また連合艦隊は全部隊へ東京からの甘い状況判断を流し続けたままであった。 ただ、この人去って、再びこの人なし」と話した。 どうか私の信念を実現することに全力を尽くしてくれ」とを草鹿の肩を叩いた。
7少将は「情誼に厚い立派な人で、先見の明があって、航空をあれだけ開発発展させたことは非常な功績だ。
ついては、この作戦を如何なる方法によって実施すればよいか研究してもらいたい。
山本は真珠湾の水深の関係から雷撃ができなければ所期効果を期待しえないので空襲作戦は断念するつもりであった。 多磨霊園にある山本五十六の墓 山本の死去の時点では、日本軍と連合国軍は各地で一進一退の戦いを続けており「海軍の相次ぐ大敗北を見ずに戦死してかえって幸せだった」とする意見もある。 おもな官位は大膳大夫。
1711月10日の宮城で行われたには、率いる中国軍から宮城を空爆されるのを防ぐとの理由で参加しなかった。
終わったら世の中から逃れて二人きりになりたい。 常に敵の手痛いところに向かって、猛烈な攻勢を加えねばならぬ。 作戦は落第」と山本を評価している。
これは日本海軍の伝統なのです」と演説し、国民に向けた最後の言葉となった。
山本は「砲戦が行われる前に飛行機の攻撃により撃破せられるから、今後の戦闘には戦艦は無用の長物になる」と反対し、大和型戦艦建造に携わったによれば、山本は福田の肩に手を置き「どうも水を差すようですまんがね、君たちは一生建命やっているが、いずれ近いうちに失職するぜ。 11月3日に嶋田と面会、「長門」に戻ったあと宇垣らを連れて7日から11日まで再び東京へ出張し、軍令部や陸軍と作戦の打ち合わせを行う。 「大和」をとしていた頃、機関科の乗員に依頼して、軍用の小銃の実包を自分の猟銃に使用できるよう違法改造させたという話があるが 、実際はスラバヤ攻略部隊から献上された英国製連装猟銃で、が参謀長室に飾っていたものである。
16山本は外交問題の処理に携わり、(昭和12年)8月に駐華イギリス大使ナッチボルー・ヒューゲッセン が日本軍機の誤爆で負傷した事件、12月に海軍航空隊が米砲艦を誤爆したの解決に奔走する。
また、第三艦隊司令官・小沢治三郎中将と南東方面艦隊司令官・草鹿任一中将の統一指揮問題や、陸軍との面子や主導権争いが絡んでいたという指摘もある。 両艦隊とも幾多の無理や困難はあろうが、ハワイ奇襲作戦は是非やるんだという積極的な考えで準備を進めてもらいたい」旨を述べ、さらに「僕がいくらブリッジやポーカーが好きだからといってそう投機的だ、投機的だというなよ。 敵には困らぬが味方には困る」と訴えるなど、海軍と陸軍の対立、中央政府の楽観的な姿勢に悩んでいた。
山本は条約成立が米国との戦争に発展する可能性を指摘して、陸上攻撃機の配備数を2倍にすることを求めたのみだった。
3月、米国で客死した前駐米大使・の遺骨が米巡洋艦「」 USS Astoria, CA-34 で礼送され、にて山本が受け取ったという。
13山本は海軍書記官・榎本重治に「世間ではオレを三国同盟反対の親玉のようにいうが、根源は井上なんだぞ」と不機嫌そうに語ったこともある。