118 斯波義種感状 至徳 4 1388 6 25 119 市河甲斐守頼房軍忠状 至徳 4 1388 9 120 ● 斯波義将感状 流失した市河文書 一かわかいのかみとのへ 二宮氏康書状 至徳 至徳 4 3 13871388 9 7 15 5 121 二宮式部丞料所預ケ状 嘉慶 2 1388 12 17 122 二宮式部丞料所預ケ状 嘉慶 2 1389 8 19 123 宮方某所領契約状 <元中14年無 9年迄> 元中 応永 14 2 1395 124 二宮是随奉書 応永 4 1397 7 2 125 中野頗東軍忠状 応永 6 1399 12 27 126 市河興仙軍息状 応永 7 1400 4 1 127 小笠原長秀所領宛行状 応永 7 1400 5 27 128 小笠頼長秀安堵状 応永 7 1400 6 2 129 小笠原長秀下知胱 応永 7 1400 6 3 130 小笠原長秀下知状 応永 7 1400 6 3 131 小笠原古米入道渡状 応永 7 1400 6 3 132 小笠原古米入道打渡状 応永 7 1400 6 3 133 赤澤対馬守打渡状 応永 7 1400 6 14 134 将軍義満感状 応永 7 1400 10 5 135 小笠原長秀安堵状 応永 7 1400 10 29 136 市河興仙軍忠状 応永 7 1400 11 15 137 小笠原長秀感状 不詳 11 3 138 斯波義将安堵状 応永 8 1401 6 25 139 斯波義将下知状 応永 8 1401 6 25 140 畠山道端奉書 応永 9 1402 9 15 141 細川慈忠安堵状 応永 9 1402 9 17 142 伊勢道券打渡状 応永 9 1402 9 18 143 将軍義満安堵状 応永 10 1403 7 2 144 細川慈忠安堵状 応永 11 1403 11 20 145 市河性幸代軍忠状 応永 11 1403 11 146 眞晃契約状 応永 14 1407 6 23 147 細川道観感状 応永 22 1415 7 19 148 畠山道端奉普 応永 30 1423 7 10 149 細川慈忠書状 応永 7 26 150 武田家朱印 永禄 12 1569 10 12 ● 沙弥 市河新次郎殿 応永 信濃 30 1423 7 10 ● 斯波義種書状 市河甲斐守殿 至徳 信濃 3 1386 8 12 市河文書別編 武田信玄書状 市川孫三郎殿 (弘治) 2 1556 7 19 武田信玄書状 市川籐若殿 (弘治) 3 1557 6 16 武田信玄書状 市河籐若殿 (弘治) 3 1557 6 23 武田信玄朱印状 市川新六郎殿(信房) 永禄 10 1567 6 16 武田信玄朱印状 市川新六郎殿(信房) 永禄 11 1568 11 17 武田信玄朱印状 市川新六郎殿(信房) 永禄 12 1569 10 12 武田信玄朱印状 市河新六郎殿(信房) 天正 7 1579 2 25 武田信玄朱印状 市川治部少輔殿(信房) 天正 9 1581 1 9 武田信玄朱印状 市川新六郎殿(信房) 天正 10 1582 3 7 <現在編集中> <引用資料 信濃 信濃史料 山梨県史> ()内は文書では編者の推定 ()同様 武田信玄朱印状 市川治部少輔殿(信房) 天正 10 1582 4 14 武田信玄朱印状 市川治部少輔殿(信房) 天正 10 1582 6 20 市川治部少輔(信房か)書状 直江山城守殿 天正 11 1583 4 14 直江山城守 市河長寿丸殿 不詳 市川文書の仝撮影 カビネ版で二百数十枚 「信濃」第十一号 出羽の大富豪本間家所蔵 酔古生著 出羽酒田の富豪である本間家に市川史書の所威されて居る事を発見されてから殆んど満二ヶ年になる。丁度その当時は、同家の代換りの時で、新戸主の公正氏は、学生々活から一躍大世帯の主人になった事とで、自分の家ながら、一向に様子が判らず、その上彼家の内規として、主人以外には絶対に出入を禁じられて居る土蔵が、二棟存在し、文書類其他の重宝ものなどは、概ね其中にあり、そこへ新主人公の不案内と来て居たから始末が悪い。鈴木知事から依頼状まで出して貰い、寓眞乾板も三十ダースも持参に及んだのだけれど、其俵退却の余儀なきに至った次第であった。 昨年も亦、米澤へ出張の帰る道すがら立寄った。その時も亦未発見とあって、すごすご退却。更にニケ年間に手紙で問合せした事は何十回。或は故伊佐早先生の令嗣、信氏を煩はした事もあった。返答は当主公正氏からも数回、分家の本間氏からも、該家細管の圃書館長白崎光弥氏からも、その時々に来て居るので、何れも少し待ってくれとの事だから、怒るにも怒れない。 本年になっても亦数回の伺いを立てたのであったが、最終の八月初めの手紙の返事が、月の十三日に到着した。それが、思はずも吉報であったのである。 山形県史料の殆んど最終の探訪ともいうべき出張に兼ねて、本間家にはまだ外にも伊佐早史料がある等だから、それの探訪をも兼ねて、米澤から酒田へと同来したのは、九月十一日。早速、あこがれの市河文書といふものを正確を見せてもらうことになった。省みれば、其一部分を米澤の伊佐早先生の机下で拝ませてもらった時から、二十年後を過ぎて居る。あるは、あるは、藍色の紙の琴訂をした巻ものが、三十巻もあるのである。 文書の教が百四十七通、下高井郡中野小峯校で印刷したパンフレット式市河文書は、信濃史料叢書かたとったものであるが、あれよりは三通少ないのである。維新後、市河家の保存された時は、もつと沢山あつたに相違ない事は、伊佐早先生の常に語られたところであり、且また應永三十年前が、首四十六通であって、此間百四十年を飛んで永禄十二年のものが一通、寄生虫のようについて居るも不審、実は戦国期のものはまだ出ない史料も、四五点散在して居り、文章だけ判って居る史料も少なくない。平安朝からのものを保存した程の家柄だもの、戦国期のものが存在せぬ筈はない。此鮎か考へても、應永末年から永聴十二年迄の百四十余年間のものは、少なくとも二十通や三十通は存在したるべく.現に越後高田の謙信文庫には、應永より前の至徳三年の市河文連が一通現存するのである。かような語だから、現在此文書から紛失して居る部分は、恐らく、一半以上であろうと思う事を禁じ得ぬ。詳細は、該写真に附録として貼附する証明書に書くつもり、そして、公開する積りであるから、その時を期して貰う事とし、云はば、現存の市河文書といふものは、應永以前のものであるといふ事が、最も特色の一つであるというべきであろう。 一口に應永といっても、五百三十年の昔である。その前の文書が、百四余通もあり、殊に鎌倉前のものもあり、義仲もあり、頼朝の弟阿野全成のものもあり、北條氏などは、時政以後、殆んど歴代の花押を有して居訳であるから、諸家文書中でも珍とするのは当然である。殊にその諸家中でも、市河家といふものは、大名でなくて、徹頭徹尾、信濃国境の小名であったといふことが、珍中の珍といふ澤にもなる。 何となれば、その結果としての文書も亦、徹頭徹尾、郷土的であるからである。そして、その上に、中央舞台の上に役立って居る事の如何に多きかは、苛も大日本史料を見た者の百も承知の事であろう。 又前記三通の不足については、中野学校印刷の市河文書その前に本間家へ送って置いたから、私より十日程前に偶然該文書を一見した帝大の伊木寿一氏(史料編纂官〕一行も、中野校本杖として研究した際に発見し、帝大と本間家との貸借時代の返却洩れではないかとの疑問も.発生し、其疑問を留保されてあったが、併し、私の所有する故伊佐早先生の古文書目録は、直ちにこれを他の中に発見したのである。 即ち、其三通は、 一、應永七年十月五日 足利義満の感状 二、同年四月二十九日 小笠原長秀安堵状 三、(應永中)七月二十六日 細川慈忠書状 であって、前二文書は、大塔合戦に市河氏が小笠原氏の部下として血戦した時の関係書類であるのであるが、勿論此三文書も市河文書中にあったに相違ないけれど、維新後逸散の後、拾はれた時に、別々であった為に、伊先生の分類中に於いても、微古墨宝といふ乾坤二冊ある中の乾の方に牧蒐されて居たのであって、それだから、今現在の市河文書中には、補遺されて居なかったのである。といふ様な事は、調べてから判った事であるが、とに角、此文書を見た時には、何となく感慨無量なるものがあった。八百年来把握されて居た此文書が、市河家から押流された維新の怒涛の如何に大きかったかといふような事、これらを三円の月給の時、一文書十銭位に蒐集された伊佐早先生の篤学、ては、我等の郷土に、今から三軍一手年前までは、小氏人と市川文書の会撮影.銅棒室からして、鏡をつけられた練に国境を守り、巣鷹を守って、四五百年間連綿とした市河氏の事ども、それらが、此三十巻の藍色の巻物と同時に頭に走馬燈のように描き出された影画であった。 披見につれて、更に更に驚いた事は、どの文書も、どの文書も、とても汚れて居ないといふ一事である。殊に鎌倉時代のものは、日本の他の残存文書と共に、重に訴訟の文書であるが、其書体などは、どれを見ても、一つ一つ、骨習字の手本となるような楷行の問の名筆である事、共文書の文章が、判決文としても、詳細を極めて居る事などである。以て、鎌倉時代の民がのびやかで、穏健で。 民衆的であった事まで連想を禁じ得ない程だ。 その他にしても、何としても、一家で、各時代を串通しにして居る話だから、各時代の文書相の一通りを僻へて居る点は、古文書学の上からしても一つの規範的のものと云い得よう。 下文、副下文、下知状、奉書、書状、譲文、訴訟、置文、注進、応宣、申状、所牌、着到状、軍忠状、感状、預ケ状.安堵状、契約状、宛行状、行渡状、定書、などの種類を、如宝に見るように感得出来る点に於いて尊い。光丘文庫の二階を臨時写場暗室等に借用して、約六日間で、此文書の穐影を終了した。文書の裏に影書きの花押もあれば、文書もある。これらは、主として鎌倉時代のものであって、文書上の特色でもある。凡て是等迄も写了したのである。 その外にも、本間家及び酒田の古文書殆んど仝部を歴訪したが、信濃関係のものが、三十お近く存在したからこれらも概ねレンズに入れた訳である。 終りに写真技術者の事についても、一言し置かればならない事がある。県内の史料撮影には、長野市荒木の篠原文雄氏が犠牲的に徒事して居ると同様に、山形県の資料撮影影には、米澤市の神保一臣氏が、四五年来を通じて、単に撮影ばかりでなく、史料蒐集の手助としても、殆んど、献身的に努力してくれられた一事は、是非此際報告し置きたい処である。今度の市河文書の撮影に関しても、同様であった事は云う迄もない。 此雑誌の出る頃は、多分写真が配布される時であろうと思うが、この催しを最初から替助された更級、上下水内、上下高井郡の教育部含、及び加盟助達につとめられた諸法人に対しても、謹しんで、謝意を表して置く。 山梨県私立文学館 サブやんの気まぐれ調査研究 新!サブやんの気まぐれ調査研究 国会と国家議員に必要な林業実情 森林知識検定委員会 ”ヒノキオ君” サブやんのきまぐれ調査研究 新!サブやんの気まぐれ調査研究

の うち の 家臣 は 鮎川 どの 次 盛長 大名 か と の うち の 家臣 は 鮎川 どの 次 盛長 大名 か と

室賀兵部大輔殿。 けれども信玄は謙信の勇才をはばかり、謙信は信玄の智謀を恐れて、互いに思慮をめぐらし、はかりごとを工夫し、いろいろと手段を尽くしたが、いずれも負けず劣らずの名将であったために、決着はつかなかった。 板垣十三日地引始。

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市河文書をどう読むか 山本勘助の実在を示した唯一の資料とされるが 私は大きな疑問をもっている。 市川藤若関係の文書と時代背景を探る 市河文書をどう読むか 山本勘助の実在を示した唯一の資料とされるが 私は大きな疑問をもっている。 市川藤若関係の文書と時代背景を探る 天文二十四年 弘治元年(10月23日改元) 1555 ☆印――武田信玄(甲陽軍艦)★印――謙信(甲陽軍艦) ●一月三十日、筑摩郡洗場三村某、武田の将馬場信房を深志城に攻め、村井・出川に放火する。この日二木重隆、信房救援に駆けつける。ついで三村ら、敗れる。 (長野県史) ●二月十四日、武田晴信、諏訪郡八剣社に同郡上原の地を寄進し、武運長久を祈らせる。 (長野県史) ●二月十五日、晴信は景虎の機先を制して川中島へ兵を送り、善光寺の南の葛山城を攻落させた。 (甲府市史) ☆三月七日、信玄公は甲府を出発。 (甲陽軍艦) ●三月十四日、葛山城を攻落した後、武田軍は川中島一帯の長尾方の一掃を続行していた。景虎は雪の為に出陣することができず、晴信も三月十四日には、まだ甲府いた。そこへ川中島より注進状が届き、越国衆が出陣するとの報に接し、自らも出馬すると伝えている。 (甲府市史) ☆三月十八日、信玄公は木曾の屋子原(薮原)に出馬、四月三日まで逗流され、薮原に一つの砦を造り、木曽殿居城を攻撃しようとした。 (甲陽軍艦) ●三月廿一日、武田晴信、大日方主税助の安曇郡千見城攻略を賞する。 (長野県史) ●三月、武田晴信、木曾制圧に着手、千村俊政の守贄川砦を落とす。鳥居峠に出陣した木曾義康、武田軍に挟撃されて敗走し、武田軍は藪原を占拠する。 (長野県史) ☆四月五日、越後の謙信が川中島へ出てきたとの報が入る。 (甲陽軍艦) ☆四月六日、薮原を出て川中島にて対陣を整える。謙信は引き上げる。 (甲陽軍艦) ★謙信、関東に出て北条氏康と対陣、連日連夜の戦闘を続ける。 (甲陽軍艦) ●四月十八日、景虎が川中島に出陣し、晴信は決戦を避けて安曇郡小谷城を攻 め、八月に入ってやっと両軍が川中島で対戦した。これを第三回川中島の戦 いという。 (甲府市史) ●四月廿五日、武田晴信、内田監物に、更級郡佐野山在城につき知行所諏訪郡北大塩二三人の押立公事を免じる。 (長野県史) ●五月廿八日、信州知久殿與四郎殿州船津にて生害被成候。宮下勘六方打被申候。(信州下伊那の知久氏が鵜の島に幽閉される。翌年鵜の島から船津に連れていかれた上で切腹する) (妙法寺記) ●六月二十日、武田家朱印状写 別而被致奉公候間、庄内主計分三拾余貫文所出置候、弥忠信可為肝要候、恐々謹言 天文廿四年六月廿日 晴信御居判 大日方主税助殿 (『山梨県史』資料編5 中世ニ 県外文書 長野県の部) ● 弘治二年六月二十八日、長尾弾正少弼(しょうひつ)入道宗心、 長慶寺衣鉢(いぶ)侍者禅師(天室光行)宛文書 (前文略) 信州は隣国であることは勿論ですが、村上方をはじめとして井上・須田・ 嶋津・栗田その他の人々が私を頼ってきました。ことに高梨家とはとりわけ親しくしている仲ですから、そのまま見捨てておくわけにもいかず、すでに信州が過半晴信のの手に入り、もうじき信州全部が晴信にとられそうなようすもあったので、両度出陣し、去年(弘治元年)は、旭山城に向かって附城を造り、旭山城をとりこにした上、晴信と興亡をかけた大決戦をしようとしたところ、負けそうになった武田方は和睦を申し出、駿河の今川義元に頼んで誓詞や講和条件などを示してきたので、いろいろ差し障りがあったが、それを承知し、旭山城を壊し、兵を引きました。そこで信州の味方は今も無事に暮らしています。 (弘治二年)六月二十八日 長尾弾正少弼入道宗心 長慶寺衣鉢(いぶ)侍者禅師 (「川中島の戦」小林計一郎氏著) ●七月十九日、武田晴信感状写 今十九於信州更科郡川中嶋逐一戦之時、頸壱討捕之条、神妙之至感入候、 弥可抽忠信者也、仍如件 天文二十四年七月十九日 晴信 朱印 勝野新右衛門殿 (『山梨県史』資料編5 中世ニ 県外文書) ●七月廿三日、武田晴信公信州へ御馬を被出候而、村上殿・高梨殿、越後守護長尾景虎を奉頼同景虎も廿三日に御馬被出候而、善光寺に御陣を張被食候。 (妙法寺記) ●武田殿は三十丁此方成り、大塚に御陣を被成候。 (妙法寺記) ●善光寺の堂主栗田殿は旭の城に御座候。 (妙法寺記) ●旭の要害へも、武田晴信公人数三千人さけはりをいる程の弓を八百張、鉄砲三百挺入被食候。 (妙法寺記) ●去程に長尾景虎再々責候へ共不叶後には駿河今川義元御扱にて和談被成候。(妙法寺記) ●八月十二日、武田晴信、竜淵斎に小山田信有を信濃国佐久郡へ派遣することを伝える。 ●八月、武田軍、木曾を再攻、上之段城と福島城の子木曾義昌を攻める。義康和議を申し入れ、娘を人質に甲府へ送り、義昌に晴信の娘を迎える。 (長野県史) ☆八月二十一日、信玄公は鳥井峠を超えるために薮原を発つ。 福島筋へは栗原左兵衛・飯富三郎兵衛・長坂長閑・市川宮内ノ助の五軍で攻 める。木曾降参。 (甲陽軍艦) ●十月五日、武田晴信、内応した高井郡小島修理亮に、高梨領内の河南の地を宛行う。 (長野県史) ●閏十月二日、晴信、大日方山城守、春日駿河守に俵物の分国中諸関通行を許す。 (長野県史) ●十月五日、 今度之忠信無比類候、因茲高梨之内河南千五百貫渡候、恐々謹言 天文廿四年 十月五日 晴信 小嶋修理亮殿 (『山梨県史』「歴代古案」所収文書 武田晴信判物写し) ◎閏十月九日、此年駿河義元の御内を異見申候者説最と申御出家、閏十月九日御死去被成候。駿河力落不及言説。 (妙法寺記) ●閏十月十五日、晴信・景虎、駿河の今川義元の仲裁により、誓紙・条目を交わして和議を結び、互いに兵を引く。 (長野県史) ●閏十月の甲越和睦は、その後の信濃侵略によって、有名無実となり、翌二年八月には春野望が景虎の家臣の大熊朝秀を内応させたことから、再び両者の関係は悪化した。 (長野県史) ●十一月八日、此年、相州新九郎殿霜月八日曹司様(北条氏直)を設け玉ふ。甲州晴信公御満足大慶此事候。 (妙法寺記) ●十一月六日、武田勝頼の母諏訪氏、死去する。 (長野県史) 解説(「甲府市史」)資料編第2巻 天文廿二年(1553)四月晴信は念願の村上義清の葛尾城を攻め落とし、信濃の大半を手中にした。村上氏は越後に逃れ、長尾景虎を頼りその援助により再度、小県郡に復帰した。天文二十四年(弘治元年)七月には、晴信・景虎とも川中島に出陣、晴信は大塚へ、景虎は善光寺に布陣、七月19日には川中島で対戦した。 その後、善光寺の同主であった栗田氏は旭城に籠もって景虎を牽制した。晴信は旭城に兵三千人と弓八百張、鉄砲三百挺を送り込む。対陣のまま閏十月に及んだ。晴信は今川義元に斡旋を依頼して景虎と和睦し、両者川中島より退陣した。これを第二回川中島の戦いという 弘治 二年 1556】 ☆六月中旬、信玄公、伊那へ出馬。七月・八月・九月と合わせて四ヶ月間で伊那を平定する。成敗した武将は、溝口殿・松島殿・黒河内殿・波部殿・小田切殿・伊那部殿・殿島殿・宮田殿。 (甲陽軍艦) ●三月十一日、武田晴信、水内郡静松寺住持に葛山衆の盟主落合一族を切り崩し、武田方へつかせた功を賞する。 (長野県史) ● 五月十二日、香坂筑前守宛書状 八郎丸之郷百貫之内、定所務六十五貫四百文之分出置候、相残所者、速 可奉納者也。仍如件。 弘治二年五月十二日 香坂筑前守殿 (「山梨県史」資料編中世ニ 県外文書 長野県の部 上水内郡牟礼村 高野家文書) ● 六月二日、武田晴信判物写。 綿内領之内、隠居免三百五拾貫文之所進置候、恐々謹言 弘治弐年六月二日 晴信(花押影) 井上左衛門尉殿 (「山梨県史」資料編中世ニ 県外文書 長野県の部) 市河文書 年不詳 武田家感状写 (北佐久郡浅科村、市川育英氏所蔵) ●六月廿七日、 小幡尾州へ津金修理亮を遣はし候、そこ許に於いて諸事馳走肝要に候なり。謹言 六月廿七日 晴信(花押) 市川右馬助殿 同 右近助殿 読み下し (信濃史料叢書) ●六月廿八日、武田晴信、大須賀久兵衛尉に、欠落(かけおち)した被官人を還住させる。 (長野県史) ● 六月二十八日、長尾弾正少弼(しょうひつ)入道宗心、 長慶寺衣鉢(いぶ)侍者禅師(天室光行)宛文書 ―――景虎出奔――― (前文略) 信州は隣国であることは勿論ですが、村上方をはじめとして井上・須田・ 嶋津・栗田その他の人々が私を頼ってきました。ことに高梨家とはとりわけ親しくしている仲ですから、そのまま見捨てておくわけにもいかず、すでに信州が過半晴信のの手に入り、もうじき信州全部が晴信にとられそうなようすもあったので、両度出陣し、去年(弘治元年)は、旭山城に向かって附城を造り、旭山城をとりこにした上、晴信と興亡をかけた大決戦をしようとしたところ、負けそうになった武田方は和睦を申し出、駿河の今川義元に頼んで誓詞や講和条件などを示してきたので、いろいろ差し障りがあったが、それを承知し、旭山城を壊し、兵を引きました。そこで信州の味方は今も無事に暮らしています。 (弘治二年)六月二十八日 長尾弾正少弼入道宗心 長慶寺衣鉢(いぶ)侍者禅師 (「川中島の戦」小林計一郎氏著) ● 八月十七日、謙信、政景あて文書 私が隠居を決意したのは決して偽りではないが、あなたをはじめ国中の人々が自分を止めてくれる心を振り捨てるわけにもいかず、また私が戦争を怖がって隠居するのだといわれるのも心外だから、あなたの意見にまかせて隠居を思い止ります。 (「川中島の戦」小林計一郎氏著) 市河文書 ●七月十九日 ○別而可抽忠信之由、承候間、安田遺跡出置者也、恐々謹言 弘治二年七月十九日 晴信(花押) 市川孫三郎殿 ●八月二日、武田晴信、水科修理亮に、善光寺と甲府の行き来につき、一カ月馬二疋ずつの諸役を命じる。 (長野県史) ●八月八日、武田晴信、真田幸隆に東条氏の埴科郡雨飾城の攻略を促す。ついで幸隆、同城を落とす。 (長野県史) ● 東条普請の儀、頼み入り候旨一輪を染め候ところに、すなはちその意に応ぜられ、自身着城あり、辛労の至、ことさら去年以来還附未だ安居あるべからず候ところに、かくの如きの儀、誠に以って謝するところを知らず候。いよいよ相?がるるに就いては、快悦たるべく候、恐々謹言 八月廿五日 晴信(花押) 西条殿 (長野史料叢書 山形県西条信武氏所蔵) ●九月吉日、武田晴信願文(「山梨県史」中世資料県外文書 山形県の部) ☆市河文書 年不詳 武田家感状写 (北佐久郡浅科村、市川育英氏所蔵) ●十月廿七日、 (武田晴信)朱印 其方俵物借用之人、無相違可弁済候、有難渋之族者、可有注進候也。仍 如件。 十月廿七日 ☆ 十月下旬、秋山伯キ守の相備え、坂西(ばんざい)・市野瀬・知久・春近衆合わせて二百騎が秋山の与力。秋山の城は高遠城に置く。 ☆ 飯富三郎兵衛の相備え伊那衆、松尾百騎、下条百五十騎・松岡五十騎と武功に優れたもの五十騎を加え、三郎兵衛の二百騎と合わせて五百騎。 ☆ 小山田備中は尼飾城(長野市松代町 越後に逃げた東条氏の居城) ☆ 春日弾正は海津城。和田・余里・布下・楽岩寺から武功の優れた三百騎、当初からの百五十騎を合わせて四百五十騎。 信州の香坂の苗字を受けて春日から高坂弾正となる。 川中島衆の西条・清野・芋川などが高坂の相備えとなる。 ☆ 二の郭は足軽大将、小幡山城の子息又兵衛 ●十二月二十三日、武田晴信、岩波八郎右衛門尉に諏訪郡金子・栗林の地を充 行する。 (信濃資料叢書 岩波文書) ● 十二月二十四日、是より先、武田晴信西条知部少輔をして、水内郡小田切方川北の本領を安堵せしむ、是日、晴信更に更級郡、原・今里の地を充行ふ。 (信濃資料叢書 西条文書) 原・今里の儀について、香坂入道より様々承る旨之条、当分相違覚悟の 外に候、何時に候とも、小田切方川北の本領一両箇所安堵に至っては、 先判の旨に任せ、原・今里相渡すべく候。この趣先書に染むといえ雖も、 若し疑心あるべきの由、校量せしめ候間、重ねて書き出すところなり、 仍って件の如し。 弘治二年十二月二十四日 (朱印) 西条治部少輔殿 ☆市河文書(市川育英氏所蔵) ●十二月二十六日、武田晴信、市河右馬助に、兵糧米の保管を保証する。 其方所持之粮、預置信州佐久郡之処、悪党巳下威敗之砌紛失之候間、於自今以後不可有相違候条、可被存心易者也。仍如件 弘治二年十二月廿六日 晴信(花押) 市河右馬助殿 同右近助殿 その方所持の粮米、信州佐久郡に預け置くのところ悪党巳下成敗の由に 候の間、今より以後に於いて相違べからず候条、心易く存ぜられるべき ものなり。仍って件の如し。 筆註 同様の文書が「山梨県史」資料編5 中世ニ 県外文書 長野県の部に「武田家朱印状」p717に掲載されている。(龍朱印)で晴信花押は見えない。 弘治 三年 1557 《信虎―64歳・信玄―37歳・勝頼―12歳》 ●一月廿日、長尾景虎、更級郡八幡宮に、武田晴信の討滅を祈願する。願文に晴信の信濃制服の暴虐を記す。 (長野県史) (前文略) ここに武田晴信と号する侫臣ありて、かの信州に乱入し、住国の諸氏悉 く滅亡を遂げ、神社仏塔を破壊し、国の悲嘆累年に及ぶ。何ぞ晴信に対 し、景虎闘諍を決すべき遺恨なからん。よって隣州の国主として、或い は恨を後代鬼人に誓い、或いは眼前に棄てがたき好あり、故に近年助成 に及ぶ。国の安全のため軍功を励むところ他事なし。神は非礼を受けず。 縦へ晴信渇仰の志ありと雖も、既に国務を奪はんがため、ゆえなく諸家 をして罪なく脳乱せしむ。万民争(いかで)かその感応に預からん。 云々 ●一月廿一日、武田晴信、伊那郡諸郷に夫役を課す。 (信濃史料叢書) ●二月十二日、 山田領之貴賎、就致降参者、身命不可有相違者也。仍如件。 弘治三年二月十二日 原左京亮殿 ●二月十五日、武田の将馬場信房、長尾方落合氏らの本拠水内郡葛山城を攻略する。葛山衆の多くは武田方の属し存続する。 (長野県史) ○二月十五日、武田晴信の兵、長尾景虎の属城信州水内郡葛山城を攻めて、之を陥る。尋いで、景虎、色部勝長等の参陣を求めて、晴信の軍に備ふ。 (信濃史料叢書) ○ 於于去二月十五日、信州水内郡葛山地、頸壱被討補條戦功無比類候、 弥忠信可為神妙者也。謹言 弘治三年三月十日 晴信(朱印) 内田監物殿 (「信濃史料叢書 内田文書 山形県吉川吉蔵氏所蔵」) ○ 於于去二月十五日、信州水内郡葛山地、頸壱被討補條戦功無比類候、 弥忠信可為神妙者也。恐々謹言 弘治三年三月十日 晴信(朱印) 諏訪清三殿 (「信濃史料叢書」 三澤文書 諏訪市本町 三澤清美氏旧蔵) ● 二月十五日、武田晴信、信州葛山城合戦に於ける窪川宮内丞の戦功を賞する。 去る二十五日、信州水内郡葛山の地に於いて、頸壱つ討ち捕る条、戦功の至り感じ入り候。いよいよ忠信を抽んずべきものなり。仍って件のごとし。 弘治三年三月十日 晴信(龍朱印) 窪川宮内丞殿 同様の文書の宛先 小井弖藤四郎殿。千野靭負殿。溝口殿。篠原藤十郎。土橋対馬殿。内田善三殿。程原左衛門尉五郎。岩下藤三郎殿。三井助七郎殿。小林新兵衛殿。志村禅左衛門殿。室賀兵部大輔殿。春日甚之丞。諏訪清三殿。 溝口宛。 ●二月十六日 信州鉾楯の儀、去々年駿府のご意見を以って、無事に属し候き。然れど もその後の例式晴信の刷曲なき儀どもに候と雖も、神慮といひ、駿州御 刷といひ、この方より手出し致すべきに非ず候條、堪忍に及び置き候。 今度晴信出張し、落合方家中引き破り候故、葛山の地落居、これにより 島津方も大蔵の地へ先ず以って相移られ候。この上のことは是非に及ば ず候間、爰元の人数悉くかの口へ合せしめ、景虎も中途に至り出陣候。 雪中御大儀たるべく候と雖も、夜を以って日に継ぎ、御着陣待ち入り候。 信州味方中滅亡の上は、当国の備安からず候。今般に至っては、一廉の 人数以下相嗜まれ、御稼この時候。恐々謹言 二月六日 長尾弾正少弼 景虎 色部弥三郎殿 御宿所 (「信濃史料」色部家文書) 筆註 鉾楯= むじゅん 刷曲=かいつくろい ●二月十七日、武田晴信、内応した高井郡山田左京亮に、本領同郡山田を安堵し、大熊郷を宛行う。 (長野県史) 今度最前に降参、祝着に候、仍本領五百貫之地、不可有相違、又為新恩 大熊郷七百貫文之所出置候、弥忠節肝要二候者也。仍如件。 丁巳三年二月十七日 晴信 山田左京亮殿 (「山梨県史」中世ニ 県外文書 東京都の部) ●二月廿一日、後奈良天皇伊那郡文永寺再興を山城醍醐寺理性院に令する。ついで文永寺厳詢、信濃に下り、武田晴信に文永寺再興を訴える。(長野県史) ●二月廿五日、武田晴信、越後軍の高井郡中野への移動を報じた原左京亮・木島出雲守に答え、城を固めさせる。ついで原・木島、越後軍の出陣を晴信に報じる。 (長野県史) ●三月九日、晴信、神長(守矢頼眞)宛文書 急度一筆を染め候意趣は、当社御頭役近年怠慢のみに候か。然らば一国 平均の上、百年已前の如く、祭礼勤めさすべきの由存じ候のところに、 十五箇年已来兵戈止むを得ざるにより、土民百姓困窮す。殊には嶋津・ 高梨等今に令に応ぜず候間、諸事思慮の旨あって、これを黙止し畢せぬ。 必ず嶋津・高梨当手に属せば、某素願の如くその役を勤むべきの趣催促 に及び、難渋の族に至っては、先忠を論ぜず、成敗を加ふべく候。云々 三月九日 晴信 神長殿 ●三月十四日、是より先、木島出雲守等、長尾景虎の兵の信濃に入るを、武田晴信に報ず、是日晴信、信濃に出陣せんとし、その旨を出雲守に報ず。 宛 木島出雲守・原左京亮殿 (長野市長門町 県立長野図書館所蔵 信濃史料叢書 丸山史料) ●三月十八日、 信州口の儀に就いて、態御切紙祝着千萬に候。再三啓し候如く、今度の 儀は、是非行に及ぶべき覚悟に候間、今般の儀候間、如何とも早速の御 働待ち入り存じ候。景虎ことも漸く出陣せしめ候。ご用意本望たるべき 間、それ以来かの口の儀、相替りたる子細これなく候。御心安かるべく、 万々面上を以って申し承はるべく候。恐々謹言 二月十八日 長尾弾正少弼 景虎 色部弥三郎殿 御返報 (「信濃史料叢書」色部家文書) ●三月廿三日、武田軍、高梨政頼を飯山城に攻める。政頼、落城の危機を訴え、長尾景虎政景に救援を請う。この日景虎、越後長尾政景に出兵の決意を告げ出陣を促す。 (長野県史) 信州の儀に就いて、度々啓せしむる如く、この度に至っても更によんど ころなき子細候間、見検致すべきにあらず候。さりながら、出陣の日限 等のこと、かたがた申し談じ進むべく候ところ、景虎出馬遅々に候へば、 高刑飯山の地を打ち明くべきの由、頻りと申し越され候。左様にこれあ らば、いよいよ節義を失い候条、明日(二十四日)籠もり立ち候。毎度 申し宣ぶる如く、いよいよ御大儀たるべく候。早速の御着陣簡要に候。 恐々謹言 三月二十三日 弾正少弼 景虎 越前守殿(長尾政景) (「信濃史料叢書」 県立長野県図書館所蔵文書) ●葛山城を攻落した後、武田軍は川中島一帯の長尾方の一掃を続行していた。景虎は雪の為に出陣することができず、晴信も三月十四日には、まだ甲府いた。そこへ川中島より注進状が届き、越国衆が出陣するのとの報に接し、自らも出馬すると伝えている。 (甲府市史) ●三月廿五日、甘利信州立。 (王代記 山梨県大井大俣神社旧蔵及) ●三月二十五日、甘利(昌忠)、信州へ立、十月十六日馬入、窪川孫次郎討死。 廿三日、是より先、武田晴信の軍高梨政頼を水内郡飯山城に攻むるにより、政頼、長尾景虎に救援を請い、この日、景虎出兵せんとし、同政景の出陣を促す。 ●三月二十五日、是より先、長尾景虎、善光寺に兵を進め、高井郡やまだ要害・福島等を鎮定す。是日、景虎、水内郡旭山要害を再興し、晴信の軍に備ふ。 色部弥三郎殿 長尾景虎(花押) (「信濃資料」色部家文書) ●三月二十六日、信玄、伊藤右京亮宛書状。 高梨間山之郷之内三百貫文之所、被出置候、弥可抽戦巧者也。執達仍 如件。 丁巳 三月二十六日 信玄 判 伊藤右京亮殿 (「山梨県史」中世ニ 県外文書 東京都の部) ●三月廿八日、武田晴信、水内郡飯縄権現の仁科千日に、同社支配を安堵し、武運長久を祈念させる。 ☆ 四月九日、上野三ヶ尻(群馬県碓氷郡松井田町と富岡町の中間)北武蔵・西上野の武将十名以下二万人が長野信濃守を大将にして信玄公にたてつく。飯富三郎兵衛殿・馬場民部助・内藤修理・原隼人・諸角豊後守・小宮山丹後守・飯富兵部少輔と信玄子息太郎義信公を大将に追い崩し、勝鬨(かちどき)を挙げる。続いて長野信濃守の居城を攻める準備をする。 (甲陽軍艦) ☆ 四月十二日、越後の謙信が川中島を窺うという報に、上野攻めを止め、川中島へ出馬、五月末日まで対陣し帰陣する。 (甲陽軍艦) ● 四月十三日、武田晴信、島津月下斎が水内郡鳥屋城から鬼無里を突くとの報の実否を長坂虎房らに調べさせる。 ● 四月十三日、武田晴信、上杉謙信出陣の報を得て、日向大和守等に命じて、鬼無里方面での動静を探らせる。 読み下し(「須玉町誌」) 幸便を以って自筆を染め候意趣は、大日向の所従(よ)り木島を以って 申し越さるる如くんば、鳥屋より嶋津従り番勢を加え、剰え鬼無里に向 け夜搖の由に候。実否懇切に聞き届けられ、帰参の上、言上致さるべく 候。惣じて別して帰国の次、鬼無里筋の路次等見届けらるること尤もに 候。毎事疎略無く見聞有りて、披露待ち入り候。恐々謹言 追って小川・柏鉢従り鬼無里・鳥屋筋々に向かい、絵図いたされ候て、持 参有るべく候。(下略) (「須玉町誌」資料編第一巻) 第三回川中島合戦 ●四月十八日、景虎が川中島に出陣し、晴信は決戦を避けて安曇郡小谷城を攻め、八月に入ってやっと両軍が川中島で対戦した。これを第三回川中島の戦いという。 ●この年の四月には晴信は川中島に出陣し、八月には長尾景虎と三回目の対戦をしている。小山田氏も晴信に従って川中島に出陣しており、小林方はその信濃陣中まで訴えに赴いている。 (妙法寺記) ●四月廿一日、長尾景虎、善光寺に着陣、武田方の高井郡山田城・福島城などを奪う。ついで旭山城を再興する。 当地善光寺に至って着陣せしめ候、敵方より相拘り候地利、山田の要害 並びに福島の地打ち明け候。除(のけ)衆悉く還住候。先づ以って御心 安かるべく候。方々より申し来る子細も御座候条、早速御着陣待ち入る 計りに候。如何とも御動(はたらき)祝着たるべく候。恐々謹言 長尾弾正少弼 景虎(花押) 四月廿一日 色部彌三郎殿 御宿所 (『信濃史料』色部文書) ●五月十日、長尾景虎、高井郡小菅山元隆寺に願文を奉納、武田晴信を信濃に 引き出し決戦することを祈る。 信州に至っての出陣に就いて、去る頃野島平次右衛門瀬波郡下向の刻、 一筆啓せしむるのところ、御懇の報候。本領祝着に候。去る月十八山を 越え、同二十五、敵陣数箇所、根小屋以下悉く放火し、同日旭要害を再 興し陣を居え候。如何とも武略を廻らし、晴信を引き出し、一戦を遂ぐ べき覚悟に候。その上敵地より、種々申し刷(つくろ)旨候。御心安か るべく候。恐々謹言 長尾弾正少弼 景虎(花押) (弘治三年)五月十日 土佐林能登入道殿 (『信濃史料』芳賀文書) ●五月十日、長尾景虎、武田晴信と信濃に決戦せんとし、高井郡元隆寺に戦勝を祈る。 (前文略) 伏して惟(おもん)みるに、武田晴信世甲・信に拠り望を競ひ威を振ひ、 干戈息むなし、越後国平氏の小子長尾景虎、去る夏以来高梨らのため、 しばしば諸葛の陣を設くと雖も、晴信終に兵を出さず。故に鉾戦い受く る能はず。これにより景虎暫く馬を飯山の地に立て、積年の憤と散ぜん と欲す。云々 弘治三年五月十日 平景虎敬白 (「信濃史料」小菅神社文書) ●五月十三日、長尾景虎、香坂城を焼き、この日小県郡境の坂木岩鼻を破る。ついで晴信が出陣しないため飯山城に兵を返し、高井郡野沢の湯に市河藤若を攻める。 ●五月十五日、 当口動(はたらき)の儀について、急度御飛脚満足致し候。去る十二日 に香坂へ行(てだて)の儀に及び、近辺悉く放火、翌日坂木岩鼻まで、 打散じ候、凶徒一二千程取り出候へども、懸り動(はたら)き候へば、 五里三里先より敗北候間、打ち捕へざること無念このことに候。重ねて 天気次第相動き、珍しき儀候へば、申し入るべく候。恐々謹言 先刻申し入れ候儀、御用候間、草出羽同心、御大儀たるべく候へども、 御加勢の儀この時に候間、申すことに候。 (弘治三年)五月十日 平三景虎 高梨殿御報 (「信濃史料」) 六月十六日 晴信、市川籐若宛書状(「信濃史料叢書」 謙信公御代御書集』) 急いで客僧をもってお伝えします。そもそも長尾景虎が六月十一日に飯山に陣を移した様子で、風聞では高梨政頼がそちらへの融和工作をしているようですが、いうまでもなく、誓約の旨のとおりこちらの心底は残らず申し届けてあるとおりです。幸いに当方の陣は警固であり、さらに来る十八日には、上州勢がことごとく加勢にこちらのほうへ出張し、上田方面には北条綱成が着陣する予定です。越後勢は日を追って滅ぶでしょう。それが晴信の本意であることを知ってください。早々に軍備の調えを切に頼むこと、相変わらずの忠節を望むところです。なお、追って使者を送り一部始終を申し上げます。恐々謹言 六月十六日 晴信(花押) 市川籐若殿 (山日新聞による) ☆六月廿三日 晴信、市川籐若宛書状 ●六月廿三日、深志城の武田晴信、使番山本菅(勘)助を市河藤若に遣し、救援出陣を手配したと告げる。 ★山本勘助★信州塩田に布陣の晴信が、水内郡市河に在城の市河藤若にあて、塩田城主飯富虎昌が川中島に進出する計画のあることを、山本菅(勘)助を使番として報じる。 (北海道、市河良一家文書) 注進状披見。仍つて景虎、野沢の湯に至り陣を進め、其の地 へ取り懸かるべき模様、又武略に入り候と雖も、同意無く、 剰え備堅固故、長尾功無くして飯山へ引退き候由誠に心地よく候。何れも今度、其の方の擬たものしき迄に候。なかんずく野沢在陣のみぎり、中野筋後詰の義、飛脚に預り候き。すなわち倉賀野へ越し上原与三左衛門尉、又当年の事も塩田在城の足軽を始めとして、原与三左衛門尉五百余人、真田へ指し遣はし候処、既に退散の上是非に及ばず候。全く無首尾有るべからず候。向後は兼て其の旨を存じ、塩田の在城衆へ申し付け候間、湯本より注進次第に当地へ申し届けるに及ばず出陣すべきの趣、今日飯富兵部少輔の所へ下地を成し候の条、御心易く有るべく候。猶山本管助口上有るべく候。 恐々謹言。 六月廿三日 晴信(花押) 市河藤若殿 ●七月三日、是より先水内郡飯山城将高梨政頼、越後春日山城将直江實綱を音文する。 (高梨文書) ●七月五日、武田軍、長尾方安曇郡小谷(おたり)城を攻め落とす。 ●七月五日、武田晴信感状。 於于去五日信州安曇郡小谷之城、最善攻登、頸壱討捕、剰被疵二ヶ所候 条、戦功感入候、弥可抽忠信者也。仍如件。 七月十一日 晴信(龍朱印) 溝口 (信濃史料) ●七月五日、武田晴信の軍、安曇郡小谷に長尾景虎の軍と戦う。尋いで、晴信、諸士の功を賞する。 於于去五日信州安曇郡小谷之城、最善攻登、頸壱討捕之條、忠節感入候、 弥可抽戦巧者者也。仍如件。 弘治三年七月十一日 晴信(朱印) 小平木工丞殿 筆註 ☆ 同様の文書が多数ある。(「信濃史料」『諸州古文書』) 岩波六郎左衛門殿・篠原藤十郎殿・三井助七郎殿・小井弖藤四郎殿 岩波藤五郎殿・大村与右衛門殿 ● 「千野文書」諏訪市本町 千野俊次氏所蔵 抜粋 小谷城御本意の時分、構際に於いて弓を涯分仕り候。板垣具に言上故、高 白斎を以って深志の御対面所へ召し出し、此の類なく相?ぐの由、御褒美 候事。 ● 七月廿三日、武田晴信、大須賀久兵衛に、埴科郡坂木南条の地を宛行い、検使を派遣して所領を渡すと告げる。 ☆ 八月、信玄公は途中であった上野の信濃守の居城箕輪城を攻めた。十月中旬に信玄公は帰る。 (甲陽軍艦) ●八月六日、武田晴信、安曇郡山田左近をして、本領を安堵せしむ。(山田文書) ●八月廿九日、長尾景虎、政景の軍、武田軍を水内郡上野原に破り、この日戦功を賞する。(第三回川中島合戦) 今度於信州上野原(水内郡)一戦、働無比類次第ニ候、向後弥?之事肝 心に儀。謹言。 (弘治三年)八月廿九日 景虎 南雲治良了右衛門とのへ (同様の文書の宛先 大橋弥次郎殿) ● 九月二十日、越後方の大将、長尾政景の感状 信州上野原に於いて、晴信に対して、合戦を遂げ、勝利を得候砌、神妙 の働き比類なく候。向後いよいよ稼がるべきこと専要(大切)に候。 謹言。 九月廿日 政景 下平弥七郎殿 ● (「川中島の戦い」小林計一郎氏) ●十月九日、武田晴信、安曇郡千国谷に高札を掲げ、谷中の乱妨狼籍を禁止する。 ●十月十六日、馬入。窪川孫二郎討死。【王代】 ● 11月六日、武田家奉行衆、小尾藤七良に対し、京進面付として五百六十文の納入を命ずる。(正親町天皇即位に伴う経費の捻出か) 就京進面付之事(略) 弘治三年十一月六日 長坂筑後虎房 (花押) 三枝右衛門尉 (花押) 室住豊後守虎光(花押) 小尾藤七良代 (「須玉町誌」史料編第一巻) ●此年、将軍足利義輝、長尾景虎上洛のため景虎、武田晴信の和睦をはかり、聖護院道澄を派遣する。 ●弘治元年(1555)閏十月の甲越和睦は、その後の信濃侵略によって、有名無実となり、翌二年八月には春野望が景虎の家臣の大熊朝秀を内応させたことから、再び両者の関係は悪化した。この年の二月十五日、晴信は景虎の機先を制して川中島へ兵を送り、善光寺の南の葛山城を攻落させた。 (甲府市史) ●此年、武田晴信、善光寺の仏像・仏具を小県郡彌津に移す。信濃善光寺とその門前町が寂れる。 ●弘治年間、武田晴信、伊那郡に小野川・波合関所を設ける。この頃、清内路・帯川・心川関所も置く。 《参考》川中島の戦い。『川中島五箇度合戦記』 第一回 天文廿二年八月(1553) 第二回 天文廿四年四月(1555) 百五十日間 第三回 弘治 三年 (1557) 第四回 永禄 四年九月(1561) 第五回 永禄 七年八月(1564) 永禄 元年 1558【甲府】《信虎-65歳・信玄-38歳・勝頼-13歳》 ●正月十六日、今井昌良、将軍家側近大館晴光に、晴信の信濃守護職、義信の准三管領任官の礼をする。 ●二月廿日、晴信、将軍家の御内書の応じて景虎と和睦する。 《解説『甲府市史』》 将軍足利義輝は長尾景虎を上洛させるために晴信と和睦させる工作をしていた。既に弘治三年八月には将軍家の使者が甲斐へ遣はされ、晴信も信濃守護職に任命されることを条件に、承認の意向を示していた、この年二月には景虎もこれに応じ、一応両者の和議が成立した。 永禄 元年 1558【長野】 ●二月廿日、足利義輝、甲越和睦への長尾景虎の同意を嘉(よみ)する。この 頃晴信、信濃守に補任される。 (長野県史) ●三月六日、武田晴信、陸奥会津高橋郷の大島次郎右衛門に、甲信両国で一カ月荷物五駄の諸役を免除する。 (長野県史) ●四月、武田晴信、水内郡柏鉢・埴科郡東条・更級郡大岡各城在番衆の当番を定め、真田幸隆・小山田昌行を埴科郡尼飾城を在番させる。 (長野県史) ●この年、武田晴信、川中島地方をほぼ平定する。 (長野県史) 永禄 元年 1558【評判】 ● 永禄元年二月、長尾謙信與武田信玄、和睦あて、信州筑摩川にて會盟せらる べしと聞ける時、信玄過言を以て和談を破られ、重ねて対陣に及び玉ふこと 本書の如し。 ●五月、武田信繁、家訓九十九カ条を定め、嫡子長老に遣わす。(別記) ●六月、小田原城主北条氏康、甲州の出家に過所を与える。 (甲府市史) ●閏六月、晴信、醍醐理性院に信濃文永寺ほかの再興を報ずる。 (甲府市史) ●九月二十五日、武田晴信、善光寺の阿弥陀如来像・源頼朝像などを甲府へ移す。栗田氏・大本願上人らも甲府へ移る。次いで甲斐板垣に善光寺如来堂を造立する。(長野県史) ●九月、晴信、信濃善光寺の本尊を甲斐に移し、新寺の建立を始める。 (甲府市史) 《解説》新寺は翌二年二月に完成し、二月二十六日に本尊が入仏されている。 ●善光寺如来、九月二十五日、甲府付玉フ。板垣十三日地引始。【王代】 ●十一月廿八日、晴信、将軍足利義輝に信濃出兵の弁明状を送る。(甲府市史) 《解説『甲府市史』》 武田晴信が将軍足利義輝の側近である大館晴光に宛てた書状。 一、去夏(弘治三年)に私(晴信)が越後に向けて出兵したのが将軍家を軽んじたものと書いてあり、大変驚きました。すでに先般瑞林寺が使者として下向した折、信濃守護職補任の御内書を頂戴しておりますので、他に手出しするつもりはなかったのですが、その後長尾景虎が両度にわたって信濃国内で放火したからです。これこそ上意に背くものでしょう。 二、去年甲越和睦をまとめるために聖護院門主の使者として森坊が御内書をもって甲府へ来ました。これによって私は合戦をやめ、信府中にある城普請を申しつけていた際、景虎も御内書を頂戴し、いまだ和睦も成立しない前に、信濃の海津の地に放火しました。これは皆がよく存じていることです。 三、その報復のために私は越後に向けて出兵したのであり、決して上意をないがしろにしたのではありません。 四、今回重ねて出兵したのは、以下の理由によるものです。去夏に出兵した折に越後の府中を破却しようと思ったのですが、将軍家よりの使僧が甲府に下向したとの知らせを留守のものが伝えてきたので、上意を重んじて帰陣し、使者の西堂に対しての私の考えを述べ、前述のように信濃守護補任の御内書を持参していたので、和睦を成立させるため、その使者に越後へ赴くよう勧め、使者が承知して越後に到着したところ、越後では無理に押し返してしまいました。これは上意にが逆心するものであり、無分別というべきです。 五、私は信濃守護職補任の御案内に従い、信越国境を境界とすると承知しております。 なお詳しくは富森左京亮が口上で申し述べます。追って上使の瑞林寺・佐々伊豆寺は越後へ向かいました。津田掃部助は、談合のために一両日前に甲府に着いております。 永禄 元年 1558【妙法】 ●此年、八月五日大風吹申候。乍去秋世中粟半、耕作同芋半世中 殊に大麦小麦半世中稲・大豆・小豆は廿分に出来候而、売買何も安し。 永禄 二年 1559【甲府】《信虎-66歳・信玄-39歳・勝頼-14歳》 ●武田家一門、高野山引導院(持明院)の黄金を寄進する。 一、黄金五両 晴信 花押 一、黄金壹両 信繁 花押 一、同 信廉 花押 一、同 信是 花押 右一国一家勧進状、仍如件 引導院 永禄 二年 1559【王代】 ○ 二月十六日、新善光寺板垣立。入仏二月十六日。(王代) 永禄 元年 1558【甲府】《信虎-65歳・信玄-38歳・勝頼-13歳》 ●正月十六日、今井昌良、将軍家側近大館晴光に、晴信の信濃守護職、義信の准三管領任官の礼をする。 ●二月廿日、晴信、将軍家の御内書の応じて景虎と和睦する。 《解説『甲府市史』》 将軍足利義輝は長尾景虎を上洛させるために晴信と和睦させる工作をしていた。既に弘治三年八月には将軍家の使者が甲斐へ遣はされ、晴信も信濃守護職に任命されることを条件に、承認の意向を示していた、この年二月には景虎もこれに応じ、一応両者の和議が成立した。 永禄 元年 1558【長野】 ●二月廿日、足利義輝、甲越和睦への長尾景虎の同意を嘉(よみ)する。この頃晴信、信濃守に補任される。 ●三月六日、武田晴信、陸奥会津高橋郷の大島次郎右衛門に、甲信両国で一カ月荷物五駄の諸役を免除する。 ●四月、武田晴信、水内郡柏鉢・埴科郡東条・更級郡大岡各城在番衆の当番を定め、真田幸隆・小山田昌行を埴科郡尼飾城を在番させる。 ●九月二十五日、武田晴信、善光寺の阿弥陀如来像・源頼朝像などを甲府へ移す。栗田氏・大本願上人らも甲府へ移る。ついで甲斐板垣に善光寺如来堂を造立する。 ●この年、武田晴信、川中島地方をほぼ平定する。 永禄 元年 1558【評判】 ●永禄元年二月、長尾謙信與武田信玄、和睦あて、信州筑摩川にて會盟せらるべしと聞ける時、信玄過言を以て和談を破られ、重ねて対陣に及玉ふこと本書の如し。 永禄 元年 1558【甲府】 ●五月、武田信繁、家訓九十九カ条を定め、嫡子長老に遣わす。(別記) ●六月、小田原城主北条氏康、甲州の出家に過所を与える。 ●閏六月、晴信、醍醐理性院に信濃文永寺ほかの再興を報ずる。 ●九月、晴信、信濃善光寺の本尊を甲斐に移し、新寺の建立を始める。 《解説》新寺は翌二年二月に完成し、二月二十六日に本尊が入仏されている。 ●善光寺如来、九月二十五日、甲府付玉フ。板垣十三日地引始。【王代】 ●十一月廿八日、晴信、将軍足利義輝に信濃出兵の弁明状を送る。 《解説『甲府市史』》 武田晴信が将軍足利義輝の側近である大館晴光に宛てた書状。 一、去夏(弘治三年)に私(晴信)が越後に向けて出兵したのを将軍家を軽んじたものと書いてあり、大変驚きました。すでに先般瑞林寺が使者として下向した折、信濃守護職補任の御内書を頂戴しておりますので、他に手出しするつもりはなかったのですが、その後長尾景虎が両度にわたって信濃国内で放火したからです。これこそ上意に背くものでしょう。 二、去年甲越和睦をまとめるために聖護院門主の使者として森坊が御内書をもって甲府へ来ました。これによって私は合戦をやめ、信府中にある城普請を申しつけていた際、景虎も御内書を頂戴し、いまだ和睦も成立しない前に、信濃の海津の地に放火しました。これは皆がよく存じていることです。 三、その報復のために私は越後に向けて出兵したのであり、決して上意をないがしろにしたのではありません。 四、今回重ねて出兵したのは、以下の理由によるものです。去夏に出兵した折に越後の府中を破却しようと思ったのですが、将軍家よりの使僧が甲府に下向したとの知らせを留守のものが伝えてきたので、上意を重んじて帰陣し、使者の西堂に対しての私の考えを述べ、前述のように信濃守護補任の御内書を持参していたので、和睦を成立させるため、その使者に越後へ赴くよう勧め、使者が承知して越後に到着したところ、越後では無理に押し返してしまいました。これは上意にが逆心するものであり、無分別というべきです。 五、私は信濃守護職補任の御案内に従い、信越国境を境界とすると承知しております。 なお詳しくは富森左京亮が口上で申し述べます。追って上使の瑞林寺・佐々伊豆寺は越後へ向かいました。津田掃部助は、談合のために一両日前に甲府に着いております。 永禄 元年 1558【妙法】 ●此年、八月五日大風吹申候。乍去秋世中粟半、耕作同芋半世中 殊に大麦小麦半世中 稲・大豆・小豆は廿分に出来候而、売買何も安し。 永禄 二年 1559【甲府】《信虎-66歳・信玄-39歳・勝頼-14歳》 ●武田家一門、高野山引導院(持明院)の黄金を寄進する。 一、黄金五両 晴信 花押 一、黄金壹両 信繁 花押 一、同 信廉 花押 一、同 信是 花押 右一国一家勧進状、仍如件 引導院 永禄 二年 1559【王代】 ○新善光寺板垣立。入仏二月十六日。 永禄 二年 1559【妙法】 ○正月小二月大。 ○正月日、雪水出候而、悉く田地上家村を流し候。就中此年二月信州への番手をゆるし候而、又谷村御屋敷不審同つほの木又さいかち公事なとを、祝師衆計不致ゆる候而、宮の川よけを被成其上彌三郎殿御意を以て宮林の木を祝師衆まゝに被成小林尾張殿奉行にて宮林をきりわたを立被納候然者小林和泉殿宮林を為伐間敷由二三度押被申候へ共祝師衆皆々不用して彌三郎殿下知にて用の程伐候而宮の致川よけ候。 ○同其年の春は売買何も安し。 ○同年四月十五日大氷降。夕顔、茄子麻痺苗殊鶯菜悉打折何も無し。大麦は半分こほし候。 ○就中、庚戌年(天文十九年/1550)小林宮内少輔殿河よけ不審に新井左近地付の林を伐候而、堰候候へは其過怠として下吉田百余人の所より質者を一兵衛殿取被申候を皆々道理を申分候間、松山より悉く質物共を反し被申候へ共左近同殿法林坊質物計不被返候間打置申候処に己未年(永禄二年)四月慥に小山田御意にて手取二つ新鍬一勺拾年と申反し被申候之間目出度請取申候。 ○永禄二年十二月七日に大雨降怱に雪しろ水出て法ケ堂皆悉流れ申候。又在家の事は中村まるく流し候事無限。 《筆註》今川義元関係(『富士吉田市史』) 弘治 三年(1557) ※今川義元、慶覚坊に東専坊の遺跡譲渡を認める。 ※今川義元、中河の浅間神領屋敷相論につき裁許する。 ※今川義元、宝幢院に富士大宮別当職と別当領分を安堵する。 ※今川義元、富士登二郎に河東十分一を免許する。 《筆註》今川氏真関係(『富士吉田市史』) 永禄 元年(1558) ※今川氏真、大鏡坊頼慶に富士山宮大夫跡職を安堵する。 ※今川氏真、大鏡坊頼慶に慶覚坊跡職を安堵する。 ※今川氏真、浅間神社の神領等を安堵する。 ※今川氏真、静岡浅間神社流鏑馬千歳方郷役を改めて命ずる。 ※今川氏真、東泉院に下方五社領内の金剛寺と玉蔵院を付属する。 永禄 二年 1559【長野】 ●三月廿日、武田晴信、東北信・伊那の諸将士・商人らに、分国内往還の諸役を重ねて免除する。 永禄 二年 1559【諸州古文書】「甲州二ノ上」 ●武田晴信、分国中の商売の諸役を免許した者の名前をまとめる。 分国商売之諸役免許之分 従天文十八年 1549 一、五月九日、分国諸開諸役一月ニ三疋口令免許者也。 奏者 秋山善右衛門 左進士新兵衛尉 一、敵之時宜節々聞届就注進、一月ニ馬一疋口諸役令免許者也。 奏者 穴山殿 拾月二日 柳澤 一、一月荷物三疋口、往還不可有諸役者也。 奏者 向山又七郎 拾月廿日 対馬守 一、於京都絹布已下之用所一人ニ申付候間、弥以堅奉公可申事専一候、因茲分 国之諸役 一月ニ馬三疋口、無相違可勘過者也、 拾月吉日 小薗八郎左衛門尉 天文十九年 1550 一、卯月三日、濃州之商人佐藤五郎左衛門尉過書之事、右分国 諸役所一月馬三疋口無相違可通者也。 奏者 向山又七郎 小山田申請 一、別而抽忠信之由申候間、一月ニ馬三疋口諸役令免許者也、 奏者 今井越前守 拾一月十三日 松嶋今井越前守 一、甲信之内、一月馬五疋口諸役令免許者也、 奏者 跡部九郎右衛門尉 六月十六日 末木土佐守 一、裏之台所へ之塩、一月ニ二駄諸役令免許者也。 七月十日 一、馬三疋口一月ニ三度宛、諸役令免許者也、 奏者 跡部伊賀守 甲寅卯月八日 大日方山城守 一、一月ニ一往馬三疋宛無相違可勘過者也。仍如件。 奏者 跡部伊賀守 卯月十二日 麻績新左衛門尉 一、就別而致奉公、一月ニ馬二疋口諸役令免許者也。仍如件。 奏者 跡部伊賀守 卯月四日 窪村豊後守 一、鵝目七百貫文預候利銭之事、可為四文字、以其故商諸役一月ニ馬六疋口、 又門屋四間令免許者也。 奏者 跡部九郎右衛門尉 卯月十二日 林土佐守 一、分国之内一月ニ馬十疋宛諸役令免許候、恐々謹言。 奏者 高白斎(栗原左兵衛) 卯月晦日 岡部豊後入道 一、分国之内一月馬三疋口出置者也。 天文二十四年 一、就小田原南殿奉公、一月ニ馬三疋分、諸役令免許者也。仍如件。 奏者 跡部次郎衛門尉 天文廿四年三月二日 向山源五左衛門尉 弘治元年 一、拾二月十九日 平原甚五左衛門尉 一、就山内在城諸役所并諸関令免許者也。 奏者 跡部伊賀守 原弥七郎 六月吉日 九一色衆 一、就越国筋往還、自由者一月ニ馬五疋分国之内、諸役令免許者也。 奏者 今井越前守 六月廿五日 仁科民部入道殿 一、善光寺還往之間、一月ニ馬壱疋口諸役令免許者也。 奏者 飯田源四郎 弘治二年八月二日 水科修理亮 一、一月馬五疋之分、商之諸役令免許者也。仍如件。 奏者 跡部伊賀守 十二月六日 五味八郎左衛門尉 一、就塩硝鉛下、分国之内一月馬三疋宛諸役令免許者也。仍如件。 奏者 秋山市右衛門尉 弘治三年正月廿八日 彦十郎 一、信国之内甘馬一月ニ七疋無相違可勘過者也。 奏者 原弥(七郎) 八月三日 依田新左衛門尉 一、越中へ使者ヲ越候、案内者可馳走之旨申候間、一月ニ馬壱疋之分商売之諸役令免許者也。 奏者 高白斎 一、甲信両国中、毎月馬二疋之分、商之諸役令免許者也。 奏者 高白斎 弘治三年十月三日 油科佐渡守 一、甲信両国中、毎月馬二疋宛、商之諸役令免許者也。 奏者 高白斎 弘治三年 十月三日 窪田外記 弘治四年 永禄元年 一、参月六日 御印判三疋一ツ二疋一ツ二枚ニ出候。 一、従当年六月至于来十二月一日ニ馬五疋分諸役令免許者也。 奏者 原弥 永禄元年六月朔日 屋代殿 一、小笠原信貴息就在府毎月粮米回状分、青柳より府中迄諸役令免許者也。 奏者 高白斎 永禄元年六月十一日 一、甲信両国中、毎月馬三疋之分、商之諸役令免許者也。 奏者 高白斎 十月三日 窪田伊賀守 一、一月三度宛、彼者往還之荷物、壱駄分諸役令免許者也。 奏者 金丸平三郎 松尾被官 助右衛門 永禄元年拾月廿六日 一、信州之内一月ニ馬二疋分商之諸役令免許者也。仍如件。 奏者 小山田備中守 永禄元年十一月三日 上原之保坂中務丞 一、於甲信両国彼荷物、一月ニ拾駄分、諸役所渡已下無相違可勘過、富士参詣之時節モ可為同前者也。遂而善三郎事者、令在国者善明已後モ可為同意(前) 奏者 宗春 拾月十日 松木善明 同善三郎 一、馬三疋口一ケ月一住つゝ諸役令免許者也。 奏者 野村兵部助 己未二月三日 葉山左京進 一、其方父子参府之砌、一月之内荷物三駄之分諸役令免許者也。 奏者 跡部伊賀守 二月八日 大日方入道殿 已上 永禄二年 右書立之外之族、縦雖持印判不可叙用者也、仍如件。 永禄二年 三月廿日 (『甲州古文書』) 永禄 二年 1559 ※永禄二年四月、謙信は京都に上り、参内、公方義輝公に拝謁した。輝虎の名をいただき、網代の塗輿、御紋をゆるされ、文の裏書きまでゆりされて帰国した。管領職は辞退し、朱塗りの柄の傘、屋形の号もゆるされ、三管領に準ずるうようになった。(河中島五箇度合戦記) 永禄 二年 1559 4月 ●四月、武田信玄、川内領の関所に禁制を掲げる。(【甲府/甲州古文書】) ●武田信玄、甲斐国内に寺社の禁制を掲げる。 《解説『甲府市史』》 (略)晴信から信玄と改名した直後の竜朱印状と思われる。 ○十一月九日、武田信玄、身延山久遠寺に末寺支配を安堵する。 ●五月、武田信玄、長尾景虎上洛に乗じ奥郡・越後境出陣を計り、佐久郡松原諏訪社に戦勝を祈る。 (長野県史) ●『松原神社文書』武田晴信、信玄を名のる。 敬白 願書の意趣は、 今度ト問最吉に任せ、甲兵を信州奥郡並びに越州の境に引卒す。信玄多 年如在の礼賽あり、造次にもここに於いてし顛沛にもここに於いてす。 希はくは天鑑に随ひ、敵城悉く自落退散し、しかのみならず長尾景虎吾 軍に向はば、すなはち越兵追北消亡せんことを、併せて松原三社の保祐 を仰ぐものなり。神明私なし。凱歌を奏して家安泰に帰するの日に至ら ば、具足一両糸毛・神馬一疋、宝前に献じ奉るべきの条、件の如し。 永禄二年己未年 五月吉日 釈信玄 花押 ●六月二十六日、足利義輝、武田晴信の出兵なじり、信濃の諸将士に長尾景虎に従い戦闘を停止するように令する。 ●八月三日、屋代政国、諏訪上社への寄進地年貢を桑原市中升(ます)で十八俵と定め これを同社人に伝える。 ●九月一日、武田信玄、小県郡下之郷社(生島足島神社)に願文を納め、長尾景虎との決戦の勝利を祈る。 敬ひ申す願書【生島足島神社文書】 帰命頂礼、下郷諏訪法性大明神に言ひて曰はく、徳栄軒信玄越軍出張を 相待ち、防戦せしむべきか否やの吉凶、預め四聖人にト問す。その辞に 曰はく、九二の孚喜あるなり。 〔薦約を経て神の享くるところとなる。これを斯喜となすと云々〕 希はくは天艦に随ひ越軍と戦ひ、すなはち信玄存分の如く勝利を得、し かのみならず長尾景虎忽ち追北消亡せんことを。併せて下郷両社の保祐 を仰ぐものなり。神明私なし。 凱歌を奏し、家安泰に帰するの日に到って、己未の歳よりこれを始め、 十箇年の間、毎歳青銭十緡修補のため社納し奉るべきものなり。仍って 願状件の如し。 維時永禄二年秋九月 武田徳栄軒信玄 花押 ●九月、武田晴信の軍、上野安中・松井田を侵す。(【長野】) ※十月二十六日、長尾景虎、越後に帰る。(【長野】) ●十一月十三日、長尾景虎の関東管領補任を祝し、村上義清・高梨政頼を筆頭に、須田・真田氏ら信濃の諸将多数、太刀などを贈る。(【長野】) ●十一月廿日、武田信玄、屋代政国に、隠居の際に埴科郡福井などの地を宛行ことを約し、分量に従って軍役を勧めるよう記す。(【長野】) (信玄宛行状の軍役規定の初見) ●十二月十三日、秋山善右衛門、伊那郡赤須昌為に、草刈場に入れる区域と馬数の規定を渡す。(【長野】) 永禄 三年 1560【甲陽】《信虎-67歳・信玄-40歳・勝頼-15歳》 ●二月朔日に、北条氏康公より御使いが甲府に達する。その理由は、謙信が去年十月より上野の飛来へ進出して来ていて、関八州の侍大将勢を大田三楽(資正)が策略を用いて悉く謙信旗本に勢力下にひきつけている。また都から近衛殿を通じて公方と名付け、氏康を倒すべき名目を得たそうで、このままではと考え、信玄公の加勢をお頼み申す由の便である。云々 永禄 三年 1560 ●二月二日、武田信玄、諏訪上社造営(御柱立)にあたり、信濃一国に諸役を課する。(【長野】) ※三月卅日、能登、神保良春ら、武田信玄に応じ、長尾景虎の信濃出陣の背後を突く。景虎、これを越中富山城に破る。(【長野】) ●三月十一日、信玄、郷中での重科人の密告を命ずる。【甲府】 ●四月廿八日、長尾景虎、信玄が越中に外交の手を伸ばしことを常陸の佐竹氏に報ず る。(年代は推定)【甲府/福王寺文書】 ※五月十九日、織田信長、今川義元を桶狭間で破る。 ○五月十九日、駿河之義元尾張成実ニテウチ死。(【王代】) ●六月六日、信玄、御室浅間神社に分国諸関所通行手形を与える。【甲府/浅間文書】 ●六月十五日、武田信玄、香坂筑前守に更級郡横田のうち屋代氏らは海津城を築かせ、 城代春日虎綱を置く。【長野】 ●七月十三日、信玄、高野山成慶院を宿坊と定める。【甲府/高野山成慶院文書】 ●八月二日、信玄、龍王川除場の移住人を募る。【甲府/保坂家文書】 ●八月廿五日、信玄、府中八幡社の国中社人の勤番制を敷く。【甲府/八幡社文書】 ●八月廿五日、信玄、国中修験僧の条目を定める。【甲府/武田文書】 ※八月二十五日、長尾景虎、関東出陣中の留守諸将の掟を定め、信濃鎮定は高梨政頼に 輪番合力するように命じる。【長野】 ※九月廿八日、北条氏康、武州河越に出陣。ついで長尾景虎、上野厩橋城に拠る。 ●十月十七日、信玄、北条援助のため、加賀・越中一向宗徒の越後侵攻を本願寺顕如に 求める。【長野】 ●十月十八日、信玄、北高全祝を岩村田竜雲寺に入れ、曹洞門派に条目を定める。 【甲府/永昌院文書(山梨県山梨市) ●十月廿二日、武田信玄、大井左馬允に、小諸城の定普請小諸出陣のさいの兵糧輸送を命じる。【長野】 永禄四年 1561【長野】《信虎-68歳・信玄-41歳・勝頼-16歳》 ●二月十四日、武田信玄、諏訪上社の宝鈴を鳴らす銭額を上五貫文・中三貫文・下一貫二百文と定める。 ※三月、長尾景虎、信濃・越後と関東将士を率い、北条氏康を相模小田原城に囲む。 ※三月、長尾景虎、鎌倉鶴ヶ丘八幡宮の神前で関東管領就任を報告、上杉政虎と改名、この日足利義氏擁立を約する。 ●4月十一日、武田軍、北条氏康支援のため碓氷峠を越え上野松井田に進む。ついで借宿近辺に放火する。 ●四月十七日、武田信玄、市川右馬助ら一族に、上野南牧の戦功により蔵入地佐久郡瀬 戸などを宛行う。 ●八月二十四日、信玄、上杉政虎が越後・信濃勢を率い善光寺に出陣する報により、信 濃など分国諸将を率い川中島に着陣する。 ☆第四回川中島合戦☆ ●九月十日、上杉政虎・武田信玄軍、川中島で激戦し、死傷者多数を出す。政虎自ら太刀打ちし、信玄の弟信繁(典厩)ら討ち死にする。【長野】 ●今度於信州川中嶋、輝虎及一戦之刻、小宮山新五左衛門尉被囲大勢之処、其方助合若 党数輩被疵、剰彼敵三人討捕之、無比類働尤神妙也、弥可致忠戦之状如件。 永禄四年九月十日 晴信判 河野但馬守との【甲府/御庫本古文書纂】《信憑性?》 ●今十日巳刻、与越後輝虎於川中嶋合戦之砌、頸七討捕之、其方以走廻被遂御本意候、 弥可忠信者者也、仍如件。 永禄四年九月十日 信玄(花押影) 松本兵部殿【甲府/益子家文書】《信憑性》 ※上杉政虎が小田原へ出征していた際、信玄は佐久軍へ出陣して、政虎の後方退路をおびやかした。越後へ帰着した政虎は八月十四日、川中島に向かって出陣した。九月十日早朝、両軍は川中島の八幡原で対戦した。これを第四回の川中島合戦といい、最大の激戦であった。前半は上杉方、後半は武田方が有利な展開をした。 ※【甲府/『大田家文書』】 今度信州表に於いて、晴信に対し一戦を遂げ、大利を得られ、八千余討ち捕られ候こと、珍重の大慶に候。期せざる儀に候と雖も、自身太刀討に及ばるる段、比類なき次第、天下の名誉に候。よって太刀一腰・馬一疋(黒毛)差し越し候。はたまた当表のこと、氏康松山口に致って今に張陣せしめ候、それに就いて雑節ども候。万一出馬遅延に於いては、大切たるべきことども候間、油断なく急度今般越山あるべく候。手前可火急に申し廻り候条、かくの如くに候。早々待ち入り候。なほ西洞院左兵衛督申すべく候条詳らかにする能はず候。恐々謹言。 十月五日 前久(花押) 上杉殿 永禄四年 1561【長野】 ●十月卅日、信玄、山城清水寺成就院に伊那郡面木郷を寄進し、高井郡市川城・水内郡野尻城攻略のうえさらに寄進を約する。このころ飯山・野尻両城付近を除き、武田軍がほぼ信濃を制圧する。 ●十一月二日、信玄、北条氏康赴援に出兵するにあたり、佐久郡松原神社に戦勝を祈る。ついで出陣する。 ●十一月十三日、武田信玄、上野甘楽郡に入り、つきで国峰城を攻略する。 ●十一月廿日、信玄、四郎勝頼の元服式の祝儀を諸方へ送る。 【甲府/栃木県採集古文書】 ●十一月廿五日、信玄、上野国一宮に高札を与える。【甲府/大坪家文書】 ●十一月廿七日、上杉政虎、古河城近衛前久(さきひさ)救援に関東出陣、この日武田信玄と呼応する北条氏康と武蔵生山(なまのやま)で戦う。 ●十一月廿八日、信玄、小畑氏に松山城攻めの感状を与える。【甲府.諸家家蔵文書】 永禄四年 1561【長野】 ●十二月廿三日、武田信玄、小県郡長窪・大門両宿に、信玄竜朱印状によらず伝馬を出すことを禁じる。 ☆第四回川中島合戦☆(吉田豊氏訳・『甲陽軍艦』) 【訳】永禄四年辛西八月十六日、信州川中島から甲府に伝令が来て申しあげるには、上 杉輝虎が出動して、海津の向かい、西条山に陣をとり、ぜひとも海津城を攻め落とそう としている。その兵力は一万三千ほどとのことであった。 そこで信玄公は、同月十八日、甲府を出発されて、同月二十四日に川中島へお着きに なった。そして、謙信の陣営である西条山のこちら側、雨の宮の渡しを占拠し、そこに 陣をはられた。このため謙信の側では、越後への退路を断たれ、あたかも袋にとじこめ られたようになったと心配したが、謙信は少しも心配する様子はなかった。 こうして信玄公は、五日間、その場所に陣をはられ、六日目の二十九日に、広瀬の渡 しを越して海津の城におはいりになった。しかし謙信は、家老の意見も聞かず、それま でとおり西条山におられる。 ここで、信玄公に対し飯富兵部が、ここぞという決戦をなさいますようにと、おすす め申しあげた。また信玄公は馬場民部助を召されてご相談になったところ、馬場も決戦 をなさるようにと申しあげる。 信玄公は「当家の武勇すぐれた侍大将たちのうち、小幡山城はこの六月に病死、原美 濃もこの夏、信州わりか嶽城攻めにおいて、十三カ所の負傷で、まだその傷が治らぬた め、今何は召し連れなかった」と仰せられて、山本勘助を召され、馬場民部助と相談の 上、明日の合戦の配備を定めよと仰せつけられた。 山本勘助はそこで、 「二万の兵力のうち、一万二千を謙信が陣をかまえる西条山に向けて、明日の卯の刻 (午前五時ごろ)から合戦を始めれば、越後勢はやがて、勝っても、負けても、川を越 えて引揚げるでありましょうから、そこを御旗本組、第二陣の部隊によって前後からは さみ討ちにして、討ちとめなさるように」と申しあげた。それによって、高坂弾正、飯 富兵部少輔、馬場民部、小山田備中、甘利左衛門尉、真田一徳斎、相木、芹山下野、郡 内の小山田弥三郎、小幡尾張守、この十隊は西条山に向かって卯の刻から合戦を始め る。一方、御旗本組としては、中央に飯富三郎兵衛、左に典厩信繁殿、穴山信吉殿、右 は内藤修理、諸角豊後の各隊。 御旗本組脇備として、左に原隼人、逍遥軒信廉殿、右に太郎義信殿二十四歳、望月の 各隊。御旗本組後備として跡部大炊助、今福善九郎、浅利式部丞の各隊、以上十二隊、 御旗本とともに八千の兵力が、今夜の七つ寅の刻(午前三時ごろ)に出発して広瀬の渡 しを越して陣を布き、敵が川を越えて退くときに戦闘を始めると定められた。 ところが謙信公は、武田勢の先鋒と旗本の部隊との炊事の煙が立つ様子を、西条山り 上からご覧になり、上杉方の侍大将全員を集めて、 「十五年前、未の年の秋に、信玄二十七歳、謙信十八歳のとき、争いを始めて以来、た びたびの含戦をしてきたが、信玄の布陣にはつねに手落ちがなく、結局のところ戦場の 主導権を信玄に握られて、謙信はつねに敗れたかのような有様であった。明日は合戦と 思われるが、信玄の作戦としては、兵力を二手に分け、半分をこの陣に向けて合戦を始 め、謙信の旗本が川を越して退こうとするところを、あと半分の兵力によって討ちとろ うとの計略を立てていることが、鏡にうつるかのように察しられる。ここはひとつ、謙 信もその裏をかいて、ただちに川を越えてそこで夜を明かし、日が出たならば攻めかけ て合戦を始め、信玄の先鋒が駆けつけぬうちに、武田勢を切り崩し、信玄の旗本と、わ が旗本とで一戦をとげ、信玄と自分とが取り組み合い、組みふせて、刺し違えるなり、 またはそのときの様子で和睦するなりとしよう。いずれにせよ、明日は二つに一つの合 戦ぞ」といわれた。 輝虎は甲骨に身を同め、九月九日の亥の刻(午後九時ごろ)に西条山を出発して雨の 宮の渡しを越え、対岸に移られたが、一万三千もの兵力でありながら、音も間こえなか った。これは、越後勢が、戦のときは一人に三人分ずつ、朝食を用意させておく軍律と なっているため、夜になって人馬の食物をつくることがなく、火を焼く色が見えなかっ たためである。以上。 こうして九月十日のあけばの、信玄公は広瀬の渡しを越し、八千余の兵力で陣を布 き、先鋒からの報告をお待ちになっていたが、日が昇り、霧がすっかり晴れわたると、 輝虎勢が一万三千の部隊で、まことに近々と陣をしいているではないか。 謙信は強敵、対等の兵力であってさえ危い合戦だというのに、信玄公は八千、謙信 は、一万三千である。たとえ勝利できたとしても、味方には多くの討死が出るであろう と、武田方の人びとが考えたのも当然であった。 信玄公に、信州侍の浦野という武勇すぐれた武士を召されて、斥候に出された。 浦野は見て戻り、御前にかしこまって「輝虎は退きました」と申しあげる。信玄公は 判断力にすぐれた大将であるだけに、「謙信ほどの者が、宵から川を越し、そこで夜を 明かしていながら 空Lく引き取ることがあろうか。では、退き方はどのようであった か」とおききになった。 浦野は、「謙信は、味方の陣を辻回しては前にふさがり、幾度もそのようにしなが ら、犀川のほうへと向かってまいりました」と申しあげる。 信玄公はこれを聞かれて、「なんと、浦野らしくもないことを申すではないか。それ は車がかりといって、いくまわり目かに、わが旗本と敵の旗本とを打ち合わせ、合戦を するための戦術である。謙信はきょうを限りと覚悟の見えた」と仰せられて、陣を立て 直された。 謙信は、甘糟近江守という剛勇の侍大将の雑兵とも千人の部隊をはるか後方に置き、 二千の兵を持つ直江という侍大将に小荷駄奉行を申しつけ、白らは一万の軍勢を指揮し て、柿埼という侍大将を先鋒に、第二陣に輝虎が立ち、旗を傾けて無二無三に攻めかか り、一気に合戦を始めた。 その問に、謙信の旗本の一隊は、信玄公の備の右側にまわり、義信公の旗本五十騎、 雑兵四百あまりの部隊を追い立てて、信玄公の旗本めがけて斬りかかる。 敵味方合わせて三千六、七百の軍兵が入り乱れ、突きつ突かれつ、斬りつ斬られつ、 互いに鎧の肩をつかみ合って、組み合って転ぶもの、頸を取って立ちあがるもの、その 頸はわが主人のものと名乗って槍で突きふせるもの、それを見ては、またそれを斬りふ せるものという有様、甲州勢も目の前の戦いにまぎれて、信玄公がどこにおられるかも わからず、また越後勢もそのとおりであった。 このとき、萌黄色の胴肩衣を着た武者が白手拭で頭を包み、月毛の馬に乗って、三尺 ほどの刀を抜身に持ち、信玄公が牀机の上におられるところへ、真一文字に乗りよせ て、三太刀切りかかったが、その切っ先ははずれ、仁文公は軍配団扇でこれを受け止め られた。あとで見たところ、団扇に八カ所の刀傷があった。 さて、ご中間頭、二十人衆頭など二十騎は、いずれも剛勇の武者たちだったので、奮 戦しながら信玄公を敵味方からわからぬように取りかこみ、近寄ろうとする者を斬り払 う。そのとき、ご中間頭の原大隅が、青貝の柄のお槍をとって、月毛の鱒に乗った萌黄 緞子の胴肩衣を着た武者を突いたが、突き損したため、鎧の肩をめがけて打ったとこ ろ、鎧の背をたたいたため、馬は竿立ちになって走り去っていった。 あとで聞けば、この武者こそ輝虎であったという。 信玄公卿旗本組のうち、飯富三郎兵衛の部隊は、越後方先鋒第一陣の柿崎隊を追い崩 し、三町ほども迫撃する。穴山殿の部隊も、謙信勢の,柴田隊を四町ほと迫撃する。 信玄公はお中間頭二十人のほかは、土屋平八、直田喜兵衛ら、十七、八のお小姓たちだ けを従えられて、本営の御牀机のところから少しもお立退きにならなかった。 だが、甲州勢のそのほかの九部隊は、太郎義信公の隊をはじめすべて敗れ、千曲川の 広瀬の渡しに向けて追撃されつゝ退いていった。なかでも、典厩信繁殿討死、諾角豊後 守討死、旗本足軽大将の中では山本勘助入道道鬼、初鹿源五郎の両人が討死、信玄公も お腕に二カ所の軽傷を負われ、太郎義信公も二カ所の負傷をされた。 かくしての合戦は、ほとんど信玄公のお負けかと見えたところへ、西条山に向かって いた先鋒の十隊が謙信に出しぬかれ、鉄砲の音、ときの声を聞いて、われがちに千曲川 を越して、越後勢の後方から攻めかかり、追撃戦を開始した。 さすがの謙信も、和田喜兵衛という侍ただ一人をつれ、名高い放生月毛の馬をも放し て、家老の乗りかえ馬に乗り、主従わずか二騎、高梨山をめざして退かれた。 典厩殿のお頸は、ご家来の山寺という武士が敵方から奪い返し、しかもその相手を討 ちとめて、典厭殿のお頸にそえて持ち帰った。諸角豊後の頸は、諸角輩下の石黒五郎兵 衛と三河牢人の成瀬という武士の両人で取り返し、越後方の頸を取って戻ってきた。 この合戦は、卯の刻に始まった前半は、ほぼ越後輝虎方の勝利、巳の刻に始まった後 半は信玄公のご勝利であった。越後勢を討ち取った数は雑兵ともに三千百十七、その頸 帳をしたためて、同日申の刻(午後三時ごろ)にかちどきをちげられた。お太刀持ちは 馬場民部助、弓矢取りは信州侍の諸賀であった。 永禄四年辛西九日十日、信州川中島合戦とはこのことである。 この合戦以後、輝虎は信州に侵攻しなくなった。すでに諏訪頼重、伊奈の人びと、木 曽義康は降参、深志の小笠原長時と葛尾の村上義清に輝虎が加わって年々の戦いがあっ たのだが、合わせて二十四年にして、ようやく信州は平定された。 信玄公の合戦ぶりは、信州の諸勢との戦いによって巧妙,になられたのである。以上。 (後略)(品第三十二) 市河氏について 江戸時代の地図から、越後と信濃の道を探る。 江戸時代の絵図から信濃国と越後国を結ぶ道4方向、 野尻湖の東岸と西岸を抜ける道が二本。 千曲川の東に十日町(新潟県)へ抜ける道。 飯山から千曲川の西に十日町へ抜ける道。 と、 飯山から富倉峠や関田峠をはじめとした鍋倉山周辺を越える間道が5本 小谷から糸魚川に抜ける道が二本。 越後へ抜ける道でもっとも主要なのは、飯山を経由して鍋倉山付近を越えていく道筋と、野尻湖の道筋であったことになり、飯山と野尻湖という地が交通上、越後国防上必要不可欠な道であった。 武田晴信 天文二十二年(1553)、村上領を制圧して善光寺平へ進出した。 村上義清 越後国へ逃れて長尾景虎へ救援を求めました。 信濃豪族 残された北方を領する信濃の豪族達武田に就くか、隣国の長尾景虎に就くかを迫られました。 長尾景虎 北信濃の豪族達に救援を請われた長尾景虎は、天文二十二年から弘治三年までの五年間に三度信濃へ出陣し、延べ一年間近くも滞陣しました。 武田晴信 武田晴信に飯山と野尻湖を占領されると、幾つものルートで越後へ入られ、景虎の居城である春日山城やその城下町へは約三十五キロメートルの距離なので、武田軍は何もなければ一日もかからず到達できる。 長尾景虎 救援を請う豪族を保護することにする。様々な状況から該当地域武将たちは結局次のような選択をしました。 武将の選択 武田軍 高井郡の市河氏、木島氏(木島平村)、井上氏(須坂市)等、 長尾軍 岩井氏(中野市)、安田氏、東条氏、井上氏、須田氏、嶋津氏、高梨氏等 武田晴信 武田 飯富兵部少輔虎昌 塩田城(上田市) 武田晴信は北信濃への取り掛かりとして、飯富兵部少輔虎昌を佐久、上田、深志、諏訪の四方を結ぶ重要な拠点である塩田城(上田市)におきました。飯富虎昌は長男の武田義信の守り役も務める信玄にとって信頼を寄せる重臣で、塩田において北信濃の調略や作戦の指揮、善光寺平への兵站線の指揮をしました。 長尾 高梨政頼 ☆高梨政頼 弘治三年(1557)、中野(中野市)を中心に一帯を支配していた高梨政頼は、飯富の調略などによる相次ぐ裏切りと、攻撃に耐えきれず、中野を放棄して水内郡の飯山へ退却しました。 政頼など北信濃の豪族達は飯山を死守、長尾景虎へ救援を依頼するが、景虎は出陣しませんでした ☆高梨政頼 高梨政頼は「持ち堪えられず、飯山を放棄するしかない」と書状に書いて景虎を脅しました。 ☆長尾景虎 和議により定めた境界を侵して葛山城を落とした武田晴信を許すことができず、翌年の弘治四年(1558)=永禄元年春、長尾景虎は越後をようやく出陣し、 山田城(高山村)、福島城(須坂市)を落とし、武田軍と睨み合いながら善光寺平を臨む旭山城(長野市)を再築しました。 この時、高梨政頼は裏切った野沢(野沢温泉村)の市河氏を説得しましたが、うまくいきませんでした。 武田と上杉が戦っている最中、京都の将軍家は各地の武将に上洛するように要請しました。 長尾景虎はこれに応じることにし、 将軍足利義輝は武田晴信に上杉を攻めないように要請し、 晴信もそれに応じる返答書を出しました。これによって永禄2年(1559)長尾景虎は5千の軍を率いて上洛をし、関東管領に任命されました。しかし、上洛中にも武田晴信は、自分が前年に信濃守に任命されたので北信濃を領する権利があるとして侵入しました。下のような古文書が残っています。 この古文書は、征夷大将軍足利義輝が大館上総介晴光を使者として長尾景虎に与えたものになります。内容は、武田と上杉の和議の事について、武田晴信に度々伝えているが命令を聞かない。さらに上杉の国境を侵して乱入していると聞いた。しからば信濃国の諸侍の事は戦闘の途中なので、その始末を長尾景虎のやりたいように任せると書いてあります。 そして上杉政虎(永禄3年改名)が小田原の北条を攻めている最中の永禄4年(1561武田軍は黒姫山と飯縄山の間に道を切り開いて割ケ嶽城を攻撃し、初めて野尻湖まで侵入しました。これによって上杉政虎は、遂に許し難しと決着を付ける覚悟を固めました。有名な第4次川中島の開戦です。『上杉年譜』によると、上杉軍の先鋒には村上、高梨、島津、井上、須田と北信濃の豪族達が書かれています。彼等のこの戦にかける意気込みは相当のものだったでしょう。上杉軍は武田のキツツキ戦法を逆手にとって、妻女山を暗いうちに下り、川向こうで待つ武田信玄の本陣へ向かいました。その時この信濃先鋒衆は、妻女山から信玄を救おうと追ってくる別働隊を迎え撃つために、山裾に陣を張ったと云われています(高速道路の松代SA付近)。 甲越一和の事、晴信に対し度々下知を加ふると雖も同心なし、結句分国境目に至って乱入の由、是非なく候、然らば信濃国諸侍の事、弓矢なかばの由に候間、始末景虎意見を加ふべきの段肝要に候、なほ晴光申すべく候なり。 六月廿六日 長尾弾正少弼とのへ (足利義輝花押) 山本管助の名が記載されている先の古文書は、ちょうどこの頃のものになります。文には野沢を守る市河藤若を長尾軍が攻撃したが守りが固く飯山へ引き上げていったとあります。そして、これ以後は武田晴信へいちいち救援依頼するのではなく、塩田の飯富に出陣するように言ってあるので、そちらに依頼するようにと述べています。野沢には野沢城がありましたが、それは今の温泉街のある所で、館のようなものでした。とても堅固で落とせなかったものとは思えないような城です。周辺にはその他、西浦城、平林城が千曲川沿にありました。この頃の武田晴信から市河氏への古文書に、新しい城にて立て籠もるようにとの命令が残っているので、どちらかの武田が築城した城に籠城したのかもしれません。倉賀野(群馬県高崎市)の文字が出てきますが、永禄2年(1559)秋、武田信玄(永禄2年改名)は上野国へ出陣しているので、年代としてはこの年ではないかと推測されます(文には「景虎」が攻めたとありますが、本人ではないと考えています)。この時に野沢まで出向いて市河藤若の戦功をねぎらった使者が山本管助であったというわけです。翌々年の9月10日第4次川中島の戦いで山本管助は討死しました。 武田晴信は、長尾景虎との対決と飯山を攻略するのに塩田から善光寺平までは距離があるので、真田幸隆が落とした雨飾城(尼厳とも、長野市)を廃して麓に拠点を築くことにしました。永禄3年にほぼ完成させた海津城(かいづじょう)です。さらに前線への拠点として永禄11年長沼城(長野市)も完成させました。これら前線の城には伊那の箕輪衆、坂西氏、佐久の北方衆などの信濃の降伏した者達にあたらせました。 一方、長尾景虎も数年にわたる武田晴信との戦闘において、飯山の守備を信濃の豪族にあたらせました。現存している史料から守備していたのは上倉下総守、奈良沢民部少輔、上堺彦六、泉弥七郎、尾崎三郎左衛門、中曾根筑前守、今清水源花丸、岩井備中守らでした。どのような防御網を敷いていたのか不明ですが、飯山に侵入するには対岸から千曲川を渡ってくるか、替佐方面(中野市)しかないので、この方面の防備を固めていたものと思われます。また、野尻湖へ向かう道は、大倉城や矢筒城などによって野尻湖南の防御網を島津氏が守っていました。彼等には信濃国に殆ど領地が無いので、高梨をはじめ越後国に知行所を与えられて忠義に励んでいました。そして当時の飯山は、江戸時代のような城下町が整備されていたわけではなく、千曲川河畔に泉弥七郎の館があるだけの小村落にすぎませんでした。景虎はこれを補強して永禄7年(6年ともある)飯山城を完成させ、家臣の桃井義孝と加地春綱を援軍(飯山城代)として2之郭に配備しました。 これら戦国時代の城は信濃に無数ありました。城跡の発掘調査などをすると決まって出土するものがあります。石臼、硯、砥石、鉄釘、銅銭、かわらけ、内耳鍋、中国産の青磁・白磁・青花、常滑焼の甕、瀬戸焼の天目茶碗、黄瀬戸の器になります。特に多いのが「かわらけ」で、酒などを飲む時の杯に使用されました。主に手で練ったいわゆる土器で、直径10cm前後で、高さ2cmぐらいのものになります。その数は多い城で数千点にのぼります 市河氏の出自に関しては、米沢上杉藩士の記録である『米府鹿子』に見える市川氏は「滋野氏・本領信濃」と記されている。一方で、平安時代に越後に勢力を持っていた桓武平氏城氏の流れともいい、戦国時代の信房は藤原姓を称している。いずれにしろ、市河氏の出自は不明としかいいようがない。 鎌倉中期の文永九年(1272)、市河重房は中野忠能の一人娘を後妻とし子の無かった忠能に先妻の子盛房を養子として入れた。その後、重房は盛房と共謀して、忠能のもうひとりの養子である中野仲能、広田為泰らと激しい相続争いを繰り返した。そして順次志久見郷を蚕食してついにはその全域を掌握した市河氏は中野氏を被官化し、名実ともに志久見郷の地頭職として志久見郷の実権を掌握した。 かくして、志久見郷を本拠とした市河氏は南北朝・室町時代には各地に転戦し、それらの戦功により勢力を拡大していったのである。 ●南北朝の争乱 鎌倉末期から南北朝の当主は盛房の子助房で、元弘三年(1333)新田義貞が東上野笠懸野で挙兵したとき越後の新田一族は義貞に呼応して義貞の陣に急行したが、市河助房は情勢を傍観、一ヶ月後に至ってやっと陣代として弟経房らを参陣させている。そして、建武の新政が成立すると足利尊氏のもとへ参陣した。 建武の新政がなったとはいえ、信濃は北条氏が長く守護をつとめていた関係から北条氏の勢力が強く、不穏な気配が濃厚であった。建武二年(1335)諏訪氏に匿われていた北条高時の遺児時行が挙兵し、鎌倉に攻め上った。「中先代の乱」であり、この乱にくみした水内郡常岩御牧北条の弥六宗家らを討伐するため、善光寺・府中の浅間宿を転戦し、それが機縁となって信濃守護の小笠原氏に属するようになった。 その後、北条方、南朝方として守護小笠原氏に対抗する諏訪・滋野氏一族らに対し守護方として船山郷青沼・八幡原・篠井四宮河原などで戦っている。この間、惣領助房を助けて一族の倫房・経助・助保らが守護方として活躍、倫房・助保父子は建武二年望月城を攻略し、東筑摩郡・諏訪方面各所を転戦した。堀川中納言光継を信濃国司として迎えたとき、横河城で戦功をたて軍忠状をえている。このように南北朝の内乱において市河一族は、惣領助房とともに守護小笠原氏貞宗に属し武家方として活躍した。 助房は実子が生まれなかったため、一族の経高を養子としたが、のちに頼房が生まれたため、所領のうち志久見郷の惣領職、備前国の私領を頼房に譲り、志久見郷内の平林村を経高に譲る旨の譲状を作成している。また、このころの市河氏は国中平(くむちぬけ)神社のある場所に居館を構え、西浦城を詰めの城としていたようだ、そして、一族を志久見郷内に配して南方方面からの敵に備えている。 やがて、足利尊氏と弟直義の不和から観応の擾乱が起ると、市河氏は越後守護上杉氏に属し直義方として行動した。擾乱のなか政局は複雑に推移し市河氏ははからずも南朝方に属するということもあり、尊氏方の守護小笠原氏とも対立した。直義が尊氏に敗れて急死したことで乱は終熄したが、越後の上杉氏らは南朝方に通じて尊氏方に抵抗を続け、市河氏も上杉氏と行動をともにした。そのころ、下高井郡の高梨氏が中野氏を駆逐して北方に進出、正平十一年(1356)、市河氏は上杉氏の支援を得て高梨氏の軍をうちやぶっている。その後、上杉氏が尊氏方に帰順したことで、市河氏も守護小笠原長基に降伏し武家方に転じた。 ●大塔合戦 応安元年(貞治七年=1368)二月、関東において河越氏を中心とする平一揆が起った。頼房は信濃守護職上杉朝房に属して出陣、武蔵河越、下野横田・贄木、さらに宇都宮まで転戦し、宇都宮城攻めにおいて左肩・右肘を射られ負傷したという。 その後、応安三年(1370)には常岩御牧南条の五ヶ村を兵糧料所として預かり、永和元年(1375)、上杉朝房から本領を安堵された。その後、信濃守護職に任ぜられた斯波義種から所領を安堵され、守護代の二宮氏泰、守護斯波義将からも安堵・下知・預領・感状を受けている。 至徳四年(1387)、村上氏を盟主とする反守護の国人らが守護所に攻め寄せたとき、頼房は守護代二宮是随に属して村上方と戦った。そして、応永六年(1399)に至って斯波氏に替わって、小笠原長秀が信濃守護職に補任された。翌年、京都から信濃に入部した長秀は、善光寺に守護所を定めると信濃一国の成敗に着手した。しかし、長秀の施策は国人の反発をかい、ついに国人は村上満信・大文字一揆を中心とした北信の国人衆が武力蜂起を起こした。 世に「大塔合戦」といわれる戦いで、市河刑部大輔入道興仙(頼房)は甥の市河六郎頼重らとともに守護方に属して出陣した。両勢力は川中島で激突し、戦いは守護方の散々な敗北に終わり、京都に逃げ帰った小笠原長秀は守護職を解任されてしまった。この合戦に守護方として戦い敗れた市河氏は、戦後、国人衆らに領地を押領されるなどの乱暴を受けている。 高梨氏らと同様に北信の国人領主である市河氏が守護方に付いたのは、高梨氏と対立していたことが背景にあり、両者の対立は戦国時代まで続いている。また、北信の山岳武士である市河氏は、権力を尊ぶ気持ちも強かったようだ。以後、市河氏は一貫して守護方として行動し、管領細川氏から感状を受ける等幕府からもなみなみならぬ信頼を受けていたことが知られている。 ところで、南北朝時代のはじめより関東には鎌倉府がおかれ、幕府から関東八州の統治を任せられていた。その主は鎌倉公方と呼ばれ、代々足利尊氏の三男基氏の子孫が世襲したが、代を重ねるごとに幕府との対立姿勢が目立つようになってきた。 ●関東の戦乱 室町時代になると、関東では上杉禅秀の乱、佐竹氏の乱、小栗の乱と戦乱が続いた。その背景には、鎌倉公方持氏の恣意的な行動と鎌倉府と幕府との対立があった。禅秀の乱後、持氏は禅秀党の討伐に東奔西走したが、その結果、公方の専制体制が強化されることになった。それに危惧を抱いた幕府は佐竹山入・宇都宮・真壁・小栗の諸氏を「幕府扶持衆」とし、禅秀の遺児らを任用して持氏を監視させた。これに反発した持氏は、小栗氏ら幕府扶持衆の諸氏の討伐を始めたのである。 幕府はこのような持氏の行動を怒り鎌倉を征しようとしたが、持氏が陳謝したことで合戦は避けられた。その結果、幕府は山入祐義を常陸の半国守護に、甲斐の守護には持氏の推す逸見氏を斥けて武田信重を任じるなどして持氏の行動に掣肘を加えた。 しかし、持氏の暴走は止まらず、結局、永享十年(1438)、管領上杉憲実との対立が引き金となって幕府と武力衝突するに至った。いわゆる永享の乱であり、敗れた持氏は自害、鎌倉府は滅亡した。 この一連の関東争乱のなかで、応永二十九年(1422)の「小栗の乱」に際して、市河新次郎が幕府の命を受けた小笠原氏とともに関東に出征したことが「市河文書」から知られる。そして、この常陸出陣を最後に市河氏の動向は戦国時代に至るまでようとして不明となるのである。永享の乱後の結城合戦において、信濃武士が小笠原政康に率いられて出陣したが、そのときの記録である「結城陣番帳」にも市河氏の名は見えない。 とはいえ、その間も市河氏が北信の領主として一定の勢力を維持していたことは、諏訪神社上社の重要祭事の御符入の礼銭、頭役銭を注記した記録『諏訪御符礼之古書(すわみふれいのこしょ)』からうかがえる。 諏訪神社は信濃の一宮として信濃全国に奉仕氏人をもち、この氏人のいる村々は諏訪祭礼の世話役を順番につとめることになっていて、その世話役を頭役といった。しかし、世話役をつとめることは容易なことではなく、費用も莫大な額に上った。そして、この頭役を宝徳四年(1452)から長享二年(1488)までの三十七年間のうち、市河氏が七度にわたってつとめたことが御符礼之古書に記録されている。 一方、このころ市河氏は東大滝に分家を出したといわれ、その家は大滝土佐守を称し戦国時代に至っている。また「栄村史」では、御符礼古書の時代における市河氏の領地は高梨氏などから侵略を受け、志久見郷に押し込められていたのではないかと推察している。 ●越後の争乱と市河氏 市河氏の動向が知られるようになるのは、越後の内乱である「永正の乱」においてである。市河氏の領地は越後との国境に近いことから、越後に争乱が起きるとその影響を受けざるを得なかった。そういう意味では、越後上杉氏の活動に従うことも多かったと思われ、関東の戦乱に越後守護上杉氏が出陣したとき市河氏も出陣したかと思われるが、先述のように記録が残されていないので確かなことは分からない。 越後守護上杉氏は関東公方と管領上杉氏の対立から起った享徳の乱において、関東管領職を継いだ次男顕定を援けて大活躍した房定の時代が全盛期であった。その子房能も凡庸ではなかったが、尊大で気位が高く関東の戦乱に出陣して窮乏のなかにある国人たちの苦労を省みることもなかった。その房能を補佐していたのが守護代長尾能景であったが、永正三年(1506)房能の命で越中に出陣した能景は戦死し、そのあとを為景が継いだ。為景は剛勇不遜な人物で、やがて守護房能と対立するようになり、翌永正四年、房能の養子定実を擁してクーデタを起した。敗れた房能は兄が管領をつとめる関東に逃れようとしたが、為景勢に追撃され松山郷天水峠で自害した。 弟の死を知った関東管領顕定は弟の仇を討つとともに越後の領地を確保するため、永正六年、養子憲房を越後妻有庄にに先発させた。対する為景=定実方は、長尾景長・中条藤資・斎藤・毛利・宇佐美らを出撃させた。これに信濃衆の高梨摂津守・市河甲斐守らが加わって、市河氏の領地である志久見郷から妻有に攻め込み、憲房方の本庄・色部・八条・桃井らと戦ってこれを撃ち破った。その敗報に接した顕定は大軍を率いて上州から越後に攻め込み、為景=定実軍を破り越後を制圧した。為景らは越中に逃亡し、信濃衆の高梨・市河氏らはそれぞれの山城に立て籠る事態となった。 越後を制圧した顕定は為景=定実に与した国人たちに大弾圧を加え、容赦なく討ち滅ぼしたため越後国内には顕定を怨嗟する声が広がっていった。一方、越中に逃れていた為景らは佐渡に渡り態勢を整えなおすと越後に上陸、椎屋の戦いに勝利すると顕定の拠る府内に攻め寄せた。顕定はこれを迎え撃とうとしたが、これまでの圧政から越後国人で味方に参じる者は少なく、ついに兵をまとめて関東へ兵を返した。為景勢はこれを急追し、長森原において顕定勢をとらえ、合戦のすえに高梨政盛が顕定を討ち取った。この合戦には市河氏も参加したと思われるが、それに関する史料がないので詳細は不明である。 こうして、市河氏の領する志久見郷と国境を接する越後の争乱は為景=定実方の勝利に終わった。しかし、その内実は定実を擁した為景の下剋上であり、ほどなく為景と定実との対立が生じると越後は内乱状態となった。 ●武田氏の信濃侵攻 ところで、戦国乱世にあって市河氏は知られる限り侵略的な戦争はしていなかったようだが、松之山四ケ郷を侵略していたことが、天文九年(1540)長尾景重が板屋藤九郎に与えた感状から知られる。すなわち、板屋藤九郎が市河氏に奪われていた松之山四ケ郷を奪い返したことに長尾景重が感状を与えたものである。おそらく市河氏は、先の越後の永正の乱の混乱に乗じて松之山四ケ郷を奪い取ったが、のちに奪い返されたものであろう。ほとんど侵略戦争をしなかったとはいえ、市河氏も戦国時代を生きる国人領主であったことを示している。 天文十年、甲斐の戦国大名武田信虎が嫡男の晴信によって駿河に逐われ、晴信が武田家の当主となった。以後、信濃は武田晴信(のち出家して信玄)の侵略にさらされることになる。天文十一年、晴信は大軍を率いて諏訪に侵攻し諏訪頼重を捕らえて甲府に送ると自害させ、諏訪氏は滅亡した。ついで、天文十六年には佐久を平定し、翌年には小県郡に進出した。そして、北信の強豪村上義清と上田原で激突したが、義清の奮戦で武田方は板垣信形・初鹿野伝左衛門らを討たれる敗北を喫した。 武田氏の敗北に乗じた小笠原長時は、ただちに諏訪に攻め込んだが、晴信の出陣を聞いて塩尻に退いて武田軍を迎え撃った。ところが、小笠原勢から武田勢に寝返る者が出たため長時方は敗れ、武田軍は敗走する小笠原氏を追撃して筑摩郡を制圧した。翌年には長時をその本城から追い払い、諏訪・佐久・筑摩・安曇郡を掌中に収めたのである。 天文十九年夏、晴信は改めて小県に軍を進め村上義清方の砥石城を攻撃せんとした。これに対する村上方は、山田・吾妻・矢沢らが城を守り、義清は精兵六千を率いて後詰めに出陣し、武田・村上の両軍は激戦となった。戦いは七日にわたって続いたといわれ、結果は横田備中・小沢式部らを討たれた武田軍の敗戦となった。村上義清は強勢の武田軍を相手によく戦ったといえよう。 ところが、翌年五月、突然、砥石城が落城した。これは、武田方の真田幸隆の謀略によるもので、村上勢を追い払った幸隆が砥石城代となった。そして、翌年七月、武田軍は村上義清の立て籠る塩田城に攻め寄せ、ついに義清は越後の長尾景虎を恃んで信濃から落ちていった。かくして、武田晴信は信濃をほぼ制圧下においたのであった。 ●武田氏に属す このころ、市河氏はどうしていたのだろう。 市河氏は越後の争乱に際して長尾方として行動していたが、長尾氏との関係を背景とした高梨氏の勢力拡大によって近隣の諸領主は滅ぼされ、あるいは降服し、高梨氏の勢力は市河氏領にも及んできた。ついには。小菅神社領を緩衝地帯として高梨氏との争いを続けていたようだが、状況は市河氏に不利であった。 武田氏が北信濃に勢力を及ぼしてくると、市河氏が武田氏に款を通じたのもこのような背景があったからである。また、晴信は長尾氏家中に調略の手を伸ばし、大熊朝秀がそれに応じて景虎に反抗した。このとき市川孫三郎信処も晴信に応じたようで、晴信の兵は村上方の葛山城を落し、高梨氏の本城である中野城にまで迫ろうとした。そのおゆな弘治二年(1556)、武田晴信は市川孫三郎に対して高梨領安田遺跡を与える事を約束している。 一方、領地を武田氏に逐われた村上・高梨氏らは、越後の長尾景虎の援助をえて失地回復を図ろうとした。景虎も北信濃が武田氏に侵略されることは、直接国境を接することになり、捨ててはおけない一大事であった。こうして、景虎は北信の諸将を援けて武田晴信と信濃川中島において対決することになったのである。 景虎が川中島に初めて馬を進めたのは、天文二十二年(1551)といわれている。以後、川中島の合戦は五度に渡って戦われた。そのなかでも最も激戦となったのが、永禄四年(1561)九月の戦いであった。永禄四年の戦いは、謙信と信玄とが一騎打を行ったといわれ、戦国合戦史に残る有名な戦いだが勝敗は五分と五分であったようだ。その後も、信玄は信濃侵略の手をゆるめず、永禄六年には上倉城を攻略、翌年には野尻城を攻め落とした。このため、謙信は川中島に進出して信玄と対陣したが、決戦いはいたらなかった。 その後、川中島地方は信玄にほとんど攻略されたが、武田氏に属する市川氏は上杉方に攻撃されて志久見郷から逃れるということもあったようだ。しかし、小笠原・村上・高梨氏ら信濃諸将の旧領復帰はならず、信濃は信玄が治めるところとなった。その結果、武田氏に通じていた市川氏らは旧領に帰ることができた。信玄が市川新六郎に宛てた文書によれば、市川新六郎は前の通り知行を安堵されるとともに、妻有のうちに旧領の外三郷を与えられたことが知られる。また、市川氏の領地が上杉領と接していることから、城内は昼夜用心せよ、普請も油断なくせよ、濫に土地の人を城内に入れるなとか、さまざまな注意を書き連ねた制札を与えられている。 ●時代の転換 元亀三年(1572)、信玄はかねてよりの念願である上洛の兵を発した。そして、三河国三方ケ原で徳川・織田連合軍を一蹴し、天正元年(1573)には野田城を攻め落した。ところが、このころ病となり静養につとめたが、ついに軍を甲斐に帰すことに決し、その途中の信州駒場において死去した。武田氏の家督は勝頼が継いだが、天正三年、織田・徳川連合軍と長篠で戦い壊滅的な敗戦を被り、馬場・原・山県ら信玄以来の宿将・老臣を失った。以後、武田氏は衰退の一途をたどり、ついに天正十年、織田軍の甲斐侵攻によって滅亡した。 一方、上杉謙信は信玄の死後は信濃に侵攻することもなく、関東・越中方面の攻略に忙しかった。そして、天正六年三月、関東への陣触れをした直後に急病となり、帰らぬ人となった。謙信には実子が無かったため、二人の養子景勝と景虎が謙信後の家督をめぐって内乱となった。この内乱に際して、一方の景勝は景虎方に味方する武田勝頼と和議を結び、翌七年、景虎を御館に破って上杉氏の家督を継いだ。このときの和議によって、飯山地方は武田領となり、以前から武田氏に属していた市川氏や分家の大滝土佐守らは勝頼から所領安堵を受けている。 さて天正十年に武田氏を滅ぼした信長は旧武田領を配下の部将に分け与え、川中島四郡は森長可が与えられ長可は海津城に入った。この事態の変化に際し、市川氏は森氏に従って飯山城を守った。川中島四郡の領主となった森氏は越後の上杉景勝を攻撃するために出陣し、春日山城に迫る勢いであった。ところが、六月、織田信長が明智光秀の謀叛によって本能寺で死去したため、またもや時代は大きく転回することになる。 本能寺の変によって、森長可は上方へ去っていった。市川氏はただちに飯山城を開城して上杉景勝に降り、川中島四郡の諸将士も上杉方に転じ、村上・井上・高梨・須田・島津氏らが旧領に復帰してきた。その後、飯山城には岩井備中守が城代として入った。 ●戦国時代の終焉 織田信長が死去したのちの信濃は上杉・徳川・後北条氏の草刈り場となった。家康は真田昌幸をして海津城の屋代越中守を上杉方から離反させて北信に進出しようとし、みずからは甲府に出張した。これを聞いた景勝は岩井備中守に出陣する旨を連絡し、市川信房にも知らせた。これに対して信房は家康はまだ甲府におり、あわてることはないでしょうと返事をしている。そして、屋代のように家康に通じる者も出たが、川中島四郡は上杉方によって守られた。 本能寺の変後の中央政界では、羽柴秀吉が大きく台頭した。秀吉は本能寺の変を聞くとただちに中国から兵を返し、明智光秀を山崎の合戦に滅ぼし、ついで柴田勝家を賎ヶ岳に破ると北ノ庄に滅ぼした。ついで、大坂城を築いてそこを居城とした秀吉は、十二年には家康と長久手で戦い、翌年には四国を平定、ついで家康と和睦し、太政大臣に任じられて豊臣の姓を賜った。まさに目まぐるしい勢いで天下統一を押し進めていった。そして、天正十五年五月、島津氏を降して九州を平定、十八年七月には小田原北条氏を滅ぼし、奥州仕置によって奥州も平定して、ついに天下統一を実現したのである。ここにおいて、「応仁の乱」以来一世紀にわたって打ち続いた戦国時代は終わりを告げた。 徳川家康は後北条氏のあとを受けて関東の大大名となり、市川氏の属した上杉景勝も慶長三年(1598)、越後から会津百二十万石への転封を受けた。このとき、上杉氏の家臣団も景勝に従って会津に移ったが、市川氏もまた住み慣れた信濃の地から遠く会津の地へと移っていった。いまも、市川氏が支配した地域は市河谷と称されているが、その地を治めた市川氏は会津に去り、さらに関ヶ原合戦後に米沢に減封された景勝に従って米沢へと移っていった。 明治維新後の廃藩置県により禄を失った市川氏は、鎌倉以来の『市河文書』を携さえて北海道へ屯田兵として入植。そして、この市河文書のなかに、武田信玄の軍師といわれる山本勘助の記述があり、勘助が実在した人物であったことが知られたのは有名な話である。・2006年02月27日 【参考資料:栄村史/野沢温泉村史/中野市史/下高井郡史 ほか】 ■参考略系図 ・室町時代の歴代は、「諏訪御符礼古書」に記された市河氏の記述などをもとに復元、それぞれの続柄などは不明。 ところで、鎌倉期における市河氏の人物として、『東鑑』治承四年(1180)八月には市河別当行房が鎌倉方として見え、建仁二年(1202)~建暦二年(1212)条には市河別当五郎行重、承久元年(1219)条には市河左衛門尉祐光が見える。さらに、『東鑑』寛元二年(1244)八月条には市河掃部允高光法師(法名見西)見えることから、「行房―行光(またの名が定光。その弟行重)―祐光―高光」と続く系図が推定される。甲斐の市河高光が信濃国船山郷に領地をもっていたことから、信濃の市河一族も甲斐の同族と考えられるが、その関係を明らかにすることはできない。 長沼城は室町時代に島津氏がこの付近に移り住み、領主として館が築かれたものと思われる。 武田信玄が北信濃に侵攻してきて、対上杉との戦線が、 飯山城、野尻城へと北上すると、越後国境攻防用基地として再建工事が行われた。この再建は永禄11年(1568)馬場信房によるものとされ、城代として海津城から市川梅隠、原与左衛門が入ったという。 武田氏滅亡後も森長可、上杉景勝と入り、川中島四郡の支配に海津城と共に重要視された城である。 江戸時代になると長沼藩一万八千石として佐久間氏が入ったが、元禄元年(1688)に移封され、幕府の直轄領となり廃城になった。 【上】長沼城の碑 現在遺構は無いに等しい。千曲川を東側の要害とし、西側は現在の県道368号が旧堀跡の外周をコの字型に迂回しているという。碑は貞心寺の北東約80mの堤防沿いにあり、碑の背後の土盛りが本丸土塁の跡といわれる。平城であるが武家屋敷も総構えの中に取り込んでいた、海津城よりも古い形態を残した近世城郭への移行期の縄張りだったという。 「市河文書」は中世を通じて奥信濃(長野県下高井郡北部)に在地領主制をしいた豪族市河氏に伝えられた中野・市河両氏の古文書の総称である。「嘉応2年(1170)2月7日、平家某下文」を巻頭に、「永禄12年(1569)10月12日、武田信玄軍役徴発定書」までの、平安時代末から戦国時代末に及ぶ146通(16巻)は、信濃の根本資料であり鎌倉幕府下文・官宣旨・国宣・雑訴決断所牒・安堵状ほか、各種文書が含まれる。 2006年08月08日 市河文書 木島平村高石にある泉龍寺出入口付近のようす。この寺(曹洞宗)は市河信房によって創建(1582年5貫文寄進)されたもの。寺には市河信房の墓と言われる古い宝篋印塔があります。ちなみに私の父の菩提寺。参道は杉並木、高い石垣に囲まれていることもあり、この写真の付近から本堂を直接見ることはできません。これは城郭・城下町(長野市長沼等)などによく見られる見通しをはばむ防御の備えとなっているからです。 市河氏は南北朝時代新田義貞軍に加わって鎌倉を攻撃したほか足利尊氏軍にも参加。戦国時代は武田方に属し、信玄死後上杉景勝に従い、景勝会津移封により転出。この時の6700石は山浦(村上)氏の6500石よりも多く、信濃武士としては5番目(注)。重臣として上杉家にはなくてはならない存在だったようです。市河家の菩提寺は常慶院、長野県栄村と米沢市にあるのは移封するとき寺も一緒に移ったため。 また、大阪冬の陣鴫野表の戦いで市河房綱、大俣吉元等上杉軍が多数戦死。当時上杉家の重臣であった房綱の戦死は上杉景勝によって大きなショックだったことでしょう。上杉軍は大きな犠牲を払った功績もあって家名を存続できたのかもしれません。 市河氏を有名にしたのは国の重要文化財(戦前は国宝)に指定されている「市河文書」の存在。この文書(山形県酒田市の本間美術館保管)は1170年から1569年までの詳細な歴史資料が記述されています。 昭和44年、従来の市河文書(国重要文化財)のほかに北海道にも市河文書(欠落部分、釧路市指定有形文化財)の残されていることがニュースに。文献(中世信濃武士意外伝)によればNHK大河ドラマ「天と地と」放映時に市河氏末裔の方が公表。これにより初めて山本勘助?(山本管助)が実在したことを示す文書も含まれていたとのこと。それまで山本勘助は全くの架空の人物とされていたようですからわからないものです。ちなみに勘助の墓は長野市松代町柴の河川敷に存在(豊川市、富士市、韮崎市にも)、考えてみれば架空人物の墓まで造らないでしょうか。 猿飛佐助や霧隠才蔵にしても存在を示す新たな文書が発見されれば脚光をあびるかもしれません。 市河家に関する詳細(須田家等も)は下記サイトで紹介されています。 (注)木島平村誌によると1000石以上の知行諸士(同心分除く)は以下のとおり。 須田大炊介長義20,000石、清野助次郎長範11000石、栗田刑部小輔国時8500石、島津月下斎忠直7000石、市川左衛門尉房綱6700石、山浦村上源吾景国6500石、芋川越前親正6000石、岩井備中守信能6000石、春日右衛門元忠5000石、須田式部3270石、平林蔵人佑正垣3000石、香坂与三郎昌能2100石、井上隼人2100石、大岩新左衛門2000石、須田大学2000石、栗田主膳2000石、芋川縫殿親元2000石、保科善内1500石、夜交左近1500石、大室兵部1500石 なお、山梨県に市川氏があるため市河氏として表示しました。 「市河文書」は中世を通じて奥信濃(長野県下高井郡北部)に在地領主制をしいた豪族市河氏に伝えられた中野・市河両氏の古文書の総称である。「嘉応2年(1170)2月7日、平家某下文」を巻頭に、「永禄12年(1569)10月12日、武田信玄軍役徴発定書」までの、平安時代末から戦国時代末に及ぶ146通(16巻)は、信濃の根本資料であり鎌倉幕府下文・官宣旨・国宣・雑訴決断所牒・安堵状ほか、各種文書が含まれる貴重な武家文書である。戦前は国宝、戦後は重要文化財として指定された。 河中島五箇度合戦記より (作者不明) 第一回合戦 1、上杉謙信を頼った信州の武将 村上左衛門尉義清 信州五郡の領主村上左衛門尉義清は、清和源氏伊予守頼義の弟で、陸奥守頼清の子、白河院蔵人顕清が初めて信州に住むようになり、四代目の孫に当たる為国、その子基国の後胤。 高梨摂津守政頼 高梨摂津守政頼も、伊予守頼義の弟井上掃部(かもん)頭頼季三代の孫に当たる高梨七郎盛光の子孫。 井上河内守清政 高梨の一族。須田相模守親政も一家。 島津左京進親久 頼朝の子島津忠久の子孫。 上記の武将のほか多数の信州武将が、甲州武田信玄に敗れて、越後に落ちのび、長尾景虎(謙信)を頼って来た。中でも村上義清は、多年にわたり武田と戦っていたが、とうとう負けて、天文22年(1553)6月に越後に落ちのび、謙信の力を頼って、自分の領地坂本の城に復帰すると事が念願であった。 上杉謙信(長尾景虎) 謙信はこの年間2月初めて京都に上った。24歳の時である。これは、前の年の天文21年5月に将軍の使があって、謙信は弾正少弼従五位下(だんじようひようひつじゆごいのげ)に任ぜられた。このお礼に京都に上ったのである。謙信は京都御所に参り昇殿をゆるされ、後奈良天皇に拝謁し、天盃をいただいた心また将軍義輝公にお目見えして、種々親しいお言葉を賜り、五月に帰国したところに六月村上義清が武田晴信に追われ、謙信を頼りにした。その上高梨政頼、井上清政、須田親政、島津親久、栗田、清野などがそろって越後を頼り、助けを求めてきた。 天文21年10月12日、田浜で勢ぞろいをして信州に向かって出発した。 途中、武田側の武将の領地は焼き払い、自分の館の中に居て、刃向かいしない者の領地は処分せず、、11月1日に川中島に陣を取った。 武田晴信(信玄) 晴信も二万の兵をひきいて甲府を出陣した。同19日から両軍の間は四キロ足らずで毎日小競り合いを繰り返した。 上杉軍 27日に謙信から平賀宗助を使者にして、明日決戦をすることを申し送り、その備えを定め、夜のうちに人数を出した。 先手は長尾平八郎、安田掃部、長尾包四郎、元井日向守清光、同修理進弘景、青河十郎を左右備えた。 左の横槍は諏訪部次郎右衛門行朝、水間掃部頭利宣とし、奇兵は、長尾七郎景宗、臼杵包兵衛、田原左衛門尉盛頼。 二番手は小田切治部少輔勝貞、荒川伊豆守義遠、山本寺宮千代丸(後の庄蔵行長)、吉江松之助定俊、直江新五郎実綱と定めた。 後陣は長尾兵衛尉景盛、北条丹後守長国、斎藤八郎利朝、柿崎和泉守景家、宇佐美駿河守走行、大国修理亮などの面々を七手に分け、四十九備えとしてそれを一手のように組んで円陣を作り、28日の夜明を目処に一戦を始めた。 武田軍敗北 武田方も十四段構えに備え防戦し、敵味方ともに多くの負傷者、戦死者を出した。下米宮橋を中心として、追いつめ、押し返して、昼近くまで合戦の勝負はつかなかった。しかし、越後方は千曲川の橋から上流を乗り越え、武田勢の後方にまわったので、武田方は敗れ、横田源介、武田大坊、板垣三郎など戦死、また駿河から応援に来た朝比奈左京進、武田飛騨守、穴山相模守、半菅善四郎、栗田讃岐、染田三郎左衛門、帯兼刑部少輔など名のある人々を含んで甲州方の戦死者は五千余りにのぼった。上杉謙信は12月3日、京都公方に大館伊予守が戦の経過を注進する。これが謙信と信玄との戦いの始めである。 この頃、謙信は長尾弾正少弼と号していた。関東管領の上杉憲政は北条氏康に圧迫され、越後に内通し、管領職と上杉の姓、憲政の一字を下されたが、管領職は辞退し、謙信は景虎を改め政虎と名乗るようになった。これは天文23年(1554)春のことであった。 第二回合戦 天文23年8月初め、謙信は越後を発ち川中島に着き、丹波島に陣取った。越後留守居として、謙信の姉婿上条の城主の上条入道、山浦主水入道、山本寺伊予守、大国主水入道、黒金上野介、色部修理、片貝式部の七人にその勢力八千を残した。 上杉謙信 謙信は川中島に陣を張り、 先手は村上義清、二番手は川田対馬守、石川備後守房明、本庄弥次郎繁長、高梨源五郎頼治の四人。 後詰(ごづめ/応援)は柿崎和泉守景家、北条安芸守長朝、毛利上総介広俊、大関阿波守規益の四人である。 遊軍は、本庄美作守慶秀、斎藤下野守朝信、松川大隅守元長、中条越前守藤資、黒川備前為盛、新発田長敦、杉原壱岐守憲家、上条薩摩守、加地但馬守、鬼小島弥太郎、鬼山吉孫次郎、黒金治部、直江入道、山岸宮内、柏崎日向守、大崎筑前守高清、桃井讃岐守直近、唐崎左馬介、甘糟近江守、神藤出羽介、親光安田伯音守、長井丹後守尚光、烏山因幡守信貞、平賀志摩守頼経、飯盛摂津守、竹股筑後守春満など二十八備え、侍大将が二行に陣を張り、旗を進めた。宇佐美駿河守定行二千余、松本大学、松本内匠介千余は旗本脇備えである。 総軍の弓矢奉行をつとめるのは、謙信の姉婿に当たる上田政貴で、飯野景久、古志景信、刈和実景の4人は、みな長尾という同名で謙信の一門である。これで越後勢は合わせて八千である。犀川を越え、網島丹波島原の町に鶴翼の陣を取った。 武田軍 武田晴信も同15日に川中島を通って、海津城に入り、16日に人数を繰り出して、東向きに雁行に陣取った。先手は高坂弾正、布施大和守、落合伊勢守、小田切刑部、日向大蔵、室賀出羽介、馬場民部の七組で、七百の勢が先手に旗を立てて進んだ。 二番手には真田弾正忠幸隆、保科弾正、市川和泉守、清野常陸介の四人が二千の兵を率いて陣取る。 後詰は海野常陸介、望月石見守、栗田淡路守、矢代安芸守の四人で二千七百。遊軍は仁科上野介、須田相模守、根津山城守、井上伯音守の五人、四千の軍勢である。 これを二行立てに陣を張り、総弓矢奉行は武田左馬介信繁、小笠原若狭守長詮、板垣駿河守信澄の三人の備えとなった。 旗本の先頭は、飯富(おぶ)二郎兵衛昌景、阿止部(跡部)大炊介信春、七宮将監、大久保内膳、下島内匠、小山田主計、山本勘介、駒沢主祝の八人で、信玄の本陣の左右には、名家の侍の一条信濃守義宗と逸見山城守秀親(信玄の姉婿)が万事を取り仕切る。 その他、下山河内守、南部入道喜雲、飯尾入道浄賀、和賀尾入道、土屋伊勢、浜川入道の六人が二千の兵と陣を敷いた。 ところが日夜お互いに足軽を出して小競り合いをしたが、合戦にはならなかった。 上杉軍 天文23年8月18日の朝はやく、越後方から草刈りの者二、三十人出し、まだうす明かりの中から駆けまわる。それを見ていた甲州の先手の高坂(弾正)陣の足軽が百人ばかり出て、謙信方の草刈りを追いまわした。これは計略であったので、越後方から村上義清と高梨政頼の足軽大将である小室平九郎、安藤八郎兵衛ら二、三百人の者が夜のうちから道に潜んでいて、高坂の足軽を全部を討ち取った。これを見て、高坂弾正、落合伊勢守、布施山城守、室賀出羽介の陣から百騎あまりの者が大声を上げて上杉勢の足軽勢を追いたて、上杉方の先手の陣のそばまで押し寄せて来た。それを見計らって、義清、政頬の両方の軍兵一挙に出て、追い討ちをかけ、武田勢百騎を総て討ち取ってしまった。そのため、高坂、落合、小田切、布施、室賀などの守りが破れ、武田晴信の本陣まで退いていった。 武田軍 武田方は先手が負け、さらに追いたてられるのを見て、真田幸隆、保科弾正、清野常陸、市川和泉などが第二陣から出て、勢いで追いたてて一旦、上杉勢を追い返して、陣所の木戸口まで迫り、義清、政頼も危機を迎えた。 上杉軍 この時、二番手から越後方の川田対馬守、石川備後守、高梨源五郎の三隊、そのほか遊軍の中から、新発田尾張守その子因幡守、杉原壱岐守の五隊が二千ばかりの兵と、ときの声をあげて駆け出て、武田勢を追い散らして戦った。 そのうち、真田幸隆が傷を受けて退くところを、「上杉方の高梨頼治」と名乗って、真田にむんずと組んで押しふせ、鎧の脇のすきまを二太刀刺した。保科弾正はそれを見て、「真田を討たすな、者どもかかれ」と戦った。真田の家人細谷彦助が、高梨源五郎の草ずりの下をひざの上から打ち落した。つまり主人の仇を取った。これから保科を槍弾正と言うようになったという。保科もその時、越後方の大勢に取りこめられて、危なく見えたが、後詰の海野、望月、矢代、須田、井上、根津、河田、仁科の九人がこれを見て、保科を討たすな、と一度にときの声をあげて、追い散らした。 越後の本陣に近いところまで切りかかってきたところ、越後の後詰斎藤下野守朝信、柿崎和泉守景家、北条安芸守、毛利上総介、大関阿波守など三千あまりが切って出て追い返し、押しもどして戦った。この戦いで、敵も味方も、負傷者、戦死者を多く出し、その数は数えきれぬほどであった。 謙信は紺地に日の丸、白地に「毘」の字を書いた旗を二本立て、原の町に備えをととのえ、その合戦が続いた。そのうちに信玄は下して、犀川に太い綱を幾本も張り渡して、武田の旗本大勢がその綱にすがって向こう岸に上り、芦や雑草の茂った中の細道から、旗差物を伏せしのばせて出て、謙信の旗本にときの声を上げて、にわかに切り込んで来た。 そのため、謙信の旗本はいっぺんに敗れ、武田方は勝に乗じて追い討ちをかけて来た。 信玄は勇んで旗を進めたところに、大塚村に備えを立てていた越後方の宇佐美駿河守定行のひきいる二千ばかりの軍が、横槍に突きかかり、信玄を御幣川に追い入れた。そこに越後方の渡辺越中守が五百余騎で駆けつけ、信玄の旗本に切ってかかり、宇佐美の軍とはさみうちに討ち取った。武田勢は人も馬も川の水に流されたり、また討ち取られた者も数知れなかった。 そのうちに謙信の旗本も戻り、越後方上条弥五郎義清、長尾七郎、元井日向守、沼野掃部、小田切治部、北条丹後守などが信玄の旗本を討ち取った。その他、青川十郎、安田掃部などは御幣川に乗り込み、槍を合わせ太刀で戦い名を上げた。手柄の士も多かった。しかし討ち死にした者も数多かった。 信玄も三十ばかりの人数で川を渡って引き1げるところを、謙信は川の中に乗り込んで二太刀切りつけた。信玄も太刀を抜いて戦う時、武田の近習の侍が謙信を取り囲んだが、それを切り払った。しかし、なかなか近づけず、信玄も謙信も間が遠くへだてられた。その時、謙信に向かった武田の近習の士を十九人切った謙信の業は、とても人間の振る舞いとは思われず、ただ鬼神のようであったといわれる。謙信とはわからず、甲州方では越後の士荒川伊豆守であろうと噂されていた。後でそれが謙信とわかって、あの時討ち取るベきであったのに残念なことをした、とみなが言ったという。 信玄は御幣川を渡って、生萱山土口の方に向かい、先陣、後陣が一つになって負け戦であった。甲州勢は塩崎の方に逃れる者もあり、海津城に逃げ入った者もあった。 中条越前が兵糧などを警護していたところ、塩崎の百姓数千がそれを盗みに来たため、中条がこれを切り払った。このためまた、武田、上杉の両軍が入り乱れてさんざんに戦った。両軍に負傷者、死者が多く出た。信玄は戦に敗れて、戸口という山に退いた。上杉勢がこれを追いつめ、そこで甲州方数百を討ち取った。 信玄の弟、左馬介信繁が七十騎ばかりで、後詰の陣から来て、信玄が負傷したことを聞き、その仇を取ると言って戻って来た。その時、謙信は川の向こうにいた。左馬介は大声で、「そこに引き取り申されたのは、大将謙信と見える。自分は武田左馬介である。兄の仇ゆえ、引き返して勝負されたい」と呼びかけた。謙信は乗り戻って、「自分は謙信の家来の 甘糟近江守という者である。貴殿の敵には不足である」と言って、川岸に馬を寄せていた。 待っていた左馬介主従十一人が左右を見ると敵はただ一騎である。信繁も、「一騎で勝負をする、みな後に下っているよう」と真っ先に川に入るところを、謙信は川に馬を乗り入れ、左馬介と切り結んだ。左馬介は運が尽きて打ち落され、川に逆さまに落ち込んだ。謙信は向こうの岸に乗り上げ、宇佐美駿河守が七百余で備えている陣の中に駆け入った。一説に は武田左馬介信繁を討ち取った者は村上義清であるともいう。上杉家では、左馬介を討ち取ったのは、謙信自身であったと言い伝えている。甲州では信玄は二か所も深手を負い、信繁は討ち死にしたのである。板垣駿河守、小笠原若狭守も二か所、三か所の負傷で敗軍であった。 越後勢も旗本を切り崩されて敗軍したが、宇佐美駿河守、渡辺越中守が横槍に入り、信玄の旗本を崩したのに力を得て、甲州勢を追い返して、もとの陣に旗を立て、鶴翼の陣を張ることができた。 この時の戦は天文二十三年甲寅八月十八日。夜明けから一日中十七度の合戦があった。武田方二万六千のうち、負傷者千八百五十九人。戦死者三千二百十六人。越後方は負傷者千九百七十九人、戦死者三千百十七人であった。十七度の合戦のうち、十一度は謙信の勝、六度は信玄の勝であった。謙信は旗本を破られたが追い返して、もとの場所に陣を張ることができた。武田方は信玄が深手を負い、弟の左馬介戦死、板垣、小笠原なども負傷したため、陣を保てず、夜になって陣を解いて引き上げた。謙信も翌日陣を解き、十九日には善光寺に逗留して、負傷者を先に帰し、手柄を立て名を上げた軍兵に感状証文を出して、 二十日に善光寺を引き払い、越後に帰陣した。これが天文二十三年八月十八日の川中島合戦の次第である。 第三回合戦 弘治二年丙辰(一五五六) 三月、謙信、川中島に出陣、信玄も大軍で出向し陣を張った。日々物見の者を追いたて、草刈りを追い散らし、足軽の小競り合いがあった。 信玄のはかりごとでは、戸神山の中に信濃勢を忍び込ませて謙信の陣所の後にまわり、夜駆けにしてときの声を上げて、どっと切りかかれば、謙信は勝ち負けはともかくとして千曲川を越えて引き取るであろう。そこを川中島で待ち受けて討ち取ろうとして、保科弾正、市川和泉守、栗田淡路守、清野常陸介、海野常陸介、小田切刑部、布施大和守、川田伊賀守の十一人の、総勢六千余を戸神山の谷の際に押しまわし、信玄は二万八千の備えを立てて、先手合戦の始まるのを待った。先手十一隊は戸神山の谷際の道を通って、上杉陣の後にまわろうと急いだが、三月の二十五日の夜のことである。道は険しく、春霞は深く、 目の前もわからぬ程の闇夜で、山中に道に迷い、あちこちとさまよううちに、夜も明け方になってきた。 謙信は二十五日の夜に入って、信玄の陣中で兵糧を作る煙やかがり火が多く見られ、人馬の音の騒がしいのを知り、明朝合戦のことを察し、その夜の十時ごろに謙信はすっかり武装をととのえて八千あまりの軍兵で、千曲川を越えた。先陣は宇佐見駿河守定行、村上義清、高梨摂津守政頼、長尾越前守政景、甘糟備後守清長、金津新兵衛、色部修理、斎藤 下野守朝信、長尾遠江守藤景九組の四千五百。二番手に謙信の旗本が続いて、二十五日夜のうちに、信玄の本陣に一直線に切り込み、合戦を始めた。 信玄は思いもよらぬ油断をしていた時で、先手がどうしたかと首尾を待っていたところに越後の兵が切りかかった。 武田方の飯富兵部、内藤修理、武田刑部信賢、小笠原若狭守、一条六郎など防戦につとめた。しかし、越後方の斎藤、宇佐美、柿崎、山本寺、甘敷、色部などが一度にどっと突きかかったので、信玄の本陣は破れ、敗軍となった。その時板垣駿河守、飯富、一条など強者ぞろいが百騎ばかり引き返して、高梨政頼、長尾遠江守、直江大和守などの陣を追い 散らし、逃げるを追って進んで来るところを、村上義清、色部、柿崎などが、横から突きかかって板垣、一条などを追い討ちにした。小笠原若狭守、武田左衛門、穴山伊豆守など三百騎が、「味方を討たすな、者どもかかれ」 と大声で駆け入って来た。 越後方でも杉原壱岐守、片貝式部、中条越前、宇佐美、斎藤などが左右からこの武田勢を包囲して、大声で叫んで切りたてた。この乱戦で信玄方の大将分、板垣駿河守、小笠原若狭、一条など戦死、足軽大将の山本勘介、初鹿野源五郎、諸角豊後守も討ち死にした。 二十五日の夜四時ごろから翌二十六日の明け方まで、押し返し、押し戻し、三度の合戦で信玄は負けて敗軍となり、十二の備えも追いたてられ討たれた者は数知れなかった。 謙信が勝利を得られたところに、戸神山よりまわった武田の先手十一組、六千余が、川中島の鉄砲の音を聞き、謙信に出し抜かれたかと我先に千曲川を越え、ひとかたまりになって押し寄せた。信玄はこれに力を得て引き返し、越後勢をはさみうちに前後から攻め込んだ。前後に敵を受けた越後勢は、総敗軍と見えたが、新発田尾張守、本庄弥次郎が三百 余で、高坂弾正の守る本陣めがけて一直線に討ちかかり、四方に追い散らし、切り崩した。 上杉勢は一手になって犀川をめざして退いた。 武田勢は、これを見て、「越後の総軍が、この川を渡るところを逃さず討ち取れ」と命じ、われもわれもと甲州勢は追いかけて来た。上杉勢は、退くふりをして、車返しという法で、先手から、くるりと引きめぐらし、一度に引き返し、甲州勢の保科、川田、布施、小田切の軍を中に取りこめて、一人残らず討ち取ろうと攻めたてた。 信玄方の大将、河田伊賀、布施大和守を討ち取り、残りも大体討ち尽くすころ、後詰の栗田淡路、清野常陸介、根津山城守などが横から突いて出て、保科、小田切の軍を助けだした。越後の諸軍は先手を先頭にして隊をととのえて、静かに引きまとめ犀川を渡ろうとした。そこへ、信玄の先手、飯富三郎兵衛、内藤修理、七宮将監、跡部大炊、下島内匠、小山田主計などが追って来た。本庄美作、柿崎和泉、唐崎孫之丞、柏崎弥七郎などが、引き返して戦っているところに、新発田尾張守、斎藤下野守、本庄弥次郎、黒川備前守、中条越前守、竹股筑後守、その子右衛門など八百あまりが柳原の木陰からまわって来て、それぞれに名乗り、何某ここにあり、そこをひくなと大声で叫び、一文字に突いてかかった。 そのため甲州勢はもとの陣をさして退いた。越後勢は勝って、その足で川を越え、向こうの岸に上がった。甲州勢はなおも追いかけようとひしめいたが、越後方の宇佐美駿河守が千あまりで市川の渡り口に旗を立て、一戦を待つ様子に恐れ、その上、甲州方は夜前から難所を歩きまわり、疲れているのに休む間もなく四度も合戦になったため、力も精も尽き 果てて、重ねて戦うだけの気力をなくした。 甲州本陣にいた軍兵が代わりに追討軍を組もうとしたのを信玄は厳しく止めたので、一人も追っ手は来なかった。越後勢はゆっくり川を越して、はじめの陣所に引き上げた。 この日の合戦は夜明けの前に三度、夜が明けてから四度、合わせて七度の戦いで、越後方戦死三百六十五人、負傷者千二十四人。甲州方の戦死者は四百九十一人、負傷者千二百七十一人と記した。中でも、大将分小笠原若狭守、板垣駿河守、一条六郎、諸角豊後、初鹿野源五郎、山本勘介をはじめ、信玄の士の有名な人びとが討ち死にしたので翌二十七日に信玄は引き上げた。謙信も手負いの者、死人など片づけ、軍をまとめて引き上げた。弘治二年三月二十五日の夜から、二十六日まで、川中島の第三度の合戦であった。 第四回合戦 弘治二年八月二十三日、謙信は川中島に出て、先年の陣所より進んで川を越えて、鶴翼に陣を張った。両度の陣と同じ陣形である。村上義清、高梨政頼を中心として、丸い月の形に十二行の陣立てである。信玄は二万五千の兵で出陣した。 今度の越後の陣取りは、長期戦とみえて、薪を山のように積んでおいたと、甲州の見張りの者が報告するのを、聞いて信玄は、「一日二日の間に、越後の陣に夜中に火事があるだろう。その時、一人でも進んで出て行く者があったら、その子孫までも罰するだろう」 と下知した。 すると、二十三日の晩方、越後の陣所より荷物を積んだ馬や、荷を持った人夫が出て、諸軍旗を立てて陣を解き、引き上げるようにみえた。甲州方の軍兵が、謙信が引き上げるのを逃さず追い討ちにしようとした。信玄は一の木戸の高みに上ってその様子をながめて、「謙信ほどの大将が、日暮れになって陣を払って退くようなことがあるはずがない。これを追ってゆけば必ず失敗である。一人も出てはならぬ」 と止められた。思ったとおり、その夜二時ごろ、越後の陣から火事があり、たいへんな騒ぎとなった。だが、信玄が厳しく命令して一人も出なかった。間もなく夜が明けて、越後の陣地を見渡すと、通り道をあけて、きちんと武装した武士が、槍、長刀を持って、六千ばかりが二行に進んで、敵が近寄るのを待ち受けていた。朝霧が晴れるにしたがって見わたすと、二行になった備えの左側の先手は長尾政貴、右側は宇佐美駿河守走行、松本大学、中条越前を頭として十備え、杉原壱岐守、山本寺伊予守、鬼小島弥太郎、安田伯者守などを頭として十二備えが続いている。 中筋は、紺地に日の丸の大旗、「毘」の字を書いた旗の下に、謙信が床凡に腰をかけて、一万あまりの軍勢がそれを取り囲み、敵を待ち受けていた。甲州勢はこれを見て、ここに攻め込めば一人として生きては帰れまい。この備えのあることを見破った信玄の智は計り知れない、ただ名将というだけでなく、鬼神の生まれ代わりともいうべきものだと、みな感じ入ったという。 その翌日、信玄は戦いの手立てを考えて言った。「夜中に甲州方一万の人数を山の木の陰にひそかに隠し、馬をつないである綱を切り越後の陣に放してやる、そして馬を追って人を出す。敵陣から足軽がこの放した馬に目をつけて必ず出て来るだろう。その時、足軽を討ち取るように見せかけて、侍百騎を出して越後の足軽を追いたてれば、謙信は、気性の強い武士であるから、百騎の勢を全滅しようと出て来るだろう。その時、足並みを乱して敗軍のようにして谷に引き入れ、後陣を突ききり、高いところから、矢先をそろえ、鉄砲を並べて、「目の下の敵を撃て」 と命じた。 そこで、馬二、三頭の綱を切って越後の陣に追い放し、足軽五、六十人が出て、あちこちと馬を追い、かけ声をかけたが、越後の陣では、これを笑って取り合わず、一人も出なかった。 信玄はこれを見て、「謙信は名将である。このはかりごとに乗らない武士である」と言い「しかし、大河を越えて陣を張るのは不思議である。信州の中に謙信に内通している者がいるようだ。大事にならぬうちに引き上げることにしよう」 と内談して、信玄は夜中に陣を引き払い、上田が原まで引き上げた。謙信は総軍で信玄と一戦、朝六時ごろから、午後二時すぎまでに五度の合戦があり、初めは武田が負け退いたが、新手が駆けつけて激しく戦い、越後勢は押したてられた。長尾越前守政景、斎藤下野守朝信などが盛り返し、下平弥七郎、大橋弥次郎、宮島三河守などが槍を振るって、武田勢を突き崩した。また、上杉方の雨雲治部左衛門が横合いに突きかかり、道筋を突き崩した。宇佐美駿河守走行は手勢で、山の方から信玄の陣に切ってかかったため、甲州方はついに敗北した。翌日信玄は引き上げ、謙信も戻った。この戦いで、甲州方千十三人の死者、越後方八百九十七人の戦死者であった。 第五回合戦 永禄二年 (一五五九) 四月、謙信は京都に上り、参内、公方義輝公に拝謁した。輝虎の名をいただき、網代の塗輿、御紋をゆるされ、文の裏書きまでゆるされて帰国された。管領職は辞退し、朱塗りの柄の傘、屋形の号もゆるされ、三管領に準ずるようになった。その後永禄五年には管領職についた。 永禄三年九月から、謙信は関東に出陣、上州(群馬県)平井、厩橋(前橋)、名和、沼田などの諸城を攻め落し、その年は前橋で越年した。 永禄四年春、謙信は小田原に向かう途中、正月、古河の城に足利義氏を攻めた。三月に小田原に向かう。この時初めて上杉氏を名乗ることになった。 同八月、謙信は川中島へ向かい、西条山に陣を取り、下米宮街道と海津の城の通路を断ち、西条山の後から赤坂山の下に出る水の流れをせき止め、堀のようにし、西条山を攻めた。 八月二十六日、信玄は川中島に着き、下米宮に陣を取り、西条山の下まで陣を取ったため、越後方は前後に敵を受けた。謙信は夜戦のつもりでいろいろ手段を尽くされた。二十九日、信玄は下米宮から海津城に入った。九月九日の夜、武田総軍をまとめて、ひそかに海津城を出て、千曲川を越えて、川中島に陣を備えた。越後方の夜の見張りの者がこれを見つけて告げてきたため、謙信は、直江大和守実綱、宇佐美駿河守定行、斎藤下野守朝信と相談して、その夜の十二時、謙信も人数をつれて、そっと川中島に出た。西条山の下には村上義清、高梨摂津守、そのほか、井上兵庫介清政、島津左京入道月下斎の五隊を残しておき、川中島には、本庄越前守繁長、新発田尾張守長敦、色部修理亮長実、鮎川摂津守、下条薩摩守、大川駿河守のひきいる五千余を、千曲川の端に備えを立て、海津の城から新手の武田勢が横槍を入れるのを防ぐためである。謙信の備えは、左の先手は柿崎和泉守、右の先手は斎藤下野守朝長と長尾政景があたり、二の手は北条丹後守長国、右の備えは本庄越前守慶秀、左の脇備えは長尾遠江守藤景、右の脇備えは山吉孫次郎親章を配置した。中心は謙信の旗本、後備えは中条梅披斎であった。遊軍には、宇佐美駿河守走行、唐崎孫次郎吉俊、鉄孫太郎安清、大貫五郎兵衛時泰、柏崎弥七郎時貴の五組で、宇佐美の指揮の下に属した。直江大和守実綱が川を下ってひかえ、武田方から出た物見の者十七人を待ち 受けて一人残らずみな討ち取った。越後勢が川を渡って、川中島に出たのを武田方は知らず、そのあと出た物見も、越後勢が意外な場所に陣を備えたので見つけなかった。そして、信玄方はただ西条山の方ばかりに目をつけていたため、千曲川のそばに、本庄、新発田、色部などの二千がひかえているのを、夜中のことで人数を確かめることもできず、多勢と 見て、これが謙信の先手と思ったという。それも明け方になって見つけたので、初めのうちは越後勢が川を越えたのに気づかなかった。 翌十日朝、まだ夜が明けぬうちに、謙信方から貝を吹き、太鼓を打って、武田の陣に攻めかけた。武田勢は思いがけない方向から攻められ驚いたようだった。謙信の旗本が紺地に日の丸、それに 「毘」 の字を書いた大旗二本を立て、ちかぢかに押しかけたのを見て、備えを立て直す間もなく戦いかねるようだったが、武道第一の武田侍であるから、弓を射、 鉄砲を撃ちかけ、越後の先手柿崎和泉守の軍は、信玄の先手の飯富三郎兵衛に突きたてられ、千曲川の方に下ったのを見て、色部修理長実は、かねて待ち受けていたところなので、旗から槍を入れ、飯富の備えを突き返した。斎藤下野守朝信は、武田方の内藤修理、今福浄閑の軍を追いたてて進んだ。長尾政景、本庄美濃守慶秀、長尾遠江守藤景、山吉孫次郎、北条丹後守の五軍が先を争って、大声を上げて信玄方を切り散らした。謙信は八年前に信玄と太刀打ちをして討ちもらしたのが、口惜しく、この度は信玄をぜひ討ちたいと心がけ、旗本の人数で、信玄の旗本にかかり追い崩した。武田の十二段の備えがみな敗北し、千曲川の広瀬のあたりまで、追い討ちをかけ、戦死者、負傷者は数えきれない。信玄は犀川の方に退くのを、越後勢が追いかけた。その時、後から武田太郎義信が二千ばかりで謙信のあとを追ってきた。それで越後方の後備えの中条梅披斎の軍が引き返して、義信方に防戦した。しかし旗色が悪く見えたところに、遊軍の宇佐美駿河守が助けに来て、中条と一手になって、武田義信軍を追い返し、勝利を得て、数十人を討ち取った。あとで戦が始まったのを謙信が聞いて、不安に思って引き返して義信を防ごうとしたが、義信は宇佐美を斬り尽くして退いたのを、直江大和守、甘糟近江守、安田治部丞の三軍が義信の軍を倉晶まで追い討ちにした。謙信の総軍は、前後の敵を切り崩して、川中島の原の町に休み、腰の兵糧などを取ろうと油断した時、どこに隠れていたのか、義信が八百ばかりの兵と旗差物 して、越後軍に急に攻め込み、謙信の日の丸の旗印のところに目がけて攻めかかって来た。越後方は今朝早くからの合戦に疲れ、ことに油断していたところで、少し先手で防いだが、備えもうまくゆかず、多くは馬に乗り遅れ、敗軍となった。越後勢の戦死多数で、志田源四郎義時もここで戦死した。謙信は家の重宝である五挺槍というものの中から、第三番目の鍔槍という槍で、自身で手を下して戦った。後には波平行安の長刀でさんざん戦ったところに、海津口を守っていた六軍のうちの本庄越前守、大川駿河守が駆けつけ、義信を追い返した。この時、繁長自身は太刀打ち、大川駿河は戦死した。長尾遠江守藤景と宇佐美駿河守は応援に入り、義信を突き崩した。これで戦はひとまずおさまった。 謙信は犀川を後ろにその夜は陣を取ったが、山吉孫次郎は、「今夜海津の城の敵が気がかりである。犀川を渡り、軍を取りまとめられては」と諌めたが、謙信は従わなかった。十一日の朝、謙信は下米宮の渡し口に備えを立て、直江大和守実綱、甘糟近江守景持、宇佐美駿河守走行、堀尾隼人などと、西条山の陣小屋を焼き払った。そのあと、謙信は善光寺 に三日滞在して、長沼まで入り、ここに二、三日逗留して越後に帰陣した。 はじめ、謙信が出張して、西条山に陣を取り、八月二十六日、信玄が下米宮の渡しに着いた。九月十日の川中島の大合戦のあるまでに、小競り合いは八度あったが、少しのことであるから書きつけなかった。 先年から五度の合戦。天文二十二年十一月から永禄七年まで十二年で、毎年謙信は川中島に出て信玄と対陣したため、稲刈りなどの季節に、三百、五百と出会い、討ったり討たれたりのことは数十度になった。けれども信玄は謙信の勇才をはばかり、謙信は信玄の智謀を恐れて、互いに思慮をめぐらし、はかりごとを工夫し、いろいろと手段を尽くしたが、いずれも負けず劣らずの名将であったために、決着はつかなかった。 永禄七年七月に、信濃口の押さえとなる野尻城にいた宇佐美駿河守走行が自害し、長尾政景も死去したので、信濃境を取り締まるため、謙信自身で出かけ、川中島に至った。信玄も出馬して十日ばかり対陣したが、いつもの例で、日々小競り合いばかりで勝負はない。 武田家の一門家老が信玄に意見を言った。「川中島上郡下郡の四郡を争って、十二年の間毎年合戦がやむことなく、両虎の勢いで勝負がつかず、士卒の疲れは言葉では言い尽くせぬくらいです。海津城についている領分はこちらに、川中島の四郡は越後にやられてはどうでしょう。駿河表、関東方面、美濃口などに出られ手広くなられたのですから、川中島の四郡にかかわって、剛強な謙信と取り合いをしていてむなしく年月を送られるのはいかがなものか」 と諌めた。 八月十五日の朝、信玄が言うには、互いの運だめLとして、安馬彦六を選び、組討ちをさせ、その勝負を見て川中島をどちらかの土地にしようと、彦六を使いとして謙信に申し入れがあった。彦六は上杉の陣の一の木戸口に行き、謙信方からは直江山城が出向いた。彦六は馬から降りて、「信玄が申されるには、天文二十三年から十二年の間、夜昼戦っても 勝負がつかぬ。明日は互いに勇士を出し組討ちをし、その勝利次第で川中島を治め、このあと謙信も信玄も弓矢を取ることをやめたい。それで安馬彦六が明日の組討ちの役を申しつけられ、これまで参った。器量人を出され、明日組討ちをいたすようにと信玄の言葉である」 と申し入れた。 直江山城守の取り次ぎで謙信は返事をされて、「信玄の仰せはもっともである。こちらからも人を出し、明日十二時に組討ちをいたす」 とのことである。 永禄七年八月十六日、正午、信玄方から彦六ただ一騎、鎧をさわやかにつけて白月毛の馬に乗って、謙信の陣に向かった。越後方の陣からは小男の鎧武者が一騎、小さな馬に乗っていた。九月十日の川中島の大合戦のあるまでに、小競り合いは八度あったが、少しのことであるから書きつけなかった。 先年から五度の合戦。天文二十二年十一月から永禄七年まで十二年で、毎年謙信は川中島に出て信玄と対陣したため、稲刈りなどの季節に、三百、五百と出会い、討ったり討たれたりのことは数十度になった。けれども信玄は謙信の勇才をはばかり、謙信は信玄の智謀を恐れて、互いに思慮をめぐらし、はかりごとを工夫し、いろいろと手段を尽くしたが、 いずれも負けず劣らずの名将であったために、決着はつかなかった。 永禄七年七月に、信濃口の押さえとなる野尻城にいた宇佐美駿河守定行が自害し、長尾政景も死去したので、信濃境を取り締まるため、謙信自身で出かけ、川中島に至った。信玄も出馬して十日ばかり対陣したが、いつもの例で、日々小競り合いばかりで勝負はない。 武田家の一門家老が信玄に意見を言った。「川中島上郡下郡の四郡を争って、十二年の間毎年合戦がやむことなく、両虎の勢いで勝負がつかず、士卒の疲れは言葉では言い尽くせぬくらいです。海津城についている領分はこちらに、川中島の四郡は越後にやられてはどうでしょう。駿河表、関東方面、美濃口などに出られ手広くなられたのですから、川中島の四郡にかかわって、剛強な謙信と取り合いをしていてむなしく年月を送られるのはいかがなものか」 と諌めた。 八月十五日の朝、信玄が言うには、互いの運だめLとして、安馬彦六を選び、組討ちをさせ、その勝負を見て川中島をどちらかの土地にしようと、彦六を使いとして謙信に申し入れがあった。彦六は上杉の陣の一の木戸口に行き、謙信方からは直江山城が出向いた。彦六は馬から降りて、「信玄が申されるには、天文二十三年から十二年の間、夜昼戦っても 勝負がつかぬ。明日は互いに勇士を出し組討ちをし、その勝利次第で川中島を治め、このあと謙信も信玄も弓矢を取ることをやめたい。それで安馬彦六が明日の組討ちの役を申しつけられ、これまで参った。器量人を出され、明日組討ちをいたすようにと信玄の言葉である」 と申し入れた。 直江山城守の取り次ぎで謙信は返事をされて、「信玄の仰せはもっともである。こちらからも人を出し、明日十二時に組討ちをいたす」 とのことである。 永禄七年八月十六日、正午、信玄方から彦六ただ一騎、鎧をさわやかにつけて白月毛の馬に乗って、謙信の陣に向かった。越後方の陣からは小男の鎧武者が一騎、小さな馬に乗って出向き、馬上で大声で、「ここに出た者は、謙信の家老斎藤下野守朝信の家来で長谷川与五左衛門基連と申す者、小兵ながら彦六と晴れの組討ちをご覧に入れる。いずれが勝つとも、加勢、助太刀は、永く弓矢の恥である」と言い、彦六と馬を乗りちがえ、むずと組み、両馬の間に落ち重なり、彦六が上になり長谷川を組み敷いた。甲州方が声を上げて喜ぶ時、組みほぐれて、長谷川は安馬を組みふせ上になり、彦六の首を取って立ち上がり高く差し上げて、「これをご覧下され。長谷川与五左衛門組討ちの勝利はこのとおり」と叫ん だ。越後方は思わず長谷川うまくやったと一同感じどよめいた。甲州方は無念に思って、木戸を開けて千騎ばかりが討って出ようとしたのを、信玄は、「鬼神のような彦六が、あの小男にたやすく組み取られたことは味方の不運である。かねて組討ちの勝利次第と約束した上は、川中島は越後に渡すことにする。約束を破ることは侍として永く不名誉なことである。四郡は謙信のものと今日から定めよう」と言って翌日引き上げられた。これから四郡は越後の領となった。長谷川の手柄の印である。そして村上義清、高梨政頬は、川中島に戻り、その志を遂げた。これから、武田と上杉の争いはなくなった。 このことは、信玄の家来、須崎五平治、堀内権之進が書きとめておいた。この両人は、あとで浪人して越後に来て、上杉家に仕えている。それでよく調べて書いたものである。 この一冊は須崎、堀内の書いておいたものと、信玄の子孫にあたる武田主馬信虎の家伝の書と、村上義清の子源五郎国清の書いたものを参考にして、よく調べて書き記したものである。 慶長十年三月十三日 上杉内 清野 助次郎 井上 隼人正 『河中島五箇度合戦記』 右の一冊は当家の者が書き残したものである。この度のおたずねについて、それを写して差し上げる。 寛文九年五月七日 うたのかみ 右の書は、先年弘文院春斎に仰せつけられ、日本通鑑に選ばれた。酒井雅楽頭忠清に上杉家から差し上げられた一冊である。 市河文書目録 「信濃史料所載 市河文書」 市河文書目録 引用「信濃」 「信濃史料」 年 月 日 1 平家某下文 嘉応 2 1170 2 7 2 木曾義仲安堵下文 治承 4 1180 12 3 阿野全成安堵下文 寿永 2 1183 12 7 4 阿野全成安堵下文 寿永 3 1184 3 6 5 ? 北條義時袖判藤原兼佐奉書 (承久) 3 1221 6 6 6 鎌倉幕府下文 建久 3 1192 12 10 7 北條時政安堵下文 建仁 3 1203 9 4 8 北條時政安堵下文 建仁 3 1203 9 23 9 北條時政下知状 建仁 4 1204 2 21 10 北條時政下知状 元久 1 1204 3 19 11 姓名不詳書状 12 北條泰時下知状 貞応 3 1224 11 11 13 北條泰時書状 元仁 1 1224 11 13 14 北條重時書状 (元仁) 2 1225 9 9 15 北條重時副下文 嘉禄 1 1225 9 9 16 北條重時下知状 嘉禄 1 1225 9 16 17 北條重時下知状 寛喜 1 1229 12 13 18 左衛門少尉兼政請文 年不詳 19 沙禰妙蓮譲状 建長 1 1249 12 15 20 鎌倉碁府下文 建長 4 1252 12 26 21 鎌倉幕府下文 建長 4 1252 12 28 22 鎌倉幕府下文 建長 6 1254 12 12 23 鎌倉幕府下知状 文永 2 1265 閏4 18 24 藤原仲能訴状 不詳 25 鎌倉幕府下文 文永 2 1265 5 25 26 尼寂阿譲状 文永 9 1272 8 18 27 鎌倉幕府下文 文永 11 1274 2 20 28 鎌倉幕府執権奉書 文永 11 1274 6 15 29 鎌倉幕府下知欺 弘安 1 1278 9 7 30 鎌倉幕府下知状 正応 3 1290 11 17 31 中野仲能訴状 不詳 32 鎌倉幕府下知状 正安 2 1300 3 3 33 鎌倉幕府下知厭 正安 2 1300 11 8 34 鎌倉幕府下知欺 正安 4 1302 12 1 35 信濃国応宜 延慶 2 1309 4 36 初任正検田在家目録注進 延慶 2 1309 卯 37 市河盛房置文 元享 1 1321 10 24 38 市河盛房譲状 元享 1 1321 10 24 39 市河盛房譲状 元享 1 1321 10 24 40 信濃国雑掌則能申状 元享 4 1324 9 41 駿河守某奉書 嘉暦 2 1327 10 8 42 尼せんこう譲状 嘉暦 4 1329 6 23 43 中野家平着到状 元弘 3 1233 5 8 44 中野家平著到状 元弘 3 1233 5 14 45 市河経助着到状 元弘 3 1233 6 7 46 市河助房代着到状 元弘 3 1233 6 7 47 市河助房兄弟代着到状 元弘 3 1233 6 29 48 左弁官下文 元弘 3 1233 7 25 49 国宣 元弘 3 1233 8 3 50 市河助房申状 元弘 3 1233 10 51 国宣 元弘 3 1233 11 5 52 鎌倉幕府下知状 正慶 1 1332 12 23 53 鎌倉幕府下知状 正慶 1 1332 12 27 54 雑訴決断所牒 建武 1 1334 6 16 55 市河助房等代着到状 建武 1 1334 6 25 56 市河助虜等着到状 建武 1 1334 8 57 平長胤奉書 建武 2 1335 2 5 58 市河助房等着到状 建武 2 1335 3 59 市河助鼻等着到状 建武 2 1335 3 60 市河助房等着到状 建武 2 1335 5 16 61 市河助房兄弟代著到状 建武 2 1335 5 16 62 市河助房等着到状 建武 2 1335 6 63 市河助房等着到欺 建武 2 1335 7 64 市河親宗軍忠状 建武 2 1335 8 65 雑訴決断所牒 建武 2 1335 8 14 66 市河経助軍忠状 建武 2 1335 9 22 67 市河倫房父子軍忠状 建武 2 1335 10 68 市河近宗着到状 建武 2 1335 11 28 69 市河助房代軍忠状 建武 3 1336 1 17 70 市河経助軍忠状 建武 3 1336 1 17 71 市河経助等軍忠状 建武 3 1336 1 18 72 市河経助代著到状 建武 3 1336 2 21 73 市河経助軍忠状 建武 3 1336 2 23 74 市河経助軍忠状 建武 3 1336 2 23 75 市河経助軍忠状 建武 3 1336 2 23 76 市河経助軍忠状 建武 3 1336 6 29 77 市河経助等軍忠状 建武 3 1336 6 29 78 市河経助軍忠状 建武 3 1336 11 79 市河親宗軍忠状 建武 3 1336 11 3 80 市河親宗軍忠状 建武 3 1336 11 81 市河親宗軍忠状 建武 3 1336 11 82 市河親宗軍忠状 建武 3 1336 11 83 足利直義感状 建武 3 1336 12 29 84 市河経助着到状 建武 3 1336 12 85 市河親宗着到状 建武 3 1336 12 86 市河経助軍忠状 建武 4 1337 3 87 市河経助軍忠状 建武 4 1337 3 88 市河親宗軍忠状 建武 4 1337 3 89 市河親宗軍忠状 建武 4 1337 3 90 市河助房代軍忠状 建武 4 1337 3 91 市河助房代軍忠状 建武 4 1337 3 92 市河助房代軍忠状 建武 4 1337 4 93 中野定信代軍忠状 建武 4 1337 9 94 市河倫房軍忠状 暦応 3 1341 8 95 市河倫房軍忠状 歴応 4 1342 3 21 96 昌源譲状 康永 2 1343 3 22 97 昌源譲状 康永 2 1343 5 26 98 市河倫房軍忠状 康永 2 1343 12 99 尾張左衛門佐奉書 貞和 3 1347 4 21 100 市河経助軍忠状 観応 2 1351 3 101 市河松王丸代軍忠状 観応 2 1351 3 102 右馬頭某奉書 観応 2 1351 6 2 103 市河経高軍忠状 正平 11 1356 10 104 市河脛高軍忠状 正平 11 1356 12 105 兵庫助兵粮料所預ケ状 延文 5 1360 6 27 106 関東管領感状 応安 1 1368 閏6 23 107 市河頼房等代軍忠状 応安 1 1368 9 108 細川某兵粮料所預ヶ状 応安 3 1370 4 3 109 初任正検田在家目録注進 応安 6 1373 6 110 上杉朝房安堵状 永和 1 1375 10 16 111 上杉朝房安堵状 永和 1 1375 10 26 112 斯波義種安堵状 市河甲斐守殿 至徳 2 1386 2 12 113 斯波義種下知状 市河庶子一族中 至徳 2 1386 7 18 114 二宮氏康奉書状 市河殿 至徳 3 1387 7 1 115 斯波義種書状 至徳 4 1388 8 12 116 斯波義将奉書 至徳 4 1388 6 9 117 二宮種氏所領預ケ状 至徳 4 1388 6 12 118 斯波義種感状 至徳 4 1388 6 25 119 市河甲斐守頼房軍忠状 至徳 4 1388 9 120 ● 斯波義将感状 流失した市河文書 一かわかいのかみとのへ 二宮氏康書状 至徳 至徳 4 3 13871388 9 7 15 5 121 二宮式部丞料所預ケ状 嘉慶 2 1388 12 17 122 二宮式部丞料所預ケ状 嘉慶 2 1389 8 19 123 宮方某所領契約状 <元中14年無 9年迄> 元中 応永 14 2 1395 124 二宮是随奉書 応永 4 1397 7 2 125 中野頗東軍忠状 応永 6 1399 12 27 126 市河興仙軍息状 応永 7 1400 4 1 127 小笠原長秀所領宛行状 応永 7 1400 5 27 128 小笠頼長秀安堵状 応永 7 1400 6 2 129 小笠原長秀下知胱 応永 7 1400 6 3 130 小笠原長秀下知状 応永 7 1400 6 3 131 小笠原古米入道渡状 応永 7 1400 6 3 132 小笠原古米入道打渡状 応永 7 1400 6 3 133 赤澤対馬守打渡状 応永 7 1400 6 14 134 将軍義満感状 応永 7 1400 10 5 135 小笠原長秀安堵状 応永 7 1400 10 29 136 市河興仙軍忠状 応永 7 1400 11 15 137 小笠原長秀感状 不詳 11 3 138 斯波義将安堵状 応永 8 1401 6 25 139 斯波義将下知状 応永 8 1401 6 25 140 畠山道端奉書 応永 9 1402 9 15 141 細川慈忠安堵状 応永 9 1402 9 17 142 伊勢道券打渡状 応永 9 1402 9 18 143 将軍義満安堵状 応永 10 1403 7 2 144 細川慈忠安堵状 応永 11 1403 11 20 145 市河性幸代軍忠状 応永 11 1403 11 146 眞晃契約状 応永 14 1407 6 23 147 細川道観感状 応永 22 1415 7 19 148 畠山道端奉普 応永 30 1423 7 10 149 細川慈忠書状 応永 7 26 150 武田家朱印 永禄 12 1569 10 12 ● 沙弥 市河新次郎殿 応永 信濃 30 1423 7 10 ● 斯波義種書状 市河甲斐守殿 至徳 信濃 3 1386 8 12 市河文書別編 武田信玄書状 市川孫三郎殿 (弘治) 2 1556 7 19 武田信玄書状 市川籐若殿 (弘治) 3 1557 6 16 武田信玄書状 市河籐若殿 (弘治) 3 1557 6 23 武田信玄朱印状 市川新六郎殿(信房) 永禄 10 1567 6 16 武田信玄朱印状 市川新六郎殿(信房) 永禄 11 1568 11 17 武田信玄朱印状 市川新六郎殿(信房) 永禄 12 1569 10 12 武田信玄朱印状 市河新六郎殿(信房) 天正 7 1579 2 25 武田信玄朱印状 市川治部少輔殿(信房) 天正 9 1581 1 9 武田信玄朱印状 市川新六郎殿(信房) 天正 10 1582 3 7 <現在編集中> <引用資料 信濃 信濃史料 山梨県史> ()内は文書では編者の推定 ()同様 武田信玄朱印状 市川治部少輔殿(信房) 天正 10 1582 4 14 武田信玄朱印状 市川治部少輔殿(信房) 天正 10 1582 6 20 市川治部少輔(信房か)書状 直江山城守殿 天正 11 1583 4 14 直江山城守 市河長寿丸殿 不詳 市川文書の仝撮影 カビネ版で二百数十枚 「信濃」第十一号 出羽の大富豪本間家所蔵 酔古生著 出羽酒田の富豪である本間家に市川史書の所威されて居る事を発見されてから殆んど満二ヶ年になる。丁度その当時は、同家の代換りの時で、新戸主の公正氏は、学生々活から一躍大世帯の主人になった事とで、自分の家ながら、一向に様子が判らず、その上彼家の内規として、主人以外には絶対に出入を禁じられて居る土蔵が、二棟存在し、文書類其他の重宝ものなどは、概ね其中にあり、そこへ新主人公の不案内と来て居たから始末が悪い。鈴木知事から依頼状まで出して貰い、寓眞乾板も三十ダースも持参に及んだのだけれど、其俵退却の余儀なきに至った次第であった。 昨年も亦、米澤へ出張の帰る道すがら立寄った。その時も亦未発見とあって、すごすご退却。更にニケ年間に手紙で問合せした事は何十回。或は故伊佐早先生の令嗣、信氏を煩はした事もあった。返答は当主公正氏からも数回、分家の本間氏からも、該家細管の圃書館長白崎光弥氏からも、その時々に来て居るので、何れも少し待ってくれとの事だから、怒るにも怒れない。 本年になっても亦数回の伺いを立てたのであったが、最終の八月初めの手紙の返事が、月の十三日に到着した。それが、思はずも吉報であったのである。 山形県史料の殆んど最終の探訪ともいうべき出張に兼ねて、本間家にはまだ外にも伊佐早史料がある等だから、それの探訪をも兼ねて、米澤から酒田へと同来したのは、九月十一日。早速、あこがれの市河文書といふものを正確を見せてもらうことになった。省みれば、其一部分を米澤の伊佐早先生の机下で拝ませてもらった時から、二十年後を過ぎて居る。あるは、あるは、藍色の紙の琴訂をした巻ものが、三十巻もあるのである。 文書の教が百四十七通、下高井郡中野小峯校で印刷したパンフレット式市河文書は、信濃史料叢書かたとったものであるが、あれよりは三通少ないのである。維新後、市河家の保存された時は、もつと沢山あつたに相違ない事は、伊佐早先生の常に語られたところであり、且また應永三十年前が、首四十六通であって、此間百四十年を飛んで永禄十二年のものが一通、寄生虫のようについて居るも不審、実は戦国期のものはまだ出ない史料も、四五点散在して居り、文章だけ判って居る史料も少なくない。平安朝からのものを保存した程の家柄だもの、戦国期のものが存在せぬ筈はない。此鮎か考へても、應永末年から永聴十二年迄の百四十余年間のものは、少なくとも二十通や三十通は存在したるべく.現に越後高田の謙信文庫には、應永より前の至徳三年の市河文連が一通現存するのである。かような語だから、現在此文書から紛失して居る部分は、恐らく、一半以上であろうと思う事を禁じ得ぬ。詳細は、該写真に附録として貼附する証明書に書くつもり、そして、公開する積りであるから、その時を期して貰う事とし、云はば、現存の市河文書といふものは、應永以前のものであるといふ事が、最も特色の一つであるというべきであろう。 一口に應永といっても、五百三十年の昔である。その前の文書が、百四余通もあり、殊に鎌倉前のものもあり、義仲もあり、頼朝の弟阿野全成のものもあり、北條氏などは、時政以後、殆んど歴代の花押を有して居訳であるから、諸家文書中でも珍とするのは当然である。殊にその諸家中でも、市河家といふものは、大名でなくて、徹頭徹尾、信濃国境の小名であったといふことが、珍中の珍といふ澤にもなる。 何となれば、その結果としての文書も亦、徹頭徹尾、郷土的であるからである。そして、その上に、中央舞台の上に役立って居る事の如何に多きかは、苛も大日本史料を見た者の百も承知の事であろう。 又前記三通の不足については、中野学校印刷の市河文書その前に本間家へ送って置いたから、私より十日程前に偶然該文書を一見した帝大の伊木寿一氏(史料編纂官〕一行も、中野校本杖として研究した際に発見し、帝大と本間家との貸借時代の返却洩れではないかとの疑問も.発生し、其疑問を留保されてあったが、併し、私の所有する故伊佐早先生の古文書目録は、直ちにこれを他の中に発見したのである。 即ち、其三通は、 一、應永七年十月五日 足利義満の感状 二、同年四月二十九日 小笠原長秀安堵状 三、(應永中)七月二十六日 細川慈忠書状 であって、前二文書は、大塔合戦に市河氏が小笠原氏の部下として血戦した時の関係書類であるのであるが、勿論此三文書も市河文書中にあったに相違ないけれど、維新後逸散の後、拾はれた時に、別々であった為に、伊先生の分類中に於いても、微古墨宝といふ乾坤二冊ある中の乾の方に牧蒐されて居たのであって、それだから、今現在の市河文書中には、補遺されて居なかったのである。といふ様な事は、調べてから判った事であるが、とに角、此文書を見た時には、何となく感慨無量なるものがあった。八百年来把握されて居た此文書が、市河家から押流された維新の怒涛の如何に大きかったかといふような事、これらを三円の月給の時、一文書十銭位に蒐集された伊佐早先生の篤学、ては、我等の郷土に、今から三軍一手年前までは、小氏人と市川文書の会撮影.銅棒室からして、鏡をつけられた練に国境を守り、巣鷹を守って、四五百年間連綿とした市河氏の事ども、それらが、此三十巻の藍色の巻物と同時に頭に走馬燈のように描き出された影画であった。 披見につれて、更に更に驚いた事は、どの文書も、どの文書も、とても汚れて居ないといふ一事である。殊に鎌倉時代のものは、日本の他の残存文書と共に、重に訴訟の文書であるが、其書体などは、どれを見ても、一つ一つ、骨習字の手本となるような楷行の問の名筆である事、共文書の文章が、判決文としても、詳細を極めて居る事などである。以て、鎌倉時代の民がのびやかで、穏健で。 民衆的であった事まで連想を禁じ得ない程だ。 その他にしても、何としても、一家で、各時代を串通しにして居る話だから、各時代の文書相の一通りを僻へて居る点は、古文書学の上からしても一つの規範的のものと云い得よう。 下文、副下文、下知状、奉書、書状、譲文、訴訟、置文、注進、応宣、申状、所牌、着到状、軍忠状、感状、預ケ状.安堵状、契約状、宛行状、行渡状、定書、などの種類を、如宝に見るように感得出来る点に於いて尊い。光丘文庫の二階を臨時写場暗室等に借用して、約六日間で、此文書の穐影を終了した。文書の裏に影書きの花押もあれば、文書もある。これらは、主として鎌倉時代のものであって、文書上の特色でもある。凡て是等迄も写了したのである。 その外にも、本間家及び酒田の古文書殆んど仝部を歴訪したが、信濃関係のものが、三十お近く存在したからこれらも概ねレンズに入れた訳である。 終りに写真技術者の事についても、一言し置かればならない事がある。県内の史料撮影には、長野市荒木の篠原文雄氏が犠牲的に徒事して居ると同様に、山形県の資料撮影影には、米澤市の神保一臣氏が、四五年来を通じて、単に撮影ばかりでなく、史料蒐集の手助としても、殆んど、献身的に努力してくれられた一事は、是非此際報告し置きたい処である。今度の市河文書の撮影に関しても、同様であった事は云う迄もない。 此雑誌の出る頃は、多分写真が配布される時であろうと思うが、この催しを最初から替助された更級、上下水内、上下高井郡の教育部含、及び加盟助達につとめられた諸法人に対しても、謹しんで、謝意を表して置く。 山梨県私立文学館 サブやんの気まぐれ調査研究 新!サブやんの気まぐれ調査研究 国会と国家議員に必要な林業実情 森林知識検定委員会 ”ヒノキオ君” サブやんのきまぐれ調査研究 新!サブやんの気まぐれ調査研究

の うち の 家臣 は 鮎川 どの 次 盛長 大名 か と の うち の 家臣 は 鮎川 どの 次 盛長 大名 か と

この時に野沢まで出向いて市河藤若の戦功をねぎらった使者が山本管助であったというわけです。 二番手に謙信の旗本が続いて、二十五日夜のうちに、信玄の本陣に一直線に切り込み、合戦を始めた。 方々より申し来る子細も御座候条、早速御着陣待ち入る 計りに候。

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市河文書をどう読むか 山本勘助の実在を示した唯一の資料とされるが 私は大きな疑問をもっている。 市川藤若関係の文書と時代背景を探る 市河文書をどう読むか 山本勘助の実在を示した唯一の資料とされるが 私は大きな疑問をもっている。 市川藤若関係の文書と時代背景を探る 天文二十四年 弘治元年(10月23日改元) 1555 ☆印――武田信玄(甲陽軍艦)★印――謙信(甲陽軍艦) ●一月三十日、筑摩郡洗場三村某、武田の将馬場信房を深志城に攻め、村井・出川に放火する。この日二木重隆、信房救援に駆けつける。ついで三村ら、敗れる。 (長野県史) ●二月十四日、武田晴信、諏訪郡八剣社に同郡上原の地を寄進し、武運長久を祈らせる。 (長野県史) ●二月十五日、晴信は景虎の機先を制して川中島へ兵を送り、善光寺の南の葛山城を攻落させた。 (甲府市史) ☆三月七日、信玄公は甲府を出発。 (甲陽軍艦) ●三月十四日、葛山城を攻落した後、武田軍は川中島一帯の長尾方の一掃を続行していた。景虎は雪の為に出陣することができず、晴信も三月十四日には、まだ甲府いた。そこへ川中島より注進状が届き、越国衆が出陣するとの報に接し、自らも出馬すると伝えている。 (甲府市史) ☆三月十八日、信玄公は木曾の屋子原(薮原)に出馬、四月三日まで逗流され、薮原に一つの砦を造り、木曽殿居城を攻撃しようとした。 (甲陽軍艦) ●三月廿一日、武田晴信、大日方主税助の安曇郡千見城攻略を賞する。 (長野県史) ●三月、武田晴信、木曾制圧に着手、千村俊政の守贄川砦を落とす。鳥居峠に出陣した木曾義康、武田軍に挟撃されて敗走し、武田軍は藪原を占拠する。 (長野県史) ☆四月五日、越後の謙信が川中島へ出てきたとの報が入る。 (甲陽軍艦) ☆四月六日、薮原を出て川中島にて対陣を整える。謙信は引き上げる。 (甲陽軍艦) ★謙信、関東に出て北条氏康と対陣、連日連夜の戦闘を続ける。 (甲陽軍艦) ●四月十八日、景虎が川中島に出陣し、晴信は決戦を避けて安曇郡小谷城を攻 め、八月に入ってやっと両軍が川中島で対戦した。これを第三回川中島の戦 いという。 (甲府市史) ●四月廿五日、武田晴信、内田監物に、更級郡佐野山在城につき知行所諏訪郡北大塩二三人の押立公事を免じる。 (長野県史) ●五月廿八日、信州知久殿與四郎殿州船津にて生害被成候。宮下勘六方打被申候。(信州下伊那の知久氏が鵜の島に幽閉される。翌年鵜の島から船津に連れていかれた上で切腹する) (妙法寺記) ●六月二十日、武田家朱印状写 別而被致奉公候間、庄内主計分三拾余貫文所出置候、弥忠信可為肝要候、恐々謹言 天文廿四年六月廿日 晴信御居判 大日方主税助殿 (『山梨県史』資料編5 中世ニ 県外文書 長野県の部) ● 弘治二年六月二十八日、長尾弾正少弼(しょうひつ)入道宗心、 長慶寺衣鉢(いぶ)侍者禅師(天室光行)宛文書 (前文略) 信州は隣国であることは勿論ですが、村上方をはじめとして井上・須田・ 嶋津・栗田その他の人々が私を頼ってきました。ことに高梨家とはとりわけ親しくしている仲ですから、そのまま見捨てておくわけにもいかず、すでに信州が過半晴信のの手に入り、もうじき信州全部が晴信にとられそうなようすもあったので、両度出陣し、去年(弘治元年)は、旭山城に向かって附城を造り、旭山城をとりこにした上、晴信と興亡をかけた大決戦をしようとしたところ、負けそうになった武田方は和睦を申し出、駿河の今川義元に頼んで誓詞や講和条件などを示してきたので、いろいろ差し障りがあったが、それを承知し、旭山城を壊し、兵を引きました。そこで信州の味方は今も無事に暮らしています。 (弘治二年)六月二十八日 長尾弾正少弼入道宗心 長慶寺衣鉢(いぶ)侍者禅師 (「川中島の戦」小林計一郎氏著) ●七月十九日、武田晴信感状写 今十九於信州更科郡川中嶋逐一戦之時、頸壱討捕之条、神妙之至感入候、 弥可抽忠信者也、仍如件 天文二十四年七月十九日 晴信 朱印 勝野新右衛門殿 (『山梨県史』資料編5 中世ニ 県外文書) ●七月廿三日、武田晴信公信州へ御馬を被出候而、村上殿・高梨殿、越後守護長尾景虎を奉頼同景虎も廿三日に御馬被出候而、善光寺に御陣を張被食候。 (妙法寺記) ●武田殿は三十丁此方成り、大塚に御陣を被成候。 (妙法寺記) ●善光寺の堂主栗田殿は旭の城に御座候。 (妙法寺記) ●旭の要害へも、武田晴信公人数三千人さけはりをいる程の弓を八百張、鉄砲三百挺入被食候。 (妙法寺記) ●去程に長尾景虎再々責候へ共不叶後には駿河今川義元御扱にて和談被成候。(妙法寺記) ●八月十二日、武田晴信、竜淵斎に小山田信有を信濃国佐久郡へ派遣することを伝える。 ●八月、武田軍、木曾を再攻、上之段城と福島城の子木曾義昌を攻める。義康和議を申し入れ、娘を人質に甲府へ送り、義昌に晴信の娘を迎える。 (長野県史) ☆八月二十一日、信玄公は鳥井峠を超えるために薮原を発つ。 福島筋へは栗原左兵衛・飯富三郎兵衛・長坂長閑・市川宮内ノ助の五軍で攻 める。木曾降参。 (甲陽軍艦) ●十月五日、武田晴信、内応した高井郡小島修理亮に、高梨領内の河南の地を宛行う。 (長野県史) ●閏十月二日、晴信、大日方山城守、春日駿河守に俵物の分国中諸関通行を許す。 (長野県史) ●十月五日、 今度之忠信無比類候、因茲高梨之内河南千五百貫渡候、恐々謹言 天文廿四年 十月五日 晴信 小嶋修理亮殿 (『山梨県史』「歴代古案」所収文書 武田晴信判物写し) ◎閏十月九日、此年駿河義元の御内を異見申候者説最と申御出家、閏十月九日御死去被成候。駿河力落不及言説。 (妙法寺記) ●閏十月十五日、晴信・景虎、駿河の今川義元の仲裁により、誓紙・条目を交わして和議を結び、互いに兵を引く。 (長野県史) ●閏十月の甲越和睦は、その後の信濃侵略によって、有名無実となり、翌二年八月には春野望が景虎の家臣の大熊朝秀を内応させたことから、再び両者の関係は悪化した。 (長野県史) ●十一月八日、此年、相州新九郎殿霜月八日曹司様(北条氏直)を設け玉ふ。甲州晴信公御満足大慶此事候。 (妙法寺記) ●十一月六日、武田勝頼の母諏訪氏、死去する。 (長野県史) 解説(「甲府市史」)資料編第2巻 天文廿二年(1553)四月晴信は念願の村上義清の葛尾城を攻め落とし、信濃の大半を手中にした。村上氏は越後に逃れ、長尾景虎を頼りその援助により再度、小県郡に復帰した。天文二十四年(弘治元年)七月には、晴信・景虎とも川中島に出陣、晴信は大塚へ、景虎は善光寺に布陣、七月19日には川中島で対戦した。 その後、善光寺の同主であった栗田氏は旭城に籠もって景虎を牽制した。晴信は旭城に兵三千人と弓八百張、鉄砲三百挺を送り込む。対陣のまま閏十月に及んだ。晴信は今川義元に斡旋を依頼して景虎と和睦し、両者川中島より退陣した。これを第二回川中島の戦いという 弘治 二年 1556】 ☆六月中旬、信玄公、伊那へ出馬。七月・八月・九月と合わせて四ヶ月間で伊那を平定する。成敗した武将は、溝口殿・松島殿・黒河内殿・波部殿・小田切殿・伊那部殿・殿島殿・宮田殿。 (甲陽軍艦) ●三月十一日、武田晴信、水内郡静松寺住持に葛山衆の盟主落合一族を切り崩し、武田方へつかせた功を賞する。 (長野県史) ● 五月十二日、香坂筑前守宛書状 八郎丸之郷百貫之内、定所務六十五貫四百文之分出置候、相残所者、速 可奉納者也。仍如件。 弘治二年五月十二日 香坂筑前守殿 (「山梨県史」資料編中世ニ 県外文書 長野県の部 上水内郡牟礼村 高野家文書) ● 六月二日、武田晴信判物写。 綿内領之内、隠居免三百五拾貫文之所進置候、恐々謹言 弘治弐年六月二日 晴信(花押影) 井上左衛門尉殿 (「山梨県史」資料編中世ニ 県外文書 長野県の部) 市河文書 年不詳 武田家感状写 (北佐久郡浅科村、市川育英氏所蔵) ●六月廿七日、 小幡尾州へ津金修理亮を遣はし候、そこ許に於いて諸事馳走肝要に候なり。謹言 六月廿七日 晴信(花押) 市川右馬助殿 同 右近助殿 読み下し (信濃史料叢書) ●六月廿八日、武田晴信、大須賀久兵衛尉に、欠落(かけおち)した被官人を還住させる。 (長野県史) ● 六月二十八日、長尾弾正少弼(しょうひつ)入道宗心、 長慶寺衣鉢(いぶ)侍者禅師(天室光行)宛文書 ―――景虎出奔――― (前文略) 信州は隣国であることは勿論ですが、村上方をはじめとして井上・須田・ 嶋津・栗田その他の人々が私を頼ってきました。ことに高梨家とはとりわけ親しくしている仲ですから、そのまま見捨てておくわけにもいかず、すでに信州が過半晴信のの手に入り、もうじき信州全部が晴信にとられそうなようすもあったので、両度出陣し、去年(弘治元年)は、旭山城に向かって附城を造り、旭山城をとりこにした上、晴信と興亡をかけた大決戦をしようとしたところ、負けそうになった武田方は和睦を申し出、駿河の今川義元に頼んで誓詞や講和条件などを示してきたので、いろいろ差し障りがあったが、それを承知し、旭山城を壊し、兵を引きました。そこで信州の味方は今も無事に暮らしています。 (弘治二年)六月二十八日 長尾弾正少弼入道宗心 長慶寺衣鉢(いぶ)侍者禅師 (「川中島の戦」小林計一郎氏著) ● 八月十七日、謙信、政景あて文書 私が隠居を決意したのは決して偽りではないが、あなたをはじめ国中の人々が自分を止めてくれる心を振り捨てるわけにもいかず、また私が戦争を怖がって隠居するのだといわれるのも心外だから、あなたの意見にまかせて隠居を思い止ります。 (「川中島の戦」小林計一郎氏著) 市河文書 ●七月十九日 ○別而可抽忠信之由、承候間、安田遺跡出置者也、恐々謹言 弘治二年七月十九日 晴信(花押) 市川孫三郎殿 ●八月二日、武田晴信、水科修理亮に、善光寺と甲府の行き来につき、一カ月馬二疋ずつの諸役を命じる。 (長野県史) ●八月八日、武田晴信、真田幸隆に東条氏の埴科郡雨飾城の攻略を促す。ついで幸隆、同城を落とす。 (長野県史) ● 東条普請の儀、頼み入り候旨一輪を染め候ところに、すなはちその意に応ぜられ、自身着城あり、辛労の至、ことさら去年以来還附未だ安居あるべからず候ところに、かくの如きの儀、誠に以って謝するところを知らず候。いよいよ相?がるるに就いては、快悦たるべく候、恐々謹言 八月廿五日 晴信(花押) 西条殿 (長野史料叢書 山形県西条信武氏所蔵) ●九月吉日、武田晴信願文(「山梨県史」中世資料県外文書 山形県の部) ☆市河文書 年不詳 武田家感状写 (北佐久郡浅科村、市川育英氏所蔵) ●十月廿七日、 (武田晴信)朱印 其方俵物借用之人、無相違可弁済候、有難渋之族者、可有注進候也。仍 如件。 十月廿七日 ☆ 十月下旬、秋山伯キ守の相備え、坂西(ばんざい)・市野瀬・知久・春近衆合わせて二百騎が秋山の与力。秋山の城は高遠城に置く。 ☆ 飯富三郎兵衛の相備え伊那衆、松尾百騎、下条百五十騎・松岡五十騎と武功に優れたもの五十騎を加え、三郎兵衛の二百騎と合わせて五百騎。 ☆ 小山田備中は尼飾城(長野市松代町 越後に逃げた東条氏の居城) ☆ 春日弾正は海津城。和田・余里・布下・楽岩寺から武功の優れた三百騎、当初からの百五十騎を合わせて四百五十騎。 信州の香坂の苗字を受けて春日から高坂弾正となる。 川中島衆の西条・清野・芋川などが高坂の相備えとなる。 ☆ 二の郭は足軽大将、小幡山城の子息又兵衛 ●十二月二十三日、武田晴信、岩波八郎右衛門尉に諏訪郡金子・栗林の地を充 行する。 (信濃資料叢書 岩波文書) ● 十二月二十四日、是より先、武田晴信西条知部少輔をして、水内郡小田切方川北の本領を安堵せしむ、是日、晴信更に更級郡、原・今里の地を充行ふ。 (信濃資料叢書 西条文書) 原・今里の儀について、香坂入道より様々承る旨之条、当分相違覚悟の 外に候、何時に候とも、小田切方川北の本領一両箇所安堵に至っては、 先判の旨に任せ、原・今里相渡すべく候。この趣先書に染むといえ雖も、 若し疑心あるべきの由、校量せしめ候間、重ねて書き出すところなり、 仍って件の如し。 弘治二年十二月二十四日 (朱印) 西条治部少輔殿 ☆市河文書(市川育英氏所蔵) ●十二月二十六日、武田晴信、市河右馬助に、兵糧米の保管を保証する。 其方所持之粮、預置信州佐久郡之処、悪党巳下威敗之砌紛失之候間、於自今以後不可有相違候条、可被存心易者也。仍如件 弘治二年十二月廿六日 晴信(花押) 市河右馬助殿 同右近助殿 その方所持の粮米、信州佐久郡に預け置くのところ悪党巳下成敗の由に 候の間、今より以後に於いて相違べからず候条、心易く存ぜられるべき ものなり。仍って件の如し。 筆註 同様の文書が「山梨県史」資料編5 中世ニ 県外文書 長野県の部に「武田家朱印状」p717に掲載されている。(龍朱印)で晴信花押は見えない。 弘治 三年 1557 《信虎―64歳・信玄―37歳・勝頼―12歳》 ●一月廿日、長尾景虎、更級郡八幡宮に、武田晴信の討滅を祈願する。願文に晴信の信濃制服の暴虐を記す。 (長野県史) (前文略) ここに武田晴信と号する侫臣ありて、かの信州に乱入し、住国の諸氏悉 く滅亡を遂げ、神社仏塔を破壊し、国の悲嘆累年に及ぶ。何ぞ晴信に対 し、景虎闘諍を決すべき遺恨なからん。よって隣州の国主として、或い は恨を後代鬼人に誓い、或いは眼前に棄てがたき好あり、故に近年助成 に及ぶ。国の安全のため軍功を励むところ他事なし。神は非礼を受けず。 縦へ晴信渇仰の志ありと雖も、既に国務を奪はんがため、ゆえなく諸家 をして罪なく脳乱せしむ。万民争(いかで)かその感応に預からん。 云々 ●一月廿一日、武田晴信、伊那郡諸郷に夫役を課す。 (信濃史料叢書) ●二月十二日、 山田領之貴賎、就致降参者、身命不可有相違者也。仍如件。 弘治三年二月十二日 原左京亮殿 ●二月十五日、武田の将馬場信房、長尾方落合氏らの本拠水内郡葛山城を攻略する。葛山衆の多くは武田方の属し存続する。 (長野県史) ○二月十五日、武田晴信の兵、長尾景虎の属城信州水内郡葛山城を攻めて、之を陥る。尋いで、景虎、色部勝長等の参陣を求めて、晴信の軍に備ふ。 (信濃史料叢書) ○ 於于去二月十五日、信州水内郡葛山地、頸壱被討補條戦功無比類候、 弥忠信可為神妙者也。謹言 弘治三年三月十日 晴信(朱印) 内田監物殿 (「信濃史料叢書 内田文書 山形県吉川吉蔵氏所蔵」) ○ 於于去二月十五日、信州水内郡葛山地、頸壱被討補條戦功無比類候、 弥忠信可為神妙者也。恐々謹言 弘治三年三月十日 晴信(朱印) 諏訪清三殿 (「信濃史料叢書」 三澤文書 諏訪市本町 三澤清美氏旧蔵) ● 二月十五日、武田晴信、信州葛山城合戦に於ける窪川宮内丞の戦功を賞する。 去る二十五日、信州水内郡葛山の地に於いて、頸壱つ討ち捕る条、戦功の至り感じ入り候。いよいよ忠信を抽んずべきものなり。仍って件のごとし。 弘治三年三月十日 晴信(龍朱印) 窪川宮内丞殿 同様の文書の宛先 小井弖藤四郎殿。千野靭負殿。溝口殿。篠原藤十郎。土橋対馬殿。内田善三殿。程原左衛門尉五郎。岩下藤三郎殿。三井助七郎殿。小林新兵衛殿。志村禅左衛門殿。室賀兵部大輔殿。春日甚之丞。諏訪清三殿。 溝口宛。 ●二月十六日 信州鉾楯の儀、去々年駿府のご意見を以って、無事に属し候き。然れど もその後の例式晴信の刷曲なき儀どもに候と雖も、神慮といひ、駿州御 刷といひ、この方より手出し致すべきに非ず候條、堪忍に及び置き候。 今度晴信出張し、落合方家中引き破り候故、葛山の地落居、これにより 島津方も大蔵の地へ先ず以って相移られ候。この上のことは是非に及ば ず候間、爰元の人数悉くかの口へ合せしめ、景虎も中途に至り出陣候。 雪中御大儀たるべく候と雖も、夜を以って日に継ぎ、御着陣待ち入り候。 信州味方中滅亡の上は、当国の備安からず候。今般に至っては、一廉の 人数以下相嗜まれ、御稼この時候。恐々謹言 二月六日 長尾弾正少弼 景虎 色部弥三郎殿 御宿所 (「信濃史料」色部家文書) 筆註 鉾楯= むじゅん 刷曲=かいつくろい ●二月十七日、武田晴信、内応した高井郡山田左京亮に、本領同郡山田を安堵し、大熊郷を宛行う。 (長野県史) 今度最前に降参、祝着に候、仍本領五百貫之地、不可有相違、又為新恩 大熊郷七百貫文之所出置候、弥忠節肝要二候者也。仍如件。 丁巳三年二月十七日 晴信 山田左京亮殿 (「山梨県史」中世ニ 県外文書 東京都の部) ●二月廿一日、後奈良天皇伊那郡文永寺再興を山城醍醐寺理性院に令する。ついで文永寺厳詢、信濃に下り、武田晴信に文永寺再興を訴える。(長野県史) ●二月廿五日、武田晴信、越後軍の高井郡中野への移動を報じた原左京亮・木島出雲守に答え、城を固めさせる。ついで原・木島、越後軍の出陣を晴信に報じる。 (長野県史) ●三月九日、晴信、神長(守矢頼眞)宛文書 急度一筆を染め候意趣は、当社御頭役近年怠慢のみに候か。然らば一国 平均の上、百年已前の如く、祭礼勤めさすべきの由存じ候のところに、 十五箇年已来兵戈止むを得ざるにより、土民百姓困窮す。殊には嶋津・ 高梨等今に令に応ぜず候間、諸事思慮の旨あって、これを黙止し畢せぬ。 必ず嶋津・高梨当手に属せば、某素願の如くその役を勤むべきの趣催促 に及び、難渋の族に至っては、先忠を論ぜず、成敗を加ふべく候。云々 三月九日 晴信 神長殿 ●三月十四日、是より先、木島出雲守等、長尾景虎の兵の信濃に入るを、武田晴信に報ず、是日晴信、信濃に出陣せんとし、その旨を出雲守に報ず。 宛 木島出雲守・原左京亮殿 (長野市長門町 県立長野図書館所蔵 信濃史料叢書 丸山史料) ●三月十八日、 信州口の儀に就いて、態御切紙祝着千萬に候。再三啓し候如く、今度の 儀は、是非行に及ぶべき覚悟に候間、今般の儀候間、如何とも早速の御 働待ち入り存じ候。景虎ことも漸く出陣せしめ候。ご用意本望たるべき 間、それ以来かの口の儀、相替りたる子細これなく候。御心安かるべく、 万々面上を以って申し承はるべく候。恐々謹言 二月十八日 長尾弾正少弼 景虎 色部弥三郎殿 御返報 (「信濃史料叢書」色部家文書) ●三月廿三日、武田軍、高梨政頼を飯山城に攻める。政頼、落城の危機を訴え、長尾景虎政景に救援を請う。この日景虎、越後長尾政景に出兵の決意を告げ出陣を促す。 (長野県史) 信州の儀に就いて、度々啓せしむる如く、この度に至っても更によんど ころなき子細候間、見検致すべきにあらず候。さりながら、出陣の日限 等のこと、かたがた申し談じ進むべく候ところ、景虎出馬遅々に候へば、 高刑飯山の地を打ち明くべきの由、頻りと申し越され候。左様にこれあ らば、いよいよ節義を失い候条、明日(二十四日)籠もり立ち候。毎度 申し宣ぶる如く、いよいよ御大儀たるべく候。早速の御着陣簡要に候。 恐々謹言 三月二十三日 弾正少弼 景虎 越前守殿(長尾政景) (「信濃史料叢書」 県立長野県図書館所蔵文書) ●葛山城を攻落した後、武田軍は川中島一帯の長尾方の一掃を続行していた。景虎は雪の為に出陣することができず、晴信も三月十四日には、まだ甲府いた。そこへ川中島より注進状が届き、越国衆が出陣するのとの報に接し、自らも出馬すると伝えている。 (甲府市史) ●三月廿五日、甘利信州立。 (王代記 山梨県大井大俣神社旧蔵及) ●三月二十五日、甘利(昌忠)、信州へ立、十月十六日馬入、窪川孫次郎討死。 廿三日、是より先、武田晴信の軍高梨政頼を水内郡飯山城に攻むるにより、政頼、長尾景虎に救援を請い、この日、景虎出兵せんとし、同政景の出陣を促す。 ●三月二十五日、是より先、長尾景虎、善光寺に兵を進め、高井郡やまだ要害・福島等を鎮定す。是日、景虎、水内郡旭山要害を再興し、晴信の軍に備ふ。 色部弥三郎殿 長尾景虎(花押) (「信濃資料」色部家文書) ●三月二十六日、信玄、伊藤右京亮宛書状。 高梨間山之郷之内三百貫文之所、被出置候、弥可抽戦巧者也。執達仍 如件。 丁巳 三月二十六日 信玄 判 伊藤右京亮殿 (「山梨県史」中世ニ 県外文書 東京都の部) ●三月廿八日、武田晴信、水内郡飯縄権現の仁科千日に、同社支配を安堵し、武運長久を祈念させる。 ☆ 四月九日、上野三ヶ尻(群馬県碓氷郡松井田町と富岡町の中間)北武蔵・西上野の武将十名以下二万人が長野信濃守を大将にして信玄公にたてつく。飯富三郎兵衛殿・馬場民部助・内藤修理・原隼人・諸角豊後守・小宮山丹後守・飯富兵部少輔と信玄子息太郎義信公を大将に追い崩し、勝鬨(かちどき)を挙げる。続いて長野信濃守の居城を攻める準備をする。 (甲陽軍艦) ☆ 四月十二日、越後の謙信が川中島を窺うという報に、上野攻めを止め、川中島へ出馬、五月末日まで対陣し帰陣する。 (甲陽軍艦) ● 四月十三日、武田晴信、島津月下斎が水内郡鳥屋城から鬼無里を突くとの報の実否を長坂虎房らに調べさせる。 ● 四月十三日、武田晴信、上杉謙信出陣の報を得て、日向大和守等に命じて、鬼無里方面での動静を探らせる。 読み下し(「須玉町誌」) 幸便を以って自筆を染め候意趣は、大日向の所従(よ)り木島を以って 申し越さるる如くんば、鳥屋より嶋津従り番勢を加え、剰え鬼無里に向 け夜搖の由に候。実否懇切に聞き届けられ、帰参の上、言上致さるべく 候。惣じて別して帰国の次、鬼無里筋の路次等見届けらるること尤もに 候。毎事疎略無く見聞有りて、披露待ち入り候。恐々謹言 追って小川・柏鉢従り鬼無里・鳥屋筋々に向かい、絵図いたされ候て、持 参有るべく候。(下略) (「須玉町誌」資料編第一巻) 第三回川中島合戦 ●四月十八日、景虎が川中島に出陣し、晴信は決戦を避けて安曇郡小谷城を攻め、八月に入ってやっと両軍が川中島で対戦した。これを第三回川中島の戦いという。 ●この年の四月には晴信は川中島に出陣し、八月には長尾景虎と三回目の対戦をしている。小山田氏も晴信に従って川中島に出陣しており、小林方はその信濃陣中まで訴えに赴いている。 (妙法寺記) ●四月廿一日、長尾景虎、善光寺に着陣、武田方の高井郡山田城・福島城などを奪う。ついで旭山城を再興する。 当地善光寺に至って着陣せしめ候、敵方より相拘り候地利、山田の要害 並びに福島の地打ち明け候。除(のけ)衆悉く還住候。先づ以って御心 安かるべく候。方々より申し来る子細も御座候条、早速御着陣待ち入る 計りに候。如何とも御動(はたらき)祝着たるべく候。恐々謹言 長尾弾正少弼 景虎(花押) 四月廿一日 色部彌三郎殿 御宿所 (『信濃史料』色部文書) ●五月十日、長尾景虎、高井郡小菅山元隆寺に願文を奉納、武田晴信を信濃に 引き出し決戦することを祈る。 信州に至っての出陣に就いて、去る頃野島平次右衛門瀬波郡下向の刻、 一筆啓せしむるのところ、御懇の報候。本領祝着に候。去る月十八山を 越え、同二十五、敵陣数箇所、根小屋以下悉く放火し、同日旭要害を再 興し陣を居え候。如何とも武略を廻らし、晴信を引き出し、一戦を遂ぐ べき覚悟に候。その上敵地より、種々申し刷(つくろ)旨候。御心安か るべく候。恐々謹言 長尾弾正少弼 景虎(花押) (弘治三年)五月十日 土佐林能登入道殿 (『信濃史料』芳賀文書) ●五月十日、長尾景虎、武田晴信と信濃に決戦せんとし、高井郡元隆寺に戦勝を祈る。 (前文略) 伏して惟(おもん)みるに、武田晴信世甲・信に拠り望を競ひ威を振ひ、 干戈息むなし、越後国平氏の小子長尾景虎、去る夏以来高梨らのため、 しばしば諸葛の陣を設くと雖も、晴信終に兵を出さず。故に鉾戦い受く る能はず。これにより景虎暫く馬を飯山の地に立て、積年の憤と散ぜん と欲す。云々 弘治三年五月十日 平景虎敬白 (「信濃史料」小菅神社文書) ●五月十三日、長尾景虎、香坂城を焼き、この日小県郡境の坂木岩鼻を破る。ついで晴信が出陣しないため飯山城に兵を返し、高井郡野沢の湯に市河藤若を攻める。 ●五月十五日、 当口動(はたらき)の儀について、急度御飛脚満足致し候。去る十二日 に香坂へ行(てだて)の儀に及び、近辺悉く放火、翌日坂木岩鼻まで、 打散じ候、凶徒一二千程取り出候へども、懸り動(はたら)き候へば、 五里三里先より敗北候間、打ち捕へざること無念このことに候。重ねて 天気次第相動き、珍しき儀候へば、申し入るべく候。恐々謹言 先刻申し入れ候儀、御用候間、草出羽同心、御大儀たるべく候へども、 御加勢の儀この時に候間、申すことに候。 (弘治三年)五月十日 平三景虎 高梨殿御報 (「信濃史料」) 六月十六日 晴信、市川籐若宛書状(「信濃史料叢書」 謙信公御代御書集』) 急いで客僧をもってお伝えします。そもそも長尾景虎が六月十一日に飯山に陣を移した様子で、風聞では高梨政頼がそちらへの融和工作をしているようですが、いうまでもなく、誓約の旨のとおりこちらの心底は残らず申し届けてあるとおりです。幸いに当方の陣は警固であり、さらに来る十八日には、上州勢がことごとく加勢にこちらのほうへ出張し、上田方面には北条綱成が着陣する予定です。越後勢は日を追って滅ぶでしょう。それが晴信の本意であることを知ってください。早々に軍備の調えを切に頼むこと、相変わらずの忠節を望むところです。なお、追って使者を送り一部始終を申し上げます。恐々謹言 六月十六日 晴信(花押) 市川籐若殿 (山日新聞による) ☆六月廿三日 晴信、市川籐若宛書状 ●六月廿三日、深志城の武田晴信、使番山本菅(勘)助を市河藤若に遣し、救援出陣を手配したと告げる。 ★山本勘助★信州塩田に布陣の晴信が、水内郡市河に在城の市河藤若にあて、塩田城主飯富虎昌が川中島に進出する計画のあることを、山本菅(勘)助を使番として報じる。 (北海道、市河良一家文書) 注進状披見。仍つて景虎、野沢の湯に至り陣を進め、其の地 へ取り懸かるべき模様、又武略に入り候と雖も、同意無く、 剰え備堅固故、長尾功無くして飯山へ引退き候由誠に心地よく候。何れも今度、其の方の擬たものしき迄に候。なかんずく野沢在陣のみぎり、中野筋後詰の義、飛脚に預り候き。すなわち倉賀野へ越し上原与三左衛門尉、又当年の事も塩田在城の足軽を始めとして、原与三左衛門尉五百余人、真田へ指し遣はし候処、既に退散の上是非に及ばず候。全く無首尾有るべからず候。向後は兼て其の旨を存じ、塩田の在城衆へ申し付け候間、湯本より注進次第に当地へ申し届けるに及ばず出陣すべきの趣、今日飯富兵部少輔の所へ下地を成し候の条、御心易く有るべく候。猶山本管助口上有るべく候。 恐々謹言。 六月廿三日 晴信(花押) 市河藤若殿 ●七月三日、是より先水内郡飯山城将高梨政頼、越後春日山城将直江實綱を音文する。 (高梨文書) ●七月五日、武田軍、長尾方安曇郡小谷(おたり)城を攻め落とす。 ●七月五日、武田晴信感状。 於于去五日信州安曇郡小谷之城、最善攻登、頸壱討捕、剰被疵二ヶ所候 条、戦功感入候、弥可抽忠信者也。仍如件。 七月十一日 晴信(龍朱印) 溝口 (信濃史料) ●七月五日、武田晴信の軍、安曇郡小谷に長尾景虎の軍と戦う。尋いで、晴信、諸士の功を賞する。 於于去五日信州安曇郡小谷之城、最善攻登、頸壱討捕之條、忠節感入候、 弥可抽戦巧者者也。仍如件。 弘治三年七月十一日 晴信(朱印) 小平木工丞殿 筆註 ☆ 同様の文書が多数ある。(「信濃史料」『諸州古文書』) 岩波六郎左衛門殿・篠原藤十郎殿・三井助七郎殿・小井弖藤四郎殿 岩波藤五郎殿・大村与右衛門殿 ● 「千野文書」諏訪市本町 千野俊次氏所蔵 抜粋 小谷城御本意の時分、構際に於いて弓を涯分仕り候。板垣具に言上故、高 白斎を以って深志の御対面所へ召し出し、此の類なく相?ぐの由、御褒美 候事。 ● 七月廿三日、武田晴信、大須賀久兵衛に、埴科郡坂木南条の地を宛行い、検使を派遣して所領を渡すと告げる。 ☆ 八月、信玄公は途中であった上野の信濃守の居城箕輪城を攻めた。十月中旬に信玄公は帰る。 (甲陽軍艦) ●八月六日、武田晴信、安曇郡山田左近をして、本領を安堵せしむ。(山田文書) ●八月廿九日、長尾景虎、政景の軍、武田軍を水内郡上野原に破り、この日戦功を賞する。(第三回川中島合戦) 今度於信州上野原(水内郡)一戦、働無比類次第ニ候、向後弥?之事肝 心に儀。謹言。 (弘治三年)八月廿九日 景虎 南雲治良了右衛門とのへ (同様の文書の宛先 大橋弥次郎殿) ● 九月二十日、越後方の大将、長尾政景の感状 信州上野原に於いて、晴信に対して、合戦を遂げ、勝利を得候砌、神妙 の働き比類なく候。向後いよいよ稼がるべきこと専要(大切)に候。 謹言。 九月廿日 政景 下平弥七郎殿 ● (「川中島の戦い」小林計一郎氏) ●十月九日、武田晴信、安曇郡千国谷に高札を掲げ、谷中の乱妨狼籍を禁止する。 ●十月十六日、馬入。窪川孫二郎討死。【王代】 ● 11月六日、武田家奉行衆、小尾藤七良に対し、京進面付として五百六十文の納入を命ずる。(正親町天皇即位に伴う経費の捻出か) 就京進面付之事(略) 弘治三年十一月六日 長坂筑後虎房 (花押) 三枝右衛門尉 (花押) 室住豊後守虎光(花押) 小尾藤七良代 (「須玉町誌」史料編第一巻) ●此年、将軍足利義輝、長尾景虎上洛のため景虎、武田晴信の和睦をはかり、聖護院道澄を派遣する。 ●弘治元年(1555)閏十月の甲越和睦は、その後の信濃侵略によって、有名無実となり、翌二年八月には春野望が景虎の家臣の大熊朝秀を内応させたことから、再び両者の関係は悪化した。この年の二月十五日、晴信は景虎の機先を制して川中島へ兵を送り、善光寺の南の葛山城を攻落させた。 (甲府市史) ●此年、武田晴信、善光寺の仏像・仏具を小県郡彌津に移す。信濃善光寺とその門前町が寂れる。 ●弘治年間、武田晴信、伊那郡に小野川・波合関所を設ける。この頃、清内路・帯川・心川関所も置く。 《参考》川中島の戦い。『川中島五箇度合戦記』 第一回 天文廿二年八月(1553) 第二回 天文廿四年四月(1555) 百五十日間 第三回 弘治 三年 (1557) 第四回 永禄 四年九月(1561) 第五回 永禄 七年八月(1564) 永禄 元年 1558【甲府】《信虎-65歳・信玄-38歳・勝頼-13歳》 ●正月十六日、今井昌良、将軍家側近大館晴光に、晴信の信濃守護職、義信の准三管領任官の礼をする。 ●二月廿日、晴信、将軍家の御内書の応じて景虎と和睦する。 《解説『甲府市史』》 将軍足利義輝は長尾景虎を上洛させるために晴信と和睦させる工作をしていた。既に弘治三年八月には将軍家の使者が甲斐へ遣はされ、晴信も信濃守護職に任命されることを条件に、承認の意向を示していた、この年二月には景虎もこれに応じ、一応両者の和議が成立した。 永禄 元年 1558【長野】 ●二月廿日、足利義輝、甲越和睦への長尾景虎の同意を嘉(よみ)する。この 頃晴信、信濃守に補任される。 (長野県史) ●三月六日、武田晴信、陸奥会津高橋郷の大島次郎右衛門に、甲信両国で一カ月荷物五駄の諸役を免除する。 (長野県史) ●四月、武田晴信、水内郡柏鉢・埴科郡東条・更級郡大岡各城在番衆の当番を定め、真田幸隆・小山田昌行を埴科郡尼飾城を在番させる。 (長野県史) ●この年、武田晴信、川中島地方をほぼ平定する。 (長野県史) 永禄 元年 1558【評判】 ● 永禄元年二月、長尾謙信與武田信玄、和睦あて、信州筑摩川にて會盟せらる べしと聞ける時、信玄過言を以て和談を破られ、重ねて対陣に及び玉ふこと 本書の如し。 ●五月、武田信繁、家訓九十九カ条を定め、嫡子長老に遣わす。(別記) ●六月、小田原城主北条氏康、甲州の出家に過所を与える。 (甲府市史) ●閏六月、晴信、醍醐理性院に信濃文永寺ほかの再興を報ずる。 (甲府市史) ●九月二十五日、武田晴信、善光寺の阿弥陀如来像・源頼朝像などを甲府へ移す。栗田氏・大本願上人らも甲府へ移る。次いで甲斐板垣に善光寺如来堂を造立する。(長野県史) ●九月、晴信、信濃善光寺の本尊を甲斐に移し、新寺の建立を始める。 (甲府市史) 《解説》新寺は翌二年二月に完成し、二月二十六日に本尊が入仏されている。 ●善光寺如来、九月二十五日、甲府付玉フ。板垣十三日地引始。【王代】 ●十一月廿八日、晴信、将軍足利義輝に信濃出兵の弁明状を送る。(甲府市史) 《解説『甲府市史』》 武田晴信が将軍足利義輝の側近である大館晴光に宛てた書状。 一、去夏(弘治三年)に私(晴信)が越後に向けて出兵したのが将軍家を軽んじたものと書いてあり、大変驚きました。すでに先般瑞林寺が使者として下向した折、信濃守護職補任の御内書を頂戴しておりますので、他に手出しするつもりはなかったのですが、その後長尾景虎が両度にわたって信濃国内で放火したからです。これこそ上意に背くものでしょう。 二、去年甲越和睦をまとめるために聖護院門主の使者として森坊が御内書をもって甲府へ来ました。これによって私は合戦をやめ、信府中にある城普請を申しつけていた際、景虎も御内書を頂戴し、いまだ和睦も成立しない前に、信濃の海津の地に放火しました。これは皆がよく存じていることです。 三、その報復のために私は越後に向けて出兵したのであり、決して上意をないがしろにしたのではありません。 四、今回重ねて出兵したのは、以下の理由によるものです。去夏に出兵した折に越後の府中を破却しようと思ったのですが、将軍家よりの使僧が甲府に下向したとの知らせを留守のものが伝えてきたので、上意を重んじて帰陣し、使者の西堂に対しての私の考えを述べ、前述のように信濃守護補任の御内書を持参していたので、和睦を成立させるため、その使者に越後へ赴くよう勧め、使者が承知して越後に到着したところ、越後では無理に押し返してしまいました。これは上意にが逆心するものであり、無分別というべきです。 五、私は信濃守護職補任の御案内に従い、信越国境を境界とすると承知しております。 なお詳しくは富森左京亮が口上で申し述べます。追って上使の瑞林寺・佐々伊豆寺は越後へ向かいました。津田掃部助は、談合のために一両日前に甲府に着いております。 永禄 元年 1558【妙法】 ●此年、八月五日大風吹申候。乍去秋世中粟半、耕作同芋半世中 殊に大麦小麦半世中稲・大豆・小豆は廿分に出来候而、売買何も安し。 永禄 二年 1559【甲府】《信虎-66歳・信玄-39歳・勝頼-14歳》 ●武田家一門、高野山引導院(持明院)の黄金を寄進する。 一、黄金五両 晴信 花押 一、黄金壹両 信繁 花押 一、同 信廉 花押 一、同 信是 花押 右一国一家勧進状、仍如件 引導院 永禄 二年 1559【王代】 ○ 二月十六日、新善光寺板垣立。入仏二月十六日。(王代) 永禄 元年 1558【甲府】《信虎-65歳・信玄-38歳・勝頼-13歳》 ●正月十六日、今井昌良、将軍家側近大館晴光に、晴信の信濃守護職、義信の准三管領任官の礼をする。 ●二月廿日、晴信、将軍家の御内書の応じて景虎と和睦する。 《解説『甲府市史』》 将軍足利義輝は長尾景虎を上洛させるために晴信と和睦させる工作をしていた。既に弘治三年八月には将軍家の使者が甲斐へ遣はされ、晴信も信濃守護職に任命されることを条件に、承認の意向を示していた、この年二月には景虎もこれに応じ、一応両者の和議が成立した。 永禄 元年 1558【長野】 ●二月廿日、足利義輝、甲越和睦への長尾景虎の同意を嘉(よみ)する。この頃晴信、信濃守に補任される。 ●三月六日、武田晴信、陸奥会津高橋郷の大島次郎右衛門に、甲信両国で一カ月荷物五駄の諸役を免除する。 ●四月、武田晴信、水内郡柏鉢・埴科郡東条・更級郡大岡各城在番衆の当番を定め、真田幸隆・小山田昌行を埴科郡尼飾城を在番させる。 ●九月二十五日、武田晴信、善光寺の阿弥陀如来像・源頼朝像などを甲府へ移す。栗田氏・大本願上人らも甲府へ移る。ついで甲斐板垣に善光寺如来堂を造立する。 ●この年、武田晴信、川中島地方をほぼ平定する。 永禄 元年 1558【評判】 ●永禄元年二月、長尾謙信與武田信玄、和睦あて、信州筑摩川にて會盟せらるべしと聞ける時、信玄過言を以て和談を破られ、重ねて対陣に及玉ふこと本書の如し。 永禄 元年 1558【甲府】 ●五月、武田信繁、家訓九十九カ条を定め、嫡子長老に遣わす。(別記) ●六月、小田原城主北条氏康、甲州の出家に過所を与える。 ●閏六月、晴信、醍醐理性院に信濃文永寺ほかの再興を報ずる。 ●九月、晴信、信濃善光寺の本尊を甲斐に移し、新寺の建立を始める。 《解説》新寺は翌二年二月に完成し、二月二十六日に本尊が入仏されている。 ●善光寺如来、九月二十五日、甲府付玉フ。板垣十三日地引始。【王代】 ●十一月廿八日、晴信、将軍足利義輝に信濃出兵の弁明状を送る。 《解説『甲府市史』》 武田晴信が将軍足利義輝の側近である大館晴光に宛てた書状。 一、去夏(弘治三年)に私(晴信)が越後に向けて出兵したのを将軍家を軽んじたものと書いてあり、大変驚きました。すでに先般瑞林寺が使者として下向した折、信濃守護職補任の御内書を頂戴しておりますので、他に手出しするつもりはなかったのですが、その後長尾景虎が両度にわたって信濃国内で放火したからです。これこそ上意に背くものでしょう。 二、去年甲越和睦をまとめるために聖護院門主の使者として森坊が御内書をもって甲府へ来ました。これによって私は合戦をやめ、信府中にある城普請を申しつけていた際、景虎も御内書を頂戴し、いまだ和睦も成立しない前に、信濃の海津の地に放火しました。これは皆がよく存じていることです。 三、その報復のために私は越後に向けて出兵したのであり、決して上意をないがしろにしたのではありません。 四、今回重ねて出兵したのは、以下の理由によるものです。去夏に出兵した折に越後の府中を破却しようと思ったのですが、将軍家よりの使僧が甲府に下向したとの知らせを留守のものが伝えてきたので、上意を重んじて帰陣し、使者の西堂に対しての私の考えを述べ、前述のように信濃守護補任の御内書を持参していたので、和睦を成立させるため、その使者に越後へ赴くよう勧め、使者が承知して越後に到着したところ、越後では無理に押し返してしまいました。これは上意にが逆心するものであり、無分別というべきです。 五、私は信濃守護職補任の御案内に従い、信越国境を境界とすると承知しております。 なお詳しくは富森左京亮が口上で申し述べます。追って上使の瑞林寺・佐々伊豆寺は越後へ向かいました。津田掃部助は、談合のために一両日前に甲府に着いております。 永禄 元年 1558【妙法】 ●此年、八月五日大風吹申候。乍去秋世中粟半、耕作同芋半世中 殊に大麦小麦半世中 稲・大豆・小豆は廿分に出来候而、売買何も安し。 永禄 二年 1559【甲府】《信虎-66歳・信玄-39歳・勝頼-14歳》 ●武田家一門、高野山引導院(持明院)の黄金を寄進する。 一、黄金五両 晴信 花押 一、黄金壹両 信繁 花押 一、同 信廉 花押 一、同 信是 花押 右一国一家勧進状、仍如件 引導院 永禄 二年 1559【王代】 ○新善光寺板垣立。入仏二月十六日。 永禄 二年 1559【妙法】 ○正月小二月大。 ○正月日、雪水出候而、悉く田地上家村を流し候。就中此年二月信州への番手をゆるし候而、又谷村御屋敷不審同つほの木又さいかち公事なとを、祝師衆計不致ゆる候而、宮の川よけを被成其上彌三郎殿御意を以て宮林の木を祝師衆まゝに被成小林尾張殿奉行にて宮林をきりわたを立被納候然者小林和泉殿宮林を為伐間敷由二三度押被申候へ共祝師衆皆々不用して彌三郎殿下知にて用の程伐候而宮の致川よけ候。 ○同其年の春は売買何も安し。 ○同年四月十五日大氷降。夕顔、茄子麻痺苗殊鶯菜悉打折何も無し。大麦は半分こほし候。 ○就中、庚戌年(天文十九年/1550)小林宮内少輔殿河よけ不審に新井左近地付の林を伐候而、堰候候へは其過怠として下吉田百余人の所より質者を一兵衛殿取被申候を皆々道理を申分候間、松山より悉く質物共を反し被申候へ共左近同殿法林坊質物計不被返候間打置申候処に己未年(永禄二年)四月慥に小山田御意にて手取二つ新鍬一勺拾年と申反し被申候之間目出度請取申候。 ○永禄二年十二月七日に大雨降怱に雪しろ水出て法ケ堂皆悉流れ申候。又在家の事は中村まるく流し候事無限。 《筆註》今川義元関係(『富士吉田市史』) 弘治 三年(1557) ※今川義元、慶覚坊に東専坊の遺跡譲渡を認める。 ※今川義元、中河の浅間神領屋敷相論につき裁許する。 ※今川義元、宝幢院に富士大宮別当職と別当領分を安堵する。 ※今川義元、富士登二郎に河東十分一を免許する。 《筆註》今川氏真関係(『富士吉田市史』) 永禄 元年(1558) ※今川氏真、大鏡坊頼慶に富士山宮大夫跡職を安堵する。 ※今川氏真、大鏡坊頼慶に慶覚坊跡職を安堵する。 ※今川氏真、浅間神社の神領等を安堵する。 ※今川氏真、静岡浅間神社流鏑馬千歳方郷役を改めて命ずる。 ※今川氏真、東泉院に下方五社領内の金剛寺と玉蔵院を付属する。 永禄 二年 1559【長野】 ●三月廿日、武田晴信、東北信・伊那の諸将士・商人らに、分国内往還の諸役を重ねて免除する。 永禄 二年 1559【諸州古文書】「甲州二ノ上」 ●武田晴信、分国中の商売の諸役を免許した者の名前をまとめる。 分国商売之諸役免許之分 従天文十八年 1549 一、五月九日、分国諸開諸役一月ニ三疋口令免許者也。 奏者 秋山善右衛門 左進士新兵衛尉 一、敵之時宜節々聞届就注進、一月ニ馬一疋口諸役令免許者也。 奏者 穴山殿 拾月二日 柳澤 一、一月荷物三疋口、往還不可有諸役者也。 奏者 向山又七郎 拾月廿日 対馬守 一、於京都絹布已下之用所一人ニ申付候間、弥以堅奉公可申事専一候、因茲分 国之諸役 一月ニ馬三疋口、無相違可勘過者也、 拾月吉日 小薗八郎左衛門尉 天文十九年 1550 一、卯月三日、濃州之商人佐藤五郎左衛門尉過書之事、右分国 諸役所一月馬三疋口無相違可通者也。 奏者 向山又七郎 小山田申請 一、別而抽忠信之由申候間、一月ニ馬三疋口諸役令免許者也、 奏者 今井越前守 拾一月十三日 松嶋今井越前守 一、甲信之内、一月馬五疋口諸役令免許者也、 奏者 跡部九郎右衛門尉 六月十六日 末木土佐守 一、裏之台所へ之塩、一月ニ二駄諸役令免許者也。 七月十日 一、馬三疋口一月ニ三度宛、諸役令免許者也、 奏者 跡部伊賀守 甲寅卯月八日 大日方山城守 一、一月ニ一往馬三疋宛無相違可勘過者也。仍如件。 奏者 跡部伊賀守 卯月十二日 麻績新左衛門尉 一、就別而致奉公、一月ニ馬二疋口諸役令免許者也。仍如件。 奏者 跡部伊賀守 卯月四日 窪村豊後守 一、鵝目七百貫文預候利銭之事、可為四文字、以其故商諸役一月ニ馬六疋口、 又門屋四間令免許者也。 奏者 跡部九郎右衛門尉 卯月十二日 林土佐守 一、分国之内一月ニ馬十疋宛諸役令免許候、恐々謹言。 奏者 高白斎(栗原左兵衛) 卯月晦日 岡部豊後入道 一、分国之内一月馬三疋口出置者也。 天文二十四年 一、就小田原南殿奉公、一月ニ馬三疋分、諸役令免許者也。仍如件。 奏者 跡部次郎衛門尉 天文廿四年三月二日 向山源五左衛門尉 弘治元年 一、拾二月十九日 平原甚五左衛門尉 一、就山内在城諸役所并諸関令免許者也。 奏者 跡部伊賀守 原弥七郎 六月吉日 九一色衆 一、就越国筋往還、自由者一月ニ馬五疋分国之内、諸役令免許者也。 奏者 今井越前守 六月廿五日 仁科民部入道殿 一、善光寺還往之間、一月ニ馬壱疋口諸役令免許者也。 奏者 飯田源四郎 弘治二年八月二日 水科修理亮 一、一月馬五疋之分、商之諸役令免許者也。仍如件。 奏者 跡部伊賀守 十二月六日 五味八郎左衛門尉 一、就塩硝鉛下、分国之内一月馬三疋宛諸役令免許者也。仍如件。 奏者 秋山市右衛門尉 弘治三年正月廿八日 彦十郎 一、信国之内甘馬一月ニ七疋無相違可勘過者也。 奏者 原弥(七郎) 八月三日 依田新左衛門尉 一、越中へ使者ヲ越候、案内者可馳走之旨申候間、一月ニ馬壱疋之分商売之諸役令免許者也。 奏者 高白斎 一、甲信両国中、毎月馬二疋之分、商之諸役令免許者也。 奏者 高白斎 弘治三年十月三日 油科佐渡守 一、甲信両国中、毎月馬二疋宛、商之諸役令免許者也。 奏者 高白斎 弘治三年 十月三日 窪田外記 弘治四年 永禄元年 一、参月六日 御印判三疋一ツ二疋一ツ二枚ニ出候。 一、従当年六月至于来十二月一日ニ馬五疋分諸役令免許者也。 奏者 原弥 永禄元年六月朔日 屋代殿 一、小笠原信貴息就在府毎月粮米回状分、青柳より府中迄諸役令免許者也。 奏者 高白斎 永禄元年六月十一日 一、甲信両国中、毎月馬三疋之分、商之諸役令免許者也。 奏者 高白斎 十月三日 窪田伊賀守 一、一月三度宛、彼者往還之荷物、壱駄分諸役令免許者也。 奏者 金丸平三郎 松尾被官 助右衛門 永禄元年拾月廿六日 一、信州之内一月ニ馬二疋分商之諸役令免許者也。仍如件。 奏者 小山田備中守 永禄元年十一月三日 上原之保坂中務丞 一、於甲信両国彼荷物、一月ニ拾駄分、諸役所渡已下無相違可勘過、富士参詣之時節モ可為同前者也。遂而善三郎事者、令在国者善明已後モ可為同意(前) 奏者 宗春 拾月十日 松木善明 同善三郎 一、馬三疋口一ケ月一住つゝ諸役令免許者也。 奏者 野村兵部助 己未二月三日 葉山左京進 一、其方父子参府之砌、一月之内荷物三駄之分諸役令免許者也。 奏者 跡部伊賀守 二月八日 大日方入道殿 已上 永禄二年 右書立之外之族、縦雖持印判不可叙用者也、仍如件。 永禄二年 三月廿日 (『甲州古文書』) 永禄 二年 1559 ※永禄二年四月、謙信は京都に上り、参内、公方義輝公に拝謁した。輝虎の名をいただき、網代の塗輿、御紋をゆるされ、文の裏書きまでゆりされて帰国した。管領職は辞退し、朱塗りの柄の傘、屋形の号もゆるされ、三管領に準ずるうようになった。(河中島五箇度合戦記) 永禄 二年 1559 4月 ●四月、武田信玄、川内領の関所に禁制を掲げる。(【甲府/甲州古文書】) ●武田信玄、甲斐国内に寺社の禁制を掲げる。 《解説『甲府市史』》 (略)晴信から信玄と改名した直後の竜朱印状と思われる。 ○十一月九日、武田信玄、身延山久遠寺に末寺支配を安堵する。 ●五月、武田信玄、長尾景虎上洛に乗じ奥郡・越後境出陣を計り、佐久郡松原諏訪社に戦勝を祈る。 (長野県史) ●『松原神社文書』武田晴信、信玄を名のる。 敬白 願書の意趣は、 今度ト問最吉に任せ、甲兵を信州奥郡並びに越州の境に引卒す。信玄多 年如在の礼賽あり、造次にもここに於いてし顛沛にもここに於いてす。 希はくは天鑑に随ひ、敵城悉く自落退散し、しかのみならず長尾景虎吾 軍に向はば、すなはち越兵追北消亡せんことを、併せて松原三社の保祐 を仰ぐものなり。神明私なし。凱歌を奏して家安泰に帰するの日に至ら ば、具足一両糸毛・神馬一疋、宝前に献じ奉るべきの条、件の如し。 永禄二年己未年 五月吉日 釈信玄 花押 ●六月二十六日、足利義輝、武田晴信の出兵なじり、信濃の諸将士に長尾景虎に従い戦闘を停止するように令する。 ●八月三日、屋代政国、諏訪上社への寄進地年貢を桑原市中升(ます)で十八俵と定め これを同社人に伝える。 ●九月一日、武田信玄、小県郡下之郷社(生島足島神社)に願文を納め、長尾景虎との決戦の勝利を祈る。 敬ひ申す願書【生島足島神社文書】 帰命頂礼、下郷諏訪法性大明神に言ひて曰はく、徳栄軒信玄越軍出張を 相待ち、防戦せしむべきか否やの吉凶、預め四聖人にト問す。その辞に 曰はく、九二の孚喜あるなり。 〔薦約を経て神の享くるところとなる。これを斯喜となすと云々〕 希はくは天艦に随ひ越軍と戦ひ、すなはち信玄存分の如く勝利を得、し かのみならず長尾景虎忽ち追北消亡せんことを。併せて下郷両社の保祐 を仰ぐものなり。神明私なし。 凱歌を奏し、家安泰に帰するの日に到って、己未の歳よりこれを始め、 十箇年の間、毎歳青銭十緡修補のため社納し奉るべきものなり。仍って 願状件の如し。 維時永禄二年秋九月 武田徳栄軒信玄 花押 ●九月、武田晴信の軍、上野安中・松井田を侵す。(【長野】) ※十月二十六日、長尾景虎、越後に帰る。(【長野】) ●十一月十三日、長尾景虎の関東管領補任を祝し、村上義清・高梨政頼を筆頭に、須田・真田氏ら信濃の諸将多数、太刀などを贈る。(【長野】) ●十一月廿日、武田信玄、屋代政国に、隠居の際に埴科郡福井などの地を宛行ことを約し、分量に従って軍役を勧めるよう記す。(【長野】) (信玄宛行状の軍役規定の初見) ●十二月十三日、秋山善右衛門、伊那郡赤須昌為に、草刈場に入れる区域と馬数の規定を渡す。(【長野】) 永禄 三年 1560【甲陽】《信虎-67歳・信玄-40歳・勝頼-15歳》 ●二月朔日に、北条氏康公より御使いが甲府に達する。その理由は、謙信が去年十月より上野の飛来へ進出して来ていて、関八州の侍大将勢を大田三楽(資正)が策略を用いて悉く謙信旗本に勢力下にひきつけている。また都から近衛殿を通じて公方と名付け、氏康を倒すべき名目を得たそうで、このままではと考え、信玄公の加勢をお頼み申す由の便である。云々 永禄 三年 1560 ●二月二日、武田信玄、諏訪上社造営(御柱立)にあたり、信濃一国に諸役を課する。(【長野】) ※三月卅日、能登、神保良春ら、武田信玄に応じ、長尾景虎の信濃出陣の背後を突く。景虎、これを越中富山城に破る。(【長野】) ●三月十一日、信玄、郷中での重科人の密告を命ずる。【甲府】 ●四月廿八日、長尾景虎、信玄が越中に外交の手を伸ばしことを常陸の佐竹氏に報ず る。(年代は推定)【甲府/福王寺文書】 ※五月十九日、織田信長、今川義元を桶狭間で破る。 ○五月十九日、駿河之義元尾張成実ニテウチ死。(【王代】) ●六月六日、信玄、御室浅間神社に分国諸関所通行手形を与える。【甲府/浅間文書】 ●六月十五日、武田信玄、香坂筑前守に更級郡横田のうち屋代氏らは海津城を築かせ、 城代春日虎綱を置く。【長野】 ●七月十三日、信玄、高野山成慶院を宿坊と定める。【甲府/高野山成慶院文書】 ●八月二日、信玄、龍王川除場の移住人を募る。【甲府/保坂家文書】 ●八月廿五日、信玄、府中八幡社の国中社人の勤番制を敷く。【甲府/八幡社文書】 ●八月廿五日、信玄、国中修験僧の条目を定める。【甲府/武田文書】 ※八月二十五日、長尾景虎、関東出陣中の留守諸将の掟を定め、信濃鎮定は高梨政頼に 輪番合力するように命じる。【長野】 ※九月廿八日、北条氏康、武州河越に出陣。ついで長尾景虎、上野厩橋城に拠る。 ●十月十七日、信玄、北条援助のため、加賀・越中一向宗徒の越後侵攻を本願寺顕如に 求める。【長野】 ●十月十八日、信玄、北高全祝を岩村田竜雲寺に入れ、曹洞門派に条目を定める。 【甲府/永昌院文書(山梨県山梨市) ●十月廿二日、武田信玄、大井左馬允に、小諸城の定普請小諸出陣のさいの兵糧輸送を命じる。【長野】 永禄四年 1561【長野】《信虎-68歳・信玄-41歳・勝頼-16歳》 ●二月十四日、武田信玄、諏訪上社の宝鈴を鳴らす銭額を上五貫文・中三貫文・下一貫二百文と定める。 ※三月、長尾景虎、信濃・越後と関東将士を率い、北条氏康を相模小田原城に囲む。 ※三月、長尾景虎、鎌倉鶴ヶ丘八幡宮の神前で関東管領就任を報告、上杉政虎と改名、この日足利義氏擁立を約する。 ●4月十一日、武田軍、北条氏康支援のため碓氷峠を越え上野松井田に進む。ついで借宿近辺に放火する。 ●四月十七日、武田信玄、市川右馬助ら一族に、上野南牧の戦功により蔵入地佐久郡瀬 戸などを宛行う。 ●八月二十四日、信玄、上杉政虎が越後・信濃勢を率い善光寺に出陣する報により、信 濃など分国諸将を率い川中島に着陣する。 ☆第四回川中島合戦☆ ●九月十日、上杉政虎・武田信玄軍、川中島で激戦し、死傷者多数を出す。政虎自ら太刀打ちし、信玄の弟信繁(典厩)ら討ち死にする。【長野】 ●今度於信州川中嶋、輝虎及一戦之刻、小宮山新五左衛門尉被囲大勢之処、其方助合若 党数輩被疵、剰彼敵三人討捕之、無比類働尤神妙也、弥可致忠戦之状如件。 永禄四年九月十日 晴信判 河野但馬守との【甲府/御庫本古文書纂】《信憑性?》 ●今十日巳刻、与越後輝虎於川中嶋合戦之砌、頸七討捕之、其方以走廻被遂御本意候、 弥可忠信者者也、仍如件。 永禄四年九月十日 信玄(花押影) 松本兵部殿【甲府/益子家文書】《信憑性》 ※上杉政虎が小田原へ出征していた際、信玄は佐久軍へ出陣して、政虎の後方退路をおびやかした。越後へ帰着した政虎は八月十四日、川中島に向かって出陣した。九月十日早朝、両軍は川中島の八幡原で対戦した。これを第四回の川中島合戦といい、最大の激戦であった。前半は上杉方、後半は武田方が有利な展開をした。 ※【甲府/『大田家文書』】 今度信州表に於いて、晴信に対し一戦を遂げ、大利を得られ、八千余討ち捕られ候こと、珍重の大慶に候。期せざる儀に候と雖も、自身太刀討に及ばるる段、比類なき次第、天下の名誉に候。よって太刀一腰・馬一疋(黒毛)差し越し候。はたまた当表のこと、氏康松山口に致って今に張陣せしめ候、それに就いて雑節ども候。万一出馬遅延に於いては、大切たるべきことども候間、油断なく急度今般越山あるべく候。手前可火急に申し廻り候条、かくの如くに候。早々待ち入り候。なほ西洞院左兵衛督申すべく候条詳らかにする能はず候。恐々謹言。 十月五日 前久(花押) 上杉殿 永禄四年 1561【長野】 ●十月卅日、信玄、山城清水寺成就院に伊那郡面木郷を寄進し、高井郡市川城・水内郡野尻城攻略のうえさらに寄進を約する。このころ飯山・野尻両城付近を除き、武田軍がほぼ信濃を制圧する。 ●十一月二日、信玄、北条氏康赴援に出兵するにあたり、佐久郡松原神社に戦勝を祈る。ついで出陣する。 ●十一月十三日、武田信玄、上野甘楽郡に入り、つきで国峰城を攻略する。 ●十一月廿日、信玄、四郎勝頼の元服式の祝儀を諸方へ送る。 【甲府/栃木県採集古文書】 ●十一月廿五日、信玄、上野国一宮に高札を与える。【甲府/大坪家文書】 ●十一月廿七日、上杉政虎、古河城近衛前久(さきひさ)救援に関東出陣、この日武田信玄と呼応する北条氏康と武蔵生山(なまのやま)で戦う。 ●十一月廿八日、信玄、小畑氏に松山城攻めの感状を与える。【甲府.諸家家蔵文書】 永禄四年 1561【長野】 ●十二月廿三日、武田信玄、小県郡長窪・大門両宿に、信玄竜朱印状によらず伝馬を出すことを禁じる。 ☆第四回川中島合戦☆(吉田豊氏訳・『甲陽軍艦』) 【訳】永禄四年辛西八月十六日、信州川中島から甲府に伝令が来て申しあげるには、上 杉輝虎が出動して、海津の向かい、西条山に陣をとり、ぜひとも海津城を攻め落とそう としている。その兵力は一万三千ほどとのことであった。 そこで信玄公は、同月十八日、甲府を出発されて、同月二十四日に川中島へお着きに なった。そして、謙信の陣営である西条山のこちら側、雨の宮の渡しを占拠し、そこに 陣をはられた。このため謙信の側では、越後への退路を断たれ、あたかも袋にとじこめ られたようになったと心配したが、謙信は少しも心配する様子はなかった。 こうして信玄公は、五日間、その場所に陣をはられ、六日目の二十九日に、広瀬の渡 しを越して海津の城におはいりになった。しかし謙信は、家老の意見も聞かず、それま でとおり西条山におられる。 ここで、信玄公に対し飯富兵部が、ここぞという決戦をなさいますようにと、おすす め申しあげた。また信玄公は馬場民部助を召されてご相談になったところ、馬場も決戦 をなさるようにと申しあげる。 信玄公は「当家の武勇すぐれた侍大将たちのうち、小幡山城はこの六月に病死、原美 濃もこの夏、信州わりか嶽城攻めにおいて、十三カ所の負傷で、まだその傷が治らぬた め、今何は召し連れなかった」と仰せられて、山本勘助を召され、馬場民部助と相談の 上、明日の合戦の配備を定めよと仰せつけられた。 山本勘助はそこで、 「二万の兵力のうち、一万二千を謙信が陣をかまえる西条山に向けて、明日の卯の刻 (午前五時ごろ)から合戦を始めれば、越後勢はやがて、勝っても、負けても、川を越 えて引揚げるでありましょうから、そこを御旗本組、第二陣の部隊によって前後からは さみ討ちにして、討ちとめなさるように」と申しあげた。それによって、高坂弾正、飯 富兵部少輔、馬場民部、小山田備中、甘利左衛門尉、真田一徳斎、相木、芹山下野、郡 内の小山田弥三郎、小幡尾張守、この十隊は西条山に向かって卯の刻から合戦を始め る。一方、御旗本組としては、中央に飯富三郎兵衛、左に典厩信繁殿、穴山信吉殿、右 は内藤修理、諸角豊後の各隊。 御旗本組脇備として、左に原隼人、逍遥軒信廉殿、右に太郎義信殿二十四歳、望月の 各隊。御旗本組後備として跡部大炊助、今福善九郎、浅利式部丞の各隊、以上十二隊、 御旗本とともに八千の兵力が、今夜の七つ寅の刻(午前三時ごろ)に出発して広瀬の渡 しを越して陣を布き、敵が川を越えて退くときに戦闘を始めると定められた。 ところが謙信公は、武田勢の先鋒と旗本の部隊との炊事の煙が立つ様子を、西条山り 上からご覧になり、上杉方の侍大将全員を集めて、 「十五年前、未の年の秋に、信玄二十七歳、謙信十八歳のとき、争いを始めて以来、た びたびの含戦をしてきたが、信玄の布陣にはつねに手落ちがなく、結局のところ戦場の 主導権を信玄に握られて、謙信はつねに敗れたかのような有様であった。明日は合戦と 思われるが、信玄の作戦としては、兵力を二手に分け、半分をこの陣に向けて合戦を始 め、謙信の旗本が川を越して退こうとするところを、あと半分の兵力によって討ちとろ うとの計略を立てていることが、鏡にうつるかのように察しられる。ここはひとつ、謙 信もその裏をかいて、ただちに川を越えてそこで夜を明かし、日が出たならば攻めかけ て合戦を始め、信玄の先鋒が駆けつけぬうちに、武田勢を切り崩し、信玄の旗本と、わ が旗本とで一戦をとげ、信玄と自分とが取り組み合い、組みふせて、刺し違えるなり、 またはそのときの様子で和睦するなりとしよう。いずれにせよ、明日は二つに一つの合 戦ぞ」といわれた。 輝虎は甲骨に身を同め、九月九日の亥の刻(午後九時ごろ)に西条山を出発して雨の 宮の渡しを越え、対岸に移られたが、一万三千もの兵力でありながら、音も間こえなか った。これは、越後勢が、戦のときは一人に三人分ずつ、朝食を用意させておく軍律と なっているため、夜になって人馬の食物をつくることがなく、火を焼く色が見えなかっ たためである。以上。 こうして九月十日のあけばの、信玄公は広瀬の渡しを越し、八千余の兵力で陣を布 き、先鋒からの報告をお待ちになっていたが、日が昇り、霧がすっかり晴れわたると、 輝虎勢が一万三千の部隊で、まことに近々と陣をしいているではないか。 謙信は強敵、対等の兵力であってさえ危い合戦だというのに、信玄公は八千、謙信 は、一万三千である。たとえ勝利できたとしても、味方には多くの討死が出るであろう と、武田方の人びとが考えたのも当然であった。 信玄公に、信州侍の浦野という武勇すぐれた武士を召されて、斥候に出された。 浦野は見て戻り、御前にかしこまって「輝虎は退きました」と申しあげる。信玄公は 判断力にすぐれた大将であるだけに、「謙信ほどの者が、宵から川を越し、そこで夜を 明かしていながら 空Lく引き取ることがあろうか。では、退き方はどのようであった か」とおききになった。 浦野は、「謙信は、味方の陣を辻回しては前にふさがり、幾度もそのようにしなが ら、犀川のほうへと向かってまいりました」と申しあげる。 信玄公はこれを聞かれて、「なんと、浦野らしくもないことを申すではないか。それ は車がかりといって、いくまわり目かに、わが旗本と敵の旗本とを打ち合わせ、合戦を するための戦術である。謙信はきょうを限りと覚悟の見えた」と仰せられて、陣を立て 直された。 謙信は、甘糟近江守という剛勇の侍大将の雑兵とも千人の部隊をはるか後方に置き、 二千の兵を持つ直江という侍大将に小荷駄奉行を申しつけ、白らは一万の軍勢を指揮し て、柿埼という侍大将を先鋒に、第二陣に輝虎が立ち、旗を傾けて無二無三に攻めかか り、一気に合戦を始めた。 その問に、謙信の旗本の一隊は、信玄公の備の右側にまわり、義信公の旗本五十騎、 雑兵四百あまりの部隊を追い立てて、信玄公の旗本めがけて斬りかかる。 敵味方合わせて三千六、七百の軍兵が入り乱れ、突きつ突かれつ、斬りつ斬られつ、 互いに鎧の肩をつかみ合って、組み合って転ぶもの、頸を取って立ちあがるもの、その 頸はわが主人のものと名乗って槍で突きふせるもの、それを見ては、またそれを斬りふ せるものという有様、甲州勢も目の前の戦いにまぎれて、信玄公がどこにおられるかも わからず、また越後勢もそのとおりであった。 このとき、萌黄色の胴肩衣を着た武者が白手拭で頭を包み、月毛の馬に乗って、三尺 ほどの刀を抜身に持ち、信玄公が牀机の上におられるところへ、真一文字に乗りよせ て、三太刀切りかかったが、その切っ先ははずれ、仁文公は軍配団扇でこれを受け止め られた。あとで見たところ、団扇に八カ所の刀傷があった。 さて、ご中間頭、二十人衆頭など二十騎は、いずれも剛勇の武者たちだったので、奮 戦しながら信玄公を敵味方からわからぬように取りかこみ、近寄ろうとする者を斬り払 う。そのとき、ご中間頭の原大隅が、青貝の柄のお槍をとって、月毛の鱒に乗った萌黄 緞子の胴肩衣を着た武者を突いたが、突き損したため、鎧の肩をめがけて打ったとこ ろ、鎧の背をたたいたため、馬は竿立ちになって走り去っていった。 あとで聞けば、この武者こそ輝虎であったという。 信玄公卿旗本組のうち、飯富三郎兵衛の部隊は、越後方先鋒第一陣の柿崎隊を追い崩 し、三町ほども迫撃する。穴山殿の部隊も、謙信勢の,柴田隊を四町ほと迫撃する。 信玄公はお中間頭二十人のほかは、土屋平八、直田喜兵衛ら、十七、八のお小姓たちだ けを従えられて、本営の御牀机のところから少しもお立退きにならなかった。 だが、甲州勢のそのほかの九部隊は、太郎義信公の隊をはじめすべて敗れ、千曲川の 広瀬の渡しに向けて追撃されつゝ退いていった。なかでも、典厩信繁殿討死、諾角豊後 守討死、旗本足軽大将の中では山本勘助入道道鬼、初鹿源五郎の両人が討死、信玄公も お腕に二カ所の軽傷を負われ、太郎義信公も二カ所の負傷をされた。 かくしての合戦は、ほとんど信玄公のお負けかと見えたところへ、西条山に向かって いた先鋒の十隊が謙信に出しぬかれ、鉄砲の音、ときの声を聞いて、われがちに千曲川 を越して、越後勢の後方から攻めかかり、追撃戦を開始した。 さすがの謙信も、和田喜兵衛という侍ただ一人をつれ、名高い放生月毛の馬をも放し て、家老の乗りかえ馬に乗り、主従わずか二騎、高梨山をめざして退かれた。 典厩殿のお頸は、ご家来の山寺という武士が敵方から奪い返し、しかもその相手を討 ちとめて、典厭殿のお頸にそえて持ち帰った。諸角豊後の頸は、諸角輩下の石黒五郎兵 衛と三河牢人の成瀬という武士の両人で取り返し、越後方の頸を取って戻ってきた。 この合戦は、卯の刻に始まった前半は、ほぼ越後輝虎方の勝利、巳の刻に始まった後 半は信玄公のご勝利であった。越後勢を討ち取った数は雑兵ともに三千百十七、その頸 帳をしたためて、同日申の刻(午後三時ごろ)にかちどきをちげられた。お太刀持ちは 馬場民部助、弓矢取りは信州侍の諸賀であった。 永禄四年辛西九日十日、信州川中島合戦とはこのことである。 この合戦以後、輝虎は信州に侵攻しなくなった。すでに諏訪頼重、伊奈の人びと、木 曽義康は降参、深志の小笠原長時と葛尾の村上義清に輝虎が加わって年々の戦いがあっ たのだが、合わせて二十四年にして、ようやく信州は平定された。 信玄公の合戦ぶりは、信州の諸勢との戦いによって巧妙,になられたのである。以上。 (後略)(品第三十二) 市河氏について 江戸時代の地図から、越後と信濃の道を探る。 江戸時代の絵図から信濃国と越後国を結ぶ道4方向、 野尻湖の東岸と西岸を抜ける道が二本。 千曲川の東に十日町(新潟県)へ抜ける道。 飯山から千曲川の西に十日町へ抜ける道。 と、 飯山から富倉峠や関田峠をはじめとした鍋倉山周辺を越える間道が5本 小谷から糸魚川に抜ける道が二本。 越後へ抜ける道でもっとも主要なのは、飯山を経由して鍋倉山付近を越えていく道筋と、野尻湖の道筋であったことになり、飯山と野尻湖という地が交通上、越後国防上必要不可欠な道であった。 武田晴信 天文二十二年(1553)、村上領を制圧して善光寺平へ進出した。 村上義清 越後国へ逃れて長尾景虎へ救援を求めました。 信濃豪族 残された北方を領する信濃の豪族達武田に就くか、隣国の長尾景虎に就くかを迫られました。 長尾景虎 北信濃の豪族達に救援を請われた長尾景虎は、天文二十二年から弘治三年までの五年間に三度信濃へ出陣し、延べ一年間近くも滞陣しました。 武田晴信 武田晴信に飯山と野尻湖を占領されると、幾つものルートで越後へ入られ、景虎の居城である春日山城やその城下町へは約三十五キロメートルの距離なので、武田軍は何もなければ一日もかからず到達できる。 長尾景虎 救援を請う豪族を保護することにする。様々な状況から該当地域武将たちは結局次のような選択をしました。 武将の選択 武田軍 高井郡の市河氏、木島氏(木島平村)、井上氏(須坂市)等、 長尾軍 岩井氏(中野市)、安田氏、東条氏、井上氏、須田氏、嶋津氏、高梨氏等 武田晴信 武田 飯富兵部少輔虎昌 塩田城(上田市) 武田晴信は北信濃への取り掛かりとして、飯富兵部少輔虎昌を佐久、上田、深志、諏訪の四方を結ぶ重要な拠点である塩田城(上田市)におきました。飯富虎昌は長男の武田義信の守り役も務める信玄にとって信頼を寄せる重臣で、塩田において北信濃の調略や作戦の指揮、善光寺平への兵站線の指揮をしました。 長尾 高梨政頼 ☆高梨政頼 弘治三年(1557)、中野(中野市)を中心に一帯を支配していた高梨政頼は、飯富の調略などによる相次ぐ裏切りと、攻撃に耐えきれず、中野を放棄して水内郡の飯山へ退却しました。 政頼など北信濃の豪族達は飯山を死守、長尾景虎へ救援を依頼するが、景虎は出陣しませんでした ☆高梨政頼 高梨政頼は「持ち堪えられず、飯山を放棄するしかない」と書状に書いて景虎を脅しました。 ☆長尾景虎 和議により定めた境界を侵して葛山城を落とした武田晴信を許すことができず、翌年の弘治四年(1558)=永禄元年春、長尾景虎は越後をようやく出陣し、 山田城(高山村)、福島城(須坂市)を落とし、武田軍と睨み合いながら善光寺平を臨む旭山城(長野市)を再築しました。 この時、高梨政頼は裏切った野沢(野沢温泉村)の市河氏を説得しましたが、うまくいきませんでした。 武田と上杉が戦っている最中、京都の将軍家は各地の武将に上洛するように要請しました。 長尾景虎はこれに応じることにし、 将軍足利義輝は武田晴信に上杉を攻めないように要請し、 晴信もそれに応じる返答書を出しました。これによって永禄2年(1559)長尾景虎は5千の軍を率いて上洛をし、関東管領に任命されました。しかし、上洛中にも武田晴信は、自分が前年に信濃守に任命されたので北信濃を領する権利があるとして侵入しました。下のような古文書が残っています。 この古文書は、征夷大将軍足利義輝が大館上総介晴光を使者として長尾景虎に与えたものになります。内容は、武田と上杉の和議の事について、武田晴信に度々伝えているが命令を聞かない。さらに上杉の国境を侵して乱入していると聞いた。しからば信濃国の諸侍の事は戦闘の途中なので、その始末を長尾景虎のやりたいように任せると書いてあります。 そして上杉政虎(永禄3年改名)が小田原の北条を攻めている最中の永禄4年(1561武田軍は黒姫山と飯縄山の間に道を切り開いて割ケ嶽城を攻撃し、初めて野尻湖まで侵入しました。これによって上杉政虎は、遂に許し難しと決着を付ける覚悟を固めました。有名な第4次川中島の開戦です。『上杉年譜』によると、上杉軍の先鋒には村上、高梨、島津、井上、須田と北信濃の豪族達が書かれています。彼等のこの戦にかける意気込みは相当のものだったでしょう。上杉軍は武田のキツツキ戦法を逆手にとって、妻女山を暗いうちに下り、川向こうで待つ武田信玄の本陣へ向かいました。その時この信濃先鋒衆は、妻女山から信玄を救おうと追ってくる別働隊を迎え撃つために、山裾に陣を張ったと云われています(高速道路の松代SA付近)。 甲越一和の事、晴信に対し度々下知を加ふると雖も同心なし、結句分国境目に至って乱入の由、是非なく候、然らば信濃国諸侍の事、弓矢なかばの由に候間、始末景虎意見を加ふべきの段肝要に候、なほ晴光申すべく候なり。 六月廿六日 長尾弾正少弼とのへ (足利義輝花押) 山本管助の名が記載されている先の古文書は、ちょうどこの頃のものになります。文には野沢を守る市河藤若を長尾軍が攻撃したが守りが固く飯山へ引き上げていったとあります。そして、これ以後は武田晴信へいちいち救援依頼するのではなく、塩田の飯富に出陣するように言ってあるので、そちらに依頼するようにと述べています。野沢には野沢城がありましたが、それは今の温泉街のある所で、館のようなものでした。とても堅固で落とせなかったものとは思えないような城です。周辺にはその他、西浦城、平林城が千曲川沿にありました。この頃の武田晴信から市河氏への古文書に、新しい城にて立て籠もるようにとの命令が残っているので、どちらかの武田が築城した城に籠城したのかもしれません。倉賀野(群馬県高崎市)の文字が出てきますが、永禄2年(1559)秋、武田信玄(永禄2年改名)は上野国へ出陣しているので、年代としてはこの年ではないかと推測されます(文には「景虎」が攻めたとありますが、本人ではないと考えています)。この時に野沢まで出向いて市河藤若の戦功をねぎらった使者が山本管助であったというわけです。翌々年の9月10日第4次川中島の戦いで山本管助は討死しました。 武田晴信は、長尾景虎との対決と飯山を攻略するのに塩田から善光寺平までは距離があるので、真田幸隆が落とした雨飾城(尼厳とも、長野市)を廃して麓に拠点を築くことにしました。永禄3年にほぼ完成させた海津城(かいづじょう)です。さらに前線への拠点として永禄11年長沼城(長野市)も完成させました。これら前線の城には伊那の箕輪衆、坂西氏、佐久の北方衆などの信濃の降伏した者達にあたらせました。 一方、長尾景虎も数年にわたる武田晴信との戦闘において、飯山の守備を信濃の豪族にあたらせました。現存している史料から守備していたのは上倉下総守、奈良沢民部少輔、上堺彦六、泉弥七郎、尾崎三郎左衛門、中曾根筑前守、今清水源花丸、岩井備中守らでした。どのような防御網を敷いていたのか不明ですが、飯山に侵入するには対岸から千曲川を渡ってくるか、替佐方面(中野市)しかないので、この方面の防備を固めていたものと思われます。また、野尻湖へ向かう道は、大倉城や矢筒城などによって野尻湖南の防御網を島津氏が守っていました。彼等には信濃国に殆ど領地が無いので、高梨をはじめ越後国に知行所を与えられて忠義に励んでいました。そして当時の飯山は、江戸時代のような城下町が整備されていたわけではなく、千曲川河畔に泉弥七郎の館があるだけの小村落にすぎませんでした。景虎はこれを補強して永禄7年(6年ともある)飯山城を完成させ、家臣の桃井義孝と加地春綱を援軍(飯山城代)として2之郭に配備しました。 これら戦国時代の城は信濃に無数ありました。城跡の発掘調査などをすると決まって出土するものがあります。石臼、硯、砥石、鉄釘、銅銭、かわらけ、内耳鍋、中国産の青磁・白磁・青花、常滑焼の甕、瀬戸焼の天目茶碗、黄瀬戸の器になります。特に多いのが「かわらけ」で、酒などを飲む時の杯に使用されました。主に手で練ったいわゆる土器で、直径10cm前後で、高さ2cmぐらいのものになります。その数は多い城で数千点にのぼります 市河氏の出自に関しては、米沢上杉藩士の記録である『米府鹿子』に見える市川氏は「滋野氏・本領信濃」と記されている。一方で、平安時代に越後に勢力を持っていた桓武平氏城氏の流れともいい、戦国時代の信房は藤原姓を称している。いずれにしろ、市河氏の出自は不明としかいいようがない。 鎌倉中期の文永九年(1272)、市河重房は中野忠能の一人娘を後妻とし子の無かった忠能に先妻の子盛房を養子として入れた。その後、重房は盛房と共謀して、忠能のもうひとりの養子である中野仲能、広田為泰らと激しい相続争いを繰り返した。そして順次志久見郷を蚕食してついにはその全域を掌握した市河氏は中野氏を被官化し、名実ともに志久見郷の地頭職として志久見郷の実権を掌握した。 かくして、志久見郷を本拠とした市河氏は南北朝・室町時代には各地に転戦し、それらの戦功により勢力を拡大していったのである。 ●南北朝の争乱 鎌倉末期から南北朝の当主は盛房の子助房で、元弘三年(1333)新田義貞が東上野笠懸野で挙兵したとき越後の新田一族は義貞に呼応して義貞の陣に急行したが、市河助房は情勢を傍観、一ヶ月後に至ってやっと陣代として弟経房らを参陣させている。そして、建武の新政が成立すると足利尊氏のもとへ参陣した。 建武の新政がなったとはいえ、信濃は北条氏が長く守護をつとめていた関係から北条氏の勢力が強く、不穏な気配が濃厚であった。建武二年(1335)諏訪氏に匿われていた北条高時の遺児時行が挙兵し、鎌倉に攻め上った。「中先代の乱」であり、この乱にくみした水内郡常岩御牧北条の弥六宗家らを討伐するため、善光寺・府中の浅間宿を転戦し、それが機縁となって信濃守護の小笠原氏に属するようになった。 その後、北条方、南朝方として守護小笠原氏に対抗する諏訪・滋野氏一族らに対し守護方として船山郷青沼・八幡原・篠井四宮河原などで戦っている。この間、惣領助房を助けて一族の倫房・経助・助保らが守護方として活躍、倫房・助保父子は建武二年望月城を攻略し、東筑摩郡・諏訪方面各所を転戦した。堀川中納言光継を信濃国司として迎えたとき、横河城で戦功をたて軍忠状をえている。このように南北朝の内乱において市河一族は、惣領助房とともに守護小笠原氏貞宗に属し武家方として活躍した。 助房は実子が生まれなかったため、一族の経高を養子としたが、のちに頼房が生まれたため、所領のうち志久見郷の惣領職、備前国の私領を頼房に譲り、志久見郷内の平林村を経高に譲る旨の譲状を作成している。また、このころの市河氏は国中平(くむちぬけ)神社のある場所に居館を構え、西浦城を詰めの城としていたようだ、そして、一族を志久見郷内に配して南方方面からの敵に備えている。 やがて、足利尊氏と弟直義の不和から観応の擾乱が起ると、市河氏は越後守護上杉氏に属し直義方として行動した。擾乱のなか政局は複雑に推移し市河氏ははからずも南朝方に属するということもあり、尊氏方の守護小笠原氏とも対立した。直義が尊氏に敗れて急死したことで乱は終熄したが、越後の上杉氏らは南朝方に通じて尊氏方に抵抗を続け、市河氏も上杉氏と行動をともにした。そのころ、下高井郡の高梨氏が中野氏を駆逐して北方に進出、正平十一年(1356)、市河氏は上杉氏の支援を得て高梨氏の軍をうちやぶっている。その後、上杉氏が尊氏方に帰順したことで、市河氏も守護小笠原長基に降伏し武家方に転じた。 ●大塔合戦 応安元年(貞治七年=1368)二月、関東において河越氏を中心とする平一揆が起った。頼房は信濃守護職上杉朝房に属して出陣、武蔵河越、下野横田・贄木、さらに宇都宮まで転戦し、宇都宮城攻めにおいて左肩・右肘を射られ負傷したという。 その後、応安三年(1370)には常岩御牧南条の五ヶ村を兵糧料所として預かり、永和元年(1375)、上杉朝房から本領を安堵された。その後、信濃守護職に任ぜられた斯波義種から所領を安堵され、守護代の二宮氏泰、守護斯波義将からも安堵・下知・預領・感状を受けている。 至徳四年(1387)、村上氏を盟主とする反守護の国人らが守護所に攻め寄せたとき、頼房は守護代二宮是随に属して村上方と戦った。そして、応永六年(1399)に至って斯波氏に替わって、小笠原長秀が信濃守護職に補任された。翌年、京都から信濃に入部した長秀は、善光寺に守護所を定めると信濃一国の成敗に着手した。しかし、長秀の施策は国人の反発をかい、ついに国人は村上満信・大文字一揆を中心とした北信の国人衆が武力蜂起を起こした。 世に「大塔合戦」といわれる戦いで、市河刑部大輔入道興仙(頼房)は甥の市河六郎頼重らとともに守護方に属して出陣した。両勢力は川中島で激突し、戦いは守護方の散々な敗北に終わり、京都に逃げ帰った小笠原長秀は守護職を解任されてしまった。この合戦に守護方として戦い敗れた市河氏は、戦後、国人衆らに領地を押領されるなどの乱暴を受けている。 高梨氏らと同様に北信の国人領主である市河氏が守護方に付いたのは、高梨氏と対立していたことが背景にあり、両者の対立は戦国時代まで続いている。また、北信の山岳武士である市河氏は、権力を尊ぶ気持ちも強かったようだ。以後、市河氏は一貫して守護方として行動し、管領細川氏から感状を受ける等幕府からもなみなみならぬ信頼を受けていたことが知られている。 ところで、南北朝時代のはじめより関東には鎌倉府がおかれ、幕府から関東八州の統治を任せられていた。その主は鎌倉公方と呼ばれ、代々足利尊氏の三男基氏の子孫が世襲したが、代を重ねるごとに幕府との対立姿勢が目立つようになってきた。 ●関東の戦乱 室町時代になると、関東では上杉禅秀の乱、佐竹氏の乱、小栗の乱と戦乱が続いた。その背景には、鎌倉公方持氏の恣意的な行動と鎌倉府と幕府との対立があった。禅秀の乱後、持氏は禅秀党の討伐に東奔西走したが、その結果、公方の専制体制が強化されることになった。それに危惧を抱いた幕府は佐竹山入・宇都宮・真壁・小栗の諸氏を「幕府扶持衆」とし、禅秀の遺児らを任用して持氏を監視させた。これに反発した持氏は、小栗氏ら幕府扶持衆の諸氏の討伐を始めたのである。 幕府はこのような持氏の行動を怒り鎌倉を征しようとしたが、持氏が陳謝したことで合戦は避けられた。その結果、幕府は山入祐義を常陸の半国守護に、甲斐の守護には持氏の推す逸見氏を斥けて武田信重を任じるなどして持氏の行動に掣肘を加えた。 しかし、持氏の暴走は止まらず、結局、永享十年(1438)、管領上杉憲実との対立が引き金となって幕府と武力衝突するに至った。いわゆる永享の乱であり、敗れた持氏は自害、鎌倉府は滅亡した。 この一連の関東争乱のなかで、応永二十九年(1422)の「小栗の乱」に際して、市河新次郎が幕府の命を受けた小笠原氏とともに関東に出征したことが「市河文書」から知られる。そして、この常陸出陣を最後に市河氏の動向は戦国時代に至るまでようとして不明となるのである。永享の乱後の結城合戦において、信濃武士が小笠原政康に率いられて出陣したが、そのときの記録である「結城陣番帳」にも市河氏の名は見えない。 とはいえ、その間も市河氏が北信の領主として一定の勢力を維持していたことは、諏訪神社上社の重要祭事の御符入の礼銭、頭役銭を注記した記録『諏訪御符礼之古書(すわみふれいのこしょ)』からうかがえる。 諏訪神社は信濃の一宮として信濃全国に奉仕氏人をもち、この氏人のいる村々は諏訪祭礼の世話役を順番につとめることになっていて、その世話役を頭役といった。しかし、世話役をつとめることは容易なことではなく、費用も莫大な額に上った。そして、この頭役を宝徳四年(1452)から長享二年(1488)までの三十七年間のうち、市河氏が七度にわたってつとめたことが御符礼之古書に記録されている。 一方、このころ市河氏は東大滝に分家を出したといわれ、その家は大滝土佐守を称し戦国時代に至っている。また「栄村史」では、御符礼古書の時代における市河氏の領地は高梨氏などから侵略を受け、志久見郷に押し込められていたのではないかと推察している。 ●越後の争乱と市河氏 市河氏の動向が知られるようになるのは、越後の内乱である「永正の乱」においてである。市河氏の領地は越後との国境に近いことから、越後に争乱が起きるとその影響を受けざるを得なかった。そういう意味では、越後上杉氏の活動に従うことも多かったと思われ、関東の戦乱に越後守護上杉氏が出陣したとき市河氏も出陣したかと思われるが、先述のように記録が残されていないので確かなことは分からない。 越後守護上杉氏は関東公方と管領上杉氏の対立から起った享徳の乱において、関東管領職を継いだ次男顕定を援けて大活躍した房定の時代が全盛期であった。その子房能も凡庸ではなかったが、尊大で気位が高く関東の戦乱に出陣して窮乏のなかにある国人たちの苦労を省みることもなかった。その房能を補佐していたのが守護代長尾能景であったが、永正三年(1506)房能の命で越中に出陣した能景は戦死し、そのあとを為景が継いだ。為景は剛勇不遜な人物で、やがて守護房能と対立するようになり、翌永正四年、房能の養子定実を擁してクーデタを起した。敗れた房能は兄が管領をつとめる関東に逃れようとしたが、為景勢に追撃され松山郷天水峠で自害した。 弟の死を知った関東管領顕定は弟の仇を討つとともに越後の領地を確保するため、永正六年、養子憲房を越後妻有庄にに先発させた。対する為景=定実方は、長尾景長・中条藤資・斎藤・毛利・宇佐美らを出撃させた。これに信濃衆の高梨摂津守・市河甲斐守らが加わって、市河氏の領地である志久見郷から妻有に攻め込み、憲房方の本庄・色部・八条・桃井らと戦ってこれを撃ち破った。その敗報に接した顕定は大軍を率いて上州から越後に攻め込み、為景=定実軍を破り越後を制圧した。為景らは越中に逃亡し、信濃衆の高梨・市河氏らはそれぞれの山城に立て籠る事態となった。 越後を制圧した顕定は為景=定実に与した国人たちに大弾圧を加え、容赦なく討ち滅ぼしたため越後国内には顕定を怨嗟する声が広がっていった。一方、越中に逃れていた為景らは佐渡に渡り態勢を整えなおすと越後に上陸、椎屋の戦いに勝利すると顕定の拠る府内に攻め寄せた。顕定はこれを迎え撃とうとしたが、これまでの圧政から越後国人で味方に参じる者は少なく、ついに兵をまとめて関東へ兵を返した。為景勢はこれを急追し、長森原において顕定勢をとらえ、合戦のすえに高梨政盛が顕定を討ち取った。この合戦には市河氏も参加したと思われるが、それに関する史料がないので詳細は不明である。 こうして、市河氏の領する志久見郷と国境を接する越後の争乱は為景=定実方の勝利に終わった。しかし、その内実は定実を擁した為景の下剋上であり、ほどなく為景と定実との対立が生じると越後は内乱状態となった。 ●武田氏の信濃侵攻 ところで、戦国乱世にあって市河氏は知られる限り侵略的な戦争はしていなかったようだが、松之山四ケ郷を侵略していたことが、天文九年(1540)長尾景重が板屋藤九郎に与えた感状から知られる。すなわち、板屋藤九郎が市河氏に奪われていた松之山四ケ郷を奪い返したことに長尾景重が感状を与えたものである。おそらく市河氏は、先の越後の永正の乱の混乱に乗じて松之山四ケ郷を奪い取ったが、のちに奪い返されたものであろう。ほとんど侵略戦争をしなかったとはいえ、市河氏も戦国時代を生きる国人領主であったことを示している。 天文十年、甲斐の戦国大名武田信虎が嫡男の晴信によって駿河に逐われ、晴信が武田家の当主となった。以後、信濃は武田晴信(のち出家して信玄)の侵略にさらされることになる。天文十一年、晴信は大軍を率いて諏訪に侵攻し諏訪頼重を捕らえて甲府に送ると自害させ、諏訪氏は滅亡した。ついで、天文十六年には佐久を平定し、翌年には小県郡に進出した。そして、北信の強豪村上義清と上田原で激突したが、義清の奮戦で武田方は板垣信形・初鹿野伝左衛門らを討たれる敗北を喫した。 武田氏の敗北に乗じた小笠原長時は、ただちに諏訪に攻め込んだが、晴信の出陣を聞いて塩尻に退いて武田軍を迎え撃った。ところが、小笠原勢から武田勢に寝返る者が出たため長時方は敗れ、武田軍は敗走する小笠原氏を追撃して筑摩郡を制圧した。翌年には長時をその本城から追い払い、諏訪・佐久・筑摩・安曇郡を掌中に収めたのである。 天文十九年夏、晴信は改めて小県に軍を進め村上義清方の砥石城を攻撃せんとした。これに対する村上方は、山田・吾妻・矢沢らが城を守り、義清は精兵六千を率いて後詰めに出陣し、武田・村上の両軍は激戦となった。戦いは七日にわたって続いたといわれ、結果は横田備中・小沢式部らを討たれた武田軍の敗戦となった。村上義清は強勢の武田軍を相手によく戦ったといえよう。 ところが、翌年五月、突然、砥石城が落城した。これは、武田方の真田幸隆の謀略によるもので、村上勢を追い払った幸隆が砥石城代となった。そして、翌年七月、武田軍は村上義清の立て籠る塩田城に攻め寄せ、ついに義清は越後の長尾景虎を恃んで信濃から落ちていった。かくして、武田晴信は信濃をほぼ制圧下においたのであった。 ●武田氏に属す このころ、市河氏はどうしていたのだろう。 市河氏は越後の争乱に際して長尾方として行動していたが、長尾氏との関係を背景とした高梨氏の勢力拡大によって近隣の諸領主は滅ぼされ、あるいは降服し、高梨氏の勢力は市河氏領にも及んできた。ついには。小菅神社領を緩衝地帯として高梨氏との争いを続けていたようだが、状況は市河氏に不利であった。 武田氏が北信濃に勢力を及ぼしてくると、市河氏が武田氏に款を通じたのもこのような背景があったからである。また、晴信は長尾氏家中に調略の手を伸ばし、大熊朝秀がそれに応じて景虎に反抗した。このとき市川孫三郎信処も晴信に応じたようで、晴信の兵は村上方の葛山城を落し、高梨氏の本城である中野城にまで迫ろうとした。そのおゆな弘治二年(1556)、武田晴信は市川孫三郎に対して高梨領安田遺跡を与える事を約束している。 一方、領地を武田氏に逐われた村上・高梨氏らは、越後の長尾景虎の援助をえて失地回復を図ろうとした。景虎も北信濃が武田氏に侵略されることは、直接国境を接することになり、捨ててはおけない一大事であった。こうして、景虎は北信の諸将を援けて武田晴信と信濃川中島において対決することになったのである。 景虎が川中島に初めて馬を進めたのは、天文二十二年(1551)といわれている。以後、川中島の合戦は五度に渡って戦われた。そのなかでも最も激戦となったのが、永禄四年(1561)九月の戦いであった。永禄四年の戦いは、謙信と信玄とが一騎打を行ったといわれ、戦国合戦史に残る有名な戦いだが勝敗は五分と五分であったようだ。その後も、信玄は信濃侵略の手をゆるめず、永禄六年には上倉城を攻略、翌年には野尻城を攻め落とした。このため、謙信は川中島に進出して信玄と対陣したが、決戦いはいたらなかった。 その後、川中島地方は信玄にほとんど攻略されたが、武田氏に属する市川氏は上杉方に攻撃されて志久見郷から逃れるということもあったようだ。しかし、小笠原・村上・高梨氏ら信濃諸将の旧領復帰はならず、信濃は信玄が治めるところとなった。その結果、武田氏に通じていた市川氏らは旧領に帰ることができた。信玄が市川新六郎に宛てた文書によれば、市川新六郎は前の通り知行を安堵されるとともに、妻有のうちに旧領の外三郷を与えられたことが知られる。また、市川氏の領地が上杉領と接していることから、城内は昼夜用心せよ、普請も油断なくせよ、濫に土地の人を城内に入れるなとか、さまざまな注意を書き連ねた制札を与えられている。 ●時代の転換 元亀三年(1572)、信玄はかねてよりの念願である上洛の兵を発した。そして、三河国三方ケ原で徳川・織田連合軍を一蹴し、天正元年(1573)には野田城を攻め落した。ところが、このころ病となり静養につとめたが、ついに軍を甲斐に帰すことに決し、その途中の信州駒場において死去した。武田氏の家督は勝頼が継いだが、天正三年、織田・徳川連合軍と長篠で戦い壊滅的な敗戦を被り、馬場・原・山県ら信玄以来の宿将・老臣を失った。以後、武田氏は衰退の一途をたどり、ついに天正十年、織田軍の甲斐侵攻によって滅亡した。 一方、上杉謙信は信玄の死後は信濃に侵攻することもなく、関東・越中方面の攻略に忙しかった。そして、天正六年三月、関東への陣触れをした直後に急病となり、帰らぬ人となった。謙信には実子が無かったため、二人の養子景勝と景虎が謙信後の家督をめぐって内乱となった。この内乱に際して、一方の景勝は景虎方に味方する武田勝頼と和議を結び、翌七年、景虎を御館に破って上杉氏の家督を継いだ。このときの和議によって、飯山地方は武田領となり、以前から武田氏に属していた市川氏や分家の大滝土佐守らは勝頼から所領安堵を受けている。 さて天正十年に武田氏を滅ぼした信長は旧武田領を配下の部将に分け与え、川中島四郡は森長可が与えられ長可は海津城に入った。この事態の変化に際し、市川氏は森氏に従って飯山城を守った。川中島四郡の領主となった森氏は越後の上杉景勝を攻撃するために出陣し、春日山城に迫る勢いであった。ところが、六月、織田信長が明智光秀の謀叛によって本能寺で死去したため、またもや時代は大きく転回することになる。 本能寺の変によって、森長可は上方へ去っていった。市川氏はただちに飯山城を開城して上杉景勝に降り、川中島四郡の諸将士も上杉方に転じ、村上・井上・高梨・須田・島津氏らが旧領に復帰してきた。その後、飯山城には岩井備中守が城代として入った。 ●戦国時代の終焉 織田信長が死去したのちの信濃は上杉・徳川・後北条氏の草刈り場となった。家康は真田昌幸をして海津城の屋代越中守を上杉方から離反させて北信に進出しようとし、みずからは甲府に出張した。これを聞いた景勝は岩井備中守に出陣する旨を連絡し、市川信房にも知らせた。これに対して信房は家康はまだ甲府におり、あわてることはないでしょうと返事をしている。そして、屋代のように家康に通じる者も出たが、川中島四郡は上杉方によって守られた。 本能寺の変後の中央政界では、羽柴秀吉が大きく台頭した。秀吉は本能寺の変を聞くとただちに中国から兵を返し、明智光秀を山崎の合戦に滅ぼし、ついで柴田勝家を賎ヶ岳に破ると北ノ庄に滅ぼした。ついで、大坂城を築いてそこを居城とした秀吉は、十二年には家康と長久手で戦い、翌年には四国を平定、ついで家康と和睦し、太政大臣に任じられて豊臣の姓を賜った。まさに目まぐるしい勢いで天下統一を押し進めていった。そして、天正十五年五月、島津氏を降して九州を平定、十八年七月には小田原北条氏を滅ぼし、奥州仕置によって奥州も平定して、ついに天下統一を実現したのである。ここにおいて、「応仁の乱」以来一世紀にわたって打ち続いた戦国時代は終わりを告げた。 徳川家康は後北条氏のあとを受けて関東の大大名となり、市川氏の属した上杉景勝も慶長三年(1598)、越後から会津百二十万石への転封を受けた。このとき、上杉氏の家臣団も景勝に従って会津に移ったが、市川氏もまた住み慣れた信濃の地から遠く会津の地へと移っていった。いまも、市川氏が支配した地域は市河谷と称されているが、その地を治めた市川氏は会津に去り、さらに関ヶ原合戦後に米沢に減封された景勝に従って米沢へと移っていった。 明治維新後の廃藩置県により禄を失った市川氏は、鎌倉以来の『市河文書』を携さえて北海道へ屯田兵として入植。そして、この市河文書のなかに、武田信玄の軍師といわれる山本勘助の記述があり、勘助が実在した人物であったことが知られたのは有名な話である。・2006年02月27日 【参考資料:栄村史/野沢温泉村史/中野市史/下高井郡史 ほか】 ■参考略系図 ・室町時代の歴代は、「諏訪御符礼古書」に記された市河氏の記述などをもとに復元、それぞれの続柄などは不明。 ところで、鎌倉期における市河氏の人物として、『東鑑』治承四年(1180)八月には市河別当行房が鎌倉方として見え、建仁二年(1202)~建暦二年(1212)条には市河別当五郎行重、承久元年(1219)条には市河左衛門尉祐光が見える。さらに、『東鑑』寛元二年(1244)八月条には市河掃部允高光法師(法名見西)見えることから、「行房―行光(またの名が定光。その弟行重)―祐光―高光」と続く系図が推定される。甲斐の市河高光が信濃国船山郷に領地をもっていたことから、信濃の市河一族も甲斐の同族と考えられるが、その関係を明らかにすることはできない。 長沼城は室町時代に島津氏がこの付近に移り住み、領主として館が築かれたものと思われる。 武田信玄が北信濃に侵攻してきて、対上杉との戦線が、 飯山城、野尻城へと北上すると、越後国境攻防用基地として再建工事が行われた。この再建は永禄11年(1568)馬場信房によるものとされ、城代として海津城から市川梅隠、原与左衛門が入ったという。 武田氏滅亡後も森長可、上杉景勝と入り、川中島四郡の支配に海津城と共に重要視された城である。 江戸時代になると長沼藩一万八千石として佐久間氏が入ったが、元禄元年(1688)に移封され、幕府の直轄領となり廃城になった。 【上】長沼城の碑 現在遺構は無いに等しい。千曲川を東側の要害とし、西側は現在の県道368号が旧堀跡の外周をコの字型に迂回しているという。碑は貞心寺の北東約80mの堤防沿いにあり、碑の背後の土盛りが本丸土塁の跡といわれる。平城であるが武家屋敷も総構えの中に取り込んでいた、海津城よりも古い形態を残した近世城郭への移行期の縄張りだったという。 「市河文書」は中世を通じて奥信濃(長野県下高井郡北部)に在地領主制をしいた豪族市河氏に伝えられた中野・市河両氏の古文書の総称である。「嘉応2年(1170)2月7日、平家某下文」を巻頭に、「永禄12年(1569)10月12日、武田信玄軍役徴発定書」までの、平安時代末から戦国時代末に及ぶ146通(16巻)は、信濃の根本資料であり鎌倉幕府下文・官宣旨・国宣・雑訴決断所牒・安堵状ほか、各種文書が含まれる。 2006年08月08日 市河文書 木島平村高石にある泉龍寺出入口付近のようす。この寺(曹洞宗)は市河信房によって創建(1582年5貫文寄進)されたもの。寺には市河信房の墓と言われる古い宝篋印塔があります。ちなみに私の父の菩提寺。参道は杉並木、高い石垣に囲まれていることもあり、この写真の付近から本堂を直接見ることはできません。これは城郭・城下町(長野市長沼等)などによく見られる見通しをはばむ防御の備えとなっているからです。 市河氏は南北朝時代新田義貞軍に加わって鎌倉を攻撃したほか足利尊氏軍にも参加。戦国時代は武田方に属し、信玄死後上杉景勝に従い、景勝会津移封により転出。この時の6700石は山浦(村上)氏の6500石よりも多く、信濃武士としては5番目(注)。重臣として上杉家にはなくてはならない存在だったようです。市河家の菩提寺は常慶院、長野県栄村と米沢市にあるのは移封するとき寺も一緒に移ったため。 また、大阪冬の陣鴫野表の戦いで市河房綱、大俣吉元等上杉軍が多数戦死。当時上杉家の重臣であった房綱の戦死は上杉景勝によって大きなショックだったことでしょう。上杉軍は大きな犠牲を払った功績もあって家名を存続できたのかもしれません。 市河氏を有名にしたのは国の重要文化財(戦前は国宝)に指定されている「市河文書」の存在。この文書(山形県酒田市の本間美術館保管)は1170年から1569年までの詳細な歴史資料が記述されています。 昭和44年、従来の市河文書(国重要文化財)のほかに北海道にも市河文書(欠落部分、釧路市指定有形文化財)の残されていることがニュースに。文献(中世信濃武士意外伝)によればNHK大河ドラマ「天と地と」放映時に市河氏末裔の方が公表。これにより初めて山本勘助?(山本管助)が実在したことを示す文書も含まれていたとのこと。それまで山本勘助は全くの架空の人物とされていたようですからわからないものです。ちなみに勘助の墓は長野市松代町柴の河川敷に存在(豊川市、富士市、韮崎市にも)、考えてみれば架空人物の墓まで造らないでしょうか。 猿飛佐助や霧隠才蔵にしても存在を示す新たな文書が発見されれば脚光をあびるかもしれません。 市河家に関する詳細(須田家等も)は下記サイトで紹介されています。 (注)木島平村誌によると1000石以上の知行諸士(同心分除く)は以下のとおり。 須田大炊介長義20,000石、清野助次郎長範11000石、栗田刑部小輔国時8500石、島津月下斎忠直7000石、市川左衛門尉房綱6700石、山浦村上源吾景国6500石、芋川越前親正6000石、岩井備中守信能6000石、春日右衛門元忠5000石、須田式部3270石、平林蔵人佑正垣3000石、香坂与三郎昌能2100石、井上隼人2100石、大岩新左衛門2000石、須田大学2000石、栗田主膳2000石、芋川縫殿親元2000石、保科善内1500石、夜交左近1500石、大室兵部1500石 なお、山梨県に市川氏があるため市河氏として表示しました。 「市河文書」は中世を通じて奥信濃(長野県下高井郡北部)に在地領主制をしいた豪族市河氏に伝えられた中野・市河両氏の古文書の総称である。「嘉応2年(1170)2月7日、平家某下文」を巻頭に、「永禄12年(1569)10月12日、武田信玄軍役徴発定書」までの、平安時代末から戦国時代末に及ぶ146通(16巻)は、信濃の根本資料であり鎌倉幕府下文・官宣旨・国宣・雑訴決断所牒・安堵状ほか、各種文書が含まれる貴重な武家文書である。戦前は国宝、戦後は重要文化財として指定された。 河中島五箇度合戦記より (作者不明) 第一回合戦 1、上杉謙信を頼った信州の武将 村上左衛門尉義清 信州五郡の領主村上左衛門尉義清は、清和源氏伊予守頼義の弟で、陸奥守頼清の子、白河院蔵人顕清が初めて信州に住むようになり、四代目の孫に当たる為国、その子基国の後胤。 高梨摂津守政頼 高梨摂津守政頼も、伊予守頼義の弟井上掃部(かもん)頭頼季三代の孫に当たる高梨七郎盛光の子孫。 井上河内守清政 高梨の一族。須田相模守親政も一家。 島津左京進親久 頼朝の子島津忠久の子孫。 上記の武将のほか多数の信州武将が、甲州武田信玄に敗れて、越後に落ちのび、長尾景虎(謙信)を頼って来た。中でも村上義清は、多年にわたり武田と戦っていたが、とうとう負けて、天文22年(1553)6月に越後に落ちのび、謙信の力を頼って、自分の領地坂本の城に復帰すると事が念願であった。 上杉謙信(長尾景虎) 謙信はこの年間2月初めて京都に上った。24歳の時である。これは、前の年の天文21年5月に将軍の使があって、謙信は弾正少弼従五位下(だんじようひようひつじゆごいのげ)に任ぜられた。このお礼に京都に上ったのである。謙信は京都御所に参り昇殿をゆるされ、後奈良天皇に拝謁し、天盃をいただいた心また将軍義輝公にお目見えして、種々親しいお言葉を賜り、五月に帰国したところに六月村上義清が武田晴信に追われ、謙信を頼りにした。その上高梨政頼、井上清政、須田親政、島津親久、栗田、清野などがそろって越後を頼り、助けを求めてきた。 天文21年10月12日、田浜で勢ぞろいをして信州に向かって出発した。 途中、武田側の武将の領地は焼き払い、自分の館の中に居て、刃向かいしない者の領地は処分せず、、11月1日に川中島に陣を取った。 武田晴信(信玄) 晴信も二万の兵をひきいて甲府を出陣した。同19日から両軍の間は四キロ足らずで毎日小競り合いを繰り返した。 上杉軍 27日に謙信から平賀宗助を使者にして、明日決戦をすることを申し送り、その備えを定め、夜のうちに人数を出した。 先手は長尾平八郎、安田掃部、長尾包四郎、元井日向守清光、同修理進弘景、青河十郎を左右備えた。 左の横槍は諏訪部次郎右衛門行朝、水間掃部頭利宣とし、奇兵は、長尾七郎景宗、臼杵包兵衛、田原左衛門尉盛頼。 二番手は小田切治部少輔勝貞、荒川伊豆守義遠、山本寺宮千代丸(後の庄蔵行長)、吉江松之助定俊、直江新五郎実綱と定めた。 後陣は長尾兵衛尉景盛、北条丹後守長国、斎藤八郎利朝、柿崎和泉守景家、宇佐美駿河守走行、大国修理亮などの面々を七手に分け、四十九備えとしてそれを一手のように組んで円陣を作り、28日の夜明を目処に一戦を始めた。 武田軍敗北 武田方も十四段構えに備え防戦し、敵味方ともに多くの負傷者、戦死者を出した。下米宮橋を中心として、追いつめ、押し返して、昼近くまで合戦の勝負はつかなかった。しかし、越後方は千曲川の橋から上流を乗り越え、武田勢の後方にまわったので、武田方は敗れ、横田源介、武田大坊、板垣三郎など戦死、また駿河から応援に来た朝比奈左京進、武田飛騨守、穴山相模守、半菅善四郎、栗田讃岐、染田三郎左衛門、帯兼刑部少輔など名のある人々を含んで甲州方の戦死者は五千余りにのぼった。上杉謙信は12月3日、京都公方に大館伊予守が戦の経過を注進する。これが謙信と信玄との戦いの始めである。 この頃、謙信は長尾弾正少弼と号していた。関東管領の上杉憲政は北条氏康に圧迫され、越後に内通し、管領職と上杉の姓、憲政の一字を下されたが、管領職は辞退し、謙信は景虎を改め政虎と名乗るようになった。これは天文23年(1554)春のことであった。 第二回合戦 天文23年8月初め、謙信は越後を発ち川中島に着き、丹波島に陣取った。越後留守居として、謙信の姉婿上条の城主の上条入道、山浦主水入道、山本寺伊予守、大国主水入道、黒金上野介、色部修理、片貝式部の七人にその勢力八千を残した。 上杉謙信 謙信は川中島に陣を張り、 先手は村上義清、二番手は川田対馬守、石川備後守房明、本庄弥次郎繁長、高梨源五郎頼治の四人。 後詰(ごづめ/応援)は柿崎和泉守景家、北条安芸守長朝、毛利上総介広俊、大関阿波守規益の四人である。 遊軍は、本庄美作守慶秀、斎藤下野守朝信、松川大隅守元長、中条越前守藤資、黒川備前為盛、新発田長敦、杉原壱岐守憲家、上条薩摩守、加地但馬守、鬼小島弥太郎、鬼山吉孫次郎、黒金治部、直江入道、山岸宮内、柏崎日向守、大崎筑前守高清、桃井讃岐守直近、唐崎左馬介、甘糟近江守、神藤出羽介、親光安田伯音守、長井丹後守尚光、烏山因幡守信貞、平賀志摩守頼経、飯盛摂津守、竹股筑後守春満など二十八備え、侍大将が二行に陣を張り、旗を進めた。宇佐美駿河守定行二千余、松本大学、松本内匠介千余は旗本脇備えである。 総軍の弓矢奉行をつとめるのは、謙信の姉婿に当たる上田政貴で、飯野景久、古志景信、刈和実景の4人は、みな長尾という同名で謙信の一門である。これで越後勢は合わせて八千である。犀川を越え、網島丹波島原の町に鶴翼の陣を取った。 武田軍 武田晴信も同15日に川中島を通って、海津城に入り、16日に人数を繰り出して、東向きに雁行に陣取った。先手は高坂弾正、布施大和守、落合伊勢守、小田切刑部、日向大蔵、室賀出羽介、馬場民部の七組で、七百の勢が先手に旗を立てて進んだ。 二番手には真田弾正忠幸隆、保科弾正、市川和泉守、清野常陸介の四人が二千の兵を率いて陣取る。 後詰は海野常陸介、望月石見守、栗田淡路守、矢代安芸守の四人で二千七百。遊軍は仁科上野介、須田相模守、根津山城守、井上伯音守の五人、四千の軍勢である。 これを二行立てに陣を張り、総弓矢奉行は武田左馬介信繁、小笠原若狭守長詮、板垣駿河守信澄の三人の備えとなった。 旗本の先頭は、飯富(おぶ)二郎兵衛昌景、阿止部(跡部)大炊介信春、七宮将監、大久保内膳、下島内匠、小山田主計、山本勘介、駒沢主祝の八人で、信玄の本陣の左右には、名家の侍の一条信濃守義宗と逸見山城守秀親(信玄の姉婿)が万事を取り仕切る。 その他、下山河内守、南部入道喜雲、飯尾入道浄賀、和賀尾入道、土屋伊勢、浜川入道の六人が二千の兵と陣を敷いた。 ところが日夜お互いに足軽を出して小競り合いをしたが、合戦にはならなかった。 上杉軍 天文23年8月18日の朝はやく、越後方から草刈りの者二、三十人出し、まだうす明かりの中から駆けまわる。それを見ていた甲州の先手の高坂(弾正)陣の足軽が百人ばかり出て、謙信方の草刈りを追いまわした。これは計略であったので、越後方から村上義清と高梨政頼の足軽大将である小室平九郎、安藤八郎兵衛ら二、三百人の者が夜のうちから道に潜んでいて、高坂の足軽を全部を討ち取った。これを見て、高坂弾正、落合伊勢守、布施山城守、室賀出羽介の陣から百騎あまりの者が大声を上げて上杉勢の足軽勢を追いたて、上杉方の先手の陣のそばまで押し寄せて来た。それを見計らって、義清、政頬の両方の軍兵一挙に出て、追い討ちをかけ、武田勢百騎を総て討ち取ってしまった。そのため、高坂、落合、小田切、布施、室賀などの守りが破れ、武田晴信の本陣まで退いていった。 武田軍 武田方は先手が負け、さらに追いたてられるのを見て、真田幸隆、保科弾正、清野常陸、市川和泉などが第二陣から出て、勢いで追いたてて一旦、上杉勢を追い返して、陣所の木戸口まで迫り、義清、政頼も危機を迎えた。 上杉軍 この時、二番手から越後方の川田対馬守、石川備後守、高梨源五郎の三隊、そのほか遊軍の中から、新発田尾張守その子因幡守、杉原壱岐守の五隊が二千ばかりの兵と、ときの声をあげて駆け出て、武田勢を追い散らして戦った。 そのうち、真田幸隆が傷を受けて退くところを、「上杉方の高梨頼治」と名乗って、真田にむんずと組んで押しふせ、鎧の脇のすきまを二太刀刺した。保科弾正はそれを見て、「真田を討たすな、者どもかかれ」と戦った。真田の家人細谷彦助が、高梨源五郎の草ずりの下をひざの上から打ち落した。つまり主人の仇を取った。これから保科を槍弾正と言うようになったという。保科もその時、越後方の大勢に取りこめられて、危なく見えたが、後詰の海野、望月、矢代、須田、井上、根津、河田、仁科の九人がこれを見て、保科を討たすな、と一度にときの声をあげて、追い散らした。 越後の本陣に近いところまで切りかかってきたところ、越後の後詰斎藤下野守朝信、柿崎和泉守景家、北条安芸守、毛利上総介、大関阿波守など三千あまりが切って出て追い返し、押しもどして戦った。この戦いで、敵も味方も、負傷者、戦死者を多く出し、その数は数えきれぬほどであった。 謙信は紺地に日の丸、白地に「毘」の字を書いた旗を二本立て、原の町に備えをととのえ、その合戦が続いた。そのうちに信玄は下して、犀川に太い綱を幾本も張り渡して、武田の旗本大勢がその綱にすがって向こう岸に上り、芦や雑草の茂った中の細道から、旗差物を伏せしのばせて出て、謙信の旗本にときの声を上げて、にわかに切り込んで来た。 そのため、謙信の旗本はいっぺんに敗れ、武田方は勝に乗じて追い討ちをかけて来た。 信玄は勇んで旗を進めたところに、大塚村に備えを立てていた越後方の宇佐美駿河守定行のひきいる二千ばかりの軍が、横槍に突きかかり、信玄を御幣川に追い入れた。そこに越後方の渡辺越中守が五百余騎で駆けつけ、信玄の旗本に切ってかかり、宇佐美の軍とはさみうちに討ち取った。武田勢は人も馬も川の水に流されたり、また討ち取られた者も数知れなかった。 そのうちに謙信の旗本も戻り、越後方上条弥五郎義清、長尾七郎、元井日向守、沼野掃部、小田切治部、北条丹後守などが信玄の旗本を討ち取った。その他、青川十郎、安田掃部などは御幣川に乗り込み、槍を合わせ太刀で戦い名を上げた。手柄の士も多かった。しかし討ち死にした者も数多かった。 信玄も三十ばかりの人数で川を渡って引き1げるところを、謙信は川の中に乗り込んで二太刀切りつけた。信玄も太刀を抜いて戦う時、武田の近習の侍が謙信を取り囲んだが、それを切り払った。しかし、なかなか近づけず、信玄も謙信も間が遠くへだてられた。その時、謙信に向かった武田の近習の士を十九人切った謙信の業は、とても人間の振る舞いとは思われず、ただ鬼神のようであったといわれる。謙信とはわからず、甲州方では越後の士荒川伊豆守であろうと噂されていた。後でそれが謙信とわかって、あの時討ち取るベきであったのに残念なことをした、とみなが言ったという。 信玄は御幣川を渡って、生萱山土口の方に向かい、先陣、後陣が一つになって負け戦であった。甲州勢は塩崎の方に逃れる者もあり、海津城に逃げ入った者もあった。 中条越前が兵糧などを警護していたところ、塩崎の百姓数千がそれを盗みに来たため、中条がこれを切り払った。このためまた、武田、上杉の両軍が入り乱れてさんざんに戦った。両軍に負傷者、死者が多く出た。信玄は戦に敗れて、戸口という山に退いた。上杉勢がこれを追いつめ、そこで甲州方数百を討ち取った。 信玄の弟、左馬介信繁が七十騎ばかりで、後詰の陣から来て、信玄が負傷したことを聞き、その仇を取ると言って戻って来た。その時、謙信は川の向こうにいた。左馬介は大声で、「そこに引き取り申されたのは、大将謙信と見える。自分は武田左馬介である。兄の仇ゆえ、引き返して勝負されたい」と呼びかけた。謙信は乗り戻って、「自分は謙信の家来の 甘糟近江守という者である。貴殿の敵には不足である」と言って、川岸に馬を寄せていた。 待っていた左馬介主従十一人が左右を見ると敵はただ一騎である。信繁も、「一騎で勝負をする、みな後に下っているよう」と真っ先に川に入るところを、謙信は川に馬を乗り入れ、左馬介と切り結んだ。左馬介は運が尽きて打ち落され、川に逆さまに落ち込んだ。謙信は向こうの岸に乗り上げ、宇佐美駿河守が七百余で備えている陣の中に駆け入った。一説に は武田左馬介信繁を討ち取った者は村上義清であるともいう。上杉家では、左馬介を討ち取ったのは、謙信自身であったと言い伝えている。甲州では信玄は二か所も深手を負い、信繁は討ち死にしたのである。板垣駿河守、小笠原若狭守も二か所、三か所の負傷で敗軍であった。 越後勢も旗本を切り崩されて敗軍したが、宇佐美駿河守、渡辺越中守が横槍に入り、信玄の旗本を崩したのに力を得て、甲州勢を追い返して、もとの陣に旗を立て、鶴翼の陣を張ることができた。 この時の戦は天文二十三年甲寅八月十八日。夜明けから一日中十七度の合戦があった。武田方二万六千のうち、負傷者千八百五十九人。戦死者三千二百十六人。越後方は負傷者千九百七十九人、戦死者三千百十七人であった。十七度の合戦のうち、十一度は謙信の勝、六度は信玄の勝であった。謙信は旗本を破られたが追い返して、もとの場所に陣を張ることができた。武田方は信玄が深手を負い、弟の左馬介戦死、板垣、小笠原なども負傷したため、陣を保てず、夜になって陣を解いて引き上げた。謙信も翌日陣を解き、十九日には善光寺に逗留して、負傷者を先に帰し、手柄を立て名を上げた軍兵に感状証文を出して、 二十日に善光寺を引き払い、越後に帰陣した。これが天文二十三年八月十八日の川中島合戦の次第である。 第三回合戦 弘治二年丙辰(一五五六) 三月、謙信、川中島に出陣、信玄も大軍で出向し陣を張った。日々物見の者を追いたて、草刈りを追い散らし、足軽の小競り合いがあった。 信玄のはかりごとでは、戸神山の中に信濃勢を忍び込ませて謙信の陣所の後にまわり、夜駆けにしてときの声を上げて、どっと切りかかれば、謙信は勝ち負けはともかくとして千曲川を越えて引き取るであろう。そこを川中島で待ち受けて討ち取ろうとして、保科弾正、市川和泉守、栗田淡路守、清野常陸介、海野常陸介、小田切刑部、布施大和守、川田伊賀守の十一人の、総勢六千余を戸神山の谷の際に押しまわし、信玄は二万八千の備えを立てて、先手合戦の始まるのを待った。先手十一隊は戸神山の谷際の道を通って、上杉陣の後にまわろうと急いだが、三月の二十五日の夜のことである。道は険しく、春霞は深く、 目の前もわからぬ程の闇夜で、山中に道に迷い、あちこちとさまよううちに、夜も明け方になってきた。 謙信は二十五日の夜に入って、信玄の陣中で兵糧を作る煙やかがり火が多く見られ、人馬の音の騒がしいのを知り、明朝合戦のことを察し、その夜の十時ごろに謙信はすっかり武装をととのえて八千あまりの軍兵で、千曲川を越えた。先陣は宇佐見駿河守定行、村上義清、高梨摂津守政頼、長尾越前守政景、甘糟備後守清長、金津新兵衛、色部修理、斎藤 下野守朝信、長尾遠江守藤景九組の四千五百。二番手に謙信の旗本が続いて、二十五日夜のうちに、信玄の本陣に一直線に切り込み、合戦を始めた。 信玄は思いもよらぬ油断をしていた時で、先手がどうしたかと首尾を待っていたところに越後の兵が切りかかった。 武田方の飯富兵部、内藤修理、武田刑部信賢、小笠原若狭守、一条六郎など防戦につとめた。しかし、越後方の斎藤、宇佐美、柿崎、山本寺、甘敷、色部などが一度にどっと突きかかったので、信玄の本陣は破れ、敗軍となった。その時板垣駿河守、飯富、一条など強者ぞろいが百騎ばかり引き返して、高梨政頼、長尾遠江守、直江大和守などの陣を追い 散らし、逃げるを追って進んで来るところを、村上義清、色部、柿崎などが、横から突きかかって板垣、一条などを追い討ちにした。小笠原若狭守、武田左衛門、穴山伊豆守など三百騎が、「味方を討たすな、者どもかかれ」 と大声で駆け入って来た。 越後方でも杉原壱岐守、片貝式部、中条越前、宇佐美、斎藤などが左右からこの武田勢を包囲して、大声で叫んで切りたてた。この乱戦で信玄方の大将分、板垣駿河守、小笠原若狭、一条など戦死、足軽大将の山本勘介、初鹿野源五郎、諸角豊後守も討ち死にした。 二十五日の夜四時ごろから翌二十六日の明け方まで、押し返し、押し戻し、三度の合戦で信玄は負けて敗軍となり、十二の備えも追いたてられ討たれた者は数知れなかった。 謙信が勝利を得られたところに、戸神山よりまわった武田の先手十一組、六千余が、川中島の鉄砲の音を聞き、謙信に出し抜かれたかと我先に千曲川を越え、ひとかたまりになって押し寄せた。信玄はこれに力を得て引き返し、越後勢をはさみうちに前後から攻め込んだ。前後に敵を受けた越後勢は、総敗軍と見えたが、新発田尾張守、本庄弥次郎が三百 余で、高坂弾正の守る本陣めがけて一直線に討ちかかり、四方に追い散らし、切り崩した。 上杉勢は一手になって犀川をめざして退いた。 武田勢は、これを見て、「越後の総軍が、この川を渡るところを逃さず討ち取れ」と命じ、われもわれもと甲州勢は追いかけて来た。上杉勢は、退くふりをして、車返しという法で、先手から、くるりと引きめぐらし、一度に引き返し、甲州勢の保科、川田、布施、小田切の軍を中に取りこめて、一人残らず討ち取ろうと攻めたてた。 信玄方の大将、河田伊賀、布施大和守を討ち取り、残りも大体討ち尽くすころ、後詰の栗田淡路、清野常陸介、根津山城守などが横から突いて出て、保科、小田切の軍を助けだした。越後の諸軍は先手を先頭にして隊をととのえて、静かに引きまとめ犀川を渡ろうとした。そこへ、信玄の先手、飯富三郎兵衛、内藤修理、七宮将監、跡部大炊、下島内匠、小山田主計などが追って来た。本庄美作、柿崎和泉、唐崎孫之丞、柏崎弥七郎などが、引き返して戦っているところに、新発田尾張守、斎藤下野守、本庄弥次郎、黒川備前守、中条越前守、竹股筑後守、その子右衛門など八百あまりが柳原の木陰からまわって来て、それぞれに名乗り、何某ここにあり、そこをひくなと大声で叫び、一文字に突いてかかった。 そのため甲州勢はもとの陣をさして退いた。越後勢は勝って、その足で川を越え、向こうの岸に上がった。甲州勢はなおも追いかけようとひしめいたが、越後方の宇佐美駿河守が千あまりで市川の渡り口に旗を立て、一戦を待つ様子に恐れ、その上、甲州方は夜前から難所を歩きまわり、疲れているのに休む間もなく四度も合戦になったため、力も精も尽き 果てて、重ねて戦うだけの気力をなくした。 甲州本陣にいた軍兵が代わりに追討軍を組もうとしたのを信玄は厳しく止めたので、一人も追っ手は来なかった。越後勢はゆっくり川を越して、はじめの陣所に引き上げた。 この日の合戦は夜明けの前に三度、夜が明けてから四度、合わせて七度の戦いで、越後方戦死三百六十五人、負傷者千二十四人。甲州方の戦死者は四百九十一人、負傷者千二百七十一人と記した。中でも、大将分小笠原若狭守、板垣駿河守、一条六郎、諸角豊後、初鹿野源五郎、山本勘介をはじめ、信玄の士の有名な人びとが討ち死にしたので翌二十七日に信玄は引き上げた。謙信も手負いの者、死人など片づけ、軍をまとめて引き上げた。弘治二年三月二十五日の夜から、二十六日まで、川中島の第三度の合戦であった。 第四回合戦 弘治二年八月二十三日、謙信は川中島に出て、先年の陣所より進んで川を越えて、鶴翼に陣を張った。両度の陣と同じ陣形である。村上義清、高梨政頼を中心として、丸い月の形に十二行の陣立てである。信玄は二万五千の兵で出陣した。 今度の越後の陣取りは、長期戦とみえて、薪を山のように積んでおいたと、甲州の見張りの者が報告するのを、聞いて信玄は、「一日二日の間に、越後の陣に夜中に火事があるだろう。その時、一人でも進んで出て行く者があったら、その子孫までも罰するだろう」 と下知した。 すると、二十三日の晩方、越後の陣所より荷物を積んだ馬や、荷を持った人夫が出て、諸軍旗を立てて陣を解き、引き上げるようにみえた。甲州方の軍兵が、謙信が引き上げるのを逃さず追い討ちにしようとした。信玄は一の木戸の高みに上ってその様子をながめて、「謙信ほどの大将が、日暮れになって陣を払って退くようなことがあるはずがない。これを追ってゆけば必ず失敗である。一人も出てはならぬ」 と止められた。思ったとおり、その夜二時ごろ、越後の陣から火事があり、たいへんな騒ぎとなった。だが、信玄が厳しく命令して一人も出なかった。間もなく夜が明けて、越後の陣地を見渡すと、通り道をあけて、きちんと武装した武士が、槍、長刀を持って、六千ばかりが二行に進んで、敵が近寄るのを待ち受けていた。朝霧が晴れるにしたがって見わたすと、二行になった備えの左側の先手は長尾政貴、右側は宇佐美駿河守走行、松本大学、中条越前を頭として十備え、杉原壱岐守、山本寺伊予守、鬼小島弥太郎、安田伯者守などを頭として十二備えが続いている。 中筋は、紺地に日の丸の大旗、「毘」の字を書いた旗の下に、謙信が床凡に腰をかけて、一万あまりの軍勢がそれを取り囲み、敵を待ち受けていた。甲州勢はこれを見て、ここに攻め込めば一人として生きては帰れまい。この備えのあることを見破った信玄の智は計り知れない、ただ名将というだけでなく、鬼神の生まれ代わりともいうべきものだと、みな感じ入ったという。 その翌日、信玄は戦いの手立てを考えて言った。「夜中に甲州方一万の人数を山の木の陰にひそかに隠し、馬をつないである綱を切り越後の陣に放してやる、そして馬を追って人を出す。敵陣から足軽がこの放した馬に目をつけて必ず出て来るだろう。その時、足軽を討ち取るように見せかけて、侍百騎を出して越後の足軽を追いたてれば、謙信は、気性の強い武士であるから、百騎の勢を全滅しようと出て来るだろう。その時、足並みを乱して敗軍のようにして谷に引き入れ、後陣を突ききり、高いところから、矢先をそろえ、鉄砲を並べて、「目の下の敵を撃て」 と命じた。 そこで、馬二、三頭の綱を切って越後の陣に追い放し、足軽五、六十人が出て、あちこちと馬を追い、かけ声をかけたが、越後の陣では、これを笑って取り合わず、一人も出なかった。 信玄はこれを見て、「謙信は名将である。このはかりごとに乗らない武士である」と言い「しかし、大河を越えて陣を張るのは不思議である。信州の中に謙信に内通している者がいるようだ。大事にならぬうちに引き上げることにしよう」 と内談して、信玄は夜中に陣を引き払い、上田が原まで引き上げた。謙信は総軍で信玄と一戦、朝六時ごろから、午後二時すぎまでに五度の合戦があり、初めは武田が負け退いたが、新手が駆けつけて激しく戦い、越後勢は押したてられた。長尾越前守政景、斎藤下野守朝信などが盛り返し、下平弥七郎、大橋弥次郎、宮島三河守などが槍を振るって、武田勢を突き崩した。また、上杉方の雨雲治部左衛門が横合いに突きかかり、道筋を突き崩した。宇佐美駿河守走行は手勢で、山の方から信玄の陣に切ってかかったため、甲州方はついに敗北した。翌日信玄は引き上げ、謙信も戻った。この戦いで、甲州方千十三人の死者、越後方八百九十七人の戦死者であった。 第五回合戦 永禄二年 (一五五九) 四月、謙信は京都に上り、参内、公方義輝公に拝謁した。輝虎の名をいただき、網代の塗輿、御紋をゆるされ、文の裏書きまでゆるされて帰国された。管領職は辞退し、朱塗りの柄の傘、屋形の号もゆるされ、三管領に準ずるようになった。その後永禄五年には管領職についた。 永禄三年九月から、謙信は関東に出陣、上州(群馬県)平井、厩橋(前橋)、名和、沼田などの諸城を攻め落し、その年は前橋で越年した。 永禄四年春、謙信は小田原に向かう途中、正月、古河の城に足利義氏を攻めた。三月に小田原に向かう。この時初めて上杉氏を名乗ることになった。 同八月、謙信は川中島へ向かい、西条山に陣を取り、下米宮街道と海津の城の通路を断ち、西条山の後から赤坂山の下に出る水の流れをせき止め、堀のようにし、西条山を攻めた。 八月二十六日、信玄は川中島に着き、下米宮に陣を取り、西条山の下まで陣を取ったため、越後方は前後に敵を受けた。謙信は夜戦のつもりでいろいろ手段を尽くされた。二十九日、信玄は下米宮から海津城に入った。九月九日の夜、武田総軍をまとめて、ひそかに海津城を出て、千曲川を越えて、川中島に陣を備えた。越後方の夜の見張りの者がこれを見つけて告げてきたため、謙信は、直江大和守実綱、宇佐美駿河守定行、斎藤下野守朝信と相談して、その夜の十二時、謙信も人数をつれて、そっと川中島に出た。西条山の下には村上義清、高梨摂津守、そのほか、井上兵庫介清政、島津左京入道月下斎の五隊を残しておき、川中島には、本庄越前守繁長、新発田尾張守長敦、色部修理亮長実、鮎川摂津守、下条薩摩守、大川駿河守のひきいる五千余を、千曲川の端に備えを立て、海津の城から新手の武田勢が横槍を入れるのを防ぐためである。謙信の備えは、左の先手は柿崎和泉守、右の先手は斎藤下野守朝長と長尾政景があたり、二の手は北条丹後守長国、右の備えは本庄越前守慶秀、左の脇備えは長尾遠江守藤景、右の脇備えは山吉孫次郎親章を配置した。中心は謙信の旗本、後備えは中条梅披斎であった。遊軍には、宇佐美駿河守走行、唐崎孫次郎吉俊、鉄孫太郎安清、大貫五郎兵衛時泰、柏崎弥七郎時貴の五組で、宇佐美の指揮の下に属した。直江大和守実綱が川を下ってひかえ、武田方から出た物見の者十七人を待ち 受けて一人残らずみな討ち取った。越後勢が川を渡って、川中島に出たのを武田方は知らず、そのあと出た物見も、越後勢が意外な場所に陣を備えたので見つけなかった。そして、信玄方はただ西条山の方ばかりに目をつけていたため、千曲川のそばに、本庄、新発田、色部などの二千がひかえているのを、夜中のことで人数を確かめることもできず、多勢と 見て、これが謙信の先手と思ったという。それも明け方になって見つけたので、初めのうちは越後勢が川を越えたのに気づかなかった。 翌十日朝、まだ夜が明けぬうちに、謙信方から貝を吹き、太鼓を打って、武田の陣に攻めかけた。武田勢は思いがけない方向から攻められ驚いたようだった。謙信の旗本が紺地に日の丸、それに 「毘」 の字を書いた大旗二本を立て、ちかぢかに押しかけたのを見て、備えを立て直す間もなく戦いかねるようだったが、武道第一の武田侍であるから、弓を射、 鉄砲を撃ちかけ、越後の先手柿崎和泉守の軍は、信玄の先手の飯富三郎兵衛に突きたてられ、千曲川の方に下ったのを見て、色部修理長実は、かねて待ち受けていたところなので、旗から槍を入れ、飯富の備えを突き返した。斎藤下野守朝信は、武田方の内藤修理、今福浄閑の軍を追いたてて進んだ。長尾政景、本庄美濃守慶秀、長尾遠江守藤景、山吉孫次郎、北条丹後守の五軍が先を争って、大声を上げて信玄方を切り散らした。謙信は八年前に信玄と太刀打ちをして討ちもらしたのが、口惜しく、この度は信玄をぜひ討ちたいと心がけ、旗本の人数で、信玄の旗本にかかり追い崩した。武田の十二段の備えがみな敗北し、千曲川の広瀬のあたりまで、追い討ちをかけ、戦死者、負傷者は数えきれない。信玄は犀川の方に退くのを、越後勢が追いかけた。その時、後から武田太郎義信が二千ばかりで謙信のあとを追ってきた。それで越後方の後備えの中条梅披斎の軍が引き返して、義信方に防戦した。しかし旗色が悪く見えたところに、遊軍の宇佐美駿河守が助けに来て、中条と一手になって、武田義信軍を追い返し、勝利を得て、数十人を討ち取った。あとで戦が始まったのを謙信が聞いて、不安に思って引き返して義信を防ごうとしたが、義信は宇佐美を斬り尽くして退いたのを、直江大和守、甘糟近江守、安田治部丞の三軍が義信の軍を倉晶まで追い討ちにした。謙信の総軍は、前後の敵を切り崩して、川中島の原の町に休み、腰の兵糧などを取ろうと油断した時、どこに隠れていたのか、義信が八百ばかりの兵と旗差物 して、越後軍に急に攻め込み、謙信の日の丸の旗印のところに目がけて攻めかかって来た。越後方は今朝早くからの合戦に疲れ、ことに油断していたところで、少し先手で防いだが、備えもうまくゆかず、多くは馬に乗り遅れ、敗軍となった。越後勢の戦死多数で、志田源四郎義時もここで戦死した。謙信は家の重宝である五挺槍というものの中から、第三番目の鍔槍という槍で、自身で手を下して戦った。後には波平行安の長刀でさんざん戦ったところに、海津口を守っていた六軍のうちの本庄越前守、大川駿河守が駆けつけ、義信を追い返した。この時、繁長自身は太刀打ち、大川駿河は戦死した。長尾遠江守藤景と宇佐美駿河守は応援に入り、義信を突き崩した。これで戦はひとまずおさまった。 謙信は犀川を後ろにその夜は陣を取ったが、山吉孫次郎は、「今夜海津の城の敵が気がかりである。犀川を渡り、軍を取りまとめられては」と諌めたが、謙信は従わなかった。十一日の朝、謙信は下米宮の渡し口に備えを立て、直江大和守実綱、甘糟近江守景持、宇佐美駿河守走行、堀尾隼人などと、西条山の陣小屋を焼き払った。そのあと、謙信は善光寺 に三日滞在して、長沼まで入り、ここに二、三日逗留して越後に帰陣した。 はじめ、謙信が出張して、西条山に陣を取り、八月二十六日、信玄が下米宮の渡しに着いた。九月十日の川中島の大合戦のあるまでに、小競り合いは八度あったが、少しのことであるから書きつけなかった。 先年から五度の合戦。天文二十二年十一月から永禄七年まで十二年で、毎年謙信は川中島に出て信玄と対陣したため、稲刈りなどの季節に、三百、五百と出会い、討ったり討たれたりのことは数十度になった。けれども信玄は謙信の勇才をはばかり、謙信は信玄の智謀を恐れて、互いに思慮をめぐらし、はかりごとを工夫し、いろいろと手段を尽くしたが、いずれも負けず劣らずの名将であったために、決着はつかなかった。 永禄七年七月に、信濃口の押さえとなる野尻城にいた宇佐美駿河守走行が自害し、長尾政景も死去したので、信濃境を取り締まるため、謙信自身で出かけ、川中島に至った。信玄も出馬して十日ばかり対陣したが、いつもの例で、日々小競り合いばかりで勝負はない。 武田家の一門家老が信玄に意見を言った。「川中島上郡下郡の四郡を争って、十二年の間毎年合戦がやむことなく、両虎の勢いで勝負がつかず、士卒の疲れは言葉では言い尽くせぬくらいです。海津城についている領分はこちらに、川中島の四郡は越後にやられてはどうでしょう。駿河表、関東方面、美濃口などに出られ手広くなられたのですから、川中島の四郡にかかわって、剛強な謙信と取り合いをしていてむなしく年月を送られるのはいかがなものか」 と諌めた。 八月十五日の朝、信玄が言うには、互いの運だめLとして、安馬彦六を選び、組討ちをさせ、その勝負を見て川中島をどちらかの土地にしようと、彦六を使いとして謙信に申し入れがあった。彦六は上杉の陣の一の木戸口に行き、謙信方からは直江山城が出向いた。彦六は馬から降りて、「信玄が申されるには、天文二十三年から十二年の間、夜昼戦っても 勝負がつかぬ。明日は互いに勇士を出し組討ちをし、その勝利次第で川中島を治め、このあと謙信も信玄も弓矢を取ることをやめたい。それで安馬彦六が明日の組討ちの役を申しつけられ、これまで参った。器量人を出され、明日組討ちをいたすようにと信玄の言葉である」 と申し入れた。 直江山城守の取り次ぎで謙信は返事をされて、「信玄の仰せはもっともである。こちらからも人を出し、明日十二時に組討ちをいたす」 とのことである。 永禄七年八月十六日、正午、信玄方から彦六ただ一騎、鎧をさわやかにつけて白月毛の馬に乗って、謙信の陣に向かった。越後方の陣からは小男の鎧武者が一騎、小さな馬に乗っていた。九月十日の川中島の大合戦のあるまでに、小競り合いは八度あったが、少しのことであるから書きつけなかった。 先年から五度の合戦。天文二十二年十一月から永禄七年まで十二年で、毎年謙信は川中島に出て信玄と対陣したため、稲刈りなどの季節に、三百、五百と出会い、討ったり討たれたりのことは数十度になった。けれども信玄は謙信の勇才をはばかり、謙信は信玄の智謀を恐れて、互いに思慮をめぐらし、はかりごとを工夫し、いろいろと手段を尽くしたが、 いずれも負けず劣らずの名将であったために、決着はつかなかった。 永禄七年七月に、信濃口の押さえとなる野尻城にいた宇佐美駿河守定行が自害し、長尾政景も死去したので、信濃境を取り締まるため、謙信自身で出かけ、川中島に至った。信玄も出馬して十日ばかり対陣したが、いつもの例で、日々小競り合いばかりで勝負はない。 武田家の一門家老が信玄に意見を言った。「川中島上郡下郡の四郡を争って、十二年の間毎年合戦がやむことなく、両虎の勢いで勝負がつかず、士卒の疲れは言葉では言い尽くせぬくらいです。海津城についている領分はこちらに、川中島の四郡は越後にやられてはどうでしょう。駿河表、関東方面、美濃口などに出られ手広くなられたのですから、川中島の四郡にかかわって、剛強な謙信と取り合いをしていてむなしく年月を送られるのはいかがなものか」 と諌めた。 八月十五日の朝、信玄が言うには、互いの運だめLとして、安馬彦六を選び、組討ちをさせ、その勝負を見て川中島をどちらかの土地にしようと、彦六を使いとして謙信に申し入れがあった。彦六は上杉の陣の一の木戸口に行き、謙信方からは直江山城が出向いた。彦六は馬から降りて、「信玄が申されるには、天文二十三年から十二年の間、夜昼戦っても 勝負がつかぬ。明日は互いに勇士を出し組討ちをし、その勝利次第で川中島を治め、このあと謙信も信玄も弓矢を取ることをやめたい。それで安馬彦六が明日の組討ちの役を申しつけられ、これまで参った。器量人を出され、明日組討ちをいたすようにと信玄の言葉である」 と申し入れた。 直江山城守の取り次ぎで謙信は返事をされて、「信玄の仰せはもっともである。こちらからも人を出し、明日十二時に組討ちをいたす」 とのことである。 永禄七年八月十六日、正午、信玄方から彦六ただ一騎、鎧をさわやかにつけて白月毛の馬に乗って、謙信の陣に向かった。越後方の陣からは小男の鎧武者が一騎、小さな馬に乗って出向き、馬上で大声で、「ここに出た者は、謙信の家老斎藤下野守朝信の家来で長谷川与五左衛門基連と申す者、小兵ながら彦六と晴れの組討ちをご覧に入れる。いずれが勝つとも、加勢、助太刀は、永く弓矢の恥である」と言い、彦六と馬を乗りちがえ、むずと組み、両馬の間に落ち重なり、彦六が上になり長谷川を組み敷いた。甲州方が声を上げて喜ぶ時、組みほぐれて、長谷川は安馬を組みふせ上になり、彦六の首を取って立ち上がり高く差し上げて、「これをご覧下され。長谷川与五左衛門組討ちの勝利はこのとおり」と叫ん だ。越後方は思わず長谷川うまくやったと一同感じどよめいた。甲州方は無念に思って、木戸を開けて千騎ばかりが討って出ようとしたのを、信玄は、「鬼神のような彦六が、あの小男にたやすく組み取られたことは味方の不運である。かねて組討ちの勝利次第と約束した上は、川中島は越後に渡すことにする。約束を破ることは侍として永く不名誉なことである。四郡は謙信のものと今日から定めよう」と言って翌日引き上げられた。これから四郡は越後の領となった。長谷川の手柄の印である。そして村上義清、高梨政頬は、川中島に戻り、その志を遂げた。これから、武田と上杉の争いはなくなった。 このことは、信玄の家来、須崎五平治、堀内権之進が書きとめておいた。この両人は、あとで浪人して越後に来て、上杉家に仕えている。それでよく調べて書いたものである。 この一冊は須崎、堀内の書いておいたものと、信玄の子孫にあたる武田主馬信虎の家伝の書と、村上義清の子源五郎国清の書いたものを参考にして、よく調べて書き記したものである。 慶長十年三月十三日 上杉内 清野 助次郎 井上 隼人正 『河中島五箇度合戦記』 右の一冊は当家の者が書き残したものである。この度のおたずねについて、それを写して差し上げる。 寛文九年五月七日 うたのかみ 右の書は、先年弘文院春斎に仰せつけられ、日本通鑑に選ばれた。酒井雅楽頭忠清に上杉家から差し上げられた一冊である。 市河文書目録 「信濃史料所載 市河文書」 市河文書目録 引用「信濃」 「信濃史料」 年 月 日 1 平家某下文 嘉応 2 1170 2 7 2 木曾義仲安堵下文 治承 4 1180 12 3 阿野全成安堵下文 寿永 2 1183 12 7 4 阿野全成安堵下文 寿永 3 1184 3 6 5 ? 北條義時袖判藤原兼佐奉書 (承久) 3 1221 6 6 6 鎌倉幕府下文 建久 3 1192 12 10 7 北條時政安堵下文 建仁 3 1203 9 4 8 北條時政安堵下文 建仁 3 1203 9 23 9 北條時政下知状 建仁 4 1204 2 21 10 北條時政下知状 元久 1 1204 3 19 11 姓名不詳書状 12 北條泰時下知状 貞応 3 1224 11 11 13 北條泰時書状 元仁 1 1224 11 13 14 北條重時書状 (元仁) 2 1225 9 9 15 北條重時副下文 嘉禄 1 1225 9 9 16 北條重時下知状 嘉禄 1 1225 9 16 17 北條重時下知状 寛喜 1 1229 12 13 18 左衛門少尉兼政請文 年不詳 19 沙禰妙蓮譲状 建長 1 1249 12 15 20 鎌倉碁府下文 建長 4 1252 12 26 21 鎌倉幕府下文 建長 4 1252 12 28 22 鎌倉幕府下文 建長 6 1254 12 12 23 鎌倉幕府下知状 文永 2 1265 閏4 18 24 藤原仲能訴状 不詳 25 鎌倉幕府下文 文永 2 1265 5 25 26 尼寂阿譲状 文永 9 1272 8 18 27 鎌倉幕府下文 文永 11 1274 2 20 28 鎌倉幕府執権奉書 文永 11 1274 6 15 29 鎌倉幕府下知欺 弘安 1 1278 9 7 30 鎌倉幕府下知状 正応 3 1290 11 17 31 中野仲能訴状 不詳 32 鎌倉幕府下知状 正安 2 1300 3 3 33 鎌倉幕府下知厭 正安 2 1300 11 8 34 鎌倉幕府下知欺 正安 4 1302 12 1 35 信濃国応宜 延慶 2 1309 4 36 初任正検田在家目録注進 延慶 2 1309 卯 37 市河盛房置文 元享 1 1321 10 24 38 市河盛房譲状 元享 1 1321 10 24 39 市河盛房譲状 元享 1 1321 10 24 40 信濃国雑掌則能申状 元享 4 1324 9 41 駿河守某奉書 嘉暦 2 1327 10 8 42 尼せんこう譲状 嘉暦 4 1329 6 23 43 中野家平着到状 元弘 3 1233 5 8 44 中野家平著到状 元弘 3 1233 5 14 45 市河経助着到状 元弘 3 1233 6 7 46 市河助房代着到状 元弘 3 1233 6 7 47 市河助房兄弟代着到状 元弘 3 1233 6 29 48 左弁官下文 元弘 3 1233 7 25 49 国宣 元弘 3 1233 8 3 50 市河助房申状 元弘 3 1233 10 51 国宣 元弘 3 1233 11 5 52 鎌倉幕府下知状 正慶 1 1332 12 23 53 鎌倉幕府下知状 正慶 1 1332 12 27 54 雑訴決断所牒 建武 1 1334 6 16 55 市河助房等代着到状 建武 1 1334 6 25 56 市河助虜等着到状 建武 1 1334 8 57 平長胤奉書 建武 2 1335 2 5 58 市河助房等着到状 建武 2 1335 3 59 市河助鼻等着到状 建武 2 1335 3 60 市河助房等着到状 建武 2 1335 5 16 61 市河助房兄弟代著到状 建武 2 1335 5 16 62 市河助房等着到状 建武 2 1335 6 63 市河助房等着到欺 建武 2 1335 7 64 市河親宗軍忠状 建武 2 1335 8 65 雑訴決断所牒 建武 2 1335 8 14 66 市河経助軍忠状 建武 2 1335 9 22 67 市河倫房父子軍忠状 建武 2 1335 10 68 市河近宗着到状 建武 2 1335 11 28 69 市河助房代軍忠状 建武 3 1336 1 17 70 市河経助軍忠状 建武 3 1336 1 17 71 市河経助等軍忠状 建武 3 1336 1 18 72 市河経助代著到状 建武 3 1336 2 21 73 市河経助軍忠状 建武 3 1336 2 23 74 市河経助軍忠状 建武 3 1336 2 23 75 市河経助軍忠状 建武 3 1336 2 23 76 市河経助軍忠状 建武 3 1336 6 29 77 市河経助等軍忠状 建武 3 1336 6 29 78 市河経助軍忠状 建武 3 1336 11 79 市河親宗軍忠状 建武 3 1336 11 3 80 市河親宗軍忠状 建武 3 1336 11 81 市河親宗軍忠状 建武 3 1336 11 82 市河親宗軍忠状 建武 3 1336 11 83 足利直義感状 建武 3 1336 12 29 84 市河経助着到状 建武 3 1336 12 85 市河親宗着到状 建武 3 1336 12 86 市河経助軍忠状 建武 4 1337 3 87 市河経助軍忠状 建武 4 1337 3 88 市河親宗軍忠状 建武 4 1337 3 89 市河親宗軍忠状 建武 4 1337 3 90 市河助房代軍忠状 建武 4 1337 3 91 市河助房代軍忠状 建武 4 1337 3 92 市河助房代軍忠状 建武 4 1337 4 93 中野定信代軍忠状 建武 4 1337 9 94 市河倫房軍忠状 暦応 3 1341 8 95 市河倫房軍忠状 歴応 4 1342 3 21 96 昌源譲状 康永 2 1343 3 22 97 昌源譲状 康永 2 1343 5 26 98 市河倫房軍忠状 康永 2 1343 12 99 尾張左衛門佐奉書 貞和 3 1347 4 21 100 市河経助軍忠状 観応 2 1351 3 101 市河松王丸代軍忠状 観応 2 1351 3 102 右馬頭某奉書 観応 2 1351 6 2 103 市河経高軍忠状 正平 11 1356 10 104 市河脛高軍忠状 正平 11 1356 12 105 兵庫助兵粮料所預ケ状 延文 5 1360 6 27 106 関東管領感状 応安 1 1368 閏6 23 107 市河頼房等代軍忠状 応安 1 1368 9 108 細川某兵粮料所預ヶ状 応安 3 1370 4 3 109 初任正検田在家目録注進 応安 6 1373 6 110 上杉朝房安堵状 永和 1 1375 10 16 111 上杉朝房安堵状 永和 1 1375 10 26 112 斯波義種安堵状 市河甲斐守殿 至徳 2 1386 2 12 113 斯波義種下知状 市河庶子一族中 至徳 2 1386 7 18 114 二宮氏康奉書状 市河殿 至徳 3 1387 7 1 115 斯波義種書状 至徳 4 1388 8 12 116 斯波義将奉書 至徳 4 1388 6 9 117 二宮種氏所領預ケ状 至徳 4 1388 6 12 118 斯波義種感状 至徳 4 1388 6 25 119 市河甲斐守頼房軍忠状 至徳 4 1388 9 120 ● 斯波義将感状 流失した市河文書 一かわかいのかみとのへ 二宮氏康書状 至徳 至徳 4 3 13871388 9 7 15 5 121 二宮式部丞料所預ケ状 嘉慶 2 1388 12 17 122 二宮式部丞料所預ケ状 嘉慶 2 1389 8 19 123 宮方某所領契約状 <元中14年無 9年迄> 元中 応永 14 2 1395 124 二宮是随奉書 応永 4 1397 7 2 125 中野頗東軍忠状 応永 6 1399 12 27 126 市河興仙軍息状 応永 7 1400 4 1 127 小笠原長秀所領宛行状 応永 7 1400 5 27 128 小笠頼長秀安堵状 応永 7 1400 6 2 129 小笠原長秀下知胱 応永 7 1400 6 3 130 小笠原長秀下知状 応永 7 1400 6 3 131 小笠原古米入道渡状 応永 7 1400 6 3 132 小笠原古米入道打渡状 応永 7 1400 6 3 133 赤澤対馬守打渡状 応永 7 1400 6 14 134 将軍義満感状 応永 7 1400 10 5 135 小笠原長秀安堵状 応永 7 1400 10 29 136 市河興仙軍忠状 応永 7 1400 11 15 137 小笠原長秀感状 不詳 11 3 138 斯波義将安堵状 応永 8 1401 6 25 139 斯波義将下知状 応永 8 1401 6 25 140 畠山道端奉書 応永 9 1402 9 15 141 細川慈忠安堵状 応永 9 1402 9 17 142 伊勢道券打渡状 応永 9 1402 9 18 143 将軍義満安堵状 応永 10 1403 7 2 144 細川慈忠安堵状 応永 11 1403 11 20 145 市河性幸代軍忠状 応永 11 1403 11 146 眞晃契約状 応永 14 1407 6 23 147 細川道観感状 応永 22 1415 7 19 148 畠山道端奉普 応永 30 1423 7 10 149 細川慈忠書状 応永 7 26 150 武田家朱印 永禄 12 1569 10 12 ● 沙弥 市河新次郎殿 応永 信濃 30 1423 7 10 ● 斯波義種書状 市河甲斐守殿 至徳 信濃 3 1386 8 12 市河文書別編 武田信玄書状 市川孫三郎殿 (弘治) 2 1556 7 19 武田信玄書状 市川籐若殿 (弘治) 3 1557 6 16 武田信玄書状 市河籐若殿 (弘治) 3 1557 6 23 武田信玄朱印状 市川新六郎殿(信房) 永禄 10 1567 6 16 武田信玄朱印状 市川新六郎殿(信房) 永禄 11 1568 11 17 武田信玄朱印状 市川新六郎殿(信房) 永禄 12 1569 10 12 武田信玄朱印状 市河新六郎殿(信房) 天正 7 1579 2 25 武田信玄朱印状 市川治部少輔殿(信房) 天正 9 1581 1 9 武田信玄朱印状 市川新六郎殿(信房) 天正 10 1582 3 7 <現在編集中> <引用資料 信濃 信濃史料 山梨県史> ()内は文書では編者の推定 ()同様 武田信玄朱印状 市川治部少輔殿(信房) 天正 10 1582 4 14 武田信玄朱印状 市川治部少輔殿(信房) 天正 10 1582 6 20 市川治部少輔(信房か)書状 直江山城守殿 天正 11 1583 4 14 直江山城守 市河長寿丸殿 不詳 市川文書の仝撮影 カビネ版で二百数十枚 「信濃」第十一号 出羽の大富豪本間家所蔵 酔古生著 出羽酒田の富豪である本間家に市川史書の所威されて居る事を発見されてから殆んど満二ヶ年になる。丁度その当時は、同家の代換りの時で、新戸主の公正氏は、学生々活から一躍大世帯の主人になった事とで、自分の家ながら、一向に様子が判らず、その上彼家の内規として、主人以外には絶対に出入を禁じられて居る土蔵が、二棟存在し、文書類其他の重宝ものなどは、概ね其中にあり、そこへ新主人公の不案内と来て居たから始末が悪い。鈴木知事から依頼状まで出して貰い、寓眞乾板も三十ダースも持参に及んだのだけれど、其俵退却の余儀なきに至った次第であった。 昨年も亦、米澤へ出張の帰る道すがら立寄った。その時も亦未発見とあって、すごすご退却。更にニケ年間に手紙で問合せした事は何十回。或は故伊佐早先生の令嗣、信氏を煩はした事もあった。返答は当主公正氏からも数回、分家の本間氏からも、該家細管の圃書館長白崎光弥氏からも、その時々に来て居るので、何れも少し待ってくれとの事だから、怒るにも怒れない。 本年になっても亦数回の伺いを立てたのであったが、最終の八月初めの手紙の返事が、月の十三日に到着した。それが、思はずも吉報であったのである。 山形県史料の殆んど最終の探訪ともいうべき出張に兼ねて、本間家にはまだ外にも伊佐早史料がある等だから、それの探訪をも兼ねて、米澤から酒田へと同来したのは、九月十一日。早速、あこがれの市河文書といふものを正確を見せてもらうことになった。省みれば、其一部分を米澤の伊佐早先生の机下で拝ませてもらった時から、二十年後を過ぎて居る。あるは、あるは、藍色の紙の琴訂をした巻ものが、三十巻もあるのである。 文書の教が百四十七通、下高井郡中野小峯校で印刷したパンフレット式市河文書は、信濃史料叢書かたとったものであるが、あれよりは三通少ないのである。維新後、市河家の保存された時は、もつと沢山あつたに相違ない事は、伊佐早先生の常に語られたところであり、且また應永三十年前が、首四十六通であって、此間百四十年を飛んで永禄十二年のものが一通、寄生虫のようについて居るも不審、実は戦国期のものはまだ出ない史料も、四五点散在して居り、文章だけ判って居る史料も少なくない。平安朝からのものを保存した程の家柄だもの、戦国期のものが存在せぬ筈はない。此鮎か考へても、應永末年から永聴十二年迄の百四十余年間のものは、少なくとも二十通や三十通は存在したるべく.現に越後高田の謙信文庫には、應永より前の至徳三年の市河文連が一通現存するのである。かような語だから、現在此文書から紛失して居る部分は、恐らく、一半以上であろうと思う事を禁じ得ぬ。詳細は、該写真に附録として貼附する証明書に書くつもり、そして、公開する積りであるから、その時を期して貰う事とし、云はば、現存の市河文書といふものは、應永以前のものであるといふ事が、最も特色の一つであるというべきであろう。 一口に應永といっても、五百三十年の昔である。その前の文書が、百四余通もあり、殊に鎌倉前のものもあり、義仲もあり、頼朝の弟阿野全成のものもあり、北條氏などは、時政以後、殆んど歴代の花押を有して居訳であるから、諸家文書中でも珍とするのは当然である。殊にその諸家中でも、市河家といふものは、大名でなくて、徹頭徹尾、信濃国境の小名であったといふことが、珍中の珍といふ澤にもなる。 何となれば、その結果としての文書も亦、徹頭徹尾、郷土的であるからである。そして、その上に、中央舞台の上に役立って居る事の如何に多きかは、苛も大日本史料を見た者の百も承知の事であろう。 又前記三通の不足については、中野学校印刷の市河文書その前に本間家へ送って置いたから、私より十日程前に偶然該文書を一見した帝大の伊木寿一氏(史料編纂官〕一行も、中野校本杖として研究した際に発見し、帝大と本間家との貸借時代の返却洩れではないかとの疑問も.発生し、其疑問を留保されてあったが、併し、私の所有する故伊佐早先生の古文書目録は、直ちにこれを他の中に発見したのである。 即ち、其三通は、 一、應永七年十月五日 足利義満の感状 二、同年四月二十九日 小笠原長秀安堵状 三、(應永中)七月二十六日 細川慈忠書状 であって、前二文書は、大塔合戦に市河氏が小笠原氏の部下として血戦した時の関係書類であるのであるが、勿論此三文書も市河文書中にあったに相違ないけれど、維新後逸散の後、拾はれた時に、別々であった為に、伊先生の分類中に於いても、微古墨宝といふ乾坤二冊ある中の乾の方に牧蒐されて居たのであって、それだから、今現在の市河文書中には、補遺されて居なかったのである。といふ様な事は、調べてから判った事であるが、とに角、此文書を見た時には、何となく感慨無量なるものがあった。八百年来把握されて居た此文書が、市河家から押流された維新の怒涛の如何に大きかったかといふような事、これらを三円の月給の時、一文書十銭位に蒐集された伊佐早先生の篤学、ては、我等の郷土に、今から三軍一手年前までは、小氏人と市川文書の会撮影.銅棒室からして、鏡をつけられた練に国境を守り、巣鷹を守って、四五百年間連綿とした市河氏の事ども、それらが、此三十巻の藍色の巻物と同時に頭に走馬燈のように描き出された影画であった。 披見につれて、更に更に驚いた事は、どの文書も、どの文書も、とても汚れて居ないといふ一事である。殊に鎌倉時代のものは、日本の他の残存文書と共に、重に訴訟の文書であるが、其書体などは、どれを見ても、一つ一つ、骨習字の手本となるような楷行の問の名筆である事、共文書の文章が、判決文としても、詳細を極めて居る事などである。以て、鎌倉時代の民がのびやかで、穏健で。 民衆的であった事まで連想を禁じ得ない程だ。 その他にしても、何としても、一家で、各時代を串通しにして居る話だから、各時代の文書相の一通りを僻へて居る点は、古文書学の上からしても一つの規範的のものと云い得よう。 下文、副下文、下知状、奉書、書状、譲文、訴訟、置文、注進、応宣、申状、所牌、着到状、軍忠状、感状、預ケ状.安堵状、契約状、宛行状、行渡状、定書、などの種類を、如宝に見るように感得出来る点に於いて尊い。光丘文庫の二階を臨時写場暗室等に借用して、約六日間で、此文書の穐影を終了した。文書の裏に影書きの花押もあれば、文書もある。これらは、主として鎌倉時代のものであって、文書上の特色でもある。凡て是等迄も写了したのである。 その外にも、本間家及び酒田の古文書殆んど仝部を歴訪したが、信濃関係のものが、三十お近く存在したからこれらも概ねレンズに入れた訳である。 終りに写真技術者の事についても、一言し置かればならない事がある。県内の史料撮影には、長野市荒木の篠原文雄氏が犠牲的に徒事して居ると同様に、山形県の資料撮影影には、米澤市の神保一臣氏が、四五年来を通じて、単に撮影ばかりでなく、史料蒐集の手助としても、殆んど、献身的に努力してくれられた一事は、是非此際報告し置きたい処である。今度の市河文書の撮影に関しても、同様であった事は云う迄もない。 此雑誌の出る頃は、多分写真が配布される時であろうと思うが、この催しを最初から替助された更級、上下水内、上下高井郡の教育部含、及び加盟助達につとめられた諸法人に対しても、謹しんで、謝意を表して置く。 山梨県私立文学館 サブやんの気まぐれ調査研究 新!サブやんの気まぐれ調査研究 国会と国家議員に必要な林業実情 森林知識検定委員会 ”ヒノキオ君” サブやんのきまぐれ調査研究 新!サブやんの気まぐれ調査研究

の うち の 家臣 は 鮎川 どの 次 盛長 大名 か と の うち の 家臣 は 鮎川 どの 次 盛長 大名 か と

謙信の総軍は、前後の敵を切り崩して、川中島の原の町に休み、腰の兵糧などを取ろうと油断した時、どこに隠れていたのか、義信が八百ばかりの兵と旗差物 して、越後軍に急に攻め込み、謙信の日の丸の旗印のところに目がけて攻めかかって来た。 中筋は、紺地に日の丸の大旗、「毘」の字を書いた旗の下に、謙信が床凡に腰をかけて、一万あまりの軍勢がそれを取り囲み、敵を待ち受けていた。 本庄美作、柿崎和泉、唐崎孫之丞、柏崎弥七郎などが、引き返して戦っているところに、新発田尾張守、斎藤下野守、本庄弥次郎、黒川備前守、中条越前守、竹股筑後守、その子右衛門など八百あまりが柳原の木陰からまわって来て、それぞれに名乗り、何某ここにあり、そこをひくなと大声で叫び、一文字に突いてかかった。

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市河文書をどう読むか 山本勘助の実在を示した唯一の資料とされるが 私は大きな疑問をもっている。 市川藤若関係の文書と時代背景を探る 市河文書をどう読むか 山本勘助の実在を示した唯一の資料とされるが 私は大きな疑問をもっている。 市川藤若関係の文書と時代背景を探る 天文二十四年 弘治元年(10月23日改元) 1555 ☆印――武田信玄(甲陽軍艦)★印――謙信(甲陽軍艦) ●一月三十日、筑摩郡洗場三村某、武田の将馬場信房を深志城に攻め、村井・出川に放火する。この日二木重隆、信房救援に駆けつける。ついで三村ら、敗れる。 (長野県史) ●二月十四日、武田晴信、諏訪郡八剣社に同郡上原の地を寄進し、武運長久を祈らせる。 (長野県史) ●二月十五日、晴信は景虎の機先を制して川中島へ兵を送り、善光寺の南の葛山城を攻落させた。 (甲府市史) ☆三月七日、信玄公は甲府を出発。 (甲陽軍艦) ●三月十四日、葛山城を攻落した後、武田軍は川中島一帯の長尾方の一掃を続行していた。景虎は雪の為に出陣することができず、晴信も三月十四日には、まだ甲府いた。そこへ川中島より注進状が届き、越国衆が出陣するとの報に接し、自らも出馬すると伝えている。 (甲府市史) ☆三月十八日、信玄公は木曾の屋子原(薮原)に出馬、四月三日まで逗流され、薮原に一つの砦を造り、木曽殿居城を攻撃しようとした。 (甲陽軍艦) ●三月廿一日、武田晴信、大日方主税助の安曇郡千見城攻略を賞する。 (長野県史) ●三月、武田晴信、木曾制圧に着手、千村俊政の守贄川砦を落とす。鳥居峠に出陣した木曾義康、武田軍に挟撃されて敗走し、武田軍は藪原を占拠する。 (長野県史) ☆四月五日、越後の謙信が川中島へ出てきたとの報が入る。 (甲陽軍艦) ☆四月六日、薮原を出て川中島にて対陣を整える。謙信は引き上げる。 (甲陽軍艦) ★謙信、関東に出て北条氏康と対陣、連日連夜の戦闘を続ける。 (甲陽軍艦) ●四月十八日、景虎が川中島に出陣し、晴信は決戦を避けて安曇郡小谷城を攻 め、八月に入ってやっと両軍が川中島で対戦した。これを第三回川中島の戦 いという。 (甲府市史) ●四月廿五日、武田晴信、内田監物に、更級郡佐野山在城につき知行所諏訪郡北大塩二三人の押立公事を免じる。 (長野県史) ●五月廿八日、信州知久殿與四郎殿州船津にて生害被成候。宮下勘六方打被申候。(信州下伊那の知久氏が鵜の島に幽閉される。翌年鵜の島から船津に連れていかれた上で切腹する) (妙法寺記) ●六月二十日、武田家朱印状写 別而被致奉公候間、庄内主計分三拾余貫文所出置候、弥忠信可為肝要候、恐々謹言 天文廿四年六月廿日 晴信御居判 大日方主税助殿 (『山梨県史』資料編5 中世ニ 県外文書 長野県の部) ● 弘治二年六月二十八日、長尾弾正少弼(しょうひつ)入道宗心、 長慶寺衣鉢(いぶ)侍者禅師(天室光行)宛文書 (前文略) 信州は隣国であることは勿論ですが、村上方をはじめとして井上・須田・ 嶋津・栗田その他の人々が私を頼ってきました。ことに高梨家とはとりわけ親しくしている仲ですから、そのまま見捨てておくわけにもいかず、すでに信州が過半晴信のの手に入り、もうじき信州全部が晴信にとられそうなようすもあったので、両度出陣し、去年(弘治元年)は、旭山城に向かって附城を造り、旭山城をとりこにした上、晴信と興亡をかけた大決戦をしようとしたところ、負けそうになった武田方は和睦を申し出、駿河の今川義元に頼んで誓詞や講和条件などを示してきたので、いろいろ差し障りがあったが、それを承知し、旭山城を壊し、兵を引きました。そこで信州の味方は今も無事に暮らしています。 (弘治二年)六月二十八日 長尾弾正少弼入道宗心 長慶寺衣鉢(いぶ)侍者禅師 (「川中島の戦」小林計一郎氏著) ●七月十九日、武田晴信感状写 今十九於信州更科郡川中嶋逐一戦之時、頸壱討捕之条、神妙之至感入候、 弥可抽忠信者也、仍如件 天文二十四年七月十九日 晴信 朱印 勝野新右衛門殿 (『山梨県史』資料編5 中世ニ 県外文書) ●七月廿三日、武田晴信公信州へ御馬を被出候而、村上殿・高梨殿、越後守護長尾景虎を奉頼同景虎も廿三日に御馬被出候而、善光寺に御陣を張被食候。 (妙法寺記) ●武田殿は三十丁此方成り、大塚に御陣を被成候。 (妙法寺記) ●善光寺の堂主栗田殿は旭の城に御座候。 (妙法寺記) ●旭の要害へも、武田晴信公人数三千人さけはりをいる程の弓を八百張、鉄砲三百挺入被食候。 (妙法寺記) ●去程に長尾景虎再々責候へ共不叶後には駿河今川義元御扱にて和談被成候。(妙法寺記) ●八月十二日、武田晴信、竜淵斎に小山田信有を信濃国佐久郡へ派遣することを伝える。 ●八月、武田軍、木曾を再攻、上之段城と福島城の子木曾義昌を攻める。義康和議を申し入れ、娘を人質に甲府へ送り、義昌に晴信の娘を迎える。 (長野県史) ☆八月二十一日、信玄公は鳥井峠を超えるために薮原を発つ。 福島筋へは栗原左兵衛・飯富三郎兵衛・長坂長閑・市川宮内ノ助の五軍で攻 める。木曾降参。 (甲陽軍艦) ●十月五日、武田晴信、内応した高井郡小島修理亮に、高梨領内の河南の地を宛行う。 (長野県史) ●閏十月二日、晴信、大日方山城守、春日駿河守に俵物の分国中諸関通行を許す。 (長野県史) ●十月五日、 今度之忠信無比類候、因茲高梨之内河南千五百貫渡候、恐々謹言 天文廿四年 十月五日 晴信 小嶋修理亮殿 (『山梨県史』「歴代古案」所収文書 武田晴信判物写し) ◎閏十月九日、此年駿河義元の御内を異見申候者説最と申御出家、閏十月九日御死去被成候。駿河力落不及言説。 (妙法寺記) ●閏十月十五日、晴信・景虎、駿河の今川義元の仲裁により、誓紙・条目を交わして和議を結び、互いに兵を引く。 (長野県史) ●閏十月の甲越和睦は、その後の信濃侵略によって、有名無実となり、翌二年八月には春野望が景虎の家臣の大熊朝秀を内応させたことから、再び両者の関係は悪化した。 (長野県史) ●十一月八日、此年、相州新九郎殿霜月八日曹司様(北条氏直)を設け玉ふ。甲州晴信公御満足大慶此事候。 (妙法寺記) ●十一月六日、武田勝頼の母諏訪氏、死去する。 (長野県史) 解説(「甲府市史」)資料編第2巻 天文廿二年(1553)四月晴信は念願の村上義清の葛尾城を攻め落とし、信濃の大半を手中にした。村上氏は越後に逃れ、長尾景虎を頼りその援助により再度、小県郡に復帰した。天文二十四年(弘治元年)七月には、晴信・景虎とも川中島に出陣、晴信は大塚へ、景虎は善光寺に布陣、七月19日には川中島で対戦した。 その後、善光寺の同主であった栗田氏は旭城に籠もって景虎を牽制した。晴信は旭城に兵三千人と弓八百張、鉄砲三百挺を送り込む。対陣のまま閏十月に及んだ。晴信は今川義元に斡旋を依頼して景虎と和睦し、両者川中島より退陣した。これを第二回川中島の戦いという 弘治 二年 1556】 ☆六月中旬、信玄公、伊那へ出馬。七月・八月・九月と合わせて四ヶ月間で伊那を平定する。成敗した武将は、溝口殿・松島殿・黒河内殿・波部殿・小田切殿・伊那部殿・殿島殿・宮田殿。 (甲陽軍艦) ●三月十一日、武田晴信、水内郡静松寺住持に葛山衆の盟主落合一族を切り崩し、武田方へつかせた功を賞する。 (長野県史) ● 五月十二日、香坂筑前守宛書状 八郎丸之郷百貫之内、定所務六十五貫四百文之分出置候、相残所者、速 可奉納者也。仍如件。 弘治二年五月十二日 香坂筑前守殿 (「山梨県史」資料編中世ニ 県外文書 長野県の部 上水内郡牟礼村 高野家文書) ● 六月二日、武田晴信判物写。 綿内領之内、隠居免三百五拾貫文之所進置候、恐々謹言 弘治弐年六月二日 晴信(花押影) 井上左衛門尉殿 (「山梨県史」資料編中世ニ 県外文書 長野県の部) 市河文書 年不詳 武田家感状写 (北佐久郡浅科村、市川育英氏所蔵) ●六月廿七日、 小幡尾州へ津金修理亮を遣はし候、そこ許に於いて諸事馳走肝要に候なり。謹言 六月廿七日 晴信(花押) 市川右馬助殿 同 右近助殿 読み下し (信濃史料叢書) ●六月廿八日、武田晴信、大須賀久兵衛尉に、欠落(かけおち)した被官人を還住させる。 (長野県史) ● 六月二十八日、長尾弾正少弼(しょうひつ)入道宗心、 長慶寺衣鉢(いぶ)侍者禅師(天室光行)宛文書 ―――景虎出奔――― (前文略) 信州は隣国であることは勿論ですが、村上方をはじめとして井上・須田・ 嶋津・栗田その他の人々が私を頼ってきました。ことに高梨家とはとりわけ親しくしている仲ですから、そのまま見捨てておくわけにもいかず、すでに信州が過半晴信のの手に入り、もうじき信州全部が晴信にとられそうなようすもあったので、両度出陣し、去年(弘治元年)は、旭山城に向かって附城を造り、旭山城をとりこにした上、晴信と興亡をかけた大決戦をしようとしたところ、負けそうになった武田方は和睦を申し出、駿河の今川義元に頼んで誓詞や講和条件などを示してきたので、いろいろ差し障りがあったが、それを承知し、旭山城を壊し、兵を引きました。そこで信州の味方は今も無事に暮らしています。 (弘治二年)六月二十八日 長尾弾正少弼入道宗心 長慶寺衣鉢(いぶ)侍者禅師 (「川中島の戦」小林計一郎氏著) ● 八月十七日、謙信、政景あて文書 私が隠居を決意したのは決して偽りではないが、あなたをはじめ国中の人々が自分を止めてくれる心を振り捨てるわけにもいかず、また私が戦争を怖がって隠居するのだといわれるのも心外だから、あなたの意見にまかせて隠居を思い止ります。 (「川中島の戦」小林計一郎氏著) 市河文書 ●七月十九日 ○別而可抽忠信之由、承候間、安田遺跡出置者也、恐々謹言 弘治二年七月十九日 晴信(花押) 市川孫三郎殿 ●八月二日、武田晴信、水科修理亮に、善光寺と甲府の行き来につき、一カ月馬二疋ずつの諸役を命じる。 (長野県史) ●八月八日、武田晴信、真田幸隆に東条氏の埴科郡雨飾城の攻略を促す。ついで幸隆、同城を落とす。 (長野県史) ● 東条普請の儀、頼み入り候旨一輪を染め候ところに、すなはちその意に応ぜられ、自身着城あり、辛労の至、ことさら去年以来還附未だ安居あるべからず候ところに、かくの如きの儀、誠に以って謝するところを知らず候。いよいよ相?がるるに就いては、快悦たるべく候、恐々謹言 八月廿五日 晴信(花押) 西条殿 (長野史料叢書 山形県西条信武氏所蔵) ●九月吉日、武田晴信願文(「山梨県史」中世資料県外文書 山形県の部) ☆市河文書 年不詳 武田家感状写 (北佐久郡浅科村、市川育英氏所蔵) ●十月廿七日、 (武田晴信)朱印 其方俵物借用之人、無相違可弁済候、有難渋之族者、可有注進候也。仍 如件。 十月廿七日 ☆ 十月下旬、秋山伯キ守の相備え、坂西(ばんざい)・市野瀬・知久・春近衆合わせて二百騎が秋山の与力。秋山の城は高遠城に置く。 ☆ 飯富三郎兵衛の相備え伊那衆、松尾百騎、下条百五十騎・松岡五十騎と武功に優れたもの五十騎を加え、三郎兵衛の二百騎と合わせて五百騎。 ☆ 小山田備中は尼飾城(長野市松代町 越後に逃げた東条氏の居城) ☆ 春日弾正は海津城。和田・余里・布下・楽岩寺から武功の優れた三百騎、当初からの百五十騎を合わせて四百五十騎。 信州の香坂の苗字を受けて春日から高坂弾正となる。 川中島衆の西条・清野・芋川などが高坂の相備えとなる。 ☆ 二の郭は足軽大将、小幡山城の子息又兵衛 ●十二月二十三日、武田晴信、岩波八郎右衛門尉に諏訪郡金子・栗林の地を充 行する。 (信濃資料叢書 岩波文書) ● 十二月二十四日、是より先、武田晴信西条知部少輔をして、水内郡小田切方川北の本領を安堵せしむ、是日、晴信更に更級郡、原・今里の地を充行ふ。 (信濃資料叢書 西条文書) 原・今里の儀について、香坂入道より様々承る旨之条、当分相違覚悟の 外に候、何時に候とも、小田切方川北の本領一両箇所安堵に至っては、 先判の旨に任せ、原・今里相渡すべく候。この趣先書に染むといえ雖も、 若し疑心あるべきの由、校量せしめ候間、重ねて書き出すところなり、 仍って件の如し。 弘治二年十二月二十四日 (朱印) 西条治部少輔殿 ☆市河文書(市川育英氏所蔵) ●十二月二十六日、武田晴信、市河右馬助に、兵糧米の保管を保証する。 其方所持之粮、預置信州佐久郡之処、悪党巳下威敗之砌紛失之候間、於自今以後不可有相違候条、可被存心易者也。仍如件 弘治二年十二月廿六日 晴信(花押) 市河右馬助殿 同右近助殿 その方所持の粮米、信州佐久郡に預け置くのところ悪党巳下成敗の由に 候の間、今より以後に於いて相違べからず候条、心易く存ぜられるべき ものなり。仍って件の如し。 筆註 同様の文書が「山梨県史」資料編5 中世ニ 県外文書 長野県の部に「武田家朱印状」p717に掲載されている。(龍朱印)で晴信花押は見えない。 弘治 三年 1557 《信虎―64歳・信玄―37歳・勝頼―12歳》 ●一月廿日、長尾景虎、更級郡八幡宮に、武田晴信の討滅を祈願する。願文に晴信の信濃制服の暴虐を記す。 (長野県史) (前文略) ここに武田晴信と号する侫臣ありて、かの信州に乱入し、住国の諸氏悉 く滅亡を遂げ、神社仏塔を破壊し、国の悲嘆累年に及ぶ。何ぞ晴信に対 し、景虎闘諍を決すべき遺恨なからん。よって隣州の国主として、或い は恨を後代鬼人に誓い、或いは眼前に棄てがたき好あり、故に近年助成 に及ぶ。国の安全のため軍功を励むところ他事なし。神は非礼を受けず。 縦へ晴信渇仰の志ありと雖も、既に国務を奪はんがため、ゆえなく諸家 をして罪なく脳乱せしむ。万民争(いかで)かその感応に預からん。 云々 ●一月廿一日、武田晴信、伊那郡諸郷に夫役を課す。 (信濃史料叢書) ●二月十二日、 山田領之貴賎、就致降参者、身命不可有相違者也。仍如件。 弘治三年二月十二日 原左京亮殿 ●二月十五日、武田の将馬場信房、長尾方落合氏らの本拠水内郡葛山城を攻略する。葛山衆の多くは武田方の属し存続する。 (長野県史) ○二月十五日、武田晴信の兵、長尾景虎の属城信州水内郡葛山城を攻めて、之を陥る。尋いで、景虎、色部勝長等の参陣を求めて、晴信の軍に備ふ。 (信濃史料叢書) ○ 於于去二月十五日、信州水内郡葛山地、頸壱被討補條戦功無比類候、 弥忠信可為神妙者也。謹言 弘治三年三月十日 晴信(朱印) 内田監物殿 (「信濃史料叢書 内田文書 山形県吉川吉蔵氏所蔵」) ○ 於于去二月十五日、信州水内郡葛山地、頸壱被討補條戦功無比類候、 弥忠信可為神妙者也。恐々謹言 弘治三年三月十日 晴信(朱印) 諏訪清三殿 (「信濃史料叢書」 三澤文書 諏訪市本町 三澤清美氏旧蔵) ● 二月十五日、武田晴信、信州葛山城合戦に於ける窪川宮内丞の戦功を賞する。 去る二十五日、信州水内郡葛山の地に於いて、頸壱つ討ち捕る条、戦功の至り感じ入り候。いよいよ忠信を抽んずべきものなり。仍って件のごとし。 弘治三年三月十日 晴信(龍朱印) 窪川宮内丞殿 同様の文書の宛先 小井弖藤四郎殿。千野靭負殿。溝口殿。篠原藤十郎。土橋対馬殿。内田善三殿。程原左衛門尉五郎。岩下藤三郎殿。三井助七郎殿。小林新兵衛殿。志村禅左衛門殿。室賀兵部大輔殿。春日甚之丞。諏訪清三殿。 溝口宛。 ●二月十六日 信州鉾楯の儀、去々年駿府のご意見を以って、無事に属し候き。然れど もその後の例式晴信の刷曲なき儀どもに候と雖も、神慮といひ、駿州御 刷といひ、この方より手出し致すべきに非ず候條、堪忍に及び置き候。 今度晴信出張し、落合方家中引き破り候故、葛山の地落居、これにより 島津方も大蔵の地へ先ず以って相移られ候。この上のことは是非に及ば ず候間、爰元の人数悉くかの口へ合せしめ、景虎も中途に至り出陣候。 雪中御大儀たるべく候と雖も、夜を以って日に継ぎ、御着陣待ち入り候。 信州味方中滅亡の上は、当国の備安からず候。今般に至っては、一廉の 人数以下相嗜まれ、御稼この時候。恐々謹言 二月六日 長尾弾正少弼 景虎 色部弥三郎殿 御宿所 (「信濃史料」色部家文書) 筆註 鉾楯= むじゅん 刷曲=かいつくろい ●二月十七日、武田晴信、内応した高井郡山田左京亮に、本領同郡山田を安堵し、大熊郷を宛行う。 (長野県史) 今度最前に降参、祝着に候、仍本領五百貫之地、不可有相違、又為新恩 大熊郷七百貫文之所出置候、弥忠節肝要二候者也。仍如件。 丁巳三年二月十七日 晴信 山田左京亮殿 (「山梨県史」中世ニ 県外文書 東京都の部) ●二月廿一日、後奈良天皇伊那郡文永寺再興を山城醍醐寺理性院に令する。ついで文永寺厳詢、信濃に下り、武田晴信に文永寺再興を訴える。(長野県史) ●二月廿五日、武田晴信、越後軍の高井郡中野への移動を報じた原左京亮・木島出雲守に答え、城を固めさせる。ついで原・木島、越後軍の出陣を晴信に報じる。 (長野県史) ●三月九日、晴信、神長(守矢頼眞)宛文書 急度一筆を染め候意趣は、当社御頭役近年怠慢のみに候か。然らば一国 平均の上、百年已前の如く、祭礼勤めさすべきの由存じ候のところに、 十五箇年已来兵戈止むを得ざるにより、土民百姓困窮す。殊には嶋津・ 高梨等今に令に応ぜず候間、諸事思慮の旨あって、これを黙止し畢せぬ。 必ず嶋津・高梨当手に属せば、某素願の如くその役を勤むべきの趣催促 に及び、難渋の族に至っては、先忠を論ぜず、成敗を加ふべく候。云々 三月九日 晴信 神長殿 ●三月十四日、是より先、木島出雲守等、長尾景虎の兵の信濃に入るを、武田晴信に報ず、是日晴信、信濃に出陣せんとし、その旨を出雲守に報ず。 宛 木島出雲守・原左京亮殿 (長野市長門町 県立長野図書館所蔵 信濃史料叢書 丸山史料) ●三月十八日、 信州口の儀に就いて、態御切紙祝着千萬に候。再三啓し候如く、今度の 儀は、是非行に及ぶべき覚悟に候間、今般の儀候間、如何とも早速の御 働待ち入り存じ候。景虎ことも漸く出陣せしめ候。ご用意本望たるべき 間、それ以来かの口の儀、相替りたる子細これなく候。御心安かるべく、 万々面上を以って申し承はるべく候。恐々謹言 二月十八日 長尾弾正少弼 景虎 色部弥三郎殿 御返報 (「信濃史料叢書」色部家文書) ●三月廿三日、武田軍、高梨政頼を飯山城に攻める。政頼、落城の危機を訴え、長尾景虎政景に救援を請う。この日景虎、越後長尾政景に出兵の決意を告げ出陣を促す。 (長野県史) 信州の儀に就いて、度々啓せしむる如く、この度に至っても更によんど ころなき子細候間、見検致すべきにあらず候。さりながら、出陣の日限 等のこと、かたがた申し談じ進むべく候ところ、景虎出馬遅々に候へば、 高刑飯山の地を打ち明くべきの由、頻りと申し越され候。左様にこれあ らば、いよいよ節義を失い候条、明日(二十四日)籠もり立ち候。毎度 申し宣ぶる如く、いよいよ御大儀たるべく候。早速の御着陣簡要に候。 恐々謹言 三月二十三日 弾正少弼 景虎 越前守殿(長尾政景) (「信濃史料叢書」 県立長野県図書館所蔵文書) ●葛山城を攻落した後、武田軍は川中島一帯の長尾方の一掃を続行していた。景虎は雪の為に出陣することができず、晴信も三月十四日には、まだ甲府いた。そこへ川中島より注進状が届き、越国衆が出陣するのとの報に接し、自らも出馬すると伝えている。 (甲府市史) ●三月廿五日、甘利信州立。 (王代記 山梨県大井大俣神社旧蔵及) ●三月二十五日、甘利(昌忠)、信州へ立、十月十六日馬入、窪川孫次郎討死。 廿三日、是より先、武田晴信の軍高梨政頼を水内郡飯山城に攻むるにより、政頼、長尾景虎に救援を請い、この日、景虎出兵せんとし、同政景の出陣を促す。 ●三月二十五日、是より先、長尾景虎、善光寺に兵を進め、高井郡やまだ要害・福島等を鎮定す。是日、景虎、水内郡旭山要害を再興し、晴信の軍に備ふ。 色部弥三郎殿 長尾景虎(花押) (「信濃資料」色部家文書) ●三月二十六日、信玄、伊藤右京亮宛書状。 高梨間山之郷之内三百貫文之所、被出置候、弥可抽戦巧者也。執達仍 如件。 丁巳 三月二十六日 信玄 判 伊藤右京亮殿 (「山梨県史」中世ニ 県外文書 東京都の部) ●三月廿八日、武田晴信、水内郡飯縄権現の仁科千日に、同社支配を安堵し、武運長久を祈念させる。 ☆ 四月九日、上野三ヶ尻(群馬県碓氷郡松井田町と富岡町の中間)北武蔵・西上野の武将十名以下二万人が長野信濃守を大将にして信玄公にたてつく。飯富三郎兵衛殿・馬場民部助・内藤修理・原隼人・諸角豊後守・小宮山丹後守・飯富兵部少輔と信玄子息太郎義信公を大将に追い崩し、勝鬨(かちどき)を挙げる。続いて長野信濃守の居城を攻める準備をする。 (甲陽軍艦) ☆ 四月十二日、越後の謙信が川中島を窺うという報に、上野攻めを止め、川中島へ出馬、五月末日まで対陣し帰陣する。 (甲陽軍艦) ● 四月十三日、武田晴信、島津月下斎が水内郡鳥屋城から鬼無里を突くとの報の実否を長坂虎房らに調べさせる。 ● 四月十三日、武田晴信、上杉謙信出陣の報を得て、日向大和守等に命じて、鬼無里方面での動静を探らせる。 読み下し(「須玉町誌」) 幸便を以って自筆を染め候意趣は、大日向の所従(よ)り木島を以って 申し越さるる如くんば、鳥屋より嶋津従り番勢を加え、剰え鬼無里に向 け夜搖の由に候。実否懇切に聞き届けられ、帰参の上、言上致さるべく 候。惣じて別して帰国の次、鬼無里筋の路次等見届けらるること尤もに 候。毎事疎略無く見聞有りて、披露待ち入り候。恐々謹言 追って小川・柏鉢従り鬼無里・鳥屋筋々に向かい、絵図いたされ候て、持 参有るべく候。(下略) (「須玉町誌」資料編第一巻) 第三回川中島合戦 ●四月十八日、景虎が川中島に出陣し、晴信は決戦を避けて安曇郡小谷城を攻め、八月に入ってやっと両軍が川中島で対戦した。これを第三回川中島の戦いという。 ●この年の四月には晴信は川中島に出陣し、八月には長尾景虎と三回目の対戦をしている。小山田氏も晴信に従って川中島に出陣しており、小林方はその信濃陣中まで訴えに赴いている。 (妙法寺記) ●四月廿一日、長尾景虎、善光寺に着陣、武田方の高井郡山田城・福島城などを奪う。ついで旭山城を再興する。 当地善光寺に至って着陣せしめ候、敵方より相拘り候地利、山田の要害 並びに福島の地打ち明け候。除(のけ)衆悉く還住候。先づ以って御心 安かるべく候。方々より申し来る子細も御座候条、早速御着陣待ち入る 計りに候。如何とも御動(はたらき)祝着たるべく候。恐々謹言 長尾弾正少弼 景虎(花押) 四月廿一日 色部彌三郎殿 御宿所 (『信濃史料』色部文書) ●五月十日、長尾景虎、高井郡小菅山元隆寺に願文を奉納、武田晴信を信濃に 引き出し決戦することを祈る。 信州に至っての出陣に就いて、去る頃野島平次右衛門瀬波郡下向の刻、 一筆啓せしむるのところ、御懇の報候。本領祝着に候。去る月十八山を 越え、同二十五、敵陣数箇所、根小屋以下悉く放火し、同日旭要害を再 興し陣を居え候。如何とも武略を廻らし、晴信を引き出し、一戦を遂ぐ べき覚悟に候。その上敵地より、種々申し刷(つくろ)旨候。御心安か るべく候。恐々謹言 長尾弾正少弼 景虎(花押) (弘治三年)五月十日 土佐林能登入道殿 (『信濃史料』芳賀文書) ●五月十日、長尾景虎、武田晴信と信濃に決戦せんとし、高井郡元隆寺に戦勝を祈る。 (前文略) 伏して惟(おもん)みるに、武田晴信世甲・信に拠り望を競ひ威を振ひ、 干戈息むなし、越後国平氏の小子長尾景虎、去る夏以来高梨らのため、 しばしば諸葛の陣を設くと雖も、晴信終に兵を出さず。故に鉾戦い受く る能はず。これにより景虎暫く馬を飯山の地に立て、積年の憤と散ぜん と欲す。云々 弘治三年五月十日 平景虎敬白 (「信濃史料」小菅神社文書) ●五月十三日、長尾景虎、香坂城を焼き、この日小県郡境の坂木岩鼻を破る。ついで晴信が出陣しないため飯山城に兵を返し、高井郡野沢の湯に市河藤若を攻める。 ●五月十五日、 当口動(はたらき)の儀について、急度御飛脚満足致し候。去る十二日 に香坂へ行(てだて)の儀に及び、近辺悉く放火、翌日坂木岩鼻まで、 打散じ候、凶徒一二千程取り出候へども、懸り動(はたら)き候へば、 五里三里先より敗北候間、打ち捕へざること無念このことに候。重ねて 天気次第相動き、珍しき儀候へば、申し入るべく候。恐々謹言 先刻申し入れ候儀、御用候間、草出羽同心、御大儀たるべく候へども、 御加勢の儀この時に候間、申すことに候。 (弘治三年)五月十日 平三景虎 高梨殿御報 (「信濃史料」) 六月十六日 晴信、市川籐若宛書状(「信濃史料叢書」 謙信公御代御書集』) 急いで客僧をもってお伝えします。そもそも長尾景虎が六月十一日に飯山に陣を移した様子で、風聞では高梨政頼がそちらへの融和工作をしているようですが、いうまでもなく、誓約の旨のとおりこちらの心底は残らず申し届けてあるとおりです。幸いに当方の陣は警固であり、さらに来る十八日には、上州勢がことごとく加勢にこちらのほうへ出張し、上田方面には北条綱成が着陣する予定です。越後勢は日を追って滅ぶでしょう。それが晴信の本意であることを知ってください。早々に軍備の調えを切に頼むこと、相変わらずの忠節を望むところです。なお、追って使者を送り一部始終を申し上げます。恐々謹言 六月十六日 晴信(花押) 市川籐若殿 (山日新聞による) ☆六月廿三日 晴信、市川籐若宛書状 ●六月廿三日、深志城の武田晴信、使番山本菅(勘)助を市河藤若に遣し、救援出陣を手配したと告げる。 ★山本勘助★信州塩田に布陣の晴信が、水内郡市河に在城の市河藤若にあて、塩田城主飯富虎昌が川中島に進出する計画のあることを、山本菅(勘)助を使番として報じる。 (北海道、市河良一家文書) 注進状披見。仍つて景虎、野沢の湯に至り陣を進め、其の地 へ取り懸かるべき模様、又武略に入り候と雖も、同意無く、 剰え備堅固故、長尾功無くして飯山へ引退き候由誠に心地よく候。何れも今度、其の方の擬たものしき迄に候。なかんずく野沢在陣のみぎり、中野筋後詰の義、飛脚に預り候き。すなわち倉賀野へ越し上原与三左衛門尉、又当年の事も塩田在城の足軽を始めとして、原与三左衛門尉五百余人、真田へ指し遣はし候処、既に退散の上是非に及ばず候。全く無首尾有るべからず候。向後は兼て其の旨を存じ、塩田の在城衆へ申し付け候間、湯本より注進次第に当地へ申し届けるに及ばず出陣すべきの趣、今日飯富兵部少輔の所へ下地を成し候の条、御心易く有るべく候。猶山本管助口上有るべく候。 恐々謹言。 六月廿三日 晴信(花押) 市河藤若殿 ●七月三日、是より先水内郡飯山城将高梨政頼、越後春日山城将直江實綱を音文する。 (高梨文書) ●七月五日、武田軍、長尾方安曇郡小谷(おたり)城を攻め落とす。 ●七月五日、武田晴信感状。 於于去五日信州安曇郡小谷之城、最善攻登、頸壱討捕、剰被疵二ヶ所候 条、戦功感入候、弥可抽忠信者也。仍如件。 七月十一日 晴信(龍朱印) 溝口 (信濃史料) ●七月五日、武田晴信の軍、安曇郡小谷に長尾景虎の軍と戦う。尋いで、晴信、諸士の功を賞する。 於于去五日信州安曇郡小谷之城、最善攻登、頸壱討捕之條、忠節感入候、 弥可抽戦巧者者也。仍如件。 弘治三年七月十一日 晴信(朱印) 小平木工丞殿 筆註 ☆ 同様の文書が多数ある。(「信濃史料」『諸州古文書』) 岩波六郎左衛門殿・篠原藤十郎殿・三井助七郎殿・小井弖藤四郎殿 岩波藤五郎殿・大村与右衛門殿 ● 「千野文書」諏訪市本町 千野俊次氏所蔵 抜粋 小谷城御本意の時分、構際に於いて弓を涯分仕り候。板垣具に言上故、高 白斎を以って深志の御対面所へ召し出し、此の類なく相?ぐの由、御褒美 候事。 ● 七月廿三日、武田晴信、大須賀久兵衛に、埴科郡坂木南条の地を宛行い、検使を派遣して所領を渡すと告げる。 ☆ 八月、信玄公は途中であった上野の信濃守の居城箕輪城を攻めた。十月中旬に信玄公は帰る。 (甲陽軍艦) ●八月六日、武田晴信、安曇郡山田左近をして、本領を安堵せしむ。(山田文書) ●八月廿九日、長尾景虎、政景の軍、武田軍を水内郡上野原に破り、この日戦功を賞する。(第三回川中島合戦) 今度於信州上野原(水内郡)一戦、働無比類次第ニ候、向後弥?之事肝 心に儀。謹言。 (弘治三年)八月廿九日 景虎 南雲治良了右衛門とのへ (同様の文書の宛先 大橋弥次郎殿) ● 九月二十日、越後方の大将、長尾政景の感状 信州上野原に於いて、晴信に対して、合戦を遂げ、勝利を得候砌、神妙 の働き比類なく候。向後いよいよ稼がるべきこと専要(大切)に候。 謹言。 九月廿日 政景 下平弥七郎殿 ● (「川中島の戦い」小林計一郎氏) ●十月九日、武田晴信、安曇郡千国谷に高札を掲げ、谷中の乱妨狼籍を禁止する。 ●十月十六日、馬入。窪川孫二郎討死。【王代】 ● 11月六日、武田家奉行衆、小尾藤七良に対し、京進面付として五百六十文の納入を命ずる。(正親町天皇即位に伴う経費の捻出か) 就京進面付之事(略) 弘治三年十一月六日 長坂筑後虎房 (花押) 三枝右衛門尉 (花押) 室住豊後守虎光(花押) 小尾藤七良代 (「須玉町誌」史料編第一巻) ●此年、将軍足利義輝、長尾景虎上洛のため景虎、武田晴信の和睦をはかり、聖護院道澄を派遣する。 ●弘治元年(1555)閏十月の甲越和睦は、その後の信濃侵略によって、有名無実となり、翌二年八月には春野望が景虎の家臣の大熊朝秀を内応させたことから、再び両者の関係は悪化した。この年の二月十五日、晴信は景虎の機先を制して川中島へ兵を送り、善光寺の南の葛山城を攻落させた。 (甲府市史) ●此年、武田晴信、善光寺の仏像・仏具を小県郡彌津に移す。信濃善光寺とその門前町が寂れる。 ●弘治年間、武田晴信、伊那郡に小野川・波合関所を設ける。この頃、清内路・帯川・心川関所も置く。 《参考》川中島の戦い。『川中島五箇度合戦記』 第一回 天文廿二年八月(1553) 第二回 天文廿四年四月(1555) 百五十日間 第三回 弘治 三年 (1557) 第四回 永禄 四年九月(1561) 第五回 永禄 七年八月(1564) 永禄 元年 1558【甲府】《信虎-65歳・信玄-38歳・勝頼-13歳》 ●正月十六日、今井昌良、将軍家側近大館晴光に、晴信の信濃守護職、義信の准三管領任官の礼をする。 ●二月廿日、晴信、将軍家の御内書の応じて景虎と和睦する。 《解説『甲府市史』》 将軍足利義輝は長尾景虎を上洛させるために晴信と和睦させる工作をしていた。既に弘治三年八月には将軍家の使者が甲斐へ遣はされ、晴信も信濃守護職に任命されることを条件に、承認の意向を示していた、この年二月には景虎もこれに応じ、一応両者の和議が成立した。 永禄 元年 1558【長野】 ●二月廿日、足利義輝、甲越和睦への長尾景虎の同意を嘉(よみ)する。この 頃晴信、信濃守に補任される。 (長野県史) ●三月六日、武田晴信、陸奥会津高橋郷の大島次郎右衛門に、甲信両国で一カ月荷物五駄の諸役を免除する。 (長野県史) ●四月、武田晴信、水内郡柏鉢・埴科郡東条・更級郡大岡各城在番衆の当番を定め、真田幸隆・小山田昌行を埴科郡尼飾城を在番させる。 (長野県史) ●この年、武田晴信、川中島地方をほぼ平定する。 (長野県史) 永禄 元年 1558【評判】 ● 永禄元年二月、長尾謙信與武田信玄、和睦あて、信州筑摩川にて會盟せらる べしと聞ける時、信玄過言を以て和談を破られ、重ねて対陣に及び玉ふこと 本書の如し。 ●五月、武田信繁、家訓九十九カ条を定め、嫡子長老に遣わす。(別記) ●六月、小田原城主北条氏康、甲州の出家に過所を与える。 (甲府市史) ●閏六月、晴信、醍醐理性院に信濃文永寺ほかの再興を報ずる。 (甲府市史) ●九月二十五日、武田晴信、善光寺の阿弥陀如来像・源頼朝像などを甲府へ移す。栗田氏・大本願上人らも甲府へ移る。次いで甲斐板垣に善光寺如来堂を造立する。(長野県史) ●九月、晴信、信濃善光寺の本尊を甲斐に移し、新寺の建立を始める。 (甲府市史) 《解説》新寺は翌二年二月に完成し、二月二十六日に本尊が入仏されている。 ●善光寺如来、九月二十五日、甲府付玉フ。板垣十三日地引始。【王代】 ●十一月廿八日、晴信、将軍足利義輝に信濃出兵の弁明状を送る。(甲府市史) 《解説『甲府市史』》 武田晴信が将軍足利義輝の側近である大館晴光に宛てた書状。 一、去夏(弘治三年)に私(晴信)が越後に向けて出兵したのが将軍家を軽んじたものと書いてあり、大変驚きました。すでに先般瑞林寺が使者として下向した折、信濃守護職補任の御内書を頂戴しておりますので、他に手出しするつもりはなかったのですが、その後長尾景虎が両度にわたって信濃国内で放火したからです。これこそ上意に背くものでしょう。 二、去年甲越和睦をまとめるために聖護院門主の使者として森坊が御内書をもって甲府へ来ました。これによって私は合戦をやめ、信府中にある城普請を申しつけていた際、景虎も御内書を頂戴し、いまだ和睦も成立しない前に、信濃の海津の地に放火しました。これは皆がよく存じていることです。 三、その報復のために私は越後に向けて出兵したのであり、決して上意をないがしろにしたのではありません。 四、今回重ねて出兵したのは、以下の理由によるものです。去夏に出兵した折に越後の府中を破却しようと思ったのですが、将軍家よりの使僧が甲府に下向したとの知らせを留守のものが伝えてきたので、上意を重んじて帰陣し、使者の西堂に対しての私の考えを述べ、前述のように信濃守護補任の御内書を持参していたので、和睦を成立させるため、その使者に越後へ赴くよう勧め、使者が承知して越後に到着したところ、越後では無理に押し返してしまいました。これは上意にが逆心するものであり、無分別というべきです。 五、私は信濃守護職補任の御案内に従い、信越国境を境界とすると承知しております。 なお詳しくは富森左京亮が口上で申し述べます。追って上使の瑞林寺・佐々伊豆寺は越後へ向かいました。津田掃部助は、談合のために一両日前に甲府に着いております。 永禄 元年 1558【妙法】 ●此年、八月五日大風吹申候。乍去秋世中粟半、耕作同芋半世中 殊に大麦小麦半世中稲・大豆・小豆は廿分に出来候而、売買何も安し。 永禄 二年 1559【甲府】《信虎-66歳・信玄-39歳・勝頼-14歳》 ●武田家一門、高野山引導院(持明院)の黄金を寄進する。 一、黄金五両 晴信 花押 一、黄金壹両 信繁 花押 一、同 信廉 花押 一、同 信是 花押 右一国一家勧進状、仍如件 引導院 永禄 二年 1559【王代】 ○ 二月十六日、新善光寺板垣立。入仏二月十六日。(王代) 永禄 元年 1558【甲府】《信虎-65歳・信玄-38歳・勝頼-13歳》 ●正月十六日、今井昌良、将軍家側近大館晴光に、晴信の信濃守護職、義信の准三管領任官の礼をする。 ●二月廿日、晴信、将軍家の御内書の応じて景虎と和睦する。 《解説『甲府市史』》 将軍足利義輝は長尾景虎を上洛させるために晴信と和睦させる工作をしていた。既に弘治三年八月には将軍家の使者が甲斐へ遣はされ、晴信も信濃守護職に任命されることを条件に、承認の意向を示していた、この年二月には景虎もこれに応じ、一応両者の和議が成立した。 永禄 元年 1558【長野】 ●二月廿日、足利義輝、甲越和睦への長尾景虎の同意を嘉(よみ)する。この頃晴信、信濃守に補任される。 ●三月六日、武田晴信、陸奥会津高橋郷の大島次郎右衛門に、甲信両国で一カ月荷物五駄の諸役を免除する。 ●四月、武田晴信、水内郡柏鉢・埴科郡東条・更級郡大岡各城在番衆の当番を定め、真田幸隆・小山田昌行を埴科郡尼飾城を在番させる。 ●九月二十五日、武田晴信、善光寺の阿弥陀如来像・源頼朝像などを甲府へ移す。栗田氏・大本願上人らも甲府へ移る。ついで甲斐板垣に善光寺如来堂を造立する。 ●この年、武田晴信、川中島地方をほぼ平定する。 永禄 元年 1558【評判】 ●永禄元年二月、長尾謙信與武田信玄、和睦あて、信州筑摩川にて會盟せらるべしと聞ける時、信玄過言を以て和談を破られ、重ねて対陣に及玉ふこと本書の如し。 永禄 元年 1558【甲府】 ●五月、武田信繁、家訓九十九カ条を定め、嫡子長老に遣わす。(別記) ●六月、小田原城主北条氏康、甲州の出家に過所を与える。 ●閏六月、晴信、醍醐理性院に信濃文永寺ほかの再興を報ずる。 ●九月、晴信、信濃善光寺の本尊を甲斐に移し、新寺の建立を始める。 《解説》新寺は翌二年二月に完成し、二月二十六日に本尊が入仏されている。 ●善光寺如来、九月二十五日、甲府付玉フ。板垣十三日地引始。【王代】 ●十一月廿八日、晴信、将軍足利義輝に信濃出兵の弁明状を送る。 《解説『甲府市史』》 武田晴信が将軍足利義輝の側近である大館晴光に宛てた書状。 一、去夏(弘治三年)に私(晴信)が越後に向けて出兵したのを将軍家を軽んじたものと書いてあり、大変驚きました。すでに先般瑞林寺が使者として下向した折、信濃守護職補任の御内書を頂戴しておりますので、他に手出しするつもりはなかったのですが、その後長尾景虎が両度にわたって信濃国内で放火したからです。これこそ上意に背くものでしょう。 二、去年甲越和睦をまとめるために聖護院門主の使者として森坊が御内書をもって甲府へ来ました。これによって私は合戦をやめ、信府中にある城普請を申しつけていた際、景虎も御内書を頂戴し、いまだ和睦も成立しない前に、信濃の海津の地に放火しました。これは皆がよく存じていることです。 三、その報復のために私は越後に向けて出兵したのであり、決して上意をないがしろにしたのではありません。 四、今回重ねて出兵したのは、以下の理由によるものです。去夏に出兵した折に越後の府中を破却しようと思ったのですが、将軍家よりの使僧が甲府に下向したとの知らせを留守のものが伝えてきたので、上意を重んじて帰陣し、使者の西堂に対しての私の考えを述べ、前述のように信濃守護補任の御内書を持参していたので、和睦を成立させるため、その使者に越後へ赴くよう勧め、使者が承知して越後に到着したところ、越後では無理に押し返してしまいました。これは上意にが逆心するものであり、無分別というべきです。 五、私は信濃守護職補任の御案内に従い、信越国境を境界とすると承知しております。 なお詳しくは富森左京亮が口上で申し述べます。追って上使の瑞林寺・佐々伊豆寺は越後へ向かいました。津田掃部助は、談合のために一両日前に甲府に着いております。 永禄 元年 1558【妙法】 ●此年、八月五日大風吹申候。乍去秋世中粟半、耕作同芋半世中 殊に大麦小麦半世中 稲・大豆・小豆は廿分に出来候而、売買何も安し。 永禄 二年 1559【甲府】《信虎-66歳・信玄-39歳・勝頼-14歳》 ●武田家一門、高野山引導院(持明院)の黄金を寄進する。 一、黄金五両 晴信 花押 一、黄金壹両 信繁 花押 一、同 信廉 花押 一、同 信是 花押 右一国一家勧進状、仍如件 引導院 永禄 二年 1559【王代】 ○新善光寺板垣立。入仏二月十六日。 永禄 二年 1559【妙法】 ○正月小二月大。 ○正月日、雪水出候而、悉く田地上家村を流し候。就中此年二月信州への番手をゆるし候而、又谷村御屋敷不審同つほの木又さいかち公事なとを、祝師衆計不致ゆる候而、宮の川よけを被成其上彌三郎殿御意を以て宮林の木を祝師衆まゝに被成小林尾張殿奉行にて宮林をきりわたを立被納候然者小林和泉殿宮林を為伐間敷由二三度押被申候へ共祝師衆皆々不用して彌三郎殿下知にて用の程伐候而宮の致川よけ候。 ○同其年の春は売買何も安し。 ○同年四月十五日大氷降。夕顔、茄子麻痺苗殊鶯菜悉打折何も無し。大麦は半分こほし候。 ○就中、庚戌年(天文十九年/1550)小林宮内少輔殿河よけ不審に新井左近地付の林を伐候而、堰候候へは其過怠として下吉田百余人の所より質者を一兵衛殿取被申候を皆々道理を申分候間、松山より悉く質物共を反し被申候へ共左近同殿法林坊質物計不被返候間打置申候処に己未年(永禄二年)四月慥に小山田御意にて手取二つ新鍬一勺拾年と申反し被申候之間目出度請取申候。 ○永禄二年十二月七日に大雨降怱に雪しろ水出て法ケ堂皆悉流れ申候。又在家の事は中村まるく流し候事無限。 《筆註》今川義元関係(『富士吉田市史』) 弘治 三年(1557) ※今川義元、慶覚坊に東専坊の遺跡譲渡を認める。 ※今川義元、中河の浅間神領屋敷相論につき裁許する。 ※今川義元、宝幢院に富士大宮別当職と別当領分を安堵する。 ※今川義元、富士登二郎に河東十分一を免許する。 《筆註》今川氏真関係(『富士吉田市史』) 永禄 元年(1558) ※今川氏真、大鏡坊頼慶に富士山宮大夫跡職を安堵する。 ※今川氏真、大鏡坊頼慶に慶覚坊跡職を安堵する。 ※今川氏真、浅間神社の神領等を安堵する。 ※今川氏真、静岡浅間神社流鏑馬千歳方郷役を改めて命ずる。 ※今川氏真、東泉院に下方五社領内の金剛寺と玉蔵院を付属する。 永禄 二年 1559【長野】 ●三月廿日、武田晴信、東北信・伊那の諸将士・商人らに、分国内往還の諸役を重ねて免除する。 永禄 二年 1559【諸州古文書】「甲州二ノ上」 ●武田晴信、分国中の商売の諸役を免許した者の名前をまとめる。 分国商売之諸役免許之分 従天文十八年 1549 一、五月九日、分国諸開諸役一月ニ三疋口令免許者也。 奏者 秋山善右衛門 左進士新兵衛尉 一、敵之時宜節々聞届就注進、一月ニ馬一疋口諸役令免許者也。 奏者 穴山殿 拾月二日 柳澤 一、一月荷物三疋口、往還不可有諸役者也。 奏者 向山又七郎 拾月廿日 対馬守 一、於京都絹布已下之用所一人ニ申付候間、弥以堅奉公可申事専一候、因茲分 国之諸役 一月ニ馬三疋口、無相違可勘過者也、 拾月吉日 小薗八郎左衛門尉 天文十九年 1550 一、卯月三日、濃州之商人佐藤五郎左衛門尉過書之事、右分国 諸役所一月馬三疋口無相違可通者也。 奏者 向山又七郎 小山田申請 一、別而抽忠信之由申候間、一月ニ馬三疋口諸役令免許者也、 奏者 今井越前守 拾一月十三日 松嶋今井越前守 一、甲信之内、一月馬五疋口諸役令免許者也、 奏者 跡部九郎右衛門尉 六月十六日 末木土佐守 一、裏之台所へ之塩、一月ニ二駄諸役令免許者也。 七月十日 一、馬三疋口一月ニ三度宛、諸役令免許者也、 奏者 跡部伊賀守 甲寅卯月八日 大日方山城守 一、一月ニ一往馬三疋宛無相違可勘過者也。仍如件。 奏者 跡部伊賀守 卯月十二日 麻績新左衛門尉 一、就別而致奉公、一月ニ馬二疋口諸役令免許者也。仍如件。 奏者 跡部伊賀守 卯月四日 窪村豊後守 一、鵝目七百貫文預候利銭之事、可為四文字、以其故商諸役一月ニ馬六疋口、 又門屋四間令免許者也。 奏者 跡部九郎右衛門尉 卯月十二日 林土佐守 一、分国之内一月ニ馬十疋宛諸役令免許候、恐々謹言。 奏者 高白斎(栗原左兵衛) 卯月晦日 岡部豊後入道 一、分国之内一月馬三疋口出置者也。 天文二十四年 一、就小田原南殿奉公、一月ニ馬三疋分、諸役令免許者也。仍如件。 奏者 跡部次郎衛門尉 天文廿四年三月二日 向山源五左衛門尉 弘治元年 一、拾二月十九日 平原甚五左衛門尉 一、就山内在城諸役所并諸関令免許者也。 奏者 跡部伊賀守 原弥七郎 六月吉日 九一色衆 一、就越国筋往還、自由者一月ニ馬五疋分国之内、諸役令免許者也。 奏者 今井越前守 六月廿五日 仁科民部入道殿 一、善光寺還往之間、一月ニ馬壱疋口諸役令免許者也。 奏者 飯田源四郎 弘治二年八月二日 水科修理亮 一、一月馬五疋之分、商之諸役令免許者也。仍如件。 奏者 跡部伊賀守 十二月六日 五味八郎左衛門尉 一、就塩硝鉛下、分国之内一月馬三疋宛諸役令免許者也。仍如件。 奏者 秋山市右衛門尉 弘治三年正月廿八日 彦十郎 一、信国之内甘馬一月ニ七疋無相違可勘過者也。 奏者 原弥(七郎) 八月三日 依田新左衛門尉 一、越中へ使者ヲ越候、案内者可馳走之旨申候間、一月ニ馬壱疋之分商売之諸役令免許者也。 奏者 高白斎 一、甲信両国中、毎月馬二疋之分、商之諸役令免許者也。 奏者 高白斎 弘治三年十月三日 油科佐渡守 一、甲信両国中、毎月馬二疋宛、商之諸役令免許者也。 奏者 高白斎 弘治三年 十月三日 窪田外記 弘治四年 永禄元年 一、参月六日 御印判三疋一ツ二疋一ツ二枚ニ出候。 一、従当年六月至于来十二月一日ニ馬五疋分諸役令免許者也。 奏者 原弥 永禄元年六月朔日 屋代殿 一、小笠原信貴息就在府毎月粮米回状分、青柳より府中迄諸役令免許者也。 奏者 高白斎 永禄元年六月十一日 一、甲信両国中、毎月馬三疋之分、商之諸役令免許者也。 奏者 高白斎 十月三日 窪田伊賀守 一、一月三度宛、彼者往還之荷物、壱駄分諸役令免許者也。 奏者 金丸平三郎 松尾被官 助右衛門 永禄元年拾月廿六日 一、信州之内一月ニ馬二疋分商之諸役令免許者也。仍如件。 奏者 小山田備中守 永禄元年十一月三日 上原之保坂中務丞 一、於甲信両国彼荷物、一月ニ拾駄分、諸役所渡已下無相違可勘過、富士参詣之時節モ可為同前者也。遂而善三郎事者、令在国者善明已後モ可為同意(前) 奏者 宗春 拾月十日 松木善明 同善三郎 一、馬三疋口一ケ月一住つゝ諸役令免許者也。 奏者 野村兵部助 己未二月三日 葉山左京進 一、其方父子参府之砌、一月之内荷物三駄之分諸役令免許者也。 奏者 跡部伊賀守 二月八日 大日方入道殿 已上 永禄二年 右書立之外之族、縦雖持印判不可叙用者也、仍如件。 永禄二年 三月廿日 (『甲州古文書』) 永禄 二年 1559 ※永禄二年四月、謙信は京都に上り、参内、公方義輝公に拝謁した。輝虎の名をいただき、網代の塗輿、御紋をゆるされ、文の裏書きまでゆりされて帰国した。管領職は辞退し、朱塗りの柄の傘、屋形の号もゆるされ、三管領に準ずるうようになった。(河中島五箇度合戦記) 永禄 二年 1559 4月 ●四月、武田信玄、川内領の関所に禁制を掲げる。(【甲府/甲州古文書】) ●武田信玄、甲斐国内に寺社の禁制を掲げる。 《解説『甲府市史』》 (略)晴信から信玄と改名した直後の竜朱印状と思われる。 ○十一月九日、武田信玄、身延山久遠寺に末寺支配を安堵する。 ●五月、武田信玄、長尾景虎上洛に乗じ奥郡・越後境出陣を計り、佐久郡松原諏訪社に戦勝を祈る。 (長野県史) ●『松原神社文書』武田晴信、信玄を名のる。 敬白 願書の意趣は、 今度ト問最吉に任せ、甲兵を信州奥郡並びに越州の境に引卒す。信玄多 年如在の礼賽あり、造次にもここに於いてし顛沛にもここに於いてす。 希はくは天鑑に随ひ、敵城悉く自落退散し、しかのみならず長尾景虎吾 軍に向はば、すなはち越兵追北消亡せんことを、併せて松原三社の保祐 を仰ぐものなり。神明私なし。凱歌を奏して家安泰に帰するの日に至ら ば、具足一両糸毛・神馬一疋、宝前に献じ奉るべきの条、件の如し。 永禄二年己未年 五月吉日 釈信玄 花押 ●六月二十六日、足利義輝、武田晴信の出兵なじり、信濃の諸将士に長尾景虎に従い戦闘を停止するように令する。 ●八月三日、屋代政国、諏訪上社への寄進地年貢を桑原市中升(ます)で十八俵と定め これを同社人に伝える。 ●九月一日、武田信玄、小県郡下之郷社(生島足島神社)に願文を納め、長尾景虎との決戦の勝利を祈る。 敬ひ申す願書【生島足島神社文書】 帰命頂礼、下郷諏訪法性大明神に言ひて曰はく、徳栄軒信玄越軍出張を 相待ち、防戦せしむべきか否やの吉凶、預め四聖人にト問す。その辞に 曰はく、九二の孚喜あるなり。 〔薦約を経て神の享くるところとなる。これを斯喜となすと云々〕 希はくは天艦に随ひ越軍と戦ひ、すなはち信玄存分の如く勝利を得、し かのみならず長尾景虎忽ち追北消亡せんことを。併せて下郷両社の保祐 を仰ぐものなり。神明私なし。 凱歌を奏し、家安泰に帰するの日に到って、己未の歳よりこれを始め、 十箇年の間、毎歳青銭十緡修補のため社納し奉るべきものなり。仍って 願状件の如し。 維時永禄二年秋九月 武田徳栄軒信玄 花押 ●九月、武田晴信の軍、上野安中・松井田を侵す。(【長野】) ※十月二十六日、長尾景虎、越後に帰る。(【長野】) ●十一月十三日、長尾景虎の関東管領補任を祝し、村上義清・高梨政頼を筆頭に、須田・真田氏ら信濃の諸将多数、太刀などを贈る。(【長野】) ●十一月廿日、武田信玄、屋代政国に、隠居の際に埴科郡福井などの地を宛行ことを約し、分量に従って軍役を勧めるよう記す。(【長野】) (信玄宛行状の軍役規定の初見) ●十二月十三日、秋山善右衛門、伊那郡赤須昌為に、草刈場に入れる区域と馬数の規定を渡す。(【長野】) 永禄 三年 1560【甲陽】《信虎-67歳・信玄-40歳・勝頼-15歳》 ●二月朔日に、北条氏康公より御使いが甲府に達する。その理由は、謙信が去年十月より上野の飛来へ進出して来ていて、関八州の侍大将勢を大田三楽(資正)が策略を用いて悉く謙信旗本に勢力下にひきつけている。また都から近衛殿を通じて公方と名付け、氏康を倒すべき名目を得たそうで、このままではと考え、信玄公の加勢をお頼み申す由の便である。云々 永禄 三年 1560 ●二月二日、武田信玄、諏訪上社造営(御柱立)にあたり、信濃一国に諸役を課する。(【長野】) ※三月卅日、能登、神保良春ら、武田信玄に応じ、長尾景虎の信濃出陣の背後を突く。景虎、これを越中富山城に破る。(【長野】) ●三月十一日、信玄、郷中での重科人の密告を命ずる。【甲府】 ●四月廿八日、長尾景虎、信玄が越中に外交の手を伸ばしことを常陸の佐竹氏に報ず る。(年代は推定)【甲府/福王寺文書】 ※五月十九日、織田信長、今川義元を桶狭間で破る。 ○五月十九日、駿河之義元尾張成実ニテウチ死。(【王代】) ●六月六日、信玄、御室浅間神社に分国諸関所通行手形を与える。【甲府/浅間文書】 ●六月十五日、武田信玄、香坂筑前守に更級郡横田のうち屋代氏らは海津城を築かせ、 城代春日虎綱を置く。【長野】 ●七月十三日、信玄、高野山成慶院を宿坊と定める。【甲府/高野山成慶院文書】 ●八月二日、信玄、龍王川除場の移住人を募る。【甲府/保坂家文書】 ●八月廿五日、信玄、府中八幡社の国中社人の勤番制を敷く。【甲府/八幡社文書】 ●八月廿五日、信玄、国中修験僧の条目を定める。【甲府/武田文書】 ※八月二十五日、長尾景虎、関東出陣中の留守諸将の掟を定め、信濃鎮定は高梨政頼に 輪番合力するように命じる。【長野】 ※九月廿八日、北条氏康、武州河越に出陣。ついで長尾景虎、上野厩橋城に拠る。 ●十月十七日、信玄、北条援助のため、加賀・越中一向宗徒の越後侵攻を本願寺顕如に 求める。【長野】 ●十月十八日、信玄、北高全祝を岩村田竜雲寺に入れ、曹洞門派に条目を定める。 【甲府/永昌院文書(山梨県山梨市) ●十月廿二日、武田信玄、大井左馬允に、小諸城の定普請小諸出陣のさいの兵糧輸送を命じる。【長野】 永禄四年 1561【長野】《信虎-68歳・信玄-41歳・勝頼-16歳》 ●二月十四日、武田信玄、諏訪上社の宝鈴を鳴らす銭額を上五貫文・中三貫文・下一貫二百文と定める。 ※三月、長尾景虎、信濃・越後と関東将士を率い、北条氏康を相模小田原城に囲む。 ※三月、長尾景虎、鎌倉鶴ヶ丘八幡宮の神前で関東管領就任を報告、上杉政虎と改名、この日足利義氏擁立を約する。 ●4月十一日、武田軍、北条氏康支援のため碓氷峠を越え上野松井田に進む。ついで借宿近辺に放火する。 ●四月十七日、武田信玄、市川右馬助ら一族に、上野南牧の戦功により蔵入地佐久郡瀬 戸などを宛行う。 ●八月二十四日、信玄、上杉政虎が越後・信濃勢を率い善光寺に出陣する報により、信 濃など分国諸将を率い川中島に着陣する。 ☆第四回川中島合戦☆ ●九月十日、上杉政虎・武田信玄軍、川中島で激戦し、死傷者多数を出す。政虎自ら太刀打ちし、信玄の弟信繁(典厩)ら討ち死にする。【長野】 ●今度於信州川中嶋、輝虎及一戦之刻、小宮山新五左衛門尉被囲大勢之処、其方助合若 党数輩被疵、剰彼敵三人討捕之、無比類働尤神妙也、弥可致忠戦之状如件。 永禄四年九月十日 晴信判 河野但馬守との【甲府/御庫本古文書纂】《信憑性?》 ●今十日巳刻、与越後輝虎於川中嶋合戦之砌、頸七討捕之、其方以走廻被遂御本意候、 弥可忠信者者也、仍如件。 永禄四年九月十日 信玄(花押影) 松本兵部殿【甲府/益子家文書】《信憑性》 ※上杉政虎が小田原へ出征していた際、信玄は佐久軍へ出陣して、政虎の後方退路をおびやかした。越後へ帰着した政虎は八月十四日、川中島に向かって出陣した。九月十日早朝、両軍は川中島の八幡原で対戦した。これを第四回の川中島合戦といい、最大の激戦であった。前半は上杉方、後半は武田方が有利な展開をした。 ※【甲府/『大田家文書』】 今度信州表に於いて、晴信に対し一戦を遂げ、大利を得られ、八千余討ち捕られ候こと、珍重の大慶に候。期せざる儀に候と雖も、自身太刀討に及ばるる段、比類なき次第、天下の名誉に候。よって太刀一腰・馬一疋(黒毛)差し越し候。はたまた当表のこと、氏康松山口に致って今に張陣せしめ候、それに就いて雑節ども候。万一出馬遅延に於いては、大切たるべきことども候間、油断なく急度今般越山あるべく候。手前可火急に申し廻り候条、かくの如くに候。早々待ち入り候。なほ西洞院左兵衛督申すべく候条詳らかにする能はず候。恐々謹言。 十月五日 前久(花押) 上杉殿 永禄四年 1561【長野】 ●十月卅日、信玄、山城清水寺成就院に伊那郡面木郷を寄進し、高井郡市川城・水内郡野尻城攻略のうえさらに寄進を約する。このころ飯山・野尻両城付近を除き、武田軍がほぼ信濃を制圧する。 ●十一月二日、信玄、北条氏康赴援に出兵するにあたり、佐久郡松原神社に戦勝を祈る。ついで出陣する。 ●十一月十三日、武田信玄、上野甘楽郡に入り、つきで国峰城を攻略する。 ●十一月廿日、信玄、四郎勝頼の元服式の祝儀を諸方へ送る。 【甲府/栃木県採集古文書】 ●十一月廿五日、信玄、上野国一宮に高札を与える。【甲府/大坪家文書】 ●十一月廿七日、上杉政虎、古河城近衛前久(さきひさ)救援に関東出陣、この日武田信玄と呼応する北条氏康と武蔵生山(なまのやま)で戦う。 ●十一月廿八日、信玄、小畑氏に松山城攻めの感状を与える。【甲府.諸家家蔵文書】 永禄四年 1561【長野】 ●十二月廿三日、武田信玄、小県郡長窪・大門両宿に、信玄竜朱印状によらず伝馬を出すことを禁じる。 ☆第四回川中島合戦☆(吉田豊氏訳・『甲陽軍艦』) 【訳】永禄四年辛西八月十六日、信州川中島から甲府に伝令が来て申しあげるには、上 杉輝虎が出動して、海津の向かい、西条山に陣をとり、ぜひとも海津城を攻め落とそう としている。その兵力は一万三千ほどとのことであった。 そこで信玄公は、同月十八日、甲府を出発されて、同月二十四日に川中島へお着きに なった。そして、謙信の陣営である西条山のこちら側、雨の宮の渡しを占拠し、そこに 陣をはられた。このため謙信の側では、越後への退路を断たれ、あたかも袋にとじこめ られたようになったと心配したが、謙信は少しも心配する様子はなかった。 こうして信玄公は、五日間、その場所に陣をはられ、六日目の二十九日に、広瀬の渡 しを越して海津の城におはいりになった。しかし謙信は、家老の意見も聞かず、それま でとおり西条山におられる。 ここで、信玄公に対し飯富兵部が、ここぞという決戦をなさいますようにと、おすす め申しあげた。また信玄公は馬場民部助を召されてご相談になったところ、馬場も決戦 をなさるようにと申しあげる。 信玄公は「当家の武勇すぐれた侍大将たちのうち、小幡山城はこの六月に病死、原美 濃もこの夏、信州わりか嶽城攻めにおいて、十三カ所の負傷で、まだその傷が治らぬた め、今何は召し連れなかった」と仰せられて、山本勘助を召され、馬場民部助と相談の 上、明日の合戦の配備を定めよと仰せつけられた。 山本勘助はそこで、 「二万の兵力のうち、一万二千を謙信が陣をかまえる西条山に向けて、明日の卯の刻 (午前五時ごろ)から合戦を始めれば、越後勢はやがて、勝っても、負けても、川を越 えて引揚げるでありましょうから、そこを御旗本組、第二陣の部隊によって前後からは さみ討ちにして、討ちとめなさるように」と申しあげた。それによって、高坂弾正、飯 富兵部少輔、馬場民部、小山田備中、甘利左衛門尉、真田一徳斎、相木、芹山下野、郡 内の小山田弥三郎、小幡尾張守、この十隊は西条山に向かって卯の刻から合戦を始め る。一方、御旗本組としては、中央に飯富三郎兵衛、左に典厩信繁殿、穴山信吉殿、右 は内藤修理、諸角豊後の各隊。 御旗本組脇備として、左に原隼人、逍遥軒信廉殿、右に太郎義信殿二十四歳、望月の 各隊。御旗本組後備として跡部大炊助、今福善九郎、浅利式部丞の各隊、以上十二隊、 御旗本とともに八千の兵力が、今夜の七つ寅の刻(午前三時ごろ)に出発して広瀬の渡 しを越して陣を布き、敵が川を越えて退くときに戦闘を始めると定められた。 ところが謙信公は、武田勢の先鋒と旗本の部隊との炊事の煙が立つ様子を、西条山り 上からご覧になり、上杉方の侍大将全員を集めて、 「十五年前、未の年の秋に、信玄二十七歳、謙信十八歳のとき、争いを始めて以来、た びたびの含戦をしてきたが、信玄の布陣にはつねに手落ちがなく、結局のところ戦場の 主導権を信玄に握られて、謙信はつねに敗れたかのような有様であった。明日は合戦と 思われるが、信玄の作戦としては、兵力を二手に分け、半分をこの陣に向けて合戦を始 め、謙信の旗本が川を越して退こうとするところを、あと半分の兵力によって討ちとろ うとの計略を立てていることが、鏡にうつるかのように察しられる。ここはひとつ、謙 信もその裏をかいて、ただちに川を越えてそこで夜を明かし、日が出たならば攻めかけ て合戦を始め、信玄の先鋒が駆けつけぬうちに、武田勢を切り崩し、信玄の旗本と、わ が旗本とで一戦をとげ、信玄と自分とが取り組み合い、組みふせて、刺し違えるなり、 またはそのときの様子で和睦するなりとしよう。いずれにせよ、明日は二つに一つの合 戦ぞ」といわれた。 輝虎は甲骨に身を同め、九月九日の亥の刻(午後九時ごろ)に西条山を出発して雨の 宮の渡しを越え、対岸に移られたが、一万三千もの兵力でありながら、音も間こえなか った。これは、越後勢が、戦のときは一人に三人分ずつ、朝食を用意させておく軍律と なっているため、夜になって人馬の食物をつくることがなく、火を焼く色が見えなかっ たためである。以上。 こうして九月十日のあけばの、信玄公は広瀬の渡しを越し、八千余の兵力で陣を布 き、先鋒からの報告をお待ちになっていたが、日が昇り、霧がすっかり晴れわたると、 輝虎勢が一万三千の部隊で、まことに近々と陣をしいているではないか。 謙信は強敵、対等の兵力であってさえ危い合戦だというのに、信玄公は八千、謙信 は、一万三千である。たとえ勝利できたとしても、味方には多くの討死が出るであろう と、武田方の人びとが考えたのも当然であった。 信玄公に、信州侍の浦野という武勇すぐれた武士を召されて、斥候に出された。 浦野は見て戻り、御前にかしこまって「輝虎は退きました」と申しあげる。信玄公は 判断力にすぐれた大将であるだけに、「謙信ほどの者が、宵から川を越し、そこで夜を 明かしていながら 空Lく引き取ることがあろうか。では、退き方はどのようであった か」とおききになった。 浦野は、「謙信は、味方の陣を辻回しては前にふさがり、幾度もそのようにしなが ら、犀川のほうへと向かってまいりました」と申しあげる。 信玄公はこれを聞かれて、「なんと、浦野らしくもないことを申すではないか。それ は車がかりといって、いくまわり目かに、わが旗本と敵の旗本とを打ち合わせ、合戦を するための戦術である。謙信はきょうを限りと覚悟の見えた」と仰せられて、陣を立て 直された。 謙信は、甘糟近江守という剛勇の侍大将の雑兵とも千人の部隊をはるか後方に置き、 二千の兵を持つ直江という侍大将に小荷駄奉行を申しつけ、白らは一万の軍勢を指揮し て、柿埼という侍大将を先鋒に、第二陣に輝虎が立ち、旗を傾けて無二無三に攻めかか り、一気に合戦を始めた。 その問に、謙信の旗本の一隊は、信玄公の備の右側にまわり、義信公の旗本五十騎、 雑兵四百あまりの部隊を追い立てて、信玄公の旗本めがけて斬りかかる。 敵味方合わせて三千六、七百の軍兵が入り乱れ、突きつ突かれつ、斬りつ斬られつ、 互いに鎧の肩をつかみ合って、組み合って転ぶもの、頸を取って立ちあがるもの、その 頸はわが主人のものと名乗って槍で突きふせるもの、それを見ては、またそれを斬りふ せるものという有様、甲州勢も目の前の戦いにまぎれて、信玄公がどこにおられるかも わからず、また越後勢もそのとおりであった。 このとき、萌黄色の胴肩衣を着た武者が白手拭で頭を包み、月毛の馬に乗って、三尺 ほどの刀を抜身に持ち、信玄公が牀机の上におられるところへ、真一文字に乗りよせ て、三太刀切りかかったが、その切っ先ははずれ、仁文公は軍配団扇でこれを受け止め られた。あとで見たところ、団扇に八カ所の刀傷があった。 さて、ご中間頭、二十人衆頭など二十騎は、いずれも剛勇の武者たちだったので、奮 戦しながら信玄公を敵味方からわからぬように取りかこみ、近寄ろうとする者を斬り払 う。そのとき、ご中間頭の原大隅が、青貝の柄のお槍をとって、月毛の鱒に乗った萌黄 緞子の胴肩衣を着た武者を突いたが、突き損したため、鎧の肩をめがけて打ったとこ ろ、鎧の背をたたいたため、馬は竿立ちになって走り去っていった。 あとで聞けば、この武者こそ輝虎であったという。 信玄公卿旗本組のうち、飯富三郎兵衛の部隊は、越後方先鋒第一陣の柿崎隊を追い崩 し、三町ほども迫撃する。穴山殿の部隊も、謙信勢の,柴田隊を四町ほと迫撃する。 信玄公はお中間頭二十人のほかは、土屋平八、直田喜兵衛ら、十七、八のお小姓たちだ けを従えられて、本営の御牀机のところから少しもお立退きにならなかった。 だが、甲州勢のそのほかの九部隊は、太郎義信公の隊をはじめすべて敗れ、千曲川の 広瀬の渡しに向けて追撃されつゝ退いていった。なかでも、典厩信繁殿討死、諾角豊後 守討死、旗本足軽大将の中では山本勘助入道道鬼、初鹿源五郎の両人が討死、信玄公も お腕に二カ所の軽傷を負われ、太郎義信公も二カ所の負傷をされた。 かくしての合戦は、ほとんど信玄公のお負けかと見えたところへ、西条山に向かって いた先鋒の十隊が謙信に出しぬかれ、鉄砲の音、ときの声を聞いて、われがちに千曲川 を越して、越後勢の後方から攻めかかり、追撃戦を開始した。 さすがの謙信も、和田喜兵衛という侍ただ一人をつれ、名高い放生月毛の馬をも放し て、家老の乗りかえ馬に乗り、主従わずか二騎、高梨山をめざして退かれた。 典厩殿のお頸は、ご家来の山寺という武士が敵方から奪い返し、しかもその相手を討 ちとめて、典厭殿のお頸にそえて持ち帰った。諸角豊後の頸は、諸角輩下の石黒五郎兵 衛と三河牢人の成瀬という武士の両人で取り返し、越後方の頸を取って戻ってきた。 この合戦は、卯の刻に始まった前半は、ほぼ越後輝虎方の勝利、巳の刻に始まった後 半は信玄公のご勝利であった。越後勢を討ち取った数は雑兵ともに三千百十七、その頸 帳をしたためて、同日申の刻(午後三時ごろ)にかちどきをちげられた。お太刀持ちは 馬場民部助、弓矢取りは信州侍の諸賀であった。 永禄四年辛西九日十日、信州川中島合戦とはこのことである。 この合戦以後、輝虎は信州に侵攻しなくなった。すでに諏訪頼重、伊奈の人びと、木 曽義康は降参、深志の小笠原長時と葛尾の村上義清に輝虎が加わって年々の戦いがあっ たのだが、合わせて二十四年にして、ようやく信州は平定された。 信玄公の合戦ぶりは、信州の諸勢との戦いによって巧妙,になられたのである。以上。 (後略)(品第三十二) 市河氏について 江戸時代の地図から、越後と信濃の道を探る。 江戸時代の絵図から信濃国と越後国を結ぶ道4方向、 野尻湖の東岸と西岸を抜ける道が二本。 千曲川の東に十日町(新潟県)へ抜ける道。 飯山から千曲川の西に十日町へ抜ける道。 と、 飯山から富倉峠や関田峠をはじめとした鍋倉山周辺を越える間道が5本 小谷から糸魚川に抜ける道が二本。 越後へ抜ける道でもっとも主要なのは、飯山を経由して鍋倉山付近を越えていく道筋と、野尻湖の道筋であったことになり、飯山と野尻湖という地が交通上、越後国防上必要不可欠な道であった。 武田晴信 天文二十二年(1553)、村上領を制圧して善光寺平へ進出した。 村上義清 越後国へ逃れて長尾景虎へ救援を求めました。 信濃豪族 残された北方を領する信濃の豪族達武田に就くか、隣国の長尾景虎に就くかを迫られました。 長尾景虎 北信濃の豪族達に救援を請われた長尾景虎は、天文二十二年から弘治三年までの五年間に三度信濃へ出陣し、延べ一年間近くも滞陣しました。 武田晴信 武田晴信に飯山と野尻湖を占領されると、幾つものルートで越後へ入られ、景虎の居城である春日山城やその城下町へは約三十五キロメートルの距離なので、武田軍は何もなければ一日もかからず到達できる。 長尾景虎 救援を請う豪族を保護することにする。様々な状況から該当地域武将たちは結局次のような選択をしました。 武将の選択 武田軍 高井郡の市河氏、木島氏(木島平村)、井上氏(須坂市)等、 長尾軍 岩井氏(中野市)、安田氏、東条氏、井上氏、須田氏、嶋津氏、高梨氏等 武田晴信 武田 飯富兵部少輔虎昌 塩田城(上田市) 武田晴信は北信濃への取り掛かりとして、飯富兵部少輔虎昌を佐久、上田、深志、諏訪の四方を結ぶ重要な拠点である塩田城(上田市)におきました。飯富虎昌は長男の武田義信の守り役も務める信玄にとって信頼を寄せる重臣で、塩田において北信濃の調略や作戦の指揮、善光寺平への兵站線の指揮をしました。 長尾 高梨政頼 ☆高梨政頼 弘治三年(1557)、中野(中野市)を中心に一帯を支配していた高梨政頼は、飯富の調略などによる相次ぐ裏切りと、攻撃に耐えきれず、中野を放棄して水内郡の飯山へ退却しました。 政頼など北信濃の豪族達は飯山を死守、長尾景虎へ救援を依頼するが、景虎は出陣しませんでした ☆高梨政頼 高梨政頼は「持ち堪えられず、飯山を放棄するしかない」と書状に書いて景虎を脅しました。 ☆長尾景虎 和議により定めた境界を侵して葛山城を落とした武田晴信を許すことができず、翌年の弘治四年(1558)=永禄元年春、長尾景虎は越後をようやく出陣し、 山田城(高山村)、福島城(須坂市)を落とし、武田軍と睨み合いながら善光寺平を臨む旭山城(長野市)を再築しました。 この時、高梨政頼は裏切った野沢(野沢温泉村)の市河氏を説得しましたが、うまくいきませんでした。 武田と上杉が戦っている最中、京都の将軍家は各地の武将に上洛するように要請しました。 長尾景虎はこれに応じることにし、 将軍足利義輝は武田晴信に上杉を攻めないように要請し、 晴信もそれに応じる返答書を出しました。これによって永禄2年(1559)長尾景虎は5千の軍を率いて上洛をし、関東管領に任命されました。しかし、上洛中にも武田晴信は、自分が前年に信濃守に任命されたので北信濃を領する権利があるとして侵入しました。下のような古文書が残っています。 この古文書は、征夷大将軍足利義輝が大館上総介晴光を使者として長尾景虎に与えたものになります。内容は、武田と上杉の和議の事について、武田晴信に度々伝えているが命令を聞かない。さらに上杉の国境を侵して乱入していると聞いた。しからば信濃国の諸侍の事は戦闘の途中なので、その始末を長尾景虎のやりたいように任せると書いてあります。 そして上杉政虎(永禄3年改名)が小田原の北条を攻めている最中の永禄4年(1561武田軍は黒姫山と飯縄山の間に道を切り開いて割ケ嶽城を攻撃し、初めて野尻湖まで侵入しました。これによって上杉政虎は、遂に許し難しと決着を付ける覚悟を固めました。有名な第4次川中島の開戦です。『上杉年譜』によると、上杉軍の先鋒には村上、高梨、島津、井上、須田と北信濃の豪族達が書かれています。彼等のこの戦にかける意気込みは相当のものだったでしょう。上杉軍は武田のキツツキ戦法を逆手にとって、妻女山を暗いうちに下り、川向こうで待つ武田信玄の本陣へ向かいました。その時この信濃先鋒衆は、妻女山から信玄を救おうと追ってくる別働隊を迎え撃つために、山裾に陣を張ったと云われています(高速道路の松代SA付近)。 甲越一和の事、晴信に対し度々下知を加ふると雖も同心なし、結句分国境目に至って乱入の由、是非なく候、然らば信濃国諸侍の事、弓矢なかばの由に候間、始末景虎意見を加ふべきの段肝要に候、なほ晴光申すべく候なり。 六月廿六日 長尾弾正少弼とのへ (足利義輝花押) 山本管助の名が記載されている先の古文書は、ちょうどこの頃のものになります。文には野沢を守る市河藤若を長尾軍が攻撃したが守りが固く飯山へ引き上げていったとあります。そして、これ以後は武田晴信へいちいち救援依頼するのではなく、塩田の飯富に出陣するように言ってあるので、そちらに依頼するようにと述べています。野沢には野沢城がありましたが、それは今の温泉街のある所で、館のようなものでした。とても堅固で落とせなかったものとは思えないような城です。周辺にはその他、西浦城、平林城が千曲川沿にありました。この頃の武田晴信から市河氏への古文書に、新しい城にて立て籠もるようにとの命令が残っているので、どちらかの武田が築城した城に籠城したのかもしれません。倉賀野(群馬県高崎市)の文字が出てきますが、永禄2年(1559)秋、武田信玄(永禄2年改名)は上野国へ出陣しているので、年代としてはこの年ではないかと推測されます(文には「景虎」が攻めたとありますが、本人ではないと考えています)。この時に野沢まで出向いて市河藤若の戦功をねぎらった使者が山本管助であったというわけです。翌々年の9月10日第4次川中島の戦いで山本管助は討死しました。 武田晴信は、長尾景虎との対決と飯山を攻略するのに塩田から善光寺平までは距離があるので、真田幸隆が落とした雨飾城(尼厳とも、長野市)を廃して麓に拠点を築くことにしました。永禄3年にほぼ完成させた海津城(かいづじょう)です。さらに前線への拠点として永禄11年長沼城(長野市)も完成させました。これら前線の城には伊那の箕輪衆、坂西氏、佐久の北方衆などの信濃の降伏した者達にあたらせました。 一方、長尾景虎も数年にわたる武田晴信との戦闘において、飯山の守備を信濃の豪族にあたらせました。現存している史料から守備していたのは上倉下総守、奈良沢民部少輔、上堺彦六、泉弥七郎、尾崎三郎左衛門、中曾根筑前守、今清水源花丸、岩井備中守らでした。どのような防御網を敷いていたのか不明ですが、飯山に侵入するには対岸から千曲川を渡ってくるか、替佐方面(中野市)しかないので、この方面の防備を固めていたものと思われます。また、野尻湖へ向かう道は、大倉城や矢筒城などによって野尻湖南の防御網を島津氏が守っていました。彼等には信濃国に殆ど領地が無いので、高梨をはじめ越後国に知行所を与えられて忠義に励んでいました。そして当時の飯山は、江戸時代のような城下町が整備されていたわけではなく、千曲川河畔に泉弥七郎の館があるだけの小村落にすぎませんでした。景虎はこれを補強して永禄7年(6年ともある)飯山城を完成させ、家臣の桃井義孝と加地春綱を援軍(飯山城代)として2之郭に配備しました。 これら戦国時代の城は信濃に無数ありました。城跡の発掘調査などをすると決まって出土するものがあります。石臼、硯、砥石、鉄釘、銅銭、かわらけ、内耳鍋、中国産の青磁・白磁・青花、常滑焼の甕、瀬戸焼の天目茶碗、黄瀬戸の器になります。特に多いのが「かわらけ」で、酒などを飲む時の杯に使用されました。主に手で練ったいわゆる土器で、直径10cm前後で、高さ2cmぐらいのものになります。その数は多い城で数千点にのぼります 市河氏の出自に関しては、米沢上杉藩士の記録である『米府鹿子』に見える市川氏は「滋野氏・本領信濃」と記されている。一方で、平安時代に越後に勢力を持っていた桓武平氏城氏の流れともいい、戦国時代の信房は藤原姓を称している。いずれにしろ、市河氏の出自は不明としかいいようがない。 鎌倉中期の文永九年(1272)、市河重房は中野忠能の一人娘を後妻とし子の無かった忠能に先妻の子盛房を養子として入れた。その後、重房は盛房と共謀して、忠能のもうひとりの養子である中野仲能、広田為泰らと激しい相続争いを繰り返した。そして順次志久見郷を蚕食してついにはその全域を掌握した市河氏は中野氏を被官化し、名実ともに志久見郷の地頭職として志久見郷の実権を掌握した。 かくして、志久見郷を本拠とした市河氏は南北朝・室町時代には各地に転戦し、それらの戦功により勢力を拡大していったのである。 ●南北朝の争乱 鎌倉末期から南北朝の当主は盛房の子助房で、元弘三年(1333)新田義貞が東上野笠懸野で挙兵したとき越後の新田一族は義貞に呼応して義貞の陣に急行したが、市河助房は情勢を傍観、一ヶ月後に至ってやっと陣代として弟経房らを参陣させている。そして、建武の新政が成立すると足利尊氏のもとへ参陣した。 建武の新政がなったとはいえ、信濃は北条氏が長く守護をつとめていた関係から北条氏の勢力が強く、不穏な気配が濃厚であった。建武二年(1335)諏訪氏に匿われていた北条高時の遺児時行が挙兵し、鎌倉に攻め上った。「中先代の乱」であり、この乱にくみした水内郡常岩御牧北条の弥六宗家らを討伐するため、善光寺・府中の浅間宿を転戦し、それが機縁となって信濃守護の小笠原氏に属するようになった。 その後、北条方、南朝方として守護小笠原氏に対抗する諏訪・滋野氏一族らに対し守護方として船山郷青沼・八幡原・篠井四宮河原などで戦っている。この間、惣領助房を助けて一族の倫房・経助・助保らが守護方として活躍、倫房・助保父子は建武二年望月城を攻略し、東筑摩郡・諏訪方面各所を転戦した。堀川中納言光継を信濃国司として迎えたとき、横河城で戦功をたて軍忠状をえている。このように南北朝の内乱において市河一族は、惣領助房とともに守護小笠原氏貞宗に属し武家方として活躍した。 助房は実子が生まれなかったため、一族の経高を養子としたが、のちに頼房が生まれたため、所領のうち志久見郷の惣領職、備前国の私領を頼房に譲り、志久見郷内の平林村を経高に譲る旨の譲状を作成している。また、このころの市河氏は国中平(くむちぬけ)神社のある場所に居館を構え、西浦城を詰めの城としていたようだ、そして、一族を志久見郷内に配して南方方面からの敵に備えている。 やがて、足利尊氏と弟直義の不和から観応の擾乱が起ると、市河氏は越後守護上杉氏に属し直義方として行動した。擾乱のなか政局は複雑に推移し市河氏ははからずも南朝方に属するということもあり、尊氏方の守護小笠原氏とも対立した。直義が尊氏に敗れて急死したことで乱は終熄したが、越後の上杉氏らは南朝方に通じて尊氏方に抵抗を続け、市河氏も上杉氏と行動をともにした。そのころ、下高井郡の高梨氏が中野氏を駆逐して北方に進出、正平十一年(1356)、市河氏は上杉氏の支援を得て高梨氏の軍をうちやぶっている。その後、上杉氏が尊氏方に帰順したことで、市河氏も守護小笠原長基に降伏し武家方に転じた。 ●大塔合戦 応安元年(貞治七年=1368)二月、関東において河越氏を中心とする平一揆が起った。頼房は信濃守護職上杉朝房に属して出陣、武蔵河越、下野横田・贄木、さらに宇都宮まで転戦し、宇都宮城攻めにおいて左肩・右肘を射られ負傷したという。 その後、応安三年(1370)には常岩御牧南条の五ヶ村を兵糧料所として預かり、永和元年(1375)、上杉朝房から本領を安堵された。その後、信濃守護職に任ぜられた斯波義種から所領を安堵され、守護代の二宮氏泰、守護斯波義将からも安堵・下知・預領・感状を受けている。 至徳四年(1387)、村上氏を盟主とする反守護の国人らが守護所に攻め寄せたとき、頼房は守護代二宮是随に属して村上方と戦った。そして、応永六年(1399)に至って斯波氏に替わって、小笠原長秀が信濃守護職に補任された。翌年、京都から信濃に入部した長秀は、善光寺に守護所を定めると信濃一国の成敗に着手した。しかし、長秀の施策は国人の反発をかい、ついに国人は村上満信・大文字一揆を中心とした北信の国人衆が武力蜂起を起こした。 世に「大塔合戦」といわれる戦いで、市河刑部大輔入道興仙(頼房)は甥の市河六郎頼重らとともに守護方に属して出陣した。両勢力は川中島で激突し、戦いは守護方の散々な敗北に終わり、京都に逃げ帰った小笠原長秀は守護職を解任されてしまった。この合戦に守護方として戦い敗れた市河氏は、戦後、国人衆らに領地を押領されるなどの乱暴を受けている。 高梨氏らと同様に北信の国人領主である市河氏が守護方に付いたのは、高梨氏と対立していたことが背景にあり、両者の対立は戦国時代まで続いている。また、北信の山岳武士である市河氏は、権力を尊ぶ気持ちも強かったようだ。以後、市河氏は一貫して守護方として行動し、管領細川氏から感状を受ける等幕府からもなみなみならぬ信頼を受けていたことが知られている。 ところで、南北朝時代のはじめより関東には鎌倉府がおかれ、幕府から関東八州の統治を任せられていた。その主は鎌倉公方と呼ばれ、代々足利尊氏の三男基氏の子孫が世襲したが、代を重ねるごとに幕府との対立姿勢が目立つようになってきた。 ●関東の戦乱 室町時代になると、関東では上杉禅秀の乱、佐竹氏の乱、小栗の乱と戦乱が続いた。その背景には、鎌倉公方持氏の恣意的な行動と鎌倉府と幕府との対立があった。禅秀の乱後、持氏は禅秀党の討伐に東奔西走したが、その結果、公方の専制体制が強化されることになった。それに危惧を抱いた幕府は佐竹山入・宇都宮・真壁・小栗の諸氏を「幕府扶持衆」とし、禅秀の遺児らを任用して持氏を監視させた。これに反発した持氏は、小栗氏ら幕府扶持衆の諸氏の討伐を始めたのである。 幕府はこのような持氏の行動を怒り鎌倉を征しようとしたが、持氏が陳謝したことで合戦は避けられた。その結果、幕府は山入祐義を常陸の半国守護に、甲斐の守護には持氏の推す逸見氏を斥けて武田信重を任じるなどして持氏の行動に掣肘を加えた。 しかし、持氏の暴走は止まらず、結局、永享十年(1438)、管領上杉憲実との対立が引き金となって幕府と武力衝突するに至った。いわゆる永享の乱であり、敗れた持氏は自害、鎌倉府は滅亡した。 この一連の関東争乱のなかで、応永二十九年(1422)の「小栗の乱」に際して、市河新次郎が幕府の命を受けた小笠原氏とともに関東に出征したことが「市河文書」から知られる。そして、この常陸出陣を最後に市河氏の動向は戦国時代に至るまでようとして不明となるのである。永享の乱後の結城合戦において、信濃武士が小笠原政康に率いられて出陣したが、そのときの記録である「結城陣番帳」にも市河氏の名は見えない。 とはいえ、その間も市河氏が北信の領主として一定の勢力を維持していたことは、諏訪神社上社の重要祭事の御符入の礼銭、頭役銭を注記した記録『諏訪御符礼之古書(すわみふれいのこしょ)』からうかがえる。 諏訪神社は信濃の一宮として信濃全国に奉仕氏人をもち、この氏人のいる村々は諏訪祭礼の世話役を順番につとめることになっていて、その世話役を頭役といった。しかし、世話役をつとめることは容易なことではなく、費用も莫大な額に上った。そして、この頭役を宝徳四年(1452)から長享二年(1488)までの三十七年間のうち、市河氏が七度にわたってつとめたことが御符礼之古書に記録されている。 一方、このころ市河氏は東大滝に分家を出したといわれ、その家は大滝土佐守を称し戦国時代に至っている。また「栄村史」では、御符礼古書の時代における市河氏の領地は高梨氏などから侵略を受け、志久見郷に押し込められていたのではないかと推察している。 ●越後の争乱と市河氏 市河氏の動向が知られるようになるのは、越後の内乱である「永正の乱」においてである。市河氏の領地は越後との国境に近いことから、越後に争乱が起きるとその影響を受けざるを得なかった。そういう意味では、越後上杉氏の活動に従うことも多かったと思われ、関東の戦乱に越後守護上杉氏が出陣したとき市河氏も出陣したかと思われるが、先述のように記録が残されていないので確かなことは分からない。 越後守護上杉氏は関東公方と管領上杉氏の対立から起った享徳の乱において、関東管領職を継いだ次男顕定を援けて大活躍した房定の時代が全盛期であった。その子房能も凡庸ではなかったが、尊大で気位が高く関東の戦乱に出陣して窮乏のなかにある国人たちの苦労を省みることもなかった。その房能を補佐していたのが守護代長尾能景であったが、永正三年(1506)房能の命で越中に出陣した能景は戦死し、そのあとを為景が継いだ。為景は剛勇不遜な人物で、やがて守護房能と対立するようになり、翌永正四年、房能の養子定実を擁してクーデタを起した。敗れた房能は兄が管領をつとめる関東に逃れようとしたが、為景勢に追撃され松山郷天水峠で自害した。 弟の死を知った関東管領顕定は弟の仇を討つとともに越後の領地を確保するため、永正六年、養子憲房を越後妻有庄にに先発させた。対する為景=定実方は、長尾景長・中条藤資・斎藤・毛利・宇佐美らを出撃させた。これに信濃衆の高梨摂津守・市河甲斐守らが加わって、市河氏の領地である志久見郷から妻有に攻め込み、憲房方の本庄・色部・八条・桃井らと戦ってこれを撃ち破った。その敗報に接した顕定は大軍を率いて上州から越後に攻め込み、為景=定実軍を破り越後を制圧した。為景らは越中に逃亡し、信濃衆の高梨・市河氏らはそれぞれの山城に立て籠る事態となった。 越後を制圧した顕定は為景=定実に与した国人たちに大弾圧を加え、容赦なく討ち滅ぼしたため越後国内には顕定を怨嗟する声が広がっていった。一方、越中に逃れていた為景らは佐渡に渡り態勢を整えなおすと越後に上陸、椎屋の戦いに勝利すると顕定の拠る府内に攻め寄せた。顕定はこれを迎え撃とうとしたが、これまでの圧政から越後国人で味方に参じる者は少なく、ついに兵をまとめて関東へ兵を返した。為景勢はこれを急追し、長森原において顕定勢をとらえ、合戦のすえに高梨政盛が顕定を討ち取った。この合戦には市河氏も参加したと思われるが、それに関する史料がないので詳細は不明である。 こうして、市河氏の領する志久見郷と国境を接する越後の争乱は為景=定実方の勝利に終わった。しかし、その内実は定実を擁した為景の下剋上であり、ほどなく為景と定実との対立が生じると越後は内乱状態となった。 ●武田氏の信濃侵攻 ところで、戦国乱世にあって市河氏は知られる限り侵略的な戦争はしていなかったようだが、松之山四ケ郷を侵略していたことが、天文九年(1540)長尾景重が板屋藤九郎に与えた感状から知られる。すなわち、板屋藤九郎が市河氏に奪われていた松之山四ケ郷を奪い返したことに長尾景重が感状を与えたものである。おそらく市河氏は、先の越後の永正の乱の混乱に乗じて松之山四ケ郷を奪い取ったが、のちに奪い返されたものであろう。ほとんど侵略戦争をしなかったとはいえ、市河氏も戦国時代を生きる国人領主であったことを示している。 天文十年、甲斐の戦国大名武田信虎が嫡男の晴信によって駿河に逐われ、晴信が武田家の当主となった。以後、信濃は武田晴信(のち出家して信玄)の侵略にさらされることになる。天文十一年、晴信は大軍を率いて諏訪に侵攻し諏訪頼重を捕らえて甲府に送ると自害させ、諏訪氏は滅亡した。ついで、天文十六年には佐久を平定し、翌年には小県郡に進出した。そして、北信の強豪村上義清と上田原で激突したが、義清の奮戦で武田方は板垣信形・初鹿野伝左衛門らを討たれる敗北を喫した。 武田氏の敗北に乗じた小笠原長時は、ただちに諏訪に攻め込んだが、晴信の出陣を聞いて塩尻に退いて武田軍を迎え撃った。ところが、小笠原勢から武田勢に寝返る者が出たため長時方は敗れ、武田軍は敗走する小笠原氏を追撃して筑摩郡を制圧した。翌年には長時をその本城から追い払い、諏訪・佐久・筑摩・安曇郡を掌中に収めたのである。 天文十九年夏、晴信は改めて小県に軍を進め村上義清方の砥石城を攻撃せんとした。これに対する村上方は、山田・吾妻・矢沢らが城を守り、義清は精兵六千を率いて後詰めに出陣し、武田・村上の両軍は激戦となった。戦いは七日にわたって続いたといわれ、結果は横田備中・小沢式部らを討たれた武田軍の敗戦となった。村上義清は強勢の武田軍を相手によく戦ったといえよう。 ところが、翌年五月、突然、砥石城が落城した。これは、武田方の真田幸隆の謀略によるもので、村上勢を追い払った幸隆が砥石城代となった。そして、翌年七月、武田軍は村上義清の立て籠る塩田城に攻め寄せ、ついに義清は越後の長尾景虎を恃んで信濃から落ちていった。かくして、武田晴信は信濃をほぼ制圧下においたのであった。 ●武田氏に属す このころ、市河氏はどうしていたのだろう。 市河氏は越後の争乱に際して長尾方として行動していたが、長尾氏との関係を背景とした高梨氏の勢力拡大によって近隣の諸領主は滅ぼされ、あるいは降服し、高梨氏の勢力は市河氏領にも及んできた。ついには。小菅神社領を緩衝地帯として高梨氏との争いを続けていたようだが、状況は市河氏に不利であった。 武田氏が北信濃に勢力を及ぼしてくると、市河氏が武田氏に款を通じたのもこのような背景があったからである。また、晴信は長尾氏家中に調略の手を伸ばし、大熊朝秀がそれに応じて景虎に反抗した。このとき市川孫三郎信処も晴信に応じたようで、晴信の兵は村上方の葛山城を落し、高梨氏の本城である中野城にまで迫ろうとした。そのおゆな弘治二年(1556)、武田晴信は市川孫三郎に対して高梨領安田遺跡を与える事を約束している。 一方、領地を武田氏に逐われた村上・高梨氏らは、越後の長尾景虎の援助をえて失地回復を図ろうとした。景虎も北信濃が武田氏に侵略されることは、直接国境を接することになり、捨ててはおけない一大事であった。こうして、景虎は北信の諸将を援けて武田晴信と信濃川中島において対決することになったのである。 景虎が川中島に初めて馬を進めたのは、天文二十二年(1551)といわれている。以後、川中島の合戦は五度に渡って戦われた。そのなかでも最も激戦となったのが、永禄四年(1561)九月の戦いであった。永禄四年の戦いは、謙信と信玄とが一騎打を行ったといわれ、戦国合戦史に残る有名な戦いだが勝敗は五分と五分であったようだ。その後も、信玄は信濃侵略の手をゆるめず、永禄六年には上倉城を攻略、翌年には野尻城を攻め落とした。このため、謙信は川中島に進出して信玄と対陣したが、決戦いはいたらなかった。 その後、川中島地方は信玄にほとんど攻略されたが、武田氏に属する市川氏は上杉方に攻撃されて志久見郷から逃れるということもあったようだ。しかし、小笠原・村上・高梨氏ら信濃諸将の旧領復帰はならず、信濃は信玄が治めるところとなった。その結果、武田氏に通じていた市川氏らは旧領に帰ることができた。信玄が市川新六郎に宛てた文書によれば、市川新六郎は前の通り知行を安堵されるとともに、妻有のうちに旧領の外三郷を与えられたことが知られる。また、市川氏の領地が上杉領と接していることから、城内は昼夜用心せよ、普請も油断なくせよ、濫に土地の人を城内に入れるなとか、さまざまな注意を書き連ねた制札を与えられている。 ●時代の転換 元亀三年(1572)、信玄はかねてよりの念願である上洛の兵を発した。そして、三河国三方ケ原で徳川・織田連合軍を一蹴し、天正元年(1573)には野田城を攻め落した。ところが、このころ病となり静養につとめたが、ついに軍を甲斐に帰すことに決し、その途中の信州駒場において死去した。武田氏の家督は勝頼が継いだが、天正三年、織田・徳川連合軍と長篠で戦い壊滅的な敗戦を被り、馬場・原・山県ら信玄以来の宿将・老臣を失った。以後、武田氏は衰退の一途をたどり、ついに天正十年、織田軍の甲斐侵攻によって滅亡した。 一方、上杉謙信は信玄の死後は信濃に侵攻することもなく、関東・越中方面の攻略に忙しかった。そして、天正六年三月、関東への陣触れをした直後に急病となり、帰らぬ人となった。謙信には実子が無かったため、二人の養子景勝と景虎が謙信後の家督をめぐって内乱となった。この内乱に際して、一方の景勝は景虎方に味方する武田勝頼と和議を結び、翌七年、景虎を御館に破って上杉氏の家督を継いだ。このときの和議によって、飯山地方は武田領となり、以前から武田氏に属していた市川氏や分家の大滝土佐守らは勝頼から所領安堵を受けている。 さて天正十年に武田氏を滅ぼした信長は旧武田領を配下の部将に分け与え、川中島四郡は森長可が与えられ長可は海津城に入った。この事態の変化に際し、市川氏は森氏に従って飯山城を守った。川中島四郡の領主となった森氏は越後の上杉景勝を攻撃するために出陣し、春日山城に迫る勢いであった。ところが、六月、織田信長が明智光秀の謀叛によって本能寺で死去したため、またもや時代は大きく転回することになる。 本能寺の変によって、森長可は上方へ去っていった。市川氏はただちに飯山城を開城して上杉景勝に降り、川中島四郡の諸将士も上杉方に転じ、村上・井上・高梨・須田・島津氏らが旧領に復帰してきた。その後、飯山城には岩井備中守が城代として入った。 ●戦国時代の終焉 織田信長が死去したのちの信濃は上杉・徳川・後北条氏の草刈り場となった。家康は真田昌幸をして海津城の屋代越中守を上杉方から離反させて北信に進出しようとし、みずからは甲府に出張した。これを聞いた景勝は岩井備中守に出陣する旨を連絡し、市川信房にも知らせた。これに対して信房は家康はまだ甲府におり、あわてることはないでしょうと返事をしている。そして、屋代のように家康に通じる者も出たが、川中島四郡は上杉方によって守られた。 本能寺の変後の中央政界では、羽柴秀吉が大きく台頭した。秀吉は本能寺の変を聞くとただちに中国から兵を返し、明智光秀を山崎の合戦に滅ぼし、ついで柴田勝家を賎ヶ岳に破ると北ノ庄に滅ぼした。ついで、大坂城を築いてそこを居城とした秀吉は、十二年には家康と長久手で戦い、翌年には四国を平定、ついで家康と和睦し、太政大臣に任じられて豊臣の姓を賜った。まさに目まぐるしい勢いで天下統一を押し進めていった。そして、天正十五年五月、島津氏を降して九州を平定、十八年七月には小田原北条氏を滅ぼし、奥州仕置によって奥州も平定して、ついに天下統一を実現したのである。ここにおいて、「応仁の乱」以来一世紀にわたって打ち続いた戦国時代は終わりを告げた。 徳川家康は後北条氏のあとを受けて関東の大大名となり、市川氏の属した上杉景勝も慶長三年(1598)、越後から会津百二十万石への転封を受けた。このとき、上杉氏の家臣団も景勝に従って会津に移ったが、市川氏もまた住み慣れた信濃の地から遠く会津の地へと移っていった。いまも、市川氏が支配した地域は市河谷と称されているが、その地を治めた市川氏は会津に去り、さらに関ヶ原合戦後に米沢に減封された景勝に従って米沢へと移っていった。 明治維新後の廃藩置県により禄を失った市川氏は、鎌倉以来の『市河文書』を携さえて北海道へ屯田兵として入植。そして、この市河文書のなかに、武田信玄の軍師といわれる山本勘助の記述があり、勘助が実在した人物であったことが知られたのは有名な話である。・2006年02月27日 【参考資料:栄村史/野沢温泉村史/中野市史/下高井郡史 ほか】 ■参考略系図 ・室町時代の歴代は、「諏訪御符礼古書」に記された市河氏の記述などをもとに復元、それぞれの続柄などは不明。 ところで、鎌倉期における市河氏の人物として、『東鑑』治承四年(1180)八月には市河別当行房が鎌倉方として見え、建仁二年(1202)~建暦二年(1212)条には市河別当五郎行重、承久元年(1219)条には市河左衛門尉祐光が見える。さらに、『東鑑』寛元二年(1244)八月条には市河掃部允高光法師(法名見西)見えることから、「行房―行光(またの名が定光。その弟行重)―祐光―高光」と続く系図が推定される。甲斐の市河高光が信濃国船山郷に領地をもっていたことから、信濃の市河一族も甲斐の同族と考えられるが、その関係を明らかにすることはできない。 長沼城は室町時代に島津氏がこの付近に移り住み、領主として館が築かれたものと思われる。 武田信玄が北信濃に侵攻してきて、対上杉との戦線が、 飯山城、野尻城へと北上すると、越後国境攻防用基地として再建工事が行われた。この再建は永禄11年(1568)馬場信房によるものとされ、城代として海津城から市川梅隠、原与左衛門が入ったという。 武田氏滅亡後も森長可、上杉景勝と入り、川中島四郡の支配に海津城と共に重要視された城である。 江戸時代になると長沼藩一万八千石として佐久間氏が入ったが、元禄元年(1688)に移封され、幕府の直轄領となり廃城になった。 【上】長沼城の碑 現在遺構は無いに等しい。千曲川を東側の要害とし、西側は現在の県道368号が旧堀跡の外周をコの字型に迂回しているという。碑は貞心寺の北東約80mの堤防沿いにあり、碑の背後の土盛りが本丸土塁の跡といわれる。平城であるが武家屋敷も総構えの中に取り込んでいた、海津城よりも古い形態を残した近世城郭への移行期の縄張りだったという。 「市河文書」は中世を通じて奥信濃(長野県下高井郡北部)に在地領主制をしいた豪族市河氏に伝えられた中野・市河両氏の古文書の総称である。「嘉応2年(1170)2月7日、平家某下文」を巻頭に、「永禄12年(1569)10月12日、武田信玄軍役徴発定書」までの、平安時代末から戦国時代末に及ぶ146通(16巻)は、信濃の根本資料であり鎌倉幕府下文・官宣旨・国宣・雑訴決断所牒・安堵状ほか、各種文書が含まれる。 2006年08月08日 市河文書 木島平村高石にある泉龍寺出入口付近のようす。この寺(曹洞宗)は市河信房によって創建(1582年5貫文寄進)されたもの。寺には市河信房の墓と言われる古い宝篋印塔があります。ちなみに私の父の菩提寺。参道は杉並木、高い石垣に囲まれていることもあり、この写真の付近から本堂を直接見ることはできません。これは城郭・城下町(長野市長沼等)などによく見られる見通しをはばむ防御の備えとなっているからです。 市河氏は南北朝時代新田義貞軍に加わって鎌倉を攻撃したほか足利尊氏軍にも参加。戦国時代は武田方に属し、信玄死後上杉景勝に従い、景勝会津移封により転出。この時の6700石は山浦(村上)氏の6500石よりも多く、信濃武士としては5番目(注)。重臣として上杉家にはなくてはならない存在だったようです。市河家の菩提寺は常慶院、長野県栄村と米沢市にあるのは移封するとき寺も一緒に移ったため。 また、大阪冬の陣鴫野表の戦いで市河房綱、大俣吉元等上杉軍が多数戦死。当時上杉家の重臣であった房綱の戦死は上杉景勝によって大きなショックだったことでしょう。上杉軍は大きな犠牲を払った功績もあって家名を存続できたのかもしれません。 市河氏を有名にしたのは国の重要文化財(戦前は国宝)に指定されている「市河文書」の存在。この文書(山形県酒田市の本間美術館保管)は1170年から1569年までの詳細な歴史資料が記述されています。 昭和44年、従来の市河文書(国重要文化財)のほかに北海道にも市河文書(欠落部分、釧路市指定有形文化財)の残されていることがニュースに。文献(中世信濃武士意外伝)によればNHK大河ドラマ「天と地と」放映時に市河氏末裔の方が公表。これにより初めて山本勘助?(山本管助)が実在したことを示す文書も含まれていたとのこと。それまで山本勘助は全くの架空の人物とされていたようですからわからないものです。ちなみに勘助の墓は長野市松代町柴の河川敷に存在(豊川市、富士市、韮崎市にも)、考えてみれば架空人物の墓まで造らないでしょうか。 猿飛佐助や霧隠才蔵にしても存在を示す新たな文書が発見されれば脚光をあびるかもしれません。 市河家に関する詳細(須田家等も)は下記サイトで紹介されています。 (注)木島平村誌によると1000石以上の知行諸士(同心分除く)は以下のとおり。 須田大炊介長義20,000石、清野助次郎長範11000石、栗田刑部小輔国時8500石、島津月下斎忠直7000石、市川左衛門尉房綱6700石、山浦村上源吾景国6500石、芋川越前親正6000石、岩井備中守信能6000石、春日右衛門元忠5000石、須田式部3270石、平林蔵人佑正垣3000石、香坂与三郎昌能2100石、井上隼人2100石、大岩新左衛門2000石、須田大学2000石、栗田主膳2000石、芋川縫殿親元2000石、保科善内1500石、夜交左近1500石、大室兵部1500石 なお、山梨県に市川氏があるため市河氏として表示しました。 「市河文書」は中世を通じて奥信濃(長野県下高井郡北部)に在地領主制をしいた豪族市河氏に伝えられた中野・市河両氏の古文書の総称である。「嘉応2年(1170)2月7日、平家某下文」を巻頭に、「永禄12年(1569)10月12日、武田信玄軍役徴発定書」までの、平安時代末から戦国時代末に及ぶ146通(16巻)は、信濃の根本資料であり鎌倉幕府下文・官宣旨・国宣・雑訴決断所牒・安堵状ほか、各種文書が含まれる貴重な武家文書である。戦前は国宝、戦後は重要文化財として指定された。 河中島五箇度合戦記より (作者不明) 第一回合戦 1、上杉謙信を頼った信州の武将 村上左衛門尉義清 信州五郡の領主村上左衛門尉義清は、清和源氏伊予守頼義の弟で、陸奥守頼清の子、白河院蔵人顕清が初めて信州に住むようになり、四代目の孫に当たる為国、その子基国の後胤。 高梨摂津守政頼 高梨摂津守政頼も、伊予守頼義の弟井上掃部(かもん)頭頼季三代の孫に当たる高梨七郎盛光の子孫。 井上河内守清政 高梨の一族。須田相模守親政も一家。 島津左京進親久 頼朝の子島津忠久の子孫。 上記の武将のほか多数の信州武将が、甲州武田信玄に敗れて、越後に落ちのび、長尾景虎(謙信)を頼って来た。中でも村上義清は、多年にわたり武田と戦っていたが、とうとう負けて、天文22年(1553)6月に越後に落ちのび、謙信の力を頼って、自分の領地坂本の城に復帰すると事が念願であった。 上杉謙信(長尾景虎) 謙信はこの年間2月初めて京都に上った。24歳の時である。これは、前の年の天文21年5月に将軍の使があって、謙信は弾正少弼従五位下(だんじようひようひつじゆごいのげ)に任ぜられた。このお礼に京都に上ったのである。謙信は京都御所に参り昇殿をゆるされ、後奈良天皇に拝謁し、天盃をいただいた心また将軍義輝公にお目見えして、種々親しいお言葉を賜り、五月に帰国したところに六月村上義清が武田晴信に追われ、謙信を頼りにした。その上高梨政頼、井上清政、須田親政、島津親久、栗田、清野などがそろって越後を頼り、助けを求めてきた。 天文21年10月12日、田浜で勢ぞろいをして信州に向かって出発した。 途中、武田側の武将の領地は焼き払い、自分の館の中に居て、刃向かいしない者の領地は処分せず、、11月1日に川中島に陣を取った。 武田晴信(信玄) 晴信も二万の兵をひきいて甲府を出陣した。同19日から両軍の間は四キロ足らずで毎日小競り合いを繰り返した。 上杉軍 27日に謙信から平賀宗助を使者にして、明日決戦をすることを申し送り、その備えを定め、夜のうちに人数を出した。 先手は長尾平八郎、安田掃部、長尾包四郎、元井日向守清光、同修理進弘景、青河十